11話 馬で遠乗り
身に纏うのは暑さをわずかに孕んだ風で、その勢いはマントをひっきりなしにはためかすほどだ。その激しさに負けた彼女は、ただ身を固めて息を止めていた。
馬で遠乗り ―逢引というよりむしろ子守―
きっかけ、というには少々普通過ぎる出来事が今回の始まりだ。
つまりは兄の体調がよく、こちらの仕事がごっそりと減ってしまった。いつも任せてばかりで悪いから、と任せられていた仕事の半分以上を取られてしまったのだ。
事務方がどちらかと言えば苦手なこっちとは違い、兄は大変出来がよい。ゆえに遠慮なくもって行ってもらった。
そしてその足で馬小屋へ行き、自らの愛馬の体調を確認。
大切な馬なので、結構な頻度で見に来るが、いつも来られるわけではない。いつもは人に任せている。その毛並みはいつもどおり美しかった。
黒っぽい毛の艶やかさは王宮でも有名で、こちらとしても鼻が高い。
芸術肌の兄には理解されないようだが。
「ノース、今日は森へ入ってもよかっただろうか」
「はい、殿下。奥へ入らなければ心配ないと」
天気もいいし、風もそんなに暑さを孕んでいない。絶好の遠乗り日和だ。
一番に思い出したのは森(森、と言っても王宮内だが)の中に湖で、その周りに珍しい薬草がたくさんあった。
それにあそこは思い出の場所でもある。
彼女を連れて行くにはうってつけだろう。そう思って馬に跨った。喜ばしいことに、ノースは乗馬が苦手なのだ。
「今日は供をつけずに森へ行く。誰も近づけさせないでくれ。任せたぞ、ノース」
「え、あっ。お、お待ちください、殿下!!」
呼びかける声はすでに遠い。
ぐんぐんと速度を上げる愛馬は、乗り手の意思を正しく理解していた。大して手綱を引いたわけでもないのに、目的地へ向かって行く。
これから間もなく一人の男が忍んで町へ出ようとする。
近衛兵もノースもそいつを追いかけるだろう。『森へ行くというのは嘘で、街へ行くのが目的だ』と思って。残念ながらそれは王子ではなく、王子の影なのだが。
「レオンに借りを作ったが、まぁいいだろう」
一旦木が生い茂った林に愛馬共々身を潜め、耳を澄ます。
ほどなくして野太い声が遠くの方で響いた。護衛隊の追尾はもう少し遅くなると踏んでいたので、思わず唸った。流石と言うか、何と言うか。
レオンに囮を頼んでおいてよかった。
後に起こるであろう、彼からの詮索も、あの手強い兵の相手に比べれば易しいことだろう。
『外だ! 森ではない。街へ先回りしろ! 見失うな!!』
「街へ降りて、奴らがレオンに勝てるとも思えないが」
レオンの持つ街の知識はそこら辺の庶民よりずっと多い。
街の出身ではあるが、ほとんど戻ることのないリゼットなんて足元にも及ばないことだろう。
ましていいところの坊ちゃん中心で、四六時中王宮の中で訓練している近衛兵を撒くなんて、彼にとっては朝飯前。
ニタリ、と笑って任せておいてください、と言ったあの顔が忘れられない。
計画を立てたのは随分と前だったのに、ペンで三回机を叩くという合図にも、素早く目配せで反応してきた。
さすが悪友、もとい影武者殿だ。全く恐れ入る。
「さて、そろそろリゼットのところへ行くか」
林から出て再び愛馬に跨る。ここからあの東屋は意外に近いのだ。
そしてその東屋は王宮の端にあるので、森にも近い。いい場所だ、と勝手に思いつつ馬を走らせた。すぐに林が見慣れた花壇に変わっていく。
東屋の屋根が見えるところで愛馬を休め、花や薬草を踏みつけないように注意深く歩かせた。
元々賢い馬なので、すぐに察したらしくすいすい土の部分を歩いていく。首を叩いて労うと、嘶きを一つ落とした。
そして目的の人物を見つけると、最小限の動きで迫る。その時間はわずか数秒で、その間リゼットは一度として後ろを振り向かなかった。
「リゼット」
「へ? って、わぁっ」
振り向いた彼女を馬上から掬い上げる。
あまりの驚きで動かない彼女に救われて、楽に引き上げることが出来た。すっぽりと腕に収まる彼女はやはり小さくて、先ほど抱き上げたときの軽さを思い出した。
比較対象がいないので分からないが、『女』という生き物の重みは、こんなにも心もとなく、不安を煽るようなものなのだろうか。
言い知れない揺らぎを感じて、思わず彼女を囲う腕に力を込めた。
「アルバート様っ」
「久しぶりの遠乗りだ。飛ばすぞ」
一応忠告を口に出す。
彼女はそれを当然知っているので、こちらが言う前に手綱をきゅっと握った。彼女を落とすことだけはないように、体と腕でしっかり挟み込む。
何度かすでに遠乗りしたことがあるので、まぁ大丈夫だろう。
「口、開くなよ」
そう言ってもあの将軍仕込みの乗馬は、本来戦場でのみ発揮されるべきものだ。
少なくとも少女を乗せてやることではない、ということは分かる。
しかしゆっくり走れば真面目な彼女らしいといえばらしい、ちくちくとした小言が降って来るに違いない。
せっかくの遠乗りで、それは嫌だ。
できるなら到着した後にしてもらいたい。(というか、してほしくない)
そんなことを考えて、少し早めに馬を走らせ始める。彼女曰く『荒々しいと言うしかない』らしい乗り方だが、これでも大分抑えているつもりだった。
ふと下を向けば、文字通り彼女は固まっていて、そんな彼女を見つめると、苦労して側近を撒いた甲斐があったと思わざるを得なかった。
王子とその影武者は、基本的に周りを振り回すことが好きです。