第二十五話 裏切りの夜明け
レニードが明日の朝、旅立つというので、その送別を兼ねた夕食が始まった。
テーブルには素朴な料理が並べられ、ヴィックは「今日は特別だ」と言って、奥から深い琥珀色に輝くワインボトルを静かにテーブルに置き、アレクに勧めてきた。
「俺は、そのエール以外飲まないので……」
アレクは言葉を濁して辞退しようとした。
だが、ヴィックはすっと目を細め、有無を言わせぬ強い調子で言った。
「旅立つレニードの送別会だ。飲め。多少酔いつぶれても構わないだろ?!」
そう言われてしまえば、アレクに断る理由はない。
彼はグラスに注がれた芳醇な香りのワインを口に含んだ。
いつもの夕食よりも賑やかな笑い声に満ちた時間は、あっという間に過ぎた。
ワインを飲み慣れないアレクは、食事の最中にみるみるうちに顔が赤くなり、やがて視界がぐらつき始めた。
「ほら、無理するな。もう部屋に戻ろう」
レニードに優しく肩を支えられ、アレクは一足先に席を立った。
彼の足取りは定まらず、ほとんどレニードの肩に体重を預ける形になった。
「すみません……」
「気にするな」
レニードは穏やかに笑いかけたが、その横顔にはどこか影が差していた。
部屋に入ると、アレクは眠気に負けてベッドへ倒れ込んだ。
レニードはそっと毛布を掛け、しばらくその寝顔を見つめた。
これからヴィックとレニードは、『白カモメ亭』を密かに旅立つ。
赤髪の双剣使い(ヴォルフ)に憧れて、武者修行の旅に出ているという事実を知ってから、レニードはアレクに深く肩入れしてしまっていた。
ヴィックに「アレクも連れて行っては?」と進言したものの、拒否された。
ヴィックは一度決めた事を滅多に曲げる事がない。
置いていかれる者の心がどんなに痛むのか
それがわかっているからこそ、レニードは
その胸に淡い痛みが広がる。
「すまないな、アレク……」
その言葉は、誰にも届かぬほど小さな声だった。
彼は静かに立ち上がり、扉を閉めて出て行った。
しばらくして、食事を終えたヴィックも静かに二階へと上がっていった。
ほんの数分後、ヴィックとレニードは再び階下に降りてきた。
ヴィックはすでに旅支度を整え、動きやすい服に着替えている。
レニードもまた、旅装束だった。
それを見たラナは、厨房のシンクで手を拭きながら、なんとも言えない複雑な顔をした。
彼女は、なんとなくそうなるのではないかと感じていたのだ。
「ヴィクトリア……出ていくんだね。あの兄ちゃんを置いていくつもりだね」
ラナの声は、非難というよりは、諦めとわずかな怒りが混じったものだった。
「置いて行く。アレクが飲むグラスに、眠り薬のバレリアンを多少入れた。もう朝まで目を覚まさないだろう」
ヴィックは罪悪感を見せることなく淡々と言い放つ。
ヴィックは常に冷静だ。どんな時でも――それが時として、冷たさにも見えた。
「ヴィクトリア! それはあんまりじゃないのかい。せめて、別れぐらい言ってやったらどうだ!」
「別れを言えるなら、そうした。アレクは私の怪我が完全に治るまで、決して傍を離れないと言う。それでは遅すぎる。
ラナ、私を殺そうとした奴が、いつまた襲ってくるかもわからない。犯人が特定できていない以上、私は標的から遠ざかるべきだ」
ヴィックは、冷静でありながらも決意に満ちた瞳で訴えた。
「あたしはこれでも元『暁の閃光』パーティーのラナだよ! あんた一人くらい、この宿で守ってみせるさ!」
「手段を選ばずやる可能性だってある。例えば、この家ごと焼き払うこともあるわけだ。
そうなったらラナ、あなただけでなく、他のものにも被害が及ぶ。巻き込むわけにはいかない」
ヴィックの言葉には、配慮が滲んでいた。
「……もう何を言ってもあんたを引き止められないんだね」
ラナはそれ以上何も言えず、深く息を吐いた。
「ラナ、悪いが、明日アレクが目覚めたら、これを渡してくれ」
そう言って、一つの皮袋と折りたたまれた紙をテーブルに置いた。
皮袋には、『サントゥス』までのアレクが荷馬車の御者を引き受けた分の賃金が入っていた。
「それと、こっちはラナ」
ヴィックはもう一つ、少し大きめの皮袋を取り出した。
「それは受け取らないよ」
ラナは顔を背けた。
「受け取らないなら……もうここへは二度と来ない」
その言葉に、ラナは渋々といった様子で「分かったよ」と返事をした。
ヴィックは静かにレニードに目礼し、そして二人は夜の闇の中へ、静かに『白カモメ亭』を後にした。
ラナは、動くことなくその音を聞き届けた。
東の窓から差し込む日に照らされ、アレクは重い頭でゆっくりと目を覚ました。
昨夜のワインが、まだ彼の身体に残っていた。
頭がひどく痛み、口の中はカラカラに乾いている。
彼は身を起こそうとしたが、身体が鉛のように重く、二日酔いの吐き気で思わず顔を顰めた。
「うっ……」
壁にかけられた時計に目をやると、針はすでに正午近くを指していた。
驚いて飛び起きようとした瞬間、視界が激しく揺れ、彼はベッドに逆戻りした。
「参ったな……あんな強い酒を飲まされるなんて」
ヴィックの有無を言わせない強引な顔を思い出し、アレクは苦笑した。
「レニードさんはもう旅立ってしまっただろうか……」
急いで顔を洗い、ぼんやりとした頭を叩きながら、部屋を出ると、一番奥の部屋にいるヴィックの部屋をノックした。
なんの返事もない
彼はヴィックの部屋の戸を開けた。
が部屋はもぬけの殻だった。
階下の食堂にでもいるのだろうか?
アレクはそう思い、階段を降りて行った。
厨房ではラナが昼食の準備に取り掛かっていた。
彼女はアレクの顔を見るなり、複雑な表情を隠さなかった。
「おや、やっと目覚めたのかい、あんた」
「すみません、こんな時間まで……レニードさんはもう?」
アレクの問いに、ラナは静かに首を振った。
「ああ、レニードはね。とっくに出立したよ」
「そうですか……見送りもせずに」
レニードの旅立ちを見送れなかったのを残念に思いながらもアレクは辺りを見渡した。
食堂に居るとばかり思っていたヴィックの姿がない。
「ヴィックは?」
しかし、ラナはシンクで手を拭きながら、アレクから目をそらし、小さなため息をついた。
「ヴィクトリアも、レニードと一緒に出て行ったよ」
その言葉は、アレクの二日酔いの頭を一瞬で冷やした。
「え……?」
アレクは声が出なかった。
全身から血の気が引くのを感じた。
「夜中だ。ヴィクトリアはレニードと一緒に旅立ったよ。
あんたに引き止められるのがわかってたから
ヴィクトリアがグラスに眠り薬を盛ったそうだ」
「そんな……っ!」
アレクは愕然とした。
すべてが昨夜のヴィックの不自然な態度と繋がった。
なぜ、あれほど強く酒を勧めたのか。
なぜ、自分だけ先に部屋へ戻されたのか。
喉の奥から熱いものがこみ上げた。
それは二日酔いによる吐き気ではない。
信頼していた相手から、文字通り「眠らされて」突き放されたという、深い裏切りと拒絶の痛みだった。
ラナはカウンターに立ち、小さな皮袋と、畳まれた手紙をアレクの前に置いた。
「これをあんたにってヴィクトリアが……」
アレクは震える手でその皮袋と手紙を掴んだ。
皮袋の中には、サントゥスまでの御者としての賃金が入っていた。
そして、手紙を開く。
その内容は、短く、そして決定的なものだった。
ーパリスを当分お前に預けるー
アレクは皮袋を強く握りしめたまま、何も言えずに立ち尽くしていた。
彼の顔は、二日酔いの赤みから、真っ青へと変わっていた。
彼は、縋るように手紙をもう一度握りしめる。
その短い一文には、感謝の言葉はおろか、別れの言葉もなかった。
ただ、旅立つ本人の意図だけが冷たく示されていた。
弾かれたようにアレクは『白カモメ亭』の戸を開けた。
『白カモメ亭』の馬車置き場には、荷馬車が置かれていたが、荷台を確認すると、ヴィックの荷物はすべて片付けられていた。
そして、その傍には、驢馬のパリスがいた。
「パリス……」
アレクは、そこに残されたパリスの首を強く抱きしめる。
ヴィックの温もりを知るパリスの鬣に顔を埋めたまま、彼は、どうしようもなく、旅立った人の名を心の中で叫ぶしかなかった。
『サントゥスまでの契約は終わった、ただそれだけのことだ』――理屈では理解している。だが、彼の心を責めさいなむのは、主従契約を超えて確かに築かれていたはずの繋がりが、あっけなく断ち切られたという冷たい事実だった。
「どうして自分は置いていかれたのか」――その問いだけが、乾かない傷のように疼き続ける。
彼の表情からはいつもの明るさが消え失せていた。
出るのはため息ばかりで、全く食がすすまず、彼は何度も昼食のスープのスプーンを下げた。
ラナはそんなアレクをしばらく見つめていたが、突然、両腕を組んで、挑戦的な笑みを浮かべた。
「追っかけていきな!」
アレクは驚いて顔を上げた。
「え…? でも、追いかけても…」
「納得いってないんだろ? あんたは」
ラナは言い切った。
「だったら尚更だ。あの娘は、一度決めたことを滅多に曲げない、厄介な頑固者だよ。だからこそ、あんたが本気だってことを行動で示してやんな」
「でも、そんなことをすれば、ヴィックは…きっと、良い顔はしません」
アレクは躊躇した。ヴィックにこれ以上嫌われたくなかった。
ラナはカウンターに肘をつき、顔を覗き込んだ。
「兄ちゃん、あんたはヴィクトリアの事好きなんだろ?」
その突然の直球な指摘に、アレクは全身を凍りつかせたように固まった。彼の顔は再び赤くなり、二日酔いとは違う熱が上った。
だがアレクはふと顔を上げて、まっすぐにラナを見据えた。
「…好きです!」
きっぱりと答えた声は、食堂に響き渡った。
「そうかい。…あの子は一筋縄じゃあいかないよ。例えあんたが好きだって言った所で、簡単に受け入れたりはしないだろうよ?!」
ラナの目は鋭く、試すようだった。
「それでもいいっていう覚悟はあるんだろうね」
アレクは、目の前の現実の厳しさと、これから乗り越えるべき壁の高さを受け入れた。
「はい。たとえ、突き放されても。俺は簡単に諦めません」
アレクの瞳には、置き去りにされた悲しみではなく、確かな決意の炎が宿っていた。
「上等だ。まぁでももう顔を見たくもないって言われたら諦めなよ、それ以上しつこかったらただの勘違い野郎になるからね」
ラナは笑った。
「ついてきな」とラナが導いたのは、店の奥にある物置だった。
初めて入るその部屋は、一階の喧騒とは隔絶された、静かで清潔な空間だった。飾り気は少ないが、壁には古い地図や、使い込まれた弓が飾られており、かつての冒険者の面影を残していた。
そして、アレクの視線は部屋の奥、壁に掛けられた一枚の肖像画に釘付けになった。
「これは……」
肖像画には、五人の男女が描かれていた。皆、精悍な顔つきで、信頼し合い、希望に満ちた笑顔を浮かべている。
中央には、ひときわ目を引く赤髪の男。
その燃えるような赤毛と、剣士としての圧倒的な存在感が、アレク自身が目標とする伝説の双剣使いその人だと直感させた。
ラナは静かにその絵を見上げた。
「……『暁の閃光』の仲間たちさ」
ラナは、乾いた声で語り始めた。
「描かれている五人。中央がヴォルフ。赤髪の双剣使いだよ。隣が、あたし。そして最年少のレニード」
ラナは、穏やかな笑顔の男と、寡黙そうな男を指差した。
「この人が、あたしの旦那。そしてこっちの彼は……。二人とも、『王権統一戦争』に駆り出されて戦死したよ」
アレクは全身から力が抜けるのを感じた。目の前の絵が、ただの歴史ではなく、血と悲劇の過去を刻んでいるのだと理解した。
「残ったのはヴォルフとレニードと、あたしだけ。……あんたが憧れてるあの赤髪の双剣使いは、あたしたちの元仲間だ」
ラナは切ない目で説明した。
アレクは、絵の中で少年として描かれている人物を指差した。
「あの……レニードさん?レニードさんって、レニード・クレイグさんですか?ルベライト商会の」
ラナは驚いたように目を見開いたが、すぐに納得したように静かに頷いた。
「あぁそうだったね、あの時、レニードがあんたに自分の正体明かしたんだね。そうさ、同一人物さ」
アレクは、ただの商会の人だと思っていたレニードが、アレクが憧れる人物と、この宿の女将ラナと、深い繋がりを持っていた。
この事実は、アレクの旅の意義をさらに強固にした。
ラナは部屋の隅に置かれていた、丁寧に畳まれた厚手のマントを手に取った。それは古びた青ではなく、夜空の色を閉じ込めたような群青の布地だった。裏地は微かに銀の光沢を放ち、その品質の良さは一目瞭然だった。
「これを……」
「このマントは、『暁の閃光』時代、うちの人が着ていたものだ」
ラナは、肖像画の中の穏やかな笑顔の男をちらりと見て言った。
「死んだ旦那のだけど、あんたが嫌じゃなければ、餞別として貰ってくれ。あんたの旅路を、風や雨から守ってくれるはずさ」
アレクは震える手でマントを受け取った。それは古いが温かく、彼の心を包むように重かった。ラナからの深い情を感じ取った。
「……ありがとうございます。一生、大切にします」
「いいかい、アレク。東にいきな」
ラナはアレクの瞳をまっすぐに見つめ、強く言い切った。
「『東のローゼリアン王国』に向かえば、あんたは全ての答えを見つけられる」
ヴィックは『東のローゼリアン王国』の商人だと自ら名乗った。
ヴィックと共に旅立つたレニードにも、東のルベライト商会を訪ねてこいと言った。
そしてラナも同じ「東」へ向かうように告げた。
―必ず東のローゼリアン王国に向かう―
アレクの心は完全に決まった。
「はい! 必ず、答えを見つけてきます」
「……行っておいで」
ラナは微笑みはしなかったが、静かに頷き、
アレクは、深く一礼し、自室を出ると、
マントを翻し、慣れ親しんだ勝手口から外へ踏み出す。
勝手口の外には、ヴィックから託されたパリスが引く荷馬車が待っていた。アレクは御者台に乗り、手綱を握る。
空き地を横切り、街道へと向かうアレクの背中を、ラナは窓辺から見送った。
アレクは振り返ることなく、荷馬車を走らせた。
もう、後ろ向きな感情はない。あるのは、ラナから受け取った意志と、赤髪の双剣使いへの憧れ、――そして、ヴィックの隣に立つための熱だけだ。
ラナは、窓の外の荷馬車の音が完全に聞こえなくなるまで立ち尽くしていた。そして、静かにシンクへと戻り、片付けの続きを再開した。
ふと、彼女の口元に、満足とも悪戯ともつかぬ笑みが浮かんだ。
「ヴィックのことまでは話してないから、これくらいはいいよね…」
彼女は独り言のように呟いた。
「あの兄ちゃんに何の説明もなしに置いていき、あたしの忠告も無視した……あんたへの罰だよ、ヴィクトリア」
以前、ヴィックは自分とアレクは『サントゥス』までの主従関係だから、余計な事は言わないで欲しいと釘を刺してきた。それを忘れたわけではない。
むしろ、あの冷たい別れの手段を見た瞬間、彼女はヴィックの決断に、ある種の報復をしてやろうと決めていた。
「覚悟しといた方がいいよヴィクトリア!純粋な男程、本気になったらとことん追いかけてくるからね」
ラナは苦笑しながら皿を片付けた。
「好きだ」ときっぱりと言い切った時のアレクの目。あれはもうとめる事が出来ない程の熱意だ。
これから先の二人の関係がどうなるのか?
それは、ヴィックが過去を乗り越え、アレクのひたむきな想いにどう応えるかに懸かっているだろう。
『本編を読まなくても分かる『勇盾』簡単物語』
旅立つヴィックに眠り薬を盛られ、置き去りにされたアレク。裏切りに傷つくが、女将ラナの激励で彼女を追う決意を固める。伝説の双剣使いの影と東の王国への道。ラナから託された形見のマントを羽織り、青年は愛と真実を求め、荷馬車を走らせ旅立つ。




