85話 渡せるだけの愛を 幸せを
自分の手の中にある想いを彼女へ手渡そう。
彼女が自分に向けてくれた思いに見合うかどうかなど分からないけれど、今自分の中にあるものを言葉で、行動で、彼女へ示そう。
渡せるだけの愛を ―彼女に贈ります―
「アルー? そろそろ寝ないと明日失敗するかもよ?」
「んー、この資料だけ目を通しておく」
「いやに真面目だねぇ」
机の向こうでレオンがからかい交じりに笑っている。その顔は自分とよく似ているはずなのに、浮かべる表情はまるで違っている気がした。
明日という日が近づいていく最近、誰よりも輝いていたのは彼だった。
お前の式じゃないだろ、という各所からの言葉にレオンは笑顔で『僕の式も当然ですよ』とのたまっていた。
涼しい顔で走り回っていたが、その実かなり無理をさせていると、ここ最近ずっと思っていた。
「明日邪魔されるのも嫌だろ? やれることはやっておこうと思って」
「初夜邪魔されるのは嫌だよね、確かに」
うんうんと分かったように頷くレオンに視線をやり、『初夜だけじゃないだろ』と苦笑いで返せば、彼はほんの少し目を細めてトンと机を軽く叩いた。淡い髪色と目を細めた表情はノースとよく似ていた。
「幸せそうだね、アル」
「幸せだな。お前のおかげだよ」
「止めてよ、泣いちゃうから。アルと僕の仲でしょ」
泣いちゃう、と言ったわりにレオンは穏やかな笑顔を浮かべている。
よく似た自分たちは確かに何をするにも一緒だった。二人というよりも自分がもう一人いるという感覚に近いのだ。
それは自分よりレオンの方がよく知っていたのかもしれない。いつだって自分より聡い彼だったから、もっと幼い頃からそんなこと気づいていたのだろうか。そう考えつつ、資料のページをめくっていると、しばらくして改めて声をかけられた。
「はーい、もう終わりですー。さっさと資料を渡して、リゼにお休みの挨拶をして、明日に備えてください」
「おい」
「側近命令」
王子に命令するのか、側近が。
呆れたような声を出せば、さっさと資料を片付け始めたレオンは大きく頷いた。こいつには一生敵わないのだろうな、と思いながらしぶしぶ席を立つ。
「顔、見せてあげなよ。明日は朝から支度で式まで会えないんだし、彼女なりに不安になっているかもしれない。今なら……ギリギリ、許されるでしょ」
そろそろ日付の変わる時刻だ。婚約者殿の顔を見に部屋へ訪れるには、少々常識外れな時間ではないだろうか。
そんなことを考えつつ、執務室の片づけを手早く終わらせてしまう。
言い訳をしてみたところで、やはり顔を見たいなと思ってしまい始めていたのだ。この時間なら、マリアの小言で済むかもしれない。なんだかんだ言って、彼女も彼女で甘いのだから。
寄ってみよう、と我知らず結論が出ていた。
「レオン、先に上がる」
「はい、いってらっしゃい。リゼによろしくね」
「お前、明日から人妻なんだぞ……」
レオンに言っても無駄だと知ってはいたが、一応釘を刺し、足早にリゼットへ与えた部屋に足を進めた。
二部屋続きで、外から出入りできる扉がある部屋には基本、マリアがいる。
両親を説得して得たものの一つが、官舎とは違う、王宮殿の中にあるリゼットの部屋だった。
その部屋は王族の住む区画より、侍女たちに与えられる部屋の近くではあったが、マリアをつけることも許されているし、何より執務室から自室へ帰るとき寄り道できる程度には近かった。
それだけで、裏に手を回し、両親を説得し、兄へ口添えを頼み……と奔走した甲斐があったというものだ。この一年でやってきたそれらを思い出しながら、彼女の部屋の扉をノックした。
「あら、殿下。少しお時間が遅いですよ。明日が待ちきれないのかしら」
「どうしても会いたくなってな。リゼットはまだ起きているか?」
「アルっ」
マリアの向こう側から聞きなれた声が聞こえて、次いでふわふわとした寝巻を着たリゼットが現れた。
こちらに向かってきたその体を抱きとめると、甘い香りが鼻腔をくすぐり思わず力を込める。
「半刻だけですよ」
「充分だ。すぐ連れて帰る。花嫁が風邪をひいたら洒落にならないしな」
彼女を抱えたまま苦笑いすると、マリアは仕方なさそうに外へ出ることを認めてくれた。
それを受けて、リゼットの上着を受け取ったのち、外へと向かって歩く。腕の中でリゼットが何か言っているが聞かないふりをした。
上着をしっかりと着せて、落ちないように抱きなおす。『降ります』と声がしたが、やはり聞こえないふりをした。逃げ出されてしまいそうだ。
「アル、どうして来たのですか?」
「花嫁の顔を見に。緊張しているかと思って」
「手順を忘れないか心配にはなります」
腕の中でリゼットが小さくため息をついた。それについて『嫌になったか?』と冗談交じりに問う。リゼットは首を横に振り、それからこちらのシャツを握ってほんのりと笑った。
「こんなことでアルとずっと一緒にいることができるなら、これ以上望めないほど幸せです」
「そうだな」
リゼットの言葉に肯定して、降りだしてしまいそうな星空を見上げた。
共に生きていこうと互いに誓い合ったのは、もう一年も前の話だ。季節はぐるりと一巡し、リゼットが戻ってきて三度目の冬がもう終わろうとしていた。
すでにあちこちで春の花が咲き始めており、この国が様々な色に彩られる季節になりつつあった。結婚式を挙げるには最も向いている季節ともいえる。
「リゼット、ありがとう。何度言っても足りないが、それでも言わせてくれ。ありがとう」
抱き上げて自分より高い位置に目線があるリゼットはこちらを見つめ、それから声もなく頷いた。逆光で表情が見えなかったが、強く頷いた拍子に頬へ温かい涙が落ちたのを感じる。その温かい涙がそっと頬を伝い落ちていく。
「それは、私の、台詞だよ。本当に、本当に、ありがとう。いつも隣にいて、支えられてばかりで」
ありがとう、と繰り返し紡ぐ彼女の首元に頭を摺り寄せて、体の揺動からもその言葉を聞く。
こんなに思ってくれるリゼットに、自分はどうしたら報えるのだろう。涙を零しながらも懸命に言葉を紡ぐ彼女はとても愛しくて、自分の心の中にある想いの全てを彼女へ贈ろうと思った。
自分の持てる愛全てを、丸ごと、彼女だけに。
「一生涯かけて、この想いを捧げる。全部、お前に贈る。リゼットがしてくれたように、上手くいかなくても、何度でも」
そんなことしてくれなくていい。想いを、捧げてくれなくたっていい。
口に出したいのに涙でぐちゃぐちゃな私はそう口にすることもできず、ただ自分を支えてくれているアルを強く引き寄せた。
この一年、忙しく働いていた彼がどんな気持ちで明日を迎えるのかは私には分からない。明日のために会えない日が続き、その度にすまなさそうに謝ってくる彼に両手を振った、ここ最近のことを強く思い返す。
放っておかれているという感覚はなかった。少なくとも、彼はそんな感覚を私に感じさせる暇など与えてはくれなかった。だからこそ余計、申し訳なさが先に立って上手く笑えない日もあったけれど。
「アル……アル」
「目が腫れるから泣くなよ」
優しく諭されて涙を止めようとすれば、彼の指先が目尻をゆっくりと滑る。子供のようにしゃくりあげる私を柔らかく見つめる彼の顔が滲んでよく見えない。
これ以上情けない顔を見せられなくて、アルの頭を引き寄せた。これでは幼い頃のままだ。
抱き上げられた私の体は、小さいなりに彼の頭をすっぽりと包みこむ。
決して、この方の魂を自分のものにすることはできないだろう。一生そうすることは叶わないのだろう。
ずっと、そう思っていた。そう言い聞かせ続けていた。
しかし彼はこの一年、私のためにいつも忙しい中心を砕いてくれた。私のために、私がどう頑張っても動くことのなかった世界を変えてくれた。
諦めかけていたものを、手のひらへそっと載せてくれた。それ以上の幸せがあるだろうか。
「明日、お前が笑顔でいてくれさえすれば、俺はこの先どんな時でもやっていける。お前が一言、幸せだと言ってくれたなら、どんなことでも耐えてみせる」
とても難しいことを、彼は柔らかく笑って言った。守りがたいと思うことを、とても簡単に言った。
それでもアルが、他の誰でもないアルが言うのだと思うと、私はその言葉に反論もできなくなる。
この一年、いつもそうだ。アルのことを考えると『痛み』とは少し違うものを感じる。
数年ぶりにここへ戻ってきたときは、ただ一目見ることができたら、他には何も望まないと思ったはずだ。東屋で再会したとき、もう何も望まないと思った。覚えてくれていただけで十分だった。
その思いが日に日に大きくなっていくのは怖かった。あの頃のまま、アルを慕えないことに負い目も感じていた。気づかれていないこの想いに安堵する一方で、堪らなく胸が痛くなることもあった。
何度も、思い通りになんて行くはずのない自分の想いが忌々しいと思った。全てなくなってしまえばいいと、ずっと思っていた。
「この一年、リゼットが一番苦しかっただろう。でも、それでも諦めずにいてくれてよかった。逃げ出したいと、そう言われはしないかといつも考えていた。ありがとう、リゼット」
想いが通じたとき、本当は逃げ出すべきだったのかもしれない。アルの想いだけを受け取って、その思い出だけを胸にしまって、王宮から出ていくべきだったのかもしれない。
それがアルにとっても、自分にとってもよいことではないかと何度も考えた。
それでもアルが許してくれるなら、彼が望んでくれるなら、とこの一年彼に釣り合うよう努力した。アルが生きている世界で生きていこうと思った。
アルは『無理をしなくていい。そばにいてほしいと思うのは俺だ。努力するのは俺だろ』と当然のように柔らかく笑ってくれたが、決めた以上私も努力をするのは当然だと思った。
「アルが、守ってくれたんだよ」
「そんな大層なことしてない」
やっと出たその言葉に、アルは目を丸くした。
この一年、いろんな人が守ってくれたけれど、それはあくまでアルのためだと分かった。彼のこれまでの生き方が、私を守ってくれたのだと出会った人全てから知った。その人たちはアルが困らないように、アルが幸せであるために動いていた。
私も私なりの方法で彼を支えられるようにと思って礼儀作法やしきたりを学んだのだ。
「レオンがよく褒めていた。この一年、よく努力してたって。俺も、そう思うよ」
『守る』という言葉を、彼は少し誤解していると思う。
私が、アルと一緒にいる覚悟をしないときのままでいること、そうすることを許してくれることが、『守る』ということではない。
そんなこと、許さなくていいだよ、と毎回思う。私が王族のしきたりを学ぶことは、私らしさを失うことと同義ではないのだけれど、それを説明することは難しい。
アルのために変化するというのは、ある意味とても私らしいのに。あなたのため以外に、変わるはずなんてないんだから。
「私、実は嬉しいの。努力できて、変われて」
「守り方はいつでも、試行錯誤だけどな」
見上げてくるアルの頬へ手のひらを押し当てて、そのひんやりと冷えた体温を知る。
アルも迷いながら、守り方を模索しているのだ。私がアルの守り方を何度も間違えて、彼を傷つけたように。
もしかしたら、これからも時折間違えて、アルをかえって傷つけてしまうことがあるかもしれないけれど。
でもこれからは、何度でも繰り返すことが許されるのだ。お互いの失敗を見守ることができる。そしてそれを直しながら歩むことができる。
何て幸いなんだろう。
「アルの思っているようなことをしなくても、傷ついても、私はいつだって、幸せですよ」
傷ついてもよかった。今すぐ認められなくたってよかった。今までの自分を捨てて、変わってしまってもよかった。
彼の傍にいる権利を手に入れたいと思ったのだから、そのくらいなんてことないのだ。
彼の守りたがっているリゼットは、『アルと一緒に生きていけなくてもよかった』からこそ、王族としての彼を見ないようにしていたのだ。
だから、今とても苦労している。やっとのとこで、彼の世界に目を向けたから。
「アルと一緒にいることができるだけで、幸せです」
彼の傍にいるのだと、自分で決めた。彼に守ってもらうことなく、自分で立っていられるようにと勉強もした。
そうしてようやく少し思えるようになるのだ。
許される資格なんてなくても、いいのかもしれない、と。
渡せるだけの幸せを ―世界中探したって敵わないほど―
ただ一緒にいてくれるだけで幸せなのだと、誰より幸せになることができるのだと、結婚前夜彼の腕の中で囁いた。
彼の笑顔に、それが『正解』なのだと悟った。