第二十七話 いきなり?!婚約者
『白カモメ亭』で別れてからのアレクとヴィックの再会は、感動的な場面にはならなかった。
アレクが「ヴィック!」と叫んで駆け寄った瞬間、彼女の表情は驚愕から一瞬で険しい顔に変わる。
ヴィックは、アレクの胸ぐらを左手で勢いよく掴み上げた。
「おい! なんでここにいる!」
まさか再会が胸ぐらを掴まれる形で始まるとは思わず、アレクは戸惑った。
ヴィックはアレクが着ているマントに気づく。それはラナから餞別としてもらった、亡き夫の思い出の品だ。
「そのマント見覚えがあるぞ! ゾルが着ていたやつだ……なんでお前が着ている?」
「なんでって……餞別でもらっ」
「……私が欲しいって言ったのに、ラナはくれなかった……なんでだ!!」
ヴィックの左手に更に力が入る。アレクにとってはまさに『知らんがな状態』。なぜ、マントのことで怒鳴られなければならないのか、理解が追いつかない。
そこへ、明るい声が遮った。
「ふ〜ん、やっぱり知り合いか! でも、いきなり何やってるんだい! 感動の再会かと思ったのに、胸ぐら掴むなんて」
アイラがにこやかな表情を一変させ、ヴィックを窘める。マイラも困ったように続いた。
「そ、そうだよトーリィ。せっかくアレクが荷物運ぶの手伝ってくれたのに……」
ヴィックはアレクの胸ぐらから手を離し、双子の叔母たちを見た。
「荷物を運ぶ?」
「サントゥスで買い物してたら、思いのほか荷物が増えてしまってね。そしたら丁度パリスがいるじゃないか? これは天の助けだと思ったね」
アイラは悪びれもせず、得意げに話す。
「何が天の助けですか……叔母さんたちがずーずーしく荷物を持たせただけだろ? どうせ!」
ヴィックは心底うんざりした表情で吐き捨てる。
「嫌だ嫌だ、眉間にしわ寄せて……怖いったらありゃしないよ。嫁入り前の娘がする顔じゃないね。それじゃあ嫁の貰い手もないよ……ね、マイラ」
「そうだよね……。私が男でも願い下げだ」
双子の冷やかしに、ヴィックの眉間の皺はさらに深くなる。
「私が眉間に皺を寄せた位で、怖がるような男はこっちから願い下げだ!」
「おやおやそうかい。どう思う?……あんなこと言ってるけどアレクさん」
アイラが面白がって、アレクに話題を振った。
アレクは、胸ぐらを掴まれた衝撃から立ち直り、アイラの問いかけに静かに、しかしはっきりとした声で答えた。彼はまっすぐな目でヴィックを見つめる。
「俺はヴィックが眉間に皺を寄せたとしても……願い下げなんかじゃありません!」
誰が聞いても、それは明確な好意があるという意味合いでしかない返事だった。
ヴィックは、アレクの言葉を聞いて目を見開いたまま固まった。頬が微かに赤らんでいる。
「あらら」
アイラはニヤリと笑い、マイラと顔を見合わせた。
「トーリィがこんなに大人しくなるなんてねぇ。まさかアレクさんに一本取られちまうとは」
「うんうん、いい答えだね。トーリィもその顔をなんとかしなさい。本当に貰い手がいなくなっちまうよ」
二人は口々にヴィックを冷やかし、楽しそうに笑った。ヴィックは何も言い返せず、悔しさと照れが混ざったような表情のまま、俯いてしまった。
荷物を村の倉庫に運び終えた後、アイラはアレクに対し、心からの感謝を込めて言った。
「アレクさん。重い荷物を運ぶのを手伝ってくれて、本当に助かったよ。今夜はうちに泊まって夕食を食べていきな」
「え、あの、ですが……」
アレクは遠慮したが、アイラは聞く耳を持たない。
「遠慮はいらないよ! ……礼をするのは当然だから」
それを止めようと、ヴィックがアイラの言葉を遮った。
「叔母さん! こいつは旅の途中で、先を急いでるんだ! このまま下山させるべきだ!」
「これはあたしが決めた事だ! ルベルコルスの一族は恩義も返さない……そんな恥さらしの真似ができるかい!」
アイラは腕を組み、有無を言わせない雰囲気だ。
マイラも「トーリィはくちばしをはさめないよ。もてなしの采配はアイラに決定権があるからね」と、ヴィックを諭した。
結局、アイラとマイラの強引さにはヴィックも敵わず、夕食をご馳走になるという流れが決定した。アレクは食事までの時間を潰すことになった。
その時、ヴィックは苛立ちを隠せない様子でアレクに近づいた。
「いいか、今のうちに話がある。来い!」
ヴィックはアレクの腕を掴み、村の中心にある石造りの平屋に入った。
ヴィックの部屋は簡素な部屋だ。本棚には古い書籍の隣に絵本や図鑑などが並ぶ。窓際のデスクの上には羅針盤や天体図のようなものが広げられ、彼女の探究心の強さを物語っている。
部屋に入るなりヴィックはアレクを振り返り、切り出した。
「とっとと下山しろ!」
「しかし、夕食を食べていけと言われたので」
「だから、夕食の誘いはキャンセルしろ。おまえが断れば何の問題もない……」
「ヴィック……それは無理だ。今更」
「だったら、とんずらしろ……黙って出ていけばいい」
途端にアレクの表情が曇った。ヴィックは『白カモメ亭』を、アレクに別れの挨拶もせず置き去りにしたのだ。
「ヴィック……お前がした事と同じ事を俺にしろって言ってるのか?」
非難めいた言葉を投げかけられて、ようやくヴィックは、アレクがその事に関して怒っている事を察した。
「悪かった……確かに私はお前を置き去りにした。言い訳はしない」
ヴィックが謝罪を口にした、その時だった。
コン、コン。
控えめなノックの音に、二人の間の重い空気が緩んだ。
「お嬢様、お茶の用意ができました」
静かな声とともにドアが開き、ハンナという名の侍女が盆を携えて入ってきた。アイラに命じられて来たことを察したヴィックは、不満そうにしながらも制止はしなかった。
ハンナは盆を小さなテーブルに運び、手際よく茶器を並べた。
「お茶にするか」ヴィックは短く告げると、アレクに椅子に座るように促した。
「座れ。さっきの続きだ」
アレクとヴィックが向かい合うように椅子に座ると、ハンナは静かに茶を注ぎ、部屋の隅に控えた。
湯気が立ち上るカップを手に取り、ヴィックは一つ息を吐いた。さっきまでの激しさは見せず、穏やかな口調で話し始める。
「今年は雪が降るのが遅い」
「……雪ですか」
アレクもカップに口をつけた。
「ああ。一度雪が降り出すと、この村は雪に閉ざされた陸の孤島になる。雪に慣れてない者はとてもじゃないが無理だ」
ヴィックはカップを置き、アレクの方をまっすぐ向いた。
「だから、雪が降る前にさっさと下山しろ! でないと春まで動けなくなるぞ」
アレクが何かを言い返す前に、ハンナが静かに口を開いた。
「お嬢様」
「なんだハンナ」
「申し訳ありませんが、下山はもう無理だと思います」
ハンナは落ち着いた声で告げた。
「ん?」ヴィックは訝しげに眉をひそめた。
「雪が降っていますから」
ハンナがそう言った途端、ヴィックはハッと息を飲み、窓の方を見た。そして、椅子を蹴るように立ち上がり、勢いよく窓を開けた。
外は、激しい雪が舞い始めていた。風に煽られた雪片が横殴りに打ち付け、麓へ続く山道は、もうすでに白く覆われ始めている。この積雪では、歩くのも危険だろう。
その途端、ヴィックは絶望的な顔をした。彼女は崩れ落ちるように椅子に座り込み、左手で強く額を押さえた。
「言わんこっちゃない……」
ため息が、静かな部屋に深く響いた。
しばらく重い沈黙の中で考えこんだあと、ヴィックはゆっくりと顔を上げ、アレクの顔をまっすぐに見据えた。その青い瞳には、何か重大な決意のようなものが宿っていた。
そして、衝撃的な言葉を口にした。
「いいか……ここにいる間は……」
彼女は一つ息を吸い込み、決意を込めた声で言い切った。
「お前は私の婚約者という事にする」
ヴィックから告げられた「お前を私の婚約者ということにする」という言葉に、アレクはすべての思考回路が停止したかのように固まった。
彼女がなぜこの村にいるのか、という疑問は、『婚約者』という衝撃的な単語によって完全に吹き飛ばされてしまっていた。
ヴィックはアレクの混乱を意にも介さず、冷たい視線を向ける。
「お前……狼の群れの中の羊になりたいか? 食われるぞ」
アレクはその言葉がどういう意味なのか掴めず、ただ困惑するばかりだった。彼女の言う『狼』とは誰なのか? 『食われる』とは?
アレクが理解を追いつけないうちに、ヴィックはすでに侍女のハンナへ指示を出していた。
「そういうわけだから、ハンナ」
「わかりました、お嬢様。ですが……」
ハンナは落ち着いた声の奥に、わずかな懸念を滲ませた。
「そんなに簡単に『婚約』だなんてことを決めてしまって、よろしいのですか?」
「本当の婚約ではない! 春までの婚約ごっこの芝居だ」
ヴィックは言い聞かせるように断言した。
しかし、ハンナは静かに首を横に振る。
「芝居で済めばよろしいのですが……」
その淡い言葉には、この『婚約ごっこ』がヴィックの予測を超えて深刻な事態をもたらす――そんな暗い予感が潜んでいた。
この後、ハンナの予感どおり、ヴィックはこの芝居によって、アイラとマイラから逃れようのない形で追い込まれる羽目になるのだが、今はまだその前兆にすぎない。
やがて夕食の時間が訪れた。
剥き出しの木の梁が力強い印象を与える部屋。
テーブルには、クレミス村特有の質実ながらも豊かな料理が並べられていた。鹿肉のシチュー、採れたての根菜の素朴な料理、香り高い酒。
アイラとマイラはアレクを温かく迎え、彼はヴィック、そして双子の叔母たちとテーブルを囲んだ。
食卓は穏やかだった。アイラとマイラは雪山の暮らしの話をし、アレクは滋味深い料理にほっとしていた。ヴィックはほとんど口を開かず、食事に集中している。
会話が一段落した時だった。
「ところでアレクさん」
アイラがタンブラーを置き、にこやかに切り出した。
「アレクさんのこと、毎月便りをよこすモリスが手紙でとても褒めていましたよ。とても生真面目で働き者で、お母様思いだとか」
「モリスさんがですか……」
「そう。あの子は、もう26になるってのに全然いい話を送ってこないのよ。付き合ってる女性とかいるのかしらねえ?」
アイラは末の息子の将来を案じている風だったが、要はアレクを通して、モリスのプライベートな恋愛事情を探りを入れたかったのだ。
だが、アレクはモリスの私生活を知るはずもなかった。
「ええと、仕事はテキパキとこなす方ですが、私生活のことはあまり……」
言葉を探すアレクに、正面のヴィックが静かに口を挟んだ。
「叔母さん、心配しなくてもいい。あいつはテキトーにやってる。なんたってマダムキラーだから」
それはまるで、モリスの浮ついた私生活を把握しているかのような、含みのある言葉だった。
実際、ヴィックはグレイ伯爵家を訪問している際、グレイ伯爵夫人とモリスがただならぬ関係であるのを目撃している。
アイラは深くため息をつく。彼女はモリスの『火遊び癖』を薄々察していたのだ。
沈黙が食卓を支配したとき、マイラが話題を変えるよう言った。
「そういえば、ハンナから聞いたよ……あんた婚約したんだってね」
「ふーん。いきなり再会した途端に婚約者の胸ぐらを掴むなんて、随分仲が良いねぇ」
アイラが面白そうに言う。
「い、いや、あれは……」
ヴィックが弁解しようとした瞬間、アイラは手を振って遮った。
「まぁ、熱烈な再会だったってことでいいさ。それよりトーリィ、婚約したってのは親父さんも了承済みなのかい?」
ヴィックは言いよどむ。
「い……いや、親父は賛成してない。叔母さんも知っての通り、あの親父だから」
アイラが、豪快な笑みを深くする。
「だろうねぇ……」
彼女は一度言葉を切ると、意を決したように声を張り上げた。
「だったらさっさと、既成事実作っちまいな!」
マイラも更に言葉を続ける。
「そうだね。そうすればあの娘馬鹿も、反対できないからね」
二人の言葉の勢いに、ヴィックでさえ目を丸くした。
しかしアレクは――それどころではなかった。
「……あっ!」
手が震え、木製のタンブラーをガタン!と倒す。
香りの強い酒がテーブルクロスに染みを広げた。
「す、すみませんっ!」
アレクは顔を真っ赤にし、叔母たちを見ることすらできない。
頭の中は、今聞いたばかりの『既成事実』という単語の重みで完全に占拠された。
「(既成事実とは、婚約者同士が、その、親に反対させないために……そう言う事を…いやそんな……身内の人間にそんな事を進めるはずが)」
そこまで想像したアレクは、もはや頭を掻きむしりたい衝動を必死で抑え込んでいた。
「既成事実なんて……嫁入り前の娘がすることではない」
ヴィックが反論する。
「何言ってんだい! 『ソルチャーチ』信仰じゃあるまいし、あんたは『エルナス』だろ!」
アイラがテーブルをドン、と叩く。
「私はそうだが……アレクは違う」
「そうなのかい?」
双子の叔母が、揃ってアレクの方を見る。
「アレクさんはどこの宗派だい?」
「あの……俺は、『コンヴェント』です」
「『コンヴェント』だと!」
ヴィックが驚愕の声を上げる。てっきりヴィックは、アレクは一番信者数の多い宗派である『ソルチャーチ』だと思っていたのだ。
『コンヴェント』は大陸で最も戒律の厳しい宗派。場に緊張が走る。
「でも婚約した者同士の婚前交渉は禁止してなかったよね。うちに嫁に来たリィーナも『コンヴェント』だった……確かそうだ」
マイラは記憶を掘り起こし、静かに指摘した。
アイラは、その確認を受けて、全てを悟ったようにニッコリと笑った。
「なら……何の問題もないね」
――いやいや、何の問題もないはずがない。
これは大問題である。
『婚約ごっこ』のはずが、アレクとヴィックは、完全に逃げ場のない袋小路へ追い詰められてしまったのだった。
『本編読まなくても分かる『勇盾』簡単物語』
再会早々ヴィックに胸ぐらを掴まれたアレクだが、彼女から「身を守るため」と偽装婚約を持ちかけられる。大雪で下山不能となる中、叔母たちは外堀を埋めるべく「既成事実」を要求。潔癖なアレクは困惑し、偽りの芝居のはずが二人は逃げ場のない窮地へ追い込まれていく。




