82話 楯となり剣となり
いつもと同じ距離で、いつもと違う気持ちで向かい合えば、彼女は少しだけ眉を下げて、それでも笑ってみせた。じわりとまた、体の熱が上がった。
楯となり剣となり ―彼女を守らせて―
「本当は既成事実でも作った方が早いんだが」
「えっ?」
「まぁ、でもお前とはちゃんと手順を踏みたいからな」
安心させるように頭に手をやれば、彼女はおずおずとこちらに視線を戻す。その顔には依然として赤みが差していたが、それをとやかく言うつもりはもうなかった。指摘して反撃されたら、こちらだって顔色を変えてしまうだろうから。
「今回は噂だけで、十分だろ」
「噂?」
「第二王子が庭師のリゼット・ディズレーリに手を出した」
耳元でそっと囁く。
婚約間近と言われていた第二王子が、令嬢を差し置き庭師を部屋へ呼んだ。そしてそのまま一夜を共にした。
事実はどうであれ、関係なくこの話は瞬く間に場内のみならず街中を駆け巡るだろう。
母にしてみれば、とんだ醜聞である。人の口を封じることなどできるはずもないし、何よりレオンが裏で手を引いているのだ。広まらないはずがない。
そして絶妙なこの時期に、人気の劇団がとある恋の物語を劇でやるらしい。これはマリアの案である。
「アル……?」
「明日から上へ下への大騒ぎになるな、多分」
とある国の王女と庭師の話。
幼い頃に出会った二人はいつしか恋に落ち、森の奥で秘密の逢瀬を重ねる。しかしそれがばれてしまい、二人は引き離されてしまうのだ。
そして王女は無理やり結婚させられそうになり、友人の侍女の手を借りて城を逃げ出す。再会した二人は国を出て、末永く幸せになった。
そんな筋書きである。噂の入り乱れる城下でそんな劇が上演される、考えただけでも混乱が予想できて、思わず口元に笑みを浮かべた。
さて、民はどう受け取るか。
「大丈夫なんですか? そんなことして」
「男女がひっくり返っているし、相違点もあるから平気だろう。問題は見た人間がどう受け取るか、だ。誰もこれが本当の話だなんて言ってないし」
当然のように第二王子と庭師を二人に重ねるだろうということは分かっていたが、わざとそんなふうに嘯いた。婚約の件もきっと噂になる。
そうすると、王子が庭師に恋をした話も、おのずと同情を引くわけである。マリアもとんだ食わせ者だ。
「さて、そろそろ寝るか。今日はリゼットも疲れただろう?」
「あ、の、私が簡易ベッドで寝ますから、アルは自分のベッドで」
「それ以上言うとベッドに引きずり込むぞ」
こちらの声に冗談の色が見えなかったせいだろう、リゼットは少し黙ってから、こちらの服の裾をおずおずと掴んでくる。
その行為は遠い過去と大して変わらず、そっとその手を包み込んで握りしめた。指を絡ませるように動かすと、リゼットも同じように握り返してくる。それに少しだけ安堵した。
情けないとは自分でも思うが、彼女にしたことがしたことなだけに不安なのだ。
「アル」
「どうした?」
「……アル」
「どうした? 言ってみろ」
「アルっ」
繰り返し呼ばれる名に焦れて、絡めていた指をほどいて引き寄せる。もし離れていたら、こんなことさえでいなかったんだろうと思いながら、彼女の頭を胸に抱き込んだ。じわっと体温が滲む。
「なぁ、リゼット。俺は今回のことを悔やまないし、謝りたくないんだ。お前に辛い思いをさせたことについては、悪いと思っている。だけどな」
「二度としないとは、言わないんですね」
こちらの言葉を最後まで言わせず、リゼットはこちらを見上げて口を開いた。それは全くもってその通りで、こちらは肯定することも何となく憚られて緩くその頭を撫でた。
ここで嘘でも二度とやらないと言ってやれば、彼女は多少なりとも安心するんだろうか。到底そうは思えずに彼女の頭の上でため息をつく。ため息をつきたいのはきっと彼女の方だろうが。
「どう思われようがな、俺はお前を守る側でありたいと思っている。お前に守られたいわけじゃない。これは、譲れない」
少し前なら、これは考えるまでもなく当たり前のことだった。彼女がどんな気持ちでこの言葉を聞いているかなんて思いもよらなかった。
当然のことだろうと、彼女は『守られる側』だと疑いもなく信じていた。だけど、本当は違っていた。
彼女は守られたいと思っているわけではないし、事実守られる側だけではなかった。それでも守りたいと、守られる側であってほしいと思うのはこちらのわがままだ。
だから改めてこんなことを口のするのだ。これだけは譲れない、と。
彼女が納得しないことを前提にこんなことを言うのだ。それは以前よりも進歩しているのだろうか。
「私は、嫌です」
「お前の性格なら、そうだろうな」
「もう、絶対に嫌なんです」
心臓を氷の手で掴まれるような、肺の奥に水が入ってくるような、そんな感覚だった。自分を丸ごと否定されたような気がした。もういらないと、必要ないのだと、心の中でアルが笑ったような気がした。
リゼットがそう言って苦く笑った。
美しくも悲しい『女性』の顔だったことに少し驚く。
「リゼット」
「心臓が、痛かった。止めてしまいたいって、思いました。あなたと離れるくらいなら」
「二度目はないぞ」
また守ろうとして、彼女を傷つけるだろう。
自分勝手に決めて、彼女の気持ちさえ無視して、彼女のためだと言い訳までして、そうしてその実彼女を傷つけてしまうのだろう。
だけどそんな自分でも、一つだけ否定しよう。
「お前を遠くへやろうとするのは、これが最後だと、それだけは約束しよう。お前の傍で、隣で、お前を守れるように力を尽くそう。離れないと守れないなんて、そんな言い訳は二度としない」
彼女を傷つけて、その心を引き裂く真似をして、彼女の身を守るというならせめてこれくらいは誓おうと、彼女の瞳を見つめた。
いつも通り、澄んだ強い光がこちらを射る。自分の瞳にも、こんな強い光が宿っているだろうか。
「楯となり、剣となり、お前の身を守る。――それと同じように、傍にいて心を癒す。それだけは、お前自身に誓おう。俺の心でも国にでもなく、リゼット自身に、誓う」
この王宮で、その柔らかな心に傷一つつけずに守ることは不可能なのだろう。柔らかいが故に容易く傷つき、それを隠そうとする彼女を守るなんて、本当に難しいことなのだろう。
それでも共にあることが大切だと、そう思った。