第2話:踏み込みの余波
監視官が去ってから、地下教室の空気は完全には戻らなかった。
石筆の音は続いている。
だが、どこか硬い。
誰もが、次の足音を待っているようだった。
「今日はここまでにする」
俺が言うと、生徒たちの肩がわずかに落ちた。
安堵と、不安が混じった顔。
「帰りは三人ずつ。時間をずらせ」
指示を出すと、皆すぐに動き始めた。ここ最近で身についた“危機対応”だ。
エナも立ち上がる。
……が、動きが少し遅い。
「エナ」
「はい」
振り向いた彼女の目には、まだ緊張が残っていた。
「大丈夫か」
一瞬だけ迷い、エナは小さく頷く。
「怖いです。でも……」
拳を握る。
「次は解けます。さっきの問題」
俺は少しだけ笑った。
「いいな。その調子だ」
エナは照れたように視線を逸らし、他の生徒と一緒に階段へ向かった。
最後の足音が消える。
地下に残ったのは、俺とリネアだけだった。
⸻
「……甘い」
沈黙を破ったのはリネアだった。
腕を組み、壁にもたれたままこちらを見る。
「何がだ」
「“自主勉強会”で押し通すつもり?」
図星だった。
「通らないと思うか」
「今日の監視官は引いただけ。終わってない」
短く、断定する口調。
俺は机の上の資料を整えながら言う。
「分かってる」
それでも、今できる最善を打ったつもりだ。
リネアはしばらく黙り、ふっと息を吐いた。
「……学院の動き、少し早い」
「どういう意味だ」
「例年なら、まず内偵。それから査問」
視線が鋭くなる。
「今回は順番が逆」
嫌な予感が背中をなぞる。
「つまり?」
「誰かが、急がせた可能性がある」
その言葉で、地下の空気がまた冷えた。
俺はゆっくり振り返る。
「……密告か」
「断定はできない」
リネアは即答した。
「でも、“情報源”がある動き方」
⸻
思考が一気に加速する。
地下教室の存在を知っている人間は限られている。
生徒たち。
裏市場の関係者。
それから――
「私を疑う?」
静かな声だった。
いつの間にか、リネアがまっすぐこちらを見ている。
試すような視線。
逃げ場のない問い。
俺は一拍だけ考え、
「いや」
と答えた。
「今は、全員保留だ」
リネアの眉がわずかに動く。
「随分と慎重ね」
「証拠がない段階で疑っても、教室が壊れるだけだ」
これは本心だった。
疑心暗鬼が一番早く組織を潰す。前世で嫌というほど見てきた。
リネアはしばらく俺を見つめ――
小さく笑った。
「……合格」
「何の試験だ」
「別に」
肩をすくめる。
だがその表情は、ほんの少しだけ柔らいでいた。
⸻
その時だった。
階段の方から、慌ただしい足音が響く。
俺たちは同時に顔を上げた。
戻ってくるはずのないタイミング。
次の瞬間――
「先生!」
息を切らしたエナが飛び込んできた。
顔が青い。
「どうした」
「外に……」
言葉が詰まる。
呼吸を整え、絞り出すように言った。
「学院の人が、まだいます」
空気が凍りつく。
リネアの目が鋭く細まった。
「何人」
「……一人。でも」
エナの声が震える。
「私のこと、見てました」
沈黙。
最悪の形で、“個別マーク”が始まった可能性が浮上する。
胸の奥が冷たくなる。
――来る。
査問は、もう一段深く踏み込んでくる。
そして。
最初に狙われたのは――
エナだった。




