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「心がない」と婚約破棄された氷の侯爵令嬢ですが、三年間消してきた殿下の醜聞、全てお返しいたしますわ

作者: uta
掲載日:2026/06/28

「今宵この場をもって、リリアーナ・フォン・ベルガモットとの婚約を破棄する」


シャンデリアの光が降り注ぐ王宮の大広間に、エドワード殿下の声が高らかに響き渡った。


周囲の貴族たちが息を呑む気配。ヴァイオリンの旋律が止まり、ダンスを楽しんでいた人々の足が凍りつく。


――ああ、やっと。


私は内心で深く、深く息を吐いた。


やっと、この日が来た。


「君には心がない」


エドワード殿下は金髪を揺らしながら、まるで悲劇の英雄のように眉を寄せてみせる。その碧眼には傲慢さが隠しきれずに滲んでいて、三年間見続けた私には滑稽にすら映った。


「いつも冷たく、香水の香りで本心を誤魔化しているだけだ。そんな女性を王家に迎えることはできない」


香水で誤魔化している、ですか。


(ええ、誤魔化していましたとも。貴方の数々の失政を、この香りで貴族たちの記憶から消し去っていたのですから)


勿論、そんな本音は微笑みの奥に仕舞い込む。


「……お心のままに、殿下」


私は完璧な角度で頭を下げた。銀灰色の髪がさらりと肩から滑り落ちる。


「やはり何も感じないのか!」


エドワード殿下が苛立たしげに声を荒げる。


(感じていますとも。三年ぶりの解放感を)


「リリアーナ様は本当に冷たいお方ですわ……」


傍らから、鈴を転がすような声が響いた。


セレナ・マルティーニ。蜂蜜色の巻き毛を揺らし、大きな琥珀色の瞳を涙で潤ませた男爵令嬢が、エドワード殿下の腕にしがみついている。


「私、苛められましたの。お茶会で皆様の前で恥をかかされて……何度も、何度も……」


(四十九回)


私は心の中で正確な数字を呟いた。


(貴女が私に讒言を仕掛けてきた回数ですわ。きちんと記録してございますの)


「可哀想に、セレナ」


エドワード殿下が彼女の肩を抱き寄せる。守ってあげたい、という英雄願望に満ちた表情。この一年間で何度見たことか。


「もう大丈夫だ。この女に傷つけられることはない」


この女、ときましたか。


三年間、貴方の尻拭いをしてきた婚約者に対する言葉がそれですか。


「ふふ……」


思わず小さく笑みが零れた。


「何がおかしい!」


「いいえ、殿下。ただ――」


私は首元に下げた古い香水瓶に、そっと指先で触れた。母から受け継いだ、私の全てが詰まった宝物。


「――三年間のお勤め、本日をもって終了いたしますわね、と思っただけでございます」


周囲からくすくすと嘲笑が漏れる。負け惜しみだと思われているのだろう。


構わない。


一週間後、この広間にいる全員が、あの笑い声を後悔することになる。


「リリアーナ様」


不意に、低く落ち着いた声が私の名を呼んだ。


人垣の向こうから現れたのは、漆黒の髪に深い紺碧の瞳を持つ長身の男性。辺境伯ルシアン・ヴォルフ・クロイツ。「北の狼」と畏怖される寡黙な領主が、なぜこの場に。


「舞踏会にお越しとは珍しいですわね、辺境伯様」


「少々、確認したいことがありまして」


彼は私の傍らに立つと、周囲に聞こえぬほどの声で囁いた。


「その香水瓶の価値を――私は知っています」


心臓が、一度だけ大きく跳ねた。


紺碧の瞳が、真っ直ぐに私を見つめている。そこには脅しの色はなく、ただ静かな誠実さだけがあった。


「……ほう」


私は薄く微笑んだ。


(これは、思っていたより面白いことになりそうですわね)


嘲笑の渦の中、私は静かに踵を返す。


さようなら、エドワード殿下。


貴方が手放したものの価値を、どうか存分に思い知ってくださいませ。



◇ ◇ ◇



「お嬢様、お茶をお持ちしました」


マリエッタの穏やかな声に、私は調合室から顔を上げた。


婚約破棄から三日。ベルガモット侯爵邸の離れにある私の工房には、数えきれないほどの香水瓶が整然と並んでいる。


「ありがとう、マリエッタ」


「王宮から使者が参っております。殿下が『話がしたい』と」


(今更何の話があるというのかしら)


私は内心で肩を竦めながら、表面上は穏やかに微笑んだ。


「お断りして頂戴」


「かしこまりました」


マリエッタは満足げに頷く。この三日間で、同様の使者を七人は追い返している。


「それと――」


私は手元の古い羊皮紙に目を落とした。エドワード殿下の三年間の「功績」が記された記録。賄賂の受け取り、国庫からの横領、外交上の失言。全て、私が香水に込めた「忘却の香り」で、貴族たちの記憶から消してきたもの。


「そろそろ、目覚めの時間ですわね」


「お嬢様がお屋敷を離れれば、香りの効果は薄れます」


「ええ」


私は棚から一つの香水瓶を取り出した。淡い琥珀色の液体が、ランプの灯りを受けて揺らめく。


「記憶は消えたのではなく、私が預かっていただけ。返却の時が来ただけのこと」


扉が静かにノックされた。


「リリアーナ」


低く厳格な声。父、オルランド・フォン・ベルガモット侯爵が工房に入ってきた。


「父上」


「王都を発つ準備は整ったか」


「はい。明後日には」


父は私の傍らに立ち、棚に並ぶ香水瓶を眺めた。その指先には、長年の調合で染みついた香りが微かに残っている。


「……よく耐えたな」


不意に、父がそう呟いた。


「父上?」


「三年間、お前が何をしてきたか。私は知っている」


心臓が小さく震えた。父は全てを――。


「王家への忠義と、お前自身の幸せ。天秤にかけさせてしまった」


「いいえ、父上。私が選んだことです」


「だが、もう終わりだ」


父の紫の瞳が、真っ直ぐに私を見つめた。


「これからは、お前自身のために生きろ。ベルガモット家の娘として、ではなく」


「……はい」


私は首元の香水瓶を握りしめた。母の形見。この中に眠る「記憶」が、まもなく王国を揺るがすことになる。


「一つ、報告がございます」


マリエッタが静かに告げた。


「辺境伯ルシアン様が、明日お屋敷を訪問されるとのこと」


(あの方が、わざわざ?)


舞踏会での言葉が蘇る。「その香水瓶の価値を、私は知っています」と。


「お通ししなさい」


「かしこまりました」


窓の外では、夕暮れの空が茜色に染まっていく。


王都最後の日々が、静かに幕を開けようとしていた。


そして私は知っている。


明日、辺境伯が語るであろう「真実」が、全てを変えることを。



◇ ◇ ◇



「失礼いたします、リリアーナ様」


辺境伯ルシアンは、その厳めしい外見に似合わぬ丁寧さで応接間に入ってきた。


「ようこそ、辺境伯様。このような時期にわざわざお越しいただき、恐縮ですわ」


「いえ。むしろ、このタイミングでなければならなかった」


彼は向かいのソファに腰を下ろし、深い紺碧の瞳で私を見つめた。


「単刀直入に伺います。貴女の香水瓶には、先代国王陛下の遺言が封じられている。違いますか」


(やはり、知っていらしたのね)


私は表情を崩さず、ゆっくりと頷いた。


「なぜ、そのことをご存知ですの?」


「私の母が、かつて貴女のお母上の侍女でした」


「……まさか」


「そう。母は全てを知っていた。先代国王の本当のご遺志も、正統な王位継承者が誰であるかも」


彼は左手薬指の古い紋章の指輪に、そっと触れた。


「この紋章、見覚えがおありでしょう」


私は息を呑んだ。それは王家の――しかも、先代国王だけが身につけることを許された、秘められた印璽。


「貴方は……」


「先代国王の庶子です。母は侍女という立場を利用され、子を産んだ後に辺境へ追いやられた」


淡々と語る声には、恨みの色は感じられない。ただ事実を述べているだけのような、静かな響き。


「現国王は、私の存在を抹消しようとしました。ですが先代国王は密かに遺言を残された。正統な継承権は、私にあると」


「その遺言を、私の母が『記憶の香り』として封じた……」


「ええ。貴女のお母上だけが持つ能力でした。そしてその能力は――」


「娘である私に、受け継がれましたわ」


私は首元の香水瓶を手に取った。


「母は亡くなる前に言いました。『時が来たら、この香りを解き放ちなさい』と」


「その時が、今なのです」


ルシアンは静かに、しかし強い意志を込めて言った。


「エドワード王子は隣国と密約を結んでいます。セレナ・マルティーニを通じて」


「セレナが……スパイ、ですの?」


「男爵令嬢という身分は偽り。彼女は隣国ヴェルサリオの間諜です。エドワード王子を傀儡とし、内側から王国を掌握する計画の駒」


(四十九回の讒言は、全て計算だったというわけね)


私は内心で冷笑した。道理で手口が洗練されているはずだ。


「証拠は?」


「既に揃えてあります。ですが、それだけでは不十分。王位継承権を覆すには、先代国王の遺言が必要です」


「つまり、私の香水瓶が」


「そうです」


ルシアンは立ち上がり、私の前で片膝をついた。


「リリアーナ様。どうか力をお貸しください。貴女の能力なしに、この国を守ることはできない」


窓から差し込む陽光が、彼の黒髪を照らしている。その瞳に浮かぶのは、野心ではなく、純粋な使命感だった。


「辺境伯様」


私はゆっくりと口を開いた。


「一つだけ、伺ってもよろしいですか」


「何なりと」


「なぜ、私を? この三年間、貴方は私のことをずっと見ていらしたのでしょう?」


彼の瞳が、ほんの一瞬だけ揺れた。


「……貴女が、エドワード王子の失態を消し続けていたことを知っていました」


「それで?」


「報われない献身を続ける貴女を、私は……」


言葉が途切れる。寡黙な辺境伯らしくもなく、彼は視線を逸らした。


「敬愛しておりました」


(……まあ)


私は内心で小さく驚いた。この堅物の辺境伯が、まさかそのような言葉を口にするとは。


「王都を発つのは明日でしたわね」


「はい」


「では、その前に一仕事ですわね」


私は香水瓶を掲げた。


「参りましょう、辺境伯様。三年分の『忘却』を、王宮に返却して差し上げますわ」



◇ ◇ ◇



婚約破棄から一週間。


王宮では、異変が始まっていた。


「な、何だこれは……!」


「思い出した……去年の晩餐会で、エドワード殿下が外交官に暴言を……」


「私も……三年前の議会で、殿下が賄賂を……」


貴族たちの間で、堰を切ったように「記憶」が蘇り始めたのだ。


私が王都を離れたことで、「忘却の香り」の効果が消え、押さえ込まれていた記憶が次々と解放されている。


「どういうことだ!」


エドワード殿下の絶叫が、謁見の間に響き渡った。


「なぜ皆、今更そんなことを言い出す! そんな事実はない!」


「事実でございますわ、殿下」


私は大扉を開け、堂々と広間に足を踏み入れた。


「リリアーナ……!」


「お久しぶりですわね。たった一週間ですけれど、随分と老け込まれましたこと」


(目の下の隈が酷いですわね。因果応報の始まりに、眠れない夜をお過ごしかしら)


私の後ろには、ルシアン辺境伯が静かに控えている。


「何の用だ! お前はもう王宮に関係のない人間だ!」


「ええ、そうですわね。ですから、お預かりしていたものをお返しに参りました」


私は首元の香水瓶を掲げた。


「これは――」


「ご存知ですわよね、セレナ様?」


私はエドワード殿下の傍らに立つ男爵令嬢に視線を向けた。


「え……私は何も……」


「ベルガモット家の『記憶の香水』。香りに記憶を封じ、必要な時に解き放つことができる。貴女の祖国でも、この技術は研究されていたのではなくて?」


「祖国……? 何を言って……」


「ヴェルサリオ王国。貴女の本当の出身地ですわ」


広間に衝撃が走った。


「でたらめだ!」エドワード殿下が叫ぶ。「セレナは由緒正しい男爵家の令嬢だ!」


「その男爵家の記録、調べてみましたの」


私はマリエッタから受け取った書類の束を広げた。


「マルティーニ男爵家は五年前に断絶しております。現在名乗っているセレナ様は、その後に現れた『養女』。しかし養子縁組の記録は存在しません」


「そ、それは……手続きの不備で……」


「不備? ではこちらはいかがでしょう」


私は香水瓶の蓋を開けた。淡い香りが広間に漂い始める。


「これはセレナ様が殿下に囁いた『密談』の記憶ですわ。ヴェルサリオとの密約、国境の要塞の配置図、王家の財政状況――全て、殿下から聞き出しては本国に送っていらしたのでしょう?」


「な……っ」


セレナの顔から、血の気が引いていく。


「エドワード殿下」


私は元婚約者に向き直った。


「貴方が『心がない』と断じたこの私が、三年間何をしてきたかご存知ですか?」


「な、何を……」


「貴方の失政を消してきたのですわ。この香水でね」


私は二つ目の香水瓶を取り出した。


「議会での暴言、外交官への侮辱、国庫からの私的流用。全て、貴族たちの記憶から消し去っていた。『冷たい』と言われても、『心がない』と罵られても」


「そ、そんなはずは……」


「記憶は消えたのではありませんの」


私は穏やかに微笑んだ。


「私が預かっていただけですわ。そして今日、全てをお返しいたします」


香水瓶から立ち上る香りが、広間に満ちていく。


貴族たちの目が、次々と見開かれていった。



◇ ◇ ◇



「思い出した……!」


「全部、全部本当だったのか……!」


広間は騒然となった。


三年分の「忘却」が解け、エドワード殿下の醜聞が貴族たちの脳裏に鮮明に蘇っていく。


「こ、これは陰謀だ! リリアーナが私を陥れようとしている!」


「陰謀ですか」


私は小さく首を傾げた。


「では、こちらも陰謀なのでしょうか?」


私は最後の香水瓶を取り出した。母の形見。首元にずっと下げていた、古い古い瓶。


「これは先代国王陛下の遺言が封じられた『記憶の香り』ですわ」


広間が静まり返った。


「先代国王……?」


「嘘だ。父上の遺言など、とうに公開されている」


「表向きはね」


私は瓶の蓋をゆっくりと開けた。


深い、荘厳な香りが広がっていく。それは王家の紋章にも使われる、王者だけに許された香木の香り。


香りとともに、声が響いた。


『――この遺言を聞く者へ。私はアストリア王国第十二代国王、レオナルド・ロイ・アストリアである』


先代国王の声だ。貴族たちの間から、驚愕の声が上がる。


『我が正統なる継承者は、エドワードではない。彼は継承者たる器を持たぬ。真の継承権は、我が庶子ルシアン・ヴォルフに与える』


「ルシアン……辺境伯が……!?」


『この真実を封じるは、ベルガモット侯爵家の香水師アメリアの力による。彼女の意志を継ぐ者のみが、この記憶を解き放つことができる』


香りが薄れていく。


静寂が、広間を支配した。


「……嘘だ」


エドワード殿下が、乾いた声で呟いた。


「嘘だ! そんなもの、偽造に決まっている!」


「偽造は不可能ですわ」


私は静かに告げた。


「『記憶の香り』は、当人の魂から直接記憶を抽出するもの。声も、言葉も、全てが本物でなければ香りに定着しません。これは貴方のお祖父様の、紛れもない真実の声ですわ」


「そ、そんな……」


エドワード殿下の顔が蒼白に変わっていく。


「ルシアン・ヴォルフ・クロイツ」


私は辺境伯に向き直った。


「いえ――ルシアン・ヴォルフ・アストリア殿下。先代国王の遺志により、貴方こそがこの国の正統な王位継承者です」


ルシアンが一歩前に進み出る。


「私は長年、この真実を伏せてきました。辺境で民を守ることこそが、私の役目だと思っていたからです」


彼は広間の貴族たちを見渡した。


「ですが、もはや黙っていることはできません。エドワード王子は隣国の間諜と結託し、この国を売り渡そうとしています」


「証拠は!」エドワード殿下が喚く。「証拠を見せろ!」


「こちらに」


ルシアンが取り出したのは、密書の束だった。


「セレナ・マルティーニがヴェルサリオ王国に送っていた報告書です。全て、エドワード王子から得た情報が記されています」


「セレナ!」


エドワード殿下が振り返る。


しかしそこに、蜂蜜色の巻き毛の令嬢の姿はなかった。


「逃げたようですわね」


私は窓の外を見やった。既に近衛兵が動いている。


「愚かな女だ……私を裏切ったのか……」


「裏切る?」


私は呆れたように首を振った。


「最初から貴方を利用していただけですわ、殿下。彼女の涙に、四十九回も騙されたのは貴方ご自身」


「う、嘘だ……セレナは、私を愛して……」


「愛?」


私は静かに笑った。


「愛とは、相手の失態を消し、讒言に耐え、報われなくとも尽くし続けることですわ。三年間、私がしてきたように」


(――もっとも、愛情はとうに冷めておりましたけれど)


「リリアーナ……」


エドワード殿下が、縋るような目で私を見た。


「待ってくれ……君がいなくなって初めて、君がどれほど……」


「遅いですわ」


私は懐から小さな香水瓶を取り出した。


「これは『後悔』の香り。一度嗅げば、自分の過ちが永遠に忘れられなくなりますの」


「な、何を……」


私はエドワード殿下に向けて、香水を一吹きした。


「どうぞ、存分にお後悔くださいませ。元・殿下」



◇ ◇ ◇



一ヶ月後。


ルシアン・ヴォルフ・アストリアの戴冠式が、盛大に執り行われた。


エドワードは王位継承権を剥奪され、辺境の修道院へ送られた。セレナは国境で捕縛され、国外追放。王妃の不正も明らかになり、王家は大きく刷新された。


「リリアーナ様」


戴冠式の後、私は王宮の薔薇園に呼び出された。


待っていたのは、王冠を戴いたばかりのルシアン陛下。


「陛下」


私は深く礼をした。


「そう畏まらないでほしい」


彼は穏やかに微笑んだ。あの舞踏会の夜、厳めしく近寄りがたかった辺境伯の面影は薄れ、今は不思議と柔らかな空気を纏っている。


「今日は、貴女に伝えたいことがあってお呼びした」


「はい」


「その前に、改めて礼を言わせてほしい。貴女がいなければ、この国は取り返しのつかないことになっていた」


「いいえ、私はただ――」


「ただ、預かっていたものを返しただけ?」


彼は小さく笑った。


「貴女はいつもそうだ。自分の功績を認めようとしない」


「……母に、そう教えられましたので」


「良いお母上だったのだな」


「ええ」


私は首元の香水瓶に触れた。今は空になった、母の形見。


「実は、一つだけ残っている香りがあるのです」


「残っている?」


「先代国王の遺言を解放した時、気づきました。瓶の底に、もう一つ別の香りが封じられていたのです」


私は瓶の蓋を開けた。


微かな、けれど優しい花の香りが漂う。


それとともに、懐かしい声が響いた。


『リリアーナ。私の愛しい娘へ』


「母様……!」


『この香りを嗅いでいるということは、貴女は無事に役目を果たしたのね。よく頑張ったわ。ずっと、ずっと見守っていました』


涙が、頬を伝った。


『これからは、貴女自身のために生きなさい。香りは嘘をつかない。貴女を本当に愛してくれる人は、必ず貴女の香りを理解してくれる。お母様は、貴女の幸せだけを願っています』


香りが消えていく。


母の最後の言葉を胸に刻みながら、私は静かに涙を拭った。


「リリアーナ」


ルシアン陛下が、私の前で片膝をついた。


「……陛下?」


「私は、貴女を初めて見た時から心を奪われていた」


「え……」


「社交界で冷たいと噂される貴女が、誰よりも温かい心を持っていることを知っていた。報われない献身を続ける姿を見て、どうしても放っておけなかった」


紺碧の瞳が、真っ直ぐに私を見つめている。


「貴女の香りは、いつも真実を運ぶ。嘘のない、誠実な記憶を」


彼は私の手を取った。


「リリアーナ・フォン・ベルガモット。どうか私の傍で、王国の記憶を守ってほしい。そして――」


「そして?」


「私の妻として、共に歩んでほしい」


薔薇園に吹く風が、私の銀灰色の髪を揺らした。


三年間、冷たいと言われ続けた。心がないと罵られた。


けれど今、この人は私の全てを受け入れようとしている。


「……ずいぶんと、急なご提案ですわね」


私は涙の跡が残る顔で、精一杯の微笑みを浮かべた。


「いえ、三年越しです」


「三年?」


「初めて貴女を見た時から、ずっと」


(……この方は、本当に不器用ですわね)


私は小さく笑った。


「では、お受けいたしますわ。陛下」


「ルシアンと」


「え?」


「二人の時は、名前で呼んでほしい」


耳まで赤くなった王の姿に、思わず笑みが零れる。


「……ルシアン様」


「ああ」


彼は立ち上がり、私を抱きしめた。


胸の香水瓶が、微かに温かく光った気がした。


母が封じた最後の香り。それは「愛娘の幸せを願う記憶」。


(お母様。私、幸せになれそうです)


薔薇園には甘い香りが満ちている。


それは終わりの香りではなく、始まりの香り。


氷の侯爵令嬢と呼ばれた私の、新しい物語が今、幕を開ける。



◇ ◇ ◇



――そして後日談。


辺境の修道院では、エドワードが毎晩「後悔の香り」に苛まれ、眠れない夜を過ごしているという。


「リリアーナ……許してくれ……」


彼の懺悔は、誰の耳にも届かない。


(自業自得ですわ)


新王妃となった私は、母の香水瓶を胸に、今日も王国の記憶を守り続けている。


香りは嘘をつかない。


だから記憶もまた、永遠に。



【完】

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