第九話 アレクの腕前 力vs技
一緒の旅を始めて数日後、ヴィックとアレクは昼休憩のため、木陰に馬車を停めていた。
「おい、アレク」
食事を終え、水筒の水を飲み干したヴィックが、急に声を上げた。
彼は足元の落ち葉を蹴り、素手で応戦する構えを見せた。
「中央都市で武者修行をするつもりなんだろ?その腕、見せてもらおうか。お前にやった私の剣で、それでかかってこい。」
アレクはどきりとした。ヴィックに「冒険者」としての腕を試されるとは思っていなかった。
「え、あ、でもヴィック……それじゃあ、ヴィックが怪我を……」
「いいから、それでやれ。お前の動きが見たいだけだ。それに、私はこれで十分だ」
相手はヴィックだ。本気で剣で挑むことなど、アレクにはできなかった。
「いくぞ」
ヴィックがそう告げた瞬間、アレクは意識を集中させた。
オレンジ色の閃光が走ったかのように、ヴィックの姿が動いた。
アレクが構えようとするよりも早く、ヴィックは剣を持たぬ素手で、その身軽さを最大限に活かして、アレクの左右を高速で回り込む。
アレクは、モリスから教わった通りの基本に忠実な、力強い切り込みを放った。
だが、ヴィックはそれを鼻先で笑ったかのように、わずかに腰を落とし、アレクの剣が空気を裂く直前で、ふわりと避けた。
「遅い!そして、力が一本調子だ。それではただの棒振りだ!」
アレクの背中をヴィックの掌が叩く。
ヴィクはすぐに距離を取り、その動きは、まるで獣のようだった。
アレクの戦い方は、ひたすらに力強く、体幹がしっかりしている。
だが、そのパワーは、身軽で速いヴィックにはまるで届かない。ヴィックを傷つけまいと、攻撃の威力を無意識にセーブしていることも、その一因だった。
ヴィックは常にアレクの攻撃範囲の外側を保ちながら、アレクが少しでも体勢を崩した瞬間に、風のように懐に入り込み、正確に急所を狙う。アレクが剣を振り回すたびに、ヴィックはひょいとそれをかわし、正確にアレクの頭や脇腹を拳で打った。
アレクは乱れる息を整え、必死にヴィックの動きを目で追う。
(くそっ、見えない……速すぎる!)
体力を消耗したアレクは、呼吸も荒く、動きが明らかに鈍り始めた。漁師と厩で培った持久力とパワーは確かにあるが、この速度差と手数では、長期戦に持ち込む前に体勢を崩されてしまう。
その時、ヴィックは構えを解いた。
そして、アレクの懐へ一気に飛び込み、アレク右腕を叩いた。
力が抜けたアレクの手から、剣が地面に落ちた。
アレクが呆然とする間もなく、ヴィックはアレクの背中に素早く腕を回し、痩せた体格からは想像もできない力で、アレクの動きを完全に封じ込めた。
「終わりだ。私の勝ちだ、アレク。」
ヴィックはそっとアレクを解放した。
「(確かに力がある。その体躯とスタミナは、並大抵の人間ではない。まともに組み合えば、私の方が持たないだろう。長期戦になれば私の方があのパワーに負けてたな)」
ヴィックはアレクの目を見据える。アレクの瞳には、悔しさはあるものの、人を殺めようとするような冷たい気迫は一切なかった。
ヴィックは、アレクの優しすぎる本質を、この手合わせで理解した。
「ヴィック…お願いします」
あの手合わせから、アレクは何かとヴィックに剣の稽古をねだった。
「だから…あれはお前の腕を見るための手合わせで、私はもうお前とやり合うつもりはない」
「そこを何とか…!もう一度、ヴィックの動きについていけるようになりたいんです!」
その熱心さに、ヴィックは困り果てていた。やれやれとヴィックはため息をついた。中央都市サントゥスに着くまで、ずっとこの調子で付き合わされるのだろうか。
「そうだな…」
ヴィックは腕を組み、一つ条件を出した。「私は美味しい魚が食べたい!ここらへんの食堂だのは鮮度が足りないせいか、やたらとソースをかけて味をごまかしてるからな。塩で焼いただけの上手い魚を、お前が食べさせてくれたら、考えないこともないぞ」
その瞬間、アレクの瞳が強い光を放った。
「何だ、そんなことですか!そんなこと、お安い御用です!」
「ん?」
ヴィックは、アレクに無理難題を押し付けたつもりだった。旅の途中の川で、まともな道具もなしに、新鮮な魚を獲ってこいというのだから無理だろうと高を括っていた。
ヴィックは知らなかったのだ。
アレクが生まれついての漁師であるということを。彼を御屋敷勤めの仕事をしている使用人だとしか認識していなかった。
そして、魚は釣りで捕るのだと思っていた。
アレクは迷わず剣を外し、ベストとシャツを脱いで放り投げた。
鍛え抜かれたダークタン(濃く日焼けした健康的な)肌が露わになる。
アレクは更に下のズボンの紐を緩めていた。
「おい、何やっている?」
ヴィックがあっけにとられて声を上げた。
流石に普段から商会の男たちの上半身は見慣れているヴィックでも、下の肌着、すなわちショートブレー(Braies)だけの姿になった男の姿は流石に見慣れていない。
太ももや腰回りが露わになり、都市の規範意識を持つヴィックの顔には戸惑いが浮かんだ。
だがアレクは、ショートブレー(Braies)だけの姿で涼しい顔で答えた。
「今から魚を獲って来ます」
アレクはそう言うが早いか、目の前を流れる川へ迷うことなく飛び込んでいった。
ざばっ!
水しぶきが上がり、秋の冷たい水がアレクの体を包む。季節は秋、川はかなりの冷たさのはずだ。
ヴィックは慌てて立ち上がり、川面を見つめたが、アレクは水中に潜ったまま、姿が見えない。
「(大丈夫か、あいつ…!)」
ヴィックが心配し始めた矢先、水面からアレクが顔を出し、陸に向かって何かを放り投げた。
それは、鮮やかな魚だった。
アレクは冷たい水などものともせず、続けて水中に潜る。水中での動きは素早く、手の動きは正確無比だった。
二度、三度と潜るたびに、次々と新鮮な魚が陸に打ち上げられた。
ヴィックは目を丸くしてそれを見守った。最終的に、アレクは四匹の魚を獲って上陸した。
水から上がったアレクは、寒さに震える様子もなく、軽く水気を払うとすぐに動き始めた。
彼は手際よく川辺に落ちていた木の枝を拾い、その場で魚を串刺しにする。そして、慣れた手つきで枯れ葉と小枝を集め、最も原始的な方法で炎を起こした。
彼は、まず川辺で乾燥した硬い木(火床)と、手のひらで回転させるのに適した棒(火きり棒)を見つけた。
枯れ葉を細かく砕いて火床の横に火口として用意する。
アレクは両膝で火床をしっかり固定し、火きり棒の先端を火床の窪みに差し込んだ。そして、両手のひらで火きり棒を挟み込むと、驚くほどの速さで強く押し付けながら回転させた。
上から下へ、下から上へと、彼はわずか数秒で手の位置を素早く切り替えながら回転を続けた。摩擦熱で白い煙が立ち上り、木が焦げる匂いが漂い始める。
彼の鍛え上げられた腕が、力強く動く。
やがて火床の窪みに、微かな黒い粉(炭)が溜まり、それが赤くくすぶる小さな点に変わった。
彼はすかさず火きり棒を離し、その赤熱した炭を、細かくした枯れ葉(火口)の中に優しく移す。顔を寄せ、そっと、途切れさせないよう息を吹き込む。
くすぶりが大きくなり、そしてついに、ボッ!と炎が上がった。
彼はそれをすぐに集めておいた小枝に移し、小さな焚き火へと育てていった。
パチパチと薪が爆ぜる音と、魚の焼ける香ばしい匂いが漂い始める。
塩を軽く振られただけの魚は、強火で一気に焼き上げられ、皮はパリッと、身はふっくらと仕上がった。
「さあ、ヴィック。どうぞ」
ヴィックは、一切の味付けを排した、純粋な魚の味に驚いた。今まで旅の途中で食べたどの魚よりも、新鮮で、美味い。
「……負けた」
ヴィックは魚の骨を丁寧に外し、残らず平らげた後、ぽつりと呟いた。
「わかったよ、アレク」
彼は立ち上がり、まっすぐアレクの目を見据えた。
「約束は守る。これから出来るだけ、お前と手合わせの相手になってやる」
その言葉を聞いた瞬間、アレクの顔が歓喜に輝いた。
「ヴィック、ありがとう!」
アレクは興奮のあまり、無意識にヴィックの手を両手で強く握りしめた。
その瞬間、ヴィックの顔が一瞬、歪んだ。
アレクはハッとした。ヴィックがテコの原理を使って両手の皮がめくれていたのを思い出したのだ。それでアレクが御者としてサントゥスまで雇われたのだ。
「あ…すみません、ヴィック!手、痛かったですよね」
アレクは慌てて手を離し、心から謝った。
ヴィックは、アレクの謝罪を聞いてもなお、困惑したような、または呆れたような表情で、ただアレクの体を見つめていた。
「いや、アレク...手のことは、いい」
ヴィックがそう言ったが、その視線はアレクの上半身から、下半身へと向けられたままだった。
「…その格好で、人前で立っているのはどうなんだ?」
アレクはきょとんとした。
「え、格好、ですか?」
ヴィックは、アレクの逞しい身体に、ただショートブレー一つだけが身に着けられているという、その事実を指差した。
「ああ。お前、ずっとその... その下着一枚のままだぞ」
アレクは初めて自分の姿に気づき、顔が真っ赤になった。魚を獲るために脱いだベストやシャツ、ズボンは、まだ地面に放り投げられたままだった。彼は漁師として慣れた格好だったが、目の前にいるのは都市育ちのヴィックである。
「あっ…す、すみませんっ!!!」
アレクは悲鳴に近い声を上げ、慌てて落ちていた服を拾い上げ、着込み始めた。ヴィックは、その慌てようを見て、小さく吹き出しながら首を振った。
『本編を読まなくても分かる『勇盾』簡単物語』
手合わせでヴィックの速さに圧倒されたアレクは、稽古を請う。ヴィックは「美味い魚」を条件に出すが、元漁師のアレクは下着姿で川へ潜り、見事な腕前で期待を上回る。その熱意と野生の逞しさに根負けしたヴィックは、サントゥスまでの稽古を約束するのだった。




