英雄による残酷な救済
「エリアーナ・ローゼライト! 貴様との婚約を破棄し、その身を国外追放に処す!」
王立学院の卒業記念パーティー。きらびやかなシャンデリアの下、第一王子の鋭い声が響き渡った。 私、エリアーナは床に膝をつき、冷たい石畳を見つめていた。周囲の貴族たちの嘲笑、ひそひそ話、そして「聖女」をいじめた稀代の悪女を見る冷たい視線。
「そんな! 私は聖女様に何も……、何もしておりません!」
しかし、私は事実、何もやっていないのだ。『悪役令嬢』として生まれたことは分かっていた。だからこそ、身分以上に慎ましく生きてきた。聖女を助けたことも一度や二度ではないのだ。なぜか結果は私の願ったものになることはなかったが。
「誰がそんな話を信じる。この場の全員が証人だ。もはや国外追放では生ぬるい! 処刑するべきだ!」
(ああ、やっぱり、こうなるのね)
私は知っていた。自分がこの世界の『悪役令嬢』であり、どんなに慎ましく生きようとしても、運命が私を破滅へと引きずり込んでいくことを。冤罪を晴らす術はない。証拠はすべて捏造され、味方は一人もいない。 だが、その絶望を切り裂くように、重厚な甲冑の音が響いた。
「待て。その裁定に異議を申し立てる」
群衆が割れ、一人の男が進み出る。 漆黒の髪に、燃えるような青い瞳。この国の守護者にして、魔王を討伐した「英雄」、そして私の幼馴染であるアラリックだった。
「アラリック卿!? 君は今回の遠征で疲弊しているはずだ。下がれ!」
「王子、彼女は無実だ。私がその証拠を……いや、証拠など不要だ」
アラリックは私の前に跪き、その大きな手で私の震える手を取った。彼の体温は驚くほど熱く、絶望で凍りついた私の心を一瞬で溶かした。
「私が、彼女の身元を引き受ける。彼女を傷つける者は、たとえ王族であろうと我が剣の錆となってもらう」
それは、身分を無視した、あまりにも傲慢で、あまりにも献身的な「救済」だった。魔王を討伐した英雄に剣を向けられるかもしれない状況で、逆らえるものなどいるはずもない。呆然とする人々を背に、彼は私を抱き上げ、冷たい社交界から連れ去った。馬車の車輪が立てる規則正しい音と、降りしきる雨の音だけが、地獄からの生還を告げていた。
◆◆◆
たどり着いたのは、王都の喧騒から離れた、静かな森の奥にある古い離宮。 彼は「英雄」としての地位を半分捨ててまで、私の隣に居続けてくれた。それからの日々は、まるで夢のようだった。
「エリアーナ、見てくれ。君が好きだと言っていた、北嶺の青い花だ」
彼は遠征のたびに、私に贈り物を持ってきてくれた。 珍しい鉱石、押し花、古びたが美しい細工の銀の指輪。 私たちはそれらを、一つの銀の宝箱にしまっていった。
「これ、覚えている? 十歳の時、あなたが木から落ちた私を助けてくれた時のリボン」
「ああ、あの時は肝が冷えた。君の無鉄砲さは昔から変わらないな」
私たちは宝箱を囲み、一つひとつの品に宿る思い出を語り合った。 幼い頃の泥だらけの冒険。初めて二人で踊った夜のこと。 彼が私に向ける眼差しは、砂糖が溶けるように甘く、深い慈愛に満ちていた。
「エリアーナ。私は君がいれば、他には何もいらない」
「アラリック……私もよ。この幸せが、永遠に続けばいいのに」
彼は私のヒーローだった。 悪役令嬢としての破滅から私を掬い上げ、名前も地位も捨てた私に「一人の女性」としての居場所を与えてくれた。 この箱に詰まった記憶こそが、私の世界のすべて。この箱さえあれば、たとえ明日世界が終わっても後悔しないとさえ思っていた。
だが、運命は狡猾に、そして静かにその牙を剥き始めていた。予兆は、風が少しずつ冷たくなり始めた秋の午後に訪れた。テラスで紅茶を淹れていた私は、ふと思いついて彼に尋ねた。
「ねえ、アラリック。初めて二人でこの離宮に来た日、雨が降っていたわよね。覚えている?」
アラリックは一瞬、戸惑ったように眉を寄せた。
「……雨? ああ、そうだったかな。すまない、少し疲れが溜まっているのかもしれない」
最初は、ただの物忘れだと思っていた。 英雄としての公務、そして私を守るための政治的な根回し。彼は忙しすぎたのだ。 けれど、それは加速していった。
「エリアーナ、その銀の指輪はどうしたんだ? 新しい買い物をしたのかい?」
彼は、自分が半年前に私に贈った指輪のことを忘れていた。 次に彼は、私たちが共に育てた庭の花の名前を忘れ、次に私の好物を忘れた。 そしてある夜。夜警から帰ってきた彼を迎えた私に、彼は信じられない言葉を投げかけた。
「……失礼。君は、ここの新しい侍女かな?」
心臓が、凍りついた。 冗談を言っているような顔ではない。彼の瞳には、親愛の情ではなく、見知らぬ他人への礼儀正しい無関心が宿っていた。 私は震える手で、あの「銀の宝箱」を取り出した。
「アラリック、見て。これはあなたが私にくれたもの。私たちは幼馴染で、あなたは私を救ってくれて……」
「落ち着いてくれ。私は確かに『悪役令嬢』と呼ばれた君を救った。忘れるなんてどうかしていたよ。それは覚えている。英雄としての責務だった。だが……」
彼は、宝箱の中のリボンや押し花を、まるでガラクタを見るような目で一瞥した。
「君とこんな風に、思い出を語り合った記憶がないんだ」
その言葉が、私の世界を粉々に砕いた。目の前にいるのは確かに彼なのに、私を知る彼はそこにはいない。鏡越しに愛する人を見ているような、絶望的な距離感。私はその正体を知るべく、狂ったように古びた資料を漁り始めた。離宮の地下、埃を被った書庫で見つけた真実は、私をさらなる奈落へと突き落とした。
アラリックが持つ「救済の力」。 それは、運命によって定められた「死」や「破滅」ですら強引に書き換える奇跡の力。 だが、その力を使うには、等価交換の対価が必要だった。
『運命を捻じ曲げる奇跡の対価は、術者にとって最も価値ある「記憶」である』
彼は、私を助けるために。 婚約破棄され、処刑されるはずだった私の運命を書き換えるために。 私との思い出を、一切合切、神への供物として差し出していたのだ。世界に『悪役令嬢』として運命付けられた私が、離宮に隠れたくらいで生きながらえることができるはずなどなかった。
彼は、冤罪で婚約破棄され、処刑されるはずだった私を連れだした後も、ずっと破滅の運命から私を救い続けてくれていたのだ。
彼が私を救えば救うほど。世間から私を守るためにその力を行使すればするほど。 彼の中から、「エリアーナという女性を愛した記憶」が消えていく。
「そんな……そんなのってないわ……!」
私は泣きながら、彼の足元に縋り付いた。 今、目の前にいる彼は、私を救った「英雄」のアラリック。 けれど、私と一緒に笑い、私を「エリアーナ」と呼んで抱きしめてくれた私の「アラリック」は、もうどこにもいない。 彼は、私のために私を忘れたのだ。
その日から、屋敷の空気は一変した。かつての温もりは消え失せ、主と保護対象という冷徹な境界線が引かれた。それから、私たちの関係は歪なものへと変わった。 彼は「義務」として私を保護し続けた。 私を見る目は冷ややかで、時には「なぜ私はこんな女を助けたのだろう」という困惑さえ透けて見えた。
私は毎日、彼に思い出を語って聞かせた。 「私たちはここで出会ったの」「あなたはこれが好きだったの」 けれど、それは砂漠に水を撒くような行為だった。 彼にとって、私の言葉は「知らない誰かの物語」でしかなかった。
そんな虚しい日々に、無情な終わりが告げられる。追放されたはずの私を狙う暗殺者が離宮を襲った。王子の放った刺客。私は逃げ遅れ、刃が私の喉元に迫る。
「エリアーナ!」
彼は迷わず私を庇い、その力を使った。 まばゆい光が辺りを包み、刺客たちは一瞬で消滅した。 運命が再び書き換えられた。私の「死」という結末が消え、新しい「生存」のルートが開かれた。 代償として、彼はその場に崩れ落ちた。
「アラリック! ああ、お願い、目を開けて!」
駆け寄った私を、彼は弱々しく見上げた。 その瞳から、最後の光が消えていくのが分かった。
「……君、は……」
彼の唇が動く。
「名前を、聞いてもいいだろうか。私は……なぜ、君のために戦っているんだ?」
ついに、彼は私の名前さえ忘れてしまった。 幼馴染であったことも。救済した対象が誰だったのかも。 彼は今、ただ「見知らぬ女」を守るために、己の魂の根幹を差し出したのだ。
私は声を上げて泣いた。彼が失った記憶の分まで、叫ぶように。しかし、彼が私を忘れたことで、皮肉にも追手はもう現れなくなった。彼の中に私がいない以上、私はもう誰でもない存在になれたのだ。私は彼に「恩人の女性」として最後の別れを告げ、彼が平穏に暮らせるよう、彼の前から姿を消す決意をした。
数ヶ月後。 隣国へと亡命した私は、小さな町でひっそりと暮らしていた。 アラリックは、英雄としての記憶さえ失い、ただの腕の良い傭兵としてどこかへ消えてしまった。 彼を縛る「私」という記憶がなくなったことで、彼はようやく自由になれたのかもしれない。
私の手元には、一つの銀の宝箱がある。
中には、色褪せたリボン。 持ち主の分からなくなった銀の指輪。 カサカサに乾いた青い花。
私にとっては、命よりも大切な、愛し合った証。 けれど、世界中でこれを「思い出」として認識できる人間は、もう私一人しかいない。 彼が私を忘れたことで、私たちの恋は、最初から存在しなかったことになった。
「幸せだったわ、アラリック」
私は、彼が最後にくれた贈り物——「私が生きているという事実」を抱きしめる。 彼が忘れてしまったすべての愛を、私が一生をかけて覚え続ける。 それが、私を救った彼への、唯一の報い。
窓の外では、彼と一緒に見るはずだった四季が、無情にも巡っていく。 私は一人、銀の箱を閉じ、鍵をかけた。
(カチャリ)
その音は、私の心に止めを刺す、世界で一番静かな断罪の音だった。
◆◆◆
それから、三年の月日が流れた。
隣国の辺境にある小さな市場町。エリアーナは、町外れの小さな花屋で働いていた。 かつての豪華なドレスも、重々しい身分も、ここにはない。あるのは、土に汚れたエプロンと、穏やかな、けれどどこか遠くを見つめるような静かな日々だけだ。
「お姉さん、この青い花を一つくれないか」
不意にかけられた低い声に、エリアーナの手が止まった。 心臓が跳ね、指先が微かに震える。忘れるはずのない、けれどもう二度と聞くことはないと思っていた声。
ゆっくりと顔を上げると、そこには、旅慣れた黒い外套を纏い、腰に一本の古びた剣を下げた男が立っていた。 かつての「英雄」としての煌びやかさは鳴りを潜め、今は一人の熟練した傭兵といった風情だ。
「……はい。北嶺の青い花ですね。珍しいものをご存知なのですね」
エリアーナは、精一杯の平静を装って微笑んだ。 目の前にいるアラリックの瞳をじっと見つめる。そこには、憎しみも、困惑も、そして――かつての甘い愛も、何一つとして宿っていない。ただ、行きずりの花屋の店員を見る、誠実で、透明な視線があるだけだ。
「ああ。なぜか分からないが、昔からこの花を見ると、胸の奥がざわつくんだ。……大切な何かを、この花に託していたような気がしてね」
彼は自嘲気味に少しだけ笑った。 その笑顔は、かつて離宮のテラスで彼女に向けてくれたものと、少しも変わっていなかった。
「おかしなことを言って済まない。俺には、過去の記憶がほとんどないんだ」
「……左様でございますか」 「ああ。だが、不思議だ。この町に来て、君の姿を見かけた時、初めて『帰ってきた』ような心地がした。……君と、どこかで会ったことはないだろうか?」
エリアーナの胸の奥で、せき止めていた感情が溢れそうになる。 「はい、私たちは幼馴染で、あなたは私を救うためにすべてを捨てたの」と、その胸に飛び込んで叫びたかった。
けれど、彼女はただ、丁寧に包んだ青い花を彼に差し出した。
「いいえ。私はずっとこの町で花を育てております。貴方のような立派な騎士様とは、今日が初めてにございます」
それが、彼女の選んだ、彼への最後の「救済」だった。 彼が自分を忘れることで手に入れた「自由な人生」を、再び過去の呪縛で縛りたくはなかった。彼には、真っ白な地図を持って、新しい誰かと新しい思い出を作ってほしかった。
「そうか。……見当違いなことを聞いたな。すまない」
アラリックは花を受け取り、代金を置くと、軽く会釈をして歩き出した。 その背中を、エリアーナはじっと見送る。
ふと、彼は数歩歩いたところで立ち止まり、振り返らずにこう呟いた。
「……名前を、聞いてもいいだろうか」
エリアーナは、一瞬だけ目をつむった。 あの日、離宮で彼が最後に問いかけた言葉。 あの時は絶望に染まっていたその問いに、今は、柔らかな秋の光の中で答えることができる。
「……リー、と申します。ただの、花売りです」
「そうか、リー。良い名前だ。……また、花を買いに来てもいいだろうか」
「ええ。いつでも、お待ちしております」
彼は今度こそ、人混みの中へと消えていった。 エリアーナは店の中に隠しておいた、あの「銀の宝箱」をそっと撫でる。 中に入っているリボンも、指輪も、彼にとってはもう何の意味も持たないガラクタだ。
けれど。 かつて彼が命を懸けて自分を愛してくれたという真実は、この箱の中に、そして彼女の記憶の中に、永遠に刻まれている。
たとえ彼が二度と私を愛さなくても。 たとえ彼が二度と思い出さなくても。
「幸せになって、私の英雄」
彼女は小さく呟き、新しい花に水をやった。 箱の中の記憶は色褪せても、今日という日から始まる、彼との「新しい他人としての時間」が、静かに、優しく、降り積もっていく。
銀の箱の鍵は、もう開ける必要はなかった。




