79話 あぁ、もう
後ろから回されていた腕にぐっと力がこもるのを感じた。有無を言わせないくらい強い力に驚きを隠せず、とりあえずその小さい手を撫でた。
落ち着けというように撫でたところで、その手が緩むことはないけれど。
あぁ、もう ―機会を捨てたのか―
「リゼット、あのな……。少し、苦しいんだが」
「あなたは、何も分かってないっ。アルは、何も……」
苦しいくらいに首元に手を回され、ぎゅっと抱きしめられた。背中に押し付けられた頭が少し痛く、しかし彼女の声を聞くとどうしても無理やり引き離す気にはなれなかった。
「あんな手紙をもらって、私がっ、手を離すと――本当に、本当に思っ、思ったんですか?!」
大きな声だった。泣き声で聞き取りにくかった。それでも何に対して怒っているのかははっきりと分かる、そんな声だった。
それが堪らなくなって、震えつつも決して離さないように握られているその手を包み込む。
ひんやりと冷たいその手を強く握りこんで、しかしリゼットの言葉をすぐに否定することはできなかった。
「本当はな、リゼット。分かっていたんだよ。お前が選び取る道を、俺は一つも疑ってなかった。離してやるつもりが、逆に縛りつけていた」
結局のところ、新たに選ばせただけだったのだ。
間違いなく、お前が選んだんだと、俺が強制したわけじゃないと、そんな言い訳の材料を一つ手に入れただけだった。
彼女が苦しいからと逃げ出すわけもないと知っていた。それでも選択させたのは、一度手に入れてしまえばもう取り返しがつかないと分かり切っているからだ。
「あなたは、大馬鹿者です。私が、手紙を読んでそれだけ、傷ついたか」
邪魔なのかと思った。必要ないと思われたのかと怖くなった。突き放されてしまったと思った。
そんなことをリゼットは耳元でぽつぽつと呟いた。確かにそうだ、と思いながら聞く。
彼女が傍にいると上手く動ける自信がなかった。彼女のいない生活に慣れなければいけないとも思った。突き放してしまえるなら、どんなに楽だったろう。
「傷つけたくなくてやったつもりだったんだが、逆効果だったな」
「私が傷つくのは、あなたの行為にだけです」
あなた以外の人に何を言われたところで平気だと、彼女ははっきり言い捨てた。いっそ感心するほど言い切られ、思わずそうかと頷いてしまった。
首筋にぴたりと温かい皮膚がくっつくのを感じる。柔らかく、汗ばんでいるのかわずかにしっとりとしているのが分かる。
その頭に手を置けば、なおさら強く抱き着かれる形になった。あぁ、もう本当に、とため息が漏れた。
「アル。私はあんなチャンス、いらなかったんだよ。ほしくなんて、なかったんだよ。一言、言ってくれたらよかったのに。それだけで、よかったのに」
たった一言、欲しかったと彼女は言う。逃れる機会も、向き合うことから目を背ける機会もいらないという。
そんなものより、ただ言葉がほしいだなんて。
「お前に強制したくなかった。何も、捨てさせたくなかったんだ。俺と生きるために、何も」
何も犠牲にしてほしくなかった。
そんなこと無理だということは分かっているけれど。何かを引き替えにして、何かを捨て去って、自分の腕の中へ閉じ込めてしまうのは勿体なかった。
「アルは、優しすぎるんだよ。私は、アルが手に入るなら何を捨てても後悔しないよ、アルと引き換えなら全部いらない」
「もう止めてくれ」
体を反転させて、その小さな体を力一杯引き寄せた。出した声は懇願めいていて、リゼットは息を飲む。
「多くを捨てさせたお前に、与えてやれるものなど……多くない。捨てた全てに敵うほどいいものを、贈れない。お前がいらないって言っても」
捨ててほしくなかった。
手に入れてほしかった。
幸せを、願ってた。
この世の誰よりも幸せになってくれと、ずっとそう思っていた。矛盾に塗れてなお、彼女には幸せになってほしかったんだ。
自分の傍ではそれが叶わないかもしれないと思うと、本当に、やりきれないんだ。
それでも、選ばれて安堵しているのだから、始末に負えない。
「……嬉しく、ないの?」
「嬉しいから困ってるんだ。全てを捨てたお前がどうしようもなく愛しくて」
「なら」
リゼットがこちらを見てゆっくりとほほ笑んだ。
あぁ、もう、と何度目かになるこの複雑な思いの正体をおぼろげながら知る。
愛しさとやりきれなさは自分の思い通りにならない彼女に向けられるもの。言ったとおりのことをしないくせに、いつだって自分が喜ぶ選択肢を選び取る彼女にだけ、向けられるもの。
「なら、もっと喜んで。帰ってきてよかったんだって、思わせて。それだけで、私、幸せになれるから」
「お前も俺も」
大馬鹿者だなと呟くと、リゼットは耳元で小さく笑った。
利口であれば俺はお前にこんな感情を持たなかったのだろうか。兄のような冷静さや聡明さ、思慮深さがあったなら、リゼットをこんなやり方で守らずに済んだのだろうか。
リゼットにも、同じことが言えるのかもしれないと思って彼女を見つめる。そんなこちらの考えをどこまで分かっているのか、リゼットは抱き着く腕の力を精一杯強めてから耳元でそっと囁く。
全てを捨て去っているくせに、彼女の声には気色しかなく、それにもまた少し安心させられた。
「大馬鹿者でもいいですよ。だってアルが一緒だから」
「似た者同士だな、本当に」
欲しくて、手に入らなくて、それでも諦めず手に入れようと足掻いた結果なら、それは言葉に表すことができないほど幸福なことであろうと思った。