第六話 ラナハイムの洗礼
これくらいR15でもないと思いますが…
アレクたん貴族の奥様に誘惑されかける。
前半でのトラブル続きとはうって変わって、旅は順調だった。
南西のギルド長のオーランドが渡してくれた、アレクが『銀のチェーンの正式な持ち主』であると言う証明書のお陰で、南西のヴェルキリアと西のアルカディ王国の境目の国境検問所も何の問題もなく通過する事が出来た。
アレクはロペス爺さんからの小さな皮袋に入った少額の銅貨とモリスから『銀のチェーン』を餞別として貰った。
どちらもまだ自分の手元にある。
余程の事がない限り、アレクは二人の餞別に手をつける気がなかった。が、モリスには悪いが『銀のチェーン』は、手放そうと思っていた。
ただ売るのではなく、『銀のチェーン』と共にモリスから、渡された紙に書いていた商業都市『ラナハイム』のスティル伯爵の舘のエレノアという女性に渡そうと思っていた。
アレクは商業都市ラナハイムに向かい、スティル伯爵の舘を訪ねた。それは、自分が働いていた伯爵の屋敷とは比べものにならない、石造りの壁に蔦が絡まる、かなり立派な建物だった。
スティル伯爵家は門番を置いていた。
アレクが身分と、モリスから託された『銀のチェーン』の件で来たという用件を確認すると、門番は慇懃な態度で取次に行った。程なくして、執事が出てきて屋敷内に通してもらう。
案内された応接室に通され、すぐにその家の奥方、エレノアが出てきた。艶やかなブロンドに、胸元の開いた豪華なドレスを纏った、見るからに貴婦人という出で立ちだ。
「まあ、ようこそ。モリスの知り合いとか」
優雅な仕草でアレクに着席を促すと、まずは丁寧にお茶やお菓子が振る舞われた。
アレクは緊張しながらも、モリスから預かった紙を渡し、銀のチェーンの経緯を話す。
「ふふ、モリスったら。相変わらず、面白いことをなさる」
エレノアは、まるで恋人の噂話でもするように楽しげに笑う。
アレクが道中の話や、以前働いていた屋敷での経験などを話すと、エレノアとの会話は予想外に弾んだ。
「そう、あなたは旅人なのね。大変だったでしょう?でも、もう大丈夫よ」
彼女の眼差しには、どこか熱っぽいものが含まれているように感じたが、恋愛に疎い純粋な16歳のアレクには、それが何を意味するのか、まるで分からなかった。
ひとしきり話した後、エレノアは突如として、人払いをした。
「少し、内密のお話があるの。ね、アレクさん」
アレクは戸惑いつつも、言われるがままに静かになった部屋でエレノアと向かい合っていた。しかし、エレノアはゆっくりと立ち上がり、アレクの座るソファの隣に座ってきた。
「あの、奥様……?」
アレクが反射的に身を引こうとするより早く、エレノアはそっと彼の手に自分の手を重ねた。
「アレクさん。ねぇ、モリスから何か聞いてないの?…それよりも貴方はまだ独身?」
「は、はい。僕のような平民が、簡単に結婚なんて……それに、まだ16歳ですし」
アレクは顔を赤くする。彼は、結婚は一世一代の重大事で、生涯を共にすると誓った唯一の相手と、質素でも愛情を込めて築き上げるものだと彼は信じていた。
「あら、平民の結婚は大変ですものね。でも、ご心配なく。貴族の結婚は、『家』と『家』との契約。愛なんて、あっては困るものよ」
エレノアは艶めかしく微笑む。
「愛はね、『外』で楽しむもの。それが、私たち貴族のマナー。夫は夫で、社交界で色々な女性とダンスを楽しみますし、妻だって、素敵な殿方と『人生』を楽しむの」
「そ、そんな…。それは、、裏切りではないんですか?」
「裏切り?まさか。愛のない結婚で、どうして愛を期待するの?ねえ、アレクさん、あなたって本当に可愛らしいわ。その純粋さ、伯爵様には無いもの」
エレノアは言葉巧みにアレクの頬に触れると、次の瞬間には、アレクの体勢を崩し、ソファに押し倒していた。
「お、お、奥様!?」
アレクは、突然のことで硬直する。彼の心臓は爆発寸前で、頭の中は「なぜ?」「どうして?」という疑問でいっぱいだ。目の前の貴婦人は、まるで獲物を狩るかのような熱い眼差しで、アレクに迫ってくる。
まさにその時、応接室の扉が静かに開いた。
そこに立っていたのは、エレノアの旦那であるスティル伯爵だった。
彼は書斎に戻る途中だったのだろう、少し疲れたような表情で、エレノアと、彼女に押し倒されているアレクの奇妙な様子を一瞥した。
エレノアは一瞬動きを止め、しかしすぐに伯爵の顔を見て、余裕の笑みに戻る。
そして、信じられないことに、伯爵は見てぬふりで、そのまま立ち去ってしまった。
「な、え……?」
アレクは驚愕した。もし平民の夫婦でこんな場面に出くわしたら、それは大事件、修羅場である。しかし、この伯爵は、まるで通り過ぎながら興味のない絵画でも見るかのように無関心だったのだ。
「ふふ、見たでしょう?あれが貴族の作法よ。彼は何も見ていないし、私も何もしていない。ね、アレクさん、続きを……」
この光景が、貴族の、愛の無い結婚の日常なのだと、アレクは理解した。
だが、彼はそんな大人の世界に耐えられるほど、世慣れてはいなかった。
「す、すみません!お、俺、急用を思い出しました!」
アレクはありえないほどの怪力でエレノアの拘束を振り切り、ソファから飛び起きると、「チェーンのことは、また改めて!」と叫びながら、一目散に応接室を飛び出した。
背後からエレノアの「あら、本当に純粋で可愛らしいったら!」という、楽しげな、諦めた様子の笑い声が聞こえた。
大急ぎで執事に案内も求めずに門まで辿り着き、なんとか屋敷を出る。商業都市の賑わいの真ん中で、アレクは全身の汗を拭いながら、自分の顔が茹でダコのように熱くなっているのを感じていた。
「あれが、貴族の……結婚……」
アレクは初めて目にする貴族の凄まじい結婚感に度肝を抜かれていた。
とはいえ、アレクが務めていた伯爵家でも同じだったわけだが…(モリスは伯爵夫人の情夫)。アレクだけがその事実を知らない、という状況だった。
「それにしてもモリスさん、あんまりだ!全然安全じゃないじゃないですか!!」
アレクは叫んだ。
もう少しで不本意な形で、大人の階段を無理やり登らされるところだったのだ。
『商業都市ラナハイム』の賑わいの中、アレクはまだ熱を持ったままの顔を冷まそうと、近くの噴水の縁に座り込んだ。
あの屋敷での出来事が、頭の中で何度もフラッシュバックする。
特に、スティル伯爵が何も見なかったかのように立ち去った時の、あの無関心な眼差しが強烈だった。
「…なんてことだ」
彼はモリスの言葉を思い出す。
「道具屋より、そっちの紙に書いてある屋敷に行って買い取ってもらった方が安全だろうな」安全どころか、人生最大の危機だった。
アレクはもう、二度とあの屋敷の門をくぐる事は出来ないと考えた。
エレノア伯夫人のあの熱っぽい眼差しと、彼女に押し倒された瞬間の衝撃は、まだ身体に残っている。
『銀のチェーン』は本来なら彼女に渡すつもりだった。モリスと夫人の間の事はよく分からないが、あれはエレノア伯夫人がモリスへ贈ったものだというのはなんとなくだがわかった。贈り主にそれを戻すというのもどうかとは思うが、
「どうしょう…」
手元に残っているのは、ロペス爺さんからもらった少額の銅貨と、結局手放せなかった『銀のチェーン』だけだ。
銅貨はまだあるとはいえ、このまま中央都市まで旅を続けるには心許ない。
アレクは、故郷を出る時の自分の見通しの甘さを痛感していた。
旅に出れば、何か仕事が見つかるだろうと、漠然とした希望だけでここまで来た。
自分が予想していたよりも物価は高く、旅の資金が到底足りそうもない。生活の知恵も、この街で生き抜くための人脈さえもない。
「まるで、足元を見ていない子供のようだ」
彼は噴水の水面をぼんやりと見つめながら、自嘲気味にそう呟いた。
しかし、立ち止まるわけにはいかない。彼は意を決して、『ラナハイム』で仕事を探す事にした。
彼は、活気ある大通りや行き交う商人や職人達に、片っ端から声をかけた。
「すみません、旅の者なんですが、何かお手伝いできる仕事はありませんか?」
しかし、現実はアレクが想像していたよりも遥かに厳しかった。
「旅の?悪いが、知らない人間を雇う余裕はないね」
「急にやってきた奴に、大事な仕事は任せられないよ」
ラナハイムの人間たちは、皆、忙しなく、そして冷たかった。
彼らは、アレクのような身寄りのない余所者を、警戒と無関心な目で一瞥するだけだった。
この街の活気は、既にここに根を張る者たちだけのためにある。
よそから流れ着いた者に分け与えるほどの温情は、彼らの経済活動の中には存在しなかった。
アレクは、もしかしたらギルドなら、仕事を紹介してくれるかもしれないと考えた。南西のギルド長のオーランドが親切にしてくれた記憶があったからだ。
彼は西の商会ギルド長の店の扉を叩いた。中に入ると、帳簿をめくる商人風の男が彼を迎えた。
「旅の者で、仕事を探しているのですが、斡旋などはしていただけるのでしょうか?」
男は冷たく言い放った。
「ここは商業ギルドだ。既に商売をしている者、職人として登録している者が、互いに情報を交換したり、権利を守る為の場所だ。人を雇う為の斡旋所ではない。そんな事は、自分でやるもんだ」
その事実に、アレクはがっくりと肩を落とした。この街には、旅人のような身寄りの無い人間に仕事を与えてくれる、頼るべき場所が存在しないのだ。
結局、ラナハイムで日銭を稼ぐことは叶わなかった。食料を買い足す事もできず、宿に泊まる事も諦めざるを得ない。
「このままじゃあ…」
彼は、喧騒の中に一人立ち尽くしていた。人々は皆、自分の生活に忙しく、彼の存在など見えていないかのようだ。この巨大な都市の活気の渦中で、自分だけが置き去りにされた、透明な存在のように感じられた。
一筋の希望すら見えない。故郷を離れ、旅を続ける中で、故郷の温もりは既に遠い記憶となり、彼の行く手には、冷たい現実だけが横たわっていた。彼は今、本当にたった一人なのだ。誰も彼の窮状を気にかける者はいない。その事実は、肉体の疲労よりも深かった。
「…行くしかない!」
ロペス爺さんの警告を無視する事になるが野宿と、ひたすら自分の足で歩き続けるしかなかった。それが、彼に残された、中央都市へと向かう方法だった。
アレクは思い足を一歩踏み出し、賑やかな『商業都市ラナハイム』に背を向けた。彼の視線は、遥かに遠い中央都市の方角を見つめていた。
『本編を読まなくても分かる『勇盾』簡単物語』
証明書で順調にラナハイムへ着いたアレクは、銀のチェーンを返しに伯爵家を訪ねるが、貴族の歪んだ結婚観と誘惑に遭遇。逃げ出した後、仕事も得られず、野宿覚悟で中央都市を目指す決意をする。旅の甘さを痛感する。孤独な一歩を踏み出す。




