80話 強いのは
見ようとしなかったし、気づかなかっただけだろう。自分だけが成長しているわけではなかった。自分だけが強くなろうとしているわけじゃなかったんだ。
同じように、彼女も成長してたんだ。
強いのは ―彼女だった―
しばらく互いの体温を確かめるように抱き合う。しっかりと背中に腕を回し、可能な限り力を込めて引き寄せていると、『そろそろいいかな?』とにこやかな声が後ろから聞こえてきて肩を震わせた。
……忘れてた。リゼットが一人でここへ帰ってくることができるわけがなかった。
当然、この男も一緒に帰ってくるということを失念していた。その声を聞く限り、とても楽しんでいるらしいということがよく分かる。悔しいほど清々しい声だった。
「レオン……」
「いや、ごめんごめん。そっとしておきたかったんだけど、もう日が暮れてきたからさぁ。リゼをこれからどうしようかと思ってね」
「今じゃなきゃダメか」
「んー、まぁ面白いし」
邪魔したかったわけじゃないんだけど、とレオンは後から続ける。
そしてリゼットの隣に立ち、彼女に手を差し出すと、リゼットは恥ずかしそうにこちらから手を離し、身を引いてしまう。
レオンがリゼットの手を握り引っ張り上げれば、そっと『ありがとうございました』とリゼットが呟いた。
レオンはというと、その言葉ににっこりと笑い返して、『いえいえ、当然のことだよ』と返す。この短期間で随分と信頼されたようだった。
「私、もう、帰りますね」
「残念だけど、リゼの部屋には返してあげられないんだよ。ね、アル」
「そうだな」
リゼットがえ、と小さく声を上げてこちらを見つめるので、レオンに視線をやってから口を開いた。
とても申し訳ないことだが、彼女を普通にこのまま部屋へ返すことはできなかった。
「言いにくいが、帰ると危ないんだ。狙われない保証などないし、完全に守るのは難しい。それに、レオンが嫌がるんだ」
「僕はもともと君の補佐だからね。長々と隣を空けるわけにもいかないだろう?」
ずっとリゼットについているわけにもいかないし、とレオンが言って、リゼットの顔を覗き込んだ。
驚いたように目を見開いたリゼットは、次いで『では……』と言いよどんで口を噤んだ。
どこに行くべきか迷っている彼女へ、次に言うべき言葉を躊躇する。
混乱させてしまうだろうか。いや、すでに混乱させてしまっているのだろうけど。
「俺の部屋だな」
「あのっ!」
「嫌ならマリアを呼ぶか?」
「根本的な解決になっていないよ、アル」
リゼットが大声を上げたので、慌てて提案する。
信頼できる侍女を手配するつもりだったが、確かにいきなり知り合いのいない場所に連れられるのは戸惑うだろう。
レオンにはそういう問題じゃないんだけどなぁと言われたが、言っていることがよく分からずに黙殺した。彼女の顔を覗き込むと、ほんの少し気まずげに目を逸らされた。
「今からでも王宮を出るか? そっちの方が安全……」
「絶対に嫌です!」
安全について言えば、ここから出てレオンが用意した隠れ家にいる方がずっといいに決まっている。あっちにも信頼する人間を配置しているので、心配も少ない。
それなのに彼女はこちらに最後まで言わせずに反論してきた。ここにいる限り、危険はいつ何時彼女に降りかかるか分からないのに、ここから離れることだけは頑なに拒絶する。
「俺の部屋にずっといることになるぞ。それはお前も退屈だろうし、嫌だろう?」
「一人だけ、安全なところにいろなんて、そんなこと言わないでください」
ぎゅっとリゼットが服の裾を掴んで、ただそう答えた。その頭に手を載せてくしゃくしゃと髪をかき混ぜて、笑いかけてみる。
顔を上げた彼女はほんの少し不安そうに瞳を揺らしていて、その肩をそっと抱き寄せる。彼女の頬が首元にあたって、その体温に安心した。
抱きしめ合ったとき、リゼットもこんな安心感を持ってくれたらいいのに。
「もう無茶をして、私を守ろうなんて考えないでください。本当に、お願いだから、そんなことしないで」
「手紙で随分と嫌な思いをさせてしまったか?」
もうしない、とは残念ながら言えなかった。
もしもう一度、リゼットが狙われてしまったら、多分今度こそレオンに『命令』してでもリゼットを守ろうとする。手段も選ばずに、行動に移すだろう。
それを分かっていてリゼットに約束することはできず、彼女の前髪を退かせた。質問にはあえて答えず、別の質問を彼女へと向けると顔を俯けて口を開く。
「いや、というか信用してほしいなって思ったんです」
「信用してるぞ」
「もっと違う意味で、です」
リゼットはそっとレオンに視線をやれば、レオンは少しだけ苦笑してから会話に入ってこようとこちらへ近づいた。その顔はどこまでも意地悪そうで、背筋がひんやりとしてくる。
「手紙読んで第一声が『帰ります』なんだもん。しかも泣いてるとかじゃなくって、すごくいい目をしてた。惚れちゃうね」
「レオン」
「本当のことなんだもん」
危ないよって説明しても聞かないんだもんなぁ。
アルの考えを言っても、まったく引いてくれなくてさ、自分のことくらい自分で決めますって、後悔なんてしませんって。
「僕たちはリゼを甘く見すぎてたんじゃないかな、なんて。リゼは『女の子』じゃなかったよ」
「当たり前です。私が、アルの手を取ったんだから。私自身が、選んだんだよ、他の誰でもなく」
自信を持って彼女はこちらを見つめてくる。その瞳は真っ直ぐこちらへ向いていて、ふと強いなと思った。
そのときになって唐突に思うのだ。
別れて離れていた間、自分は強くなりたいと思っていたし、そうなれるように努力していた。
ある日消えてしまった妹のようなあの子を守れるようにと、そう思いながら励む時期もあった。
その時間は自分にだけある時間ではなかったはずだ。同じ時間は、彼女にもあったのだ。
彼女が何もしてこなかったはずがない。同じ時間、彼女もまた前へと進んでいたのだ。
自分だけなわけ、なかった。
「私、アルより強いんですよ」
「そうかもな」
冗談交じりに言われた言葉に、こちらも冗談交じりに反した。
それでも心の中で、強くなったのは自分ではなく彼女だったなんだな、と心底思った。
ついに80話ですね。.5話を合わせてあと6話なので、お付き合いください。