第二十三話 ヴィックの決断
ヴィックはまた、いつものあの悪い夢を見ていた。
しかし今夜の夢はサンダーだけではなかった。
去って行こうとする黒い馬サンダーの傍らに、男の背中が見える。暗闇に溶け込んでいくような、その姿は――ヴィックの父親だった。
「親父!」
ヴィックは父親の背中を追いかける。追いつき、彼の右手を掴もうと手を伸ばした、その瞬間。
父親の右腕は失われていて、彼女が掴んだのは彼の袖だけだった。
「ああ……」と、夢の中のヴィックは声にならない声を漏らし、顔を覆った。
現実が、あまりにも冷酷に突きつけられる。
父親は右腕を失ったんだ。
あの、凄惨な『王位継承の籠城戦』で。まだ幼い自分を助けるため、たった一人、血路を開いて斬り込み、その代償として大切な右腕を……。
夢の中でヴィックは、過去の残酷な現実を否応なく突き付けられ、なす術もなく立ち尽くした。
そして、彼女が目を覚ました時、胸に残ったのは、どうすることもできない喪失感と、拭いきれない哀しみだけだった。
失う事の哀しみを彼女は嫌という程、夢で突きつけられてしまった。
いつものように、ラナが用意したヴィックの食事を持ってアレクが部屋に入ると、ベッドの上で起き上がっていたヴィックは、深刻そうな表情でアレクを迎えた。
アレクが食事をサイドテーブルに置くより早く、ヴィックが口を開く。
「お前とは、『サントゥス』までの契約だったな……」
その言葉に、アレクは一瞬、動きを止めた。
ヴィックは言葉を選びながら、静かに続ける。
「私は当分この状態で動けないし、お前との契約はここで打ち切ろうと思う」
アレクはサイドテーブルに食事を置くと、まっすぐにヴィックを見返した。
「『サントゥス』までの契約、それは確かにそうです。ですが、ヴィック。俺は、貴方の御者として、貴方を安全に送り届けることを引き受けたはずだ」
「だから……それはもういいと言ってる。ちゃんと約束した報酬も払う。私から契約を破棄するんだからな」
そう言われた途端、アレクは一歩、ベッドに近づいた。
ヴィックに真剣な眼差しを向ける。それはいつものアレクらしくない振る舞いだった。
報酬を払う――そんなふうに言われるのが、無性に腹が立った。
報酬とかアレクにはどうでも良いことになっていた。ただヴィックの傍にいたいだけだ。
「俺が『アルストリア』の街で御者を辞めると言った時に、引き止めたのはヴィックですよね?「サントゥスまで私を安全に送り届ける。それが約束だ!その約束を違えるな」と…」
「確かに私はそう言った。…でもあの時と今では状況が違う」
アレクは射抜くように目でヴィックを見た。
そして続ける。
「怪我をして、当分動けない? それがどうした。だったら治るまで俺は貴方の傍を離れない。今の貴方を放って、俺だけ『サントゥス』へ行くなんて、そんな真似は出来ない! 契約とかそんなもの、どうでもいい!」
ヴィックはその言葉に、小さくため息をついた。
もはやどう言おうが、アレクは自分の意見を曲げないだろう――ヴィックは悟った。
「……わかった」
そう言って、ヴィックは目を閉じた。
だが、それがアレクの意見を飲んだわけではないことを、このあとアレクは思い知らされるのである。
昼下がり。
ひっそりと休業している食堂の戸を叩く者がいた。
ヴィックがラナのところに運び込まれて以来、『白カモメ亭』は店を閉めていた。
ヴィックを撃った犯人が客に紛れてやってくる可能性を警戒してのことだった。
さらに、昨日の朝の不躾な警備官たちの訪問を受けて、ラナは警戒を一層強めていた。
何度か戸を叩いても開く気配がなかったので、外の訪問者はやや大きな声で叫んだ。
「『ルベライト商会』のレニードだ! ラナ、開けてくれ!」
その声には、ラナも聞き覚えがあった。
レニードは『ルベライト商会』の職人だった。『ルベライト商会』の親方であるヴォルフが最も信頼している人物で、ヴォルフの右腕とも言われている。
ラナは戸口の鍵を開け、用心深く外を確認してから、彼を中に入れた。
とりあえず椅子に座るよう促し、温かいお茶を出す。
「ここにいるのをあんたまで知ってるってことは、噂になってるってことかい? まずいね」
レニードは茶を一口飲み、重い口を開いた。
「ヴィクトリア様のことまでは噂にはなってない…。ただ、『ラナハイム』の金融機関で人が撃たれたという話が、人の口の端に登っている。それに警備官どもが、あの辺りのあっちこっちで執拗に尋問をしているからな。オレンジ色の髪の人間なんて、そうそういない。……もしかしてと思って、来てみたのだが」
レニードは顔をしかめた。
「ヴィクトリア様の容態は?」
「五日間ほど寝込んだが、幸い化膿しなかった。ただ撃たれた時に、弾が貫通じゃなく右肩に残ったんでね。それを取り除く外科手術をしたんだ。当分は動かすわけにはいかないよ」
「そうか……ラナ、世話になったな」
「いやいや、私なんか世話したうちには入らないよ。礼なら兄ちゃんに言ってやりな」
聞き捨てならない単語に、レニードは目を見開いた。
「兄ちゃん?」
「ああ、ヴィクトリアの連れだよ。ずっとつきっきりで看病してるから……てっきり私は、彼氏か何かかと思っていたんだが…昨日の夜」
昨日の夜、ラナはヴィックから、アレクとは、『サントゥス』までの約束で御者の仕事をしてもらったに過ぎない事。そして自分が何者かも彼は知らないので、あまり口を滑らせないようにと釘を刺されていた。
最後までラナの言葉を聞けば、誤解しなかったのだが、レニードが驚きのあまり、目の前のお茶を音を立ててひっくり返してしまったので、ラナは最後まで言葉を言えなかった。
「か、彼氏ですとッ!?」
彼の頭の中で、ヴィックの父――ヴォルフの顔が浮かんだ。
ヴィックが銃弾に倒れたという事実すら、レニードにとっては受け入れがたい現実だった。
そこに『彼氏』疑惑まで加わったのだ。
レニードはヴォルフを「オヤジ様」と呼び、心から敬愛していた。
もしこの件をヴォルフが知ったら……。あの娘馬鹿のオヤジ様がどんな事をしでかすか?
いや、オヤジ様だけではない、東の王国の女王マリア・ロゼ様が知ったら、どんな恐ろしい事になるか?
ヴィクトリア馬鹿の『大厄災』。二人がそう言われている事をレニードは(レニードだけでなくヴィクトリアを知る者は皆)知っていた。
想像しただけで全身が粟立つような身震いを覚えた。
彼はこの件を、絶対にヴォルフやマリア・ロゼ様に悟られてはならないと心に誓った。
二階の奥まった部屋の扉をノックして入ると、ヴィックはベッドの上で浅く体を起こしていた。
顔色はまだ優れないが、その瞳にはすでに研ぎ澄まされた光が宿っている。
「レニードか……まぁ、うち(ルベライト商会)の誰かが情報を聞きつけて来るとは思っていたが……お前であってよかったよ」
「お嬢……こんな状態で。まずは、ご無事で本当に良かった」
レニードは頭を下げた。
先ほどラナから聞いた「彼氏」疑惑のせいで、アレクのことにはまだ言及できなかった。
「お嬢。犯人に心当たりは?」
「知らん! いきなり撃たれた。まぁあっちこっちで私は恨みを買ってるからな。狙われてもなんの不思議もないが」
そう言って笑う。
「他人事のように笑わないでください。こっちは買い付け先でそれを聞いて、生きた心地がしなかったんですから……」
「状況は分かっているだろうが、ただの物取りではない。物取りなら撃ったあと何かを奪おうとするはずだが、撃ったあとすぐに逃亡した。……しかも至近距離での発砲だ。脅しや警告じゃない」
この時代の銃の性能は良くなかった。
たとえばパーカッションロック式や、まだ多く残るフリントロック式の銃では命中精度が著しく低く、装填速度も遅い。
遠距離で当たる可能性は低く、有効射程はせいぜい五十メートル前後。熟練の射手でも運頼みだった。
だが、今回の犯人は至近距離で撃った。
確実にヴィックの命を奪うつもりだった。
「命を狙ってきたということですね……馬鹿な奴だ! お嬢のことを知っているなら、そんな真似をしないはずです!」
「私もそんな馬鹿がいるとは思わなかったから、つい油断してた。まぁ、それだけではないが」
旅に出るとき、ヴィックはいつも細心の注意を払っていた。
自分が女であること、そして立場――どちらも不用意な行動が命取りになる。
だがあの日、彼女はユリウスのことで落ち込むアレクの方に気がいっていた。
銃の火薬の匂いにも、殺気にも気づけなかった。
一人のときにはありえない気の緩みだった。
「犯人が捕まっていない以上、また私は狙われるだろう。ここに長居するわけにはいかない」
レニードは息を呑んだ。
それは、彼も薄々感じていたことだった。
だが――この怪我の状態でどこへ行くというのか。
そんな無謀な計画を、容認していいのか。
「出て行く……まさか、こんな怪我をされた状態でですか?」
「犯人が襲ってきた時、ラナ……いや、アレクもだが、二人は私を守ろうとするだろう。ひとりだけならまだしも、もし複数犯だったら……。それに、ラナは何も言わないが、休業が私のせいで続いているのも明白だ。これ以上、『白カモメ亭』に迷惑をかけられない」
レニードは唇を噛んだ。
だがその危険な判断の裏に、ラナやアレクを思いやるヴィックの気遣いがあるのを理解し、胸が詰まる思いがした。
『本編を読まなくても分かる『勇盾』簡単物語』
愛馬だけでなく、父が右腕を失った過去の悪夢に苦しむヴィックは、周囲を危険に晒さぬよう御者アレクに契約解除を告げるが、拒絶される。一方、商会のレニードが駆けつけ、暗殺の危険を案じる。ヴィックは怪我を押してでも、白カモメ亭を去る決意を固めるのだった。




