第八話 アレクとヴィックの共同旅路の始まり
カレムに向かう道中、アレクの隣に座っていた彼は、グレイ伯爵家での一件を思い出し、癇に障っていた。
――他人の世話など焼く趣味はないというのに、面倒事を頼んできたモリスと、それに甘んじて首を突っ込んでしまった自分が腹立たしかった。
この苛立ちは、数日前の、あの穏やかな午後が原因だった。
話はアレクの旅立ちから数日後に遡る。
穏やかな午後、彼はグレイ伯爵家を訪ねていた。
彼はあの宿屋での盗難事件でアレクの持っていた『銀のチェーン』に刻まれた『TO Morris, with eternal love』というメッセージが気になっていたのだ。
『モリス』という名前は、そんなに転がっているような名ではない。自分が思い当たる『モリス』かどうか、それを確かめたかった。疑問に思ったことは、きちんと確かめる。それが彼の信条だった。
彼は応接間に通され、長椅子に腰掛けていたが、待てど暮らせど誰も現れない。
静寂の中で、時計の針の音だけが、やけに響く。
やがて我慢の限界を超え、彼は乱暴に立ち上がった。
扉を開けて廊下に出ると、短い靴音を響かせながら、迷いなく一つの部屋へ向かう。
モリスの部屋は把握済みである。これまで何度か、訪ねたので把握済みだった。
「今すぐ開けないと、扉を叩き割るぞ!」
それは脅しではなく、本気の響きだった。
貴族の屋敷に似つかわしくない、直情的で荒々しい声。
遠慮など微塵もない、若者らしい強引さが滲んでいた。
直後、「カチャリ」と内側から閂が外れる音がする。
扉から現れたのは、グレイ伯爵夫人だった。
その顔は、熱を帯びた情熱とは裏腹に、張り詰めた緊張で歪んでいる。
高価な絹のような髪は乱れ、頬は火照り、白い首筋には微かに紅の痕が透けて見えた。
夫人は息を詰まらせたまま、彼を見もせず、廊下の奥へと駆け去った。
「伯爵家の御者だけでは飽き足らず、まさか伯爵夫人の手綱まで握っていたとはな、モル。」
夫人の表情を見てすべてを察した彼は、冷ややかに言い放った。
その声には、怒りも軽蔑もなく、ただ事実を突きつけるような冷たさだけがあった。
「わざわざ嫌味を言うために来たのか、トーリィ?あ…今はヴィックと言ったほうがいいのか?」
部屋の中から低い声が返る。
壁にもたれ、乱れた着衣を整えながら苦笑している男――モリス。
「さぁ、どっちでも……旅をしている時は男で通しているからヴィックだが、トーリィでもヴィクトリアでも好きに呼べばいいさ」
彼は旅の安全のために常に男装し、男の名前を使っていた。
本名は『ヴィクトリア・ルベライト』
旅の偽名は『ヴィック・クラーク』
ヴィックはずかずかと部屋に入り、ソファにどかっと腰を下ろした。
「……『TO Morris, with eternal love』」
モリスは一瞬、何のことか分からず首を傾げたが、すぐに気づいた。
それは、アレクに餞別として渡した銀のチェーンに刻まれていた言葉だ。
ヴィックは腕を組み、青い瞳でモリスを射抜くように睨んでいた。
「お前、アレクと会ったのか?」
「会った。宿屋で盗難にあって、ずいぶんとお困りのようだったぞ!」
「盗難だと!?」
モリスの顔色が変わる。
「そんなに慌てるとはな……よほど大事な坊やらしいな?!モル。あんなふわふわした雲みたいな人間が一人旅とはやれやれだな」
「そう言うな……アレクは純粋なんだ。まだ何色にも染まってない」
「その『純粋なアレクさん』とやらは、なぜ旅に出ている?聖地巡礼じゃないよな」
この時代、身分制度と封建制に基づいていたため、自由な移動は現代とは比べ物にならないほど制限されていた。一方で、聖地巡礼や商取引といった明確な目的を持つ人々は、領主または教会より身分証明書を貰い、ある程度は自由な移動をしていた。
ヴィックが問いを重ねたその時、扉がノックされ、ロペス爺さんが顔を出した。
「玄関にロバが停まっておると思うたら、やはりお前さんか、トーリィ。」
「なんだ……まさか売れ残りの季節外れ商品でも売りつけに来たわけじゃあるまいな。」
「人を悪徳商人みたいに言うな、この狸親父!商人の格好をしていても、私が商談の旅をしているわけじゃないくらい、知ってるだろう!」
「おいおいトーリィ。爺さんはお前よりずっと年上の御老体だ。
少しは敬意を払え。たとえ狸爺ィと思っても口には出すな。」
「私は『狸親父』と言った。……お前の方がひどくないか、モル。」
この痴話げんかを見せつけられて、ロペス爺さんは両手を挙げた。
「いい加減にせい。狸親父でも狸爺ィでも、どちらでもよいわ。
まったくお前たちは……流石に従兄妹だけあって、似た者同士じゃ。」
「どこが!」
「どこが!」
二人が同時に声を上げる。
「そう言うトコがじゃ!」
ロペス爺は呆れてため息をついた。
やがて、ロペス爺さんはヴィックにアレクの旅立ちの経緯を話し始めた。
幼い頃に命を救ってくれた赤髪の双剣使いへの憧れ。
アレクを騙した偽の冒険者の嘘。
イザベルとの件で領地を離れざるを得なかった事情。
そして、ロペス自身がアレクに告げた嘘。
すべてを聞き終えたヴィックは、深く黙り込んだ。
「経緯は分かった。だが、とんでもないな、色々。旅立ちの理由……追放じゃないか、それは……」
アレク自身は、自分の夢である冒険の旅に出るきっかけになったのでよしとしていたが、本来なら追放という重い処分なのである。
呑気な冒険の旅ではない。
「その自称冒険者の話を、未だに信じてるアレクさんとやらは、一体いくつのお坊っちゃまだ?」
ヴィックは呆れたように呟く。
そして、更に青い瞳を険しくさせた。
「だがもっと呆れるのは、それを否定せずに見て見ぬふりをしてきた、卑怯な大人たちのほうだ。」
「そのとおりだ、トーリィ。
だが、失望して旅立つのか? 旅立ったあと失望するのか?
どちらがよかったのか……俺には分からん。
少なくとも、失望したまま送り出すことだけはしたくなかった。」
「だがモル。どっちにしろサントゥスに着けば、アレクは失望する。
その時、誰が彼を救ってやる? 誰もいないじゃないか!結局、あんたら大人は問題を先送りしただけだ。自分たちが手を煩わせたくないからだろう!」
ヴィックの言葉は痛烈だった。
「そう言われたらその通りだ。卑怯な大人だからな、俺たちは。
……だが、そうするしかなかった。」
モリスの部屋に重い沈黙が落ちる。
その静けさが、互いの苦しさを何よりも物語っていた。
「儂もモリスもまさか、本当にアレクが旅立つとは思ってなかったからの……大抵の人間は生まれ育った同じ土地で人生を終える。アレクの性格じゃあ、あれを嘘だとわからないまま……それで一生を終えたかもしれん。夢を見たまま人生を終える……それはそれで幸せだと思わないか?トーリィ」
「言い訳だな……爺さん」
やがてヴィックが立ち上がる。
「もういい。別に責めに来たわけじゃない。
経緯は分かった。だが……ロペス爺さん。
なぜ東ではなく西のルートを進めた? あそこは豊かじゃないだろ。」
「ヴォルフに会う前に、少しは旅の埃をかぶらせておくべきだと思ってな!
かわいい子には多少の荒療治も必要じゃあ!」
「この狸が……!」
怒鳴ったあと、ヴィックは拳を強く握りしめた。
怒りよりも、やり場のない苛立ちが滲む。
「爺さん……あんたの嘘はすぐにはバレないだろうが、もしバレた時は、あんたも『嘘つき』の仲間入りだぞ。その覚悟、あるんだな?」
「もちろんじゃ、トーリィ。」
ヴィックは短く息を吐き、ソファから立ち上がった。
「トーリィ!」
帰ろうとする彼を、モリスが呼び止めた。
「アレクにもし会ったら……力になってやってくれ。」
「私は暇人じゃない。お人好しでもない。
なぜ赤の他人の面倒を見なきゃならん?冗談じゃない。そんなに心配なら、お前が旅の相棒になってやればよかったんだ」
言葉は静かだったが、扉を乱暴に開け、ヴィックは出て行った。
静かな怒りだけを残して。
扉が閉まる音が響いたあと、モリスは深く溜息をついた。
ロペス爺さんは静かに笑う。
結局のところ、図らずもモリスの頼み通りになってしまっている。
ヴィックは我ながら馬鹿だと思っていた。
だが…放っておけなかった。
そんなヴィックの心の内を知らないアレクは
「あれが『カレム』か…凄い賑わいですね」
カレムの街の規模に目を丸くする。
『ラナハイム』程の大きさはないものの、簡素な集落を後にしたあとの『カレム』は立派な都市に見えた。
街の門をくぐると、石畳の道に夕闇が迫り、軒先の提灯がぼんやりとした光を灯している。行き交う人々、香辛料と焼き肉の匂い、そして様々な言語が入り混じった喧騒が、アレクを包み込んだ。
「さて、飯だ。腹の虫が大人しくなる場所を探すぞ」
二人は、賑やかな大通りから少し入った路地裏にある、素朴な佇まいの大衆食堂に入った。
木の長椅子に並んで座り、メニューを広げる。
「うちは酒は出さないよ。面倒事は避けたいからね」
店の親父の言葉に、アレクは内心ほっとした。ヴィックの昼間の態度からして、豪快に酒を注文しそうな気がしていたからだ。
「問題ない、私もコイツも酒は飲まない」
ヴィックはあっさりと答え、メニューを指差した。
「私は豆のスープと野菜のシチューだ。お前は?」
「え、あ、俺は…同じく豆のスープとパンで」
「馬鹿か、お前は」
ヴィックが初めて、アレクをまっすぐ見て、厳しい口調で言い放った。
「私が奢ると言っただろう。何故、遠慮する?最も豪勢な料理を頼め。そして、完食しろ」
有無を言わせぬ口調に、アレクは反射的に頷き、ヴィックが勧めるままに、鶏肉の丸焼きと野菜のプレートを頼んだ。
料理が運ばれてくると、アレクは夢中で食べ始めた。
ヴィックは、自分の頼んだ野菜のシチューを黙々と食べながら、アレクの食べっぷりを、愉快そうに眺めていた。
「なあ、アレク」
ヴィックは、食事を終え、一口水を飲んで言った。
「私は東のローゼリアン王国に帰る途中の旅の商人だ」
「東の…」
アレクは、少年が遥か東の王国から来たことに改めて驚いた。
「君は中央都市を目指しているんだろう?そこで武者修行を積むつもりなんだろ?」
「え…あ、はい。そうですけど…」
またしても中央都市の話をした覚えがなかったが、アレクはもう深く考えなかった。
「私は中央都市を通って東に向かう。それに…」
ヴィックは、そっと自分の手のひらをアレクに見せた。昼間、無理をして皮膚がめくれた箇所は、赤黒く腫れていた。
「この手じゃ、手綱は当分握れない」
見た目は小さく華奢な手だが、昼間のドルトンをねじ伏せた威厳ある声と行動とのギャップが、少年の秘めた力の大きさを物語っていた。
「中央都市までは、しばらく同じ方向だ。そこで、君に提案がある」
ヴィックは、真剣な眼差しで、アレクを見据えた。
「私を中央都市まで連れて行ってくれないか?君の御者としての腕は見た。中央都市まで、私を安全に送り届けてくれたら、それなりの報酬を出す」
それは、アレクにとって、願ってもない申し出だった。
「やらせていただきます!」
アレクは、胸が高鳴るのを感じた。
ヴィックは満足そうに微笑み、長椅子に深く座り直した。
「よろしい。これで、君は私の雇われ人になった」
「雇われ…」
「そうだ。そして、雇い主として、君に名前を明かそう」
少年は、静かに、しかしはっきりと、告げた。
「私の名前はヴィック。旅の商人、ヴィック・クラークだ。アレク。これからの旅路、よろしく頼むぞ」
ヴィックは旅の男名前をアレクに教えた。自分の素性をアレクに教える気はなかったのだ。
ヴィックはアレクとはあくまでも『サントゥス』まで一緒のつもりだった。
サントゥスまで行けば、あとは武者修業するなり好きにすればよいと考えていた。
自分の人生に深く関わる人間になるとは、この時想像もしていなかったのだ。
「ヴィック…」
アレクは、その名を反芻した。
「はい!ヴィック殿。御者として、精一杯努めさせていただきます!」
アレクの力強い返事に、ヴィックは目を細め、小さく頷いた。
「ヴィック殿は堅苦しいから、ヴィックで」
「え…でも」アレクは戸惑った。
昼間のあの冷徹な威厳を考えれば『殿』をつけずに呼ぶなど畏れ多い。
「とにかくいらない。ヴィックでいい」
ヴィックは一切の妥協を許さない口調で言った。
「わ…わかりました」
戸惑いながらもアレクは観念した。
「ヴィック」
「よろしい」
ヴィックは満足そうにアレクを見た。アレクはまだ少し居心地が悪そうだったが、雇い主の命令には逆らえなかった。
窓の外では、カレムの街の喧騒が、二人の新たな旅の始まりを祝うかのように響いていた。
こうして、アレクとヴィックの、奇妙な主従関係が誕生したのだった。
『本編を読まなくても分かる『勇盾』簡単物語』
身分を隠し男装して旅をするヴィクトリア(ヴィック)は、従兄モリスらの嘘で送り出された純粋な青年アレクを放っておけず、正体を伏せたまま雇い主として旅に同行することに。カレムの街で奇妙な主従関係を結んだ二人の、共同旅路の始まり。




