第2話:地下教室
最初の授業は、廃倉庫だった。
町外れに打ち捨てられた石造りの建物。半分崩れた屋根から細い光が差し込み、乾いた埃がゆっくり舞っている。
声は外に漏れにくい。人目にもつかない。
秘密で集まるには、ちょうどよかった。
「……本当にやるの?」
小さな声が響く。
最初の生徒――エナが入口の方をちらちら見ながら言った。
栗色の髪を肩で切りそろえた十四歳の少女だ。市場で母親の手伝いをしていると言っていた。
「やる」
俺は即答する。
床に問題を書き出した。
「でも、もし見つかったら……」
エナの声は震えていた。
当然だ。この世界では、無許可で教育を施すことは重罪に近い。資格制度は貴族の支配を支える仕組みで、平民が勝手に試験対策を行うのは体制への反逆と見なされる。
罰金で済めばまだいい。最悪、労働奴隷落ちだ。
「怖いか?」
聞くと、エナは少し黙った。
「……怖いよ」
正直な答えだった。
「でも、もっと怖いのは」
拳をぎゅっと握る。
「このまま一生、市場で終わること」
真っ直ぐな目だった。
俺は頷く。
「なら大丈夫だ」
書いた問題を指で示す。
「俺は受からせる」
断言すると、エナは驚いた顔をしたあと、小さく笑った。
「自信あるんだね」
「ある。試験には癖がある。努力を裏切らない形をしてる」
それを知らないだけだ。
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その日の生徒は三人だった。
エナのほかに、年下の兄弟が二人。最初は怯えた様子だったが、問題を解き始めると表情が変わっていく。
「あ……できた」
弟が呟いた。
「できたな」
俺は静かに言う。
理解が繋がる瞬間の光。前世で何度も見た顔だ。
この感覚が、俺は好きだった。
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授業の終わり、エナが布袋を差し出した。
「今日の分」
中には銅貨が三枚。
物理的には軽い。
だが、この子の何日分の稼ぎだろう。
指先に乗せただけなのに、ずしりと重かった。
これは金じゃない。覚悟だ。
俺は無言で受け取る。
受験料まではまだ遠い。だが確かに前進していた。
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帰り道、エナが隣を歩く。
「なんで、そこまでしてくれるの?」
「資格が好きだからな」
「好き?」
「努力が形になる。突破口になる」
少し考えてから続ける。
「この世界は資格で人生が決まる。なら、突破法を知ってる奴が教えないのは損だろ」
エナは苦笑した。
「変な人」
「よく言われる」
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「――何してる」
低い声が落ちた。
振り向くと、黒い外套の男が立っていた。胸の徽章――学院の監視官。
空気が凍る。
「この時間に散歩か」
男の視線がエナの持つ布袋に向く。
「市場の帰りです。野菜を買いに」
俺は即座に答えた。
エナが小さく頷く。
男は俺たちの顔を順番に見た。値踏みするような目だった。
数秒がやけに長い。
「……そうか」
やがて鼻を鳴らし、踵を返す。
「怪しい真似はするなよ」
足音が遠ざかるまで、息を止めていた。
姿が見えなくなった瞬間、エナがその場にへたり込む。
「やっぱり、やめた方が……」
「やめない」
即座に言った。
「ここで引いたら何も変わらない。俺は続ける」
拳を握る。
「怖いなら抜けてもいい」
長い沈黙。
風が吹き抜ける。
エナはゆっくり立ち上がった。
「……やる」
震えながらも、目は決まっている。
「最後までやる」
胸の奥が熱くなる。
「分かった。絶対に受からせる」
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「大胆なことするのね」
背後から声がした。
振り向くと、青みがかった髪の女性が石造りの壁に寄りかかっていた。
「……いつから」
「最初から」
彼女は倉庫の方を顎で指す。
「授業も、さっきの監視官も、全部見てた」
心臓が強く跳ねる。
「通報する気なら、もうしてる」
女性は肩をすくめた。
「私はリネア。学院の奨学生」
エナが息を呑む。
「手伝うわ」
即答だった。
「あなたの教え方、効率的。でも危険すぎる。隠し方が甘い」
図星だった。
「理由は?」
少し間を置いて、彼女は言った。
「才能が埋もれるの、嫌いなの」
静かだが、強い声だった。
俺はエナを見る。
彼女は戸惑いながらも頷いた。
俺は息を吐く。
「……歓迎します」
リネアが小さく笑う。
「これで共犯ね」
その言葉は重かった。
だが同時に、不思議な安心感もあった。
地下教室は、もう後戻りできない。
俺たちの戦いが始まった。
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(第2話 終)




