84話 唇から伝わって
じんわりとした感覚が胸から広がり、ポカポカと全身へ広がっていくような感覚を覚えた。
それを逃がさないようにリゼットを抱く腕に力を込める。
唇から伝わって ―彼女に染み込めばいい―
「妙に照れるな。こういうの」
「そうですね、恥ずかしくなってきます」
「俺はお前より恥ずかしいぞ」
彼女の顔を肩口に押し付けたまま、そんな会話をする。
言葉にしてみると思った以上に恥ずかしくなってきて、しばらく彼女が顔を上げないようにと後頭部に手をやった。
自分は滑らかな髪の感触を確かめるように、少しだけ首を傾げた。頬に柔らかい髪が触れる。ふわりと甘い香りが強くなり、それが何の匂いか探るように鼻を髪に摺り寄せてみる。
「アルが、そういうことを口に出すと思ってみませんでした。……妻になれるなんて、思ってなかった」
「甲斐性ないからな、確かに」
「違います、そういう意味じゃっ」
彼女の言葉に冗談めかして答えてみるが、ずきりと小さく痛んだ胸を無視はできなかった。
好きだと伝えても、大切だと示しても、彼女の中で『結婚』という形で一緒に居続ける選択肢などなかったという事実を知ったからだ。
それは自分が思っているよりもきっと深い諦めだ。
仕方ない、どうしようもないと、リゼットはもう何度も自分自身に言い聞かせていたんだろうか。
「何というか、私、別によかったんですよ。あなたに捨てられようと、妾として傍にいろと言われようと、誰の目に触れられることもなくどこかへ囲われようと、私は」
「何だそれ」
自分の顔を見られないように抱きしめていた腕が思わず震えてしまう。リゼットの声がどこか嬉しげで悲観の色などどこにもない。
それなのにひんやりとした冷たいものが胸に降りてきて、溶けることもなく留まる。
一体どんな表情をして言っているのか分からず、肩口に押し付けられていた頬をすくい上げる。
ぽかんとしたリゼットの顔が目の前に現れる。次いでそれは苦笑いに変わり、彼女の手がこちらの頬にも添えられた。
「そんな顔、してほしかったわけじゃないんです。アルを信じていないわけじゃなくて、単純に許されないと、思っていたんです。本当に、それだけなの」
頬を挟まれて、まじまじと瞳を覗き込まれる。本当にそれだけだというように語っているが、その言葉は予想以上に胸に刺さった。
彼女はいつからそんなことを考えていたんだろう。いつから結ばれるはずもないと諦めていたんだろう。
その期間が決して短くないことを知っている今、問いただすのは戸惑われた。責められることがないと分かっているのが逆に辛かった。
「俺なら、耐えられないな」
「そう?」
「耐えられない」
苦く笑ってから彼女の手を引いて室内に戻る。
空気の澄んだ外は肌を刺すような、とはいかなかったが十分に気温は低かった。いつまでも寒い中感傷に浸るなんて馬鹿らしい。
自分にそう言い聞かせながら彼女の肩に手を添える。彼女もほんのりと笑いながら、こちらの左手を掴んでゆっくりと撫でてきた。
細い指先がそっと優しげに肌を押す。確かめるような仕草だ。
「アル、気を悪くしましたか?」
「いいや」
「……傷つけてしまった?」
「お前の言葉に責める色なんてないのに?」
傷ついていないとは言えず、話題を逸らすように頭に手をやった。
くしゃくしゃとその髪をかき混ぜながら、『本当なら指輪と一緒に申し込むはずだったんだぞ』と努めて明るく言った。
「お前が予想以上に早く帰ってきたから、用意が間に合わなくてな」
「これ以上、いただけません」
「安心しろ。虫除けと俺の自己満足だ。リゼットは俺が満足するんだと思って、つけてくれ」
すかさず断ろうとするリゼットを宥めつつ、掴まれたままだった左手を翻して彼女の左手を捕まえた。
そして指輪が嵌るだろう場所に唇を押し当てれば、リゼットはぎゅっと目を瞑って体を固まらせた。
逃げようとしないその仕草に、彼女の心境の変化を知る。ちゅっと音を立てて薬指に改めて口付ければ、リゼットは何かを飲み込むようにこくりと喉を鳴らす。
「つけていると、安心だろう。お互い」
「え?」
「周りに見せつけられる」
彼女を守る一つになればいい。彼女が誰のものであるのか、彼女を害するということがどういうことであるのか。彼女が俺にとって、どういう存在であるのか。
「お前が思うよりも、俺はお前を愛しているぞ」
「存じております」
「お前が知っているつもりになっているのは、『愛されていること』じゃなくて、『大切にされていること』だと思うけどな」
その細腰を引き寄せて、鼻の頭が彼女の額にぶつかるようにする。少し持ち上げられていることに気づいたリゼットは少し慌てたように両足をばたつかせる。
そう、彼女は勘違いしている。妹を守るように囲ってきたあの頃とは、守り方も接し方も違うのだ。
同じ受け取り方をしてもらっては困る。
俺は近い未来、妻になる女性に対し、愛を告げているのだ。
「だからな、お前は思ってなくても当然みたいな顔してろよ」
「できません」
「隣にいることも、俺と同じ指輪をすることも、愛妻家な王子に尽くされることも、全部受け止めてくれ」
きっと無理だろうけど、それでもいつか『それ』が当然になったら、なんてことを考えつつ笑う。
彼女が諦めていたもの、望んでいないもの、自分には過ぎたものだと思うもの、そんなものを一つずつ彼女の元へ届けたい。
それは目に見えるものだけじゃなくて、本当に、いろんなものを。
彼女が今まで俺にやってくれたように、そんな愛し方もあるだろう。
「罰が、当たってしまいそうですね」
「このままリゼットが勘違いしたままだとな」
彼女を引き寄せたまま顔を寄せれば、彼女は珍しく抵抗もせずに瞳を伏せた。それをいいことに口付けを一度、二度と繰り返す。
彼女を怖がらせないように慎重に、それでも触れるというには少々荒々しく。
「これで全部伝われば苦労しないんだがなぁ」
この想いも何もかも、たった一つの行動で伝わってしまえばどんなにか楽だろう。このじれったいまでの感情も愛しさも、全て彼女に染み込んでいけばいいのに。