第2巻「査問」 第1話:査問通知
第2巻「査問」
第1話:査問通知
合格発表から十日が経っていた。
平民の合格者数は例年の三倍。学院がその異常を見逃すはずがないことは、最初から分かっていた。
だから俺たちは動いた。
教室を一度移し、帳簿は分散して隠した。問題集は写本だけを残し、原本は処分した。それでも、備えとして十分かどうかは誰にも分からなかった。
そして今日――。
学院の中央塔から響いた鐘の音は、俺たちの予想が現実になったことを告げていた。
長く、重い余韻が地下まで落ちてくる。
教室がざわめいた。
「先生……この音……」
エナの声はかすれていた。それでも彼女は、手元の石板を伏せ、資料を膝の下に滑り込ませている。証拠を隠そうとしているのだ。
怖いはずなのに、手は動いている。
「査問の鐘よ」
壁にもたれていたリネアが言った。
「学院が正式に調査を始める時に鳴る」
空気が冷える。誰も言葉を続けられない。
俺はゆっくり立ち上がった。
「落ち着け。想定内だ」
声が少しだけ硬い。自分でも分かる。
足音がした。
石段を一定の間隔で踏みしめる音。迷いも急ぎもない。こちらの動揺など関係ないと言わんばかりの歩調だった。
「……来る」
誰かが呟いた。
扉が三度、叩かれる。
「学院監視官だ。開けてもらおう」
低く通る声。
教室の視線が一斉に俺へ集まる。その重みを受け止めながら、扉へ向かった。
逃げるという選択肢は最初からない。
扉を開ける。
黒い外套の男が立っていた。胸元の徽章が監視官の身分を示している。三十代半ばほど。無表情ではないが、感情を表に出さない顔だった。
男の視線が俺の肩越しに教室を見渡す。その動きは静かで、一切の無駄がない。
「ここで何をしている?」
「試験対策の勉強会です」
俺は答えた。
「教師資格は?」
「持っていません」
「では違法教育の疑いがある」
予想通りの言葉だった。
俺は一拍だけ間を置く。
「試験対策を教えることは、どの法令で禁じられていますか」
監視官の目が細くなる。
「資格を持たない者が対価を得て教育を行うことは禁止されている」
「対価は受け取っていません。ここにいるのは全員、自主的な参加者です」
嘘ではない。完全な真実でもないが。
監視官は教室へ入り、机や壁際を確認していく。生徒たちは息を潜めていた。エナの拳が膝の上で小さく震えているのが見える。
「最近、この周辺で無許可の教育活動が行われているという報告があった」
淡々とした口調。
「学院はこれを重く見ている」
監視官の視線が生徒たちを順に捉え、最後に俺へ戻る。
「本日付で正式な査問を開始する」
その言葉が、重く落ちた。
「近いうちに再訪する。それまでに関係記録を整理しておけ」
扉の前で足を止める。
「隠し事は、しない方がいい」
それだけ告げて、男は去った。
足音が遠ざかる。完全に消えた瞬間、張り詰めていた空気が一気に崩れた。
「……怖い」
誰かが小さく言った。
その一言で、教室全体が揺れる。
当然だ。怖くないはずがない。
「……俺も怖い」
気づけば口にしていた。
生徒たちが驚いたようにこちらを見る。教師がそんなことを言うとは思っていなかったのだろう。
「査問が入れば、ここは閉鎖されるかもしれない」
言葉にすると現実味が増す。
「努力してきた時間が、無駄になる可能性もある」
沈黙。
エナが顔を上げた。目はまだ揺れているが、逸らさない。
「でも……やめません」
かすれた声だった。
「ここでやめたら、もっと後悔する」
その言葉が、教室の空気をわずかに変える。
リネアが小さく息を吐いた。
「時間はある。査問は即閉鎖じゃない」
現実的な声。
「なら、その時間を使うべきよ」
俺は頷いた。
「……ああ」
胸の奥の震えは消えていない。それでも、立っていられる。
「俺たちのやることは変わらない。問題を解く。それだけだ」
石板を机に置く。
「続きをやるぞ」
最初の一筆が刻まれるまで、少し時間がかかった。
だがやがて、計算を書く音が一つ、また一つと重なっていく。
地下教室に、いつものリズムが戻る。
それでも俺の頭の片隅には、監視官の言葉が残っていた。
――隠し事は、しない方がいい。
どこまで守れる。
何を捨てることになる。
その答えはまだ見えないまま、俺たちは問題に向き合い続けた。




