第二十二話 朝の訪問者
陽が傾き、部屋の中が橙色に染まり始めた頃、ようやくアレクは意識を取り戻した。
全身の疲労はまだ抜けないものの、瞼の重みは消え、頭もいくらかすっきりしている。
ヴィックが死の淵を漂っていたあの地獄のような時間、看護の疲れではない。このままヴィックを失うのではないかという恐れ・不安・絶望。
二度とあんな思いをしたくないと彼は思った。
階下の食堂に降りると、ラナが夕飯の準備をしていた。煮込んだハーブとだしの香りが、空腹を刺激する。
「おや、お目覚めかい。ちょうど良かった」
ラナは振り返り、火から下ろした鍋の蓋を開けながら言った。
「これを持っていっておくれ」
そう言って、カウンターに置かれた盆をアレクに手渡した。盆の上には、だしで煮込んで裏ごししたなめらかなポタージュ状のお粥と、丁寧に裏ごしした絹豆腐のペースト、そして透明な野菜スープの上澄みが並んでいた。いずれも見た目には消化が良く、滋養がありそうな、極めて流動性の高い献立だった。
アレクは言われた通り、盆を持ってヴィックの部屋に向かった。
部屋に入ると、ヴィックは枕を背に、かすかに体を起こしていた。顔色にはまだ血の気が少ないものの、頬の赤みは消え、意識が戻った時の不安そうな表情はもうない。その様子にアレクはホッと息を吐いた。
盆を持ったアレクの姿が目に入ると、ヴィックは一瞬、呼吸を忘れたように静止した。
アレクは顔色の悪さをごまかそうと努めていたが、目の下に刻まれた疲労の影は隠せていない。ヴィックはその姿を青みがかった瞳でまっすぐ見つめ、普段の冷徹な表情の裏で、安堵と同時に微かな罪悪感を覚えた。
すぐさま、ヴィックは表情を引き締め、いつもの尊大な仮面を取り戻した。
アレクはベッドサイドのテーブルに盆を置き、ポタージュ粥の器を手に取った。スプーンを持ち、ごく少量を取り分けて冷ます。
「ヴィック、夕飯だ。ラナさんが作ってくれた」
そう言って、口元にスプーンを運ぼうとする。
ラナはヴィックに食事を持って行ってと頼んだだけである。だが、アレクは右手が使えないヴィックの食事の手助けをする気満々だった。
その瞬間、ヴィックの左眉がぴくりと上がった。
「なんの真似だ……私は赤ん坊ではないぞ」
ヴィックは、いつもの尊大な口調が幾分弱々しくなりながらも、アレクの手を軽く制した。
「右手が使えないんだろ? だったら……」
アレクは気にせず、再びスプーンを口元に近づけようとした。
「右手が使えなくても左手がある!」
ヴィックはやや不機嫌そうに言い、空いている左手を伸ばし、ポタージュ粥の器を取ろうとする。
「だめだ、まだ無理するな。傷に響く」
アレクは器をサッと遠ざけ、その抵抗を無視して、慣れた手つきでポタージュをすくった。
「これは看護だ。治療の一環だと思え。早く治して、右手で喧嘩できるようになってから文句を言え」
「っ、誰と喧嘩するなどと言った! 失礼な奴め!」
「ほら、口を開けろ」
アレクは一歩も引かず、むしろ楽しげに、少し力を込めて言った。
またしても、くだらない意地の張り合いが始まった。だが、その応酬の中に、二人が危機を乗り越えた確かな生命の力が満ちていた。
ヴィックは頬を膨らませた。アレクが自分のために限界を超えていたことを知っているため、これ以上強く出られない。
「私は病人だぞ。無理強いをするな」
「病人だから、食事の管理は俺がするんだ。それとも無理をして、傷口を悪化させるつもりか?」
アレクの言葉に、ヴィックは一瞬たじろいだ。
「チッ……」
ヴィックは不満そうに小さく舌打ちをした。アレクは内心で勝利を確信し、冷ましておいたポタージュ粥を口元に運んだ。
「ほら」
ヴィックはしぶしぶ口を開けた。粥の優しい温かさと、だしの滋味が体内に染み渡る。
「……まずくはないな」
ヴィックは相変わらず上から目線の感想を述べたが、アレクは無視して次のスプーンを用意した。
その後の時間は、奇妙な静けさの中で進んだ。アレクが食事を運び、ヴィックがそれを受け入れる。遠慮のない親密さがそこにはあった。
ポタージュ粥、裏ごし豆腐、スープの上澄み。すべてを飲み干すと、ヴィックは満足そうに小さく息を吐いた。
「ごちそうさま」
「……ああ。少し横になっていろ」
アレクは、空になった食器を盆に乗せると、ヴィックは微かに視線をさまよわせた。
言わなければならない。そう頭の隅で理解しているのに、喉の奥に鉛が詰まったように言葉が出ない。
アレクが踵を返し、戸口へ向かって二歩、踏み出した、その時。
「アレク」
背中越しに、普段の響きとは違う、ごく小さな、掠れた声が聞こえた。アレクは足を止め、ゆっくりと振り返る。
ヴィックはベッドの上で、依然として枕に背を預けたままだった。青みがかった瞳はアレクを見ようとせず、代わりにシーツの皺を追っている。口元はきつく結ばれ、いつもの冷徹な仮面は外されていた。
深い沈黙が、重たい橙色の空気を揺らした。
やがて、観念したように、ヴィックはうつむいたまま、絞り出すように言葉を紡いだ。
「……色々と、ありがとう」
アレクは一瞬、呼吸を忘れたように立ち尽くした。
だが次の瞬間、心の底からの喜びを隠すことなく、破顔した。
アレクは全く気づいていない。自分の笑顔がどれだけヴィックの心をかき乱すのか?!
ヴィックは咄嗟に顔を上げ、いつもの不機嫌そうな表情を引っ張り出してくるが、その頬は微かに朱に染まっていた。
「さっさと行け!」乱暴な口調で言った。
アレクはそれ以上、何も言わず、満足げな笑みを顔に残したまま、静かに部屋を出た。
階下の食堂に戻ると、ラナは既にアレクのための夕食を用意していた。それは具沢山のミネストローネと、硬く焼いたパン、そして大量の乾燥肉のソテーだった。病人食とは正反対の、体力回復のための豪快なメニューだった。
「お疲れさん、兄ちゃん。さあ、アンタはこれを全部平らげな。アンタの顔色は、病人よりひどいぞ」
アレクは座り、目の前の食事に手をつけた。五日間の緊張が抜け、ようやく体に栄養が送られる感覚に、彼は無心で食べ続けた。
全てを食べ終えると、アレクは椅子に深くもたれかかった。
全身の骨が溶けるように、静かに体が沈んでいく。疲労が限界を超えていたにもかかわらず、彼の表情には充足感が浮かんでいた。
「ごちそうさまでした。ラナさん」
「いいってことよ。さあ、今夜はゆっくり休みな。夜の見張りはあたしがやる。アンタがどれだけ必死だったか、あたしゃ見てりゃわかるよ。アンタはもう、限界まで働いたんだ」
アレクは抵抗しなかった。彼自身、もう一歩も動けないことを理解していた。
「……ありがとうございます」
アレクは自分の部屋に戻ると、服も着替えず、ベッドに倒れ込んだ。
彼が眠りにつく直前、瞼の裏に浮かんだのは、ポタージュを飲み込んだ後のヴィックの、わずかに穏やかになった横顔だった。
そして、疲労で途切れかけた意識の中で、彼は確信した。
――あの夜、手を握り返してくれたのは、決して錯覚ではなかったのだと。
陽光が窓から差し込み、昨日の橙色とは違う、清々しい空気で満たされている。
テーブルの上には焼きたてのパンと、庭で採れたベリーのジャムが並んでいた。
しかし、アレクの席は空席のままだ。ラナは淹れたばかりのハーブティーを置きながら、階上を心配そうに見上げた。
ヴィックに朝食を食べさせてから食べると言って、聞かなかったのだ。
「先に自分が食べればいいのに。ヴィックのことしか頭にないのかね、あの兄ちゃんは」
その時、食堂の玄関が、場違いなほど事務的なノックで揺れた。
ラナは顔をしかめた。
「こんな朝早くに……まったく、優雅さのかけらもないね」
彼女はエプロンで手を拭きながら扉を開けた。
そこに立っていたのは、地味な制服めいた外套を纏った男が二人。
一人は痩せて神経質そうな顔をしており、「商業ギルド 現場警備官」と名乗って、手には分厚い書類の束を持っていた。
「ここで療養している怪我人にお話を伺いたい。我々は単なる現場の確認に来ただけだ。迅速に済ませたい」
警備官たちは一言の返答も待たず、扉を押し開けて中へ入ろうとする。
「ちょっとお待ちください!」
ラナは瞬時に身を翻し、痩せた警備官の胸元に立ちふさがった。
「お話を伺うのは結構ですが、傷の状態はまだ、突然の訪問を受けられるほどではありません」
痩せた警備官は、露骨に不快な顔をした。彼はラナの肩越しに階段を見上げ、鼻で笑う。
「怪我人の聞き取りに、いちいちあなたのの許可を取る義務はない。さて、怪我人はどの部屋だ?」
ラナは一瞬抵抗の言葉を探したが、警備官の事務的な圧力に、やむなく屈した。
「二階の一番奥の部屋です。ですが、重ねて申し上げます、静かにお願いします。」
ラナは警備官たちの無言の圧力に逆らえず、渋々ながら先導し、階段を上がった。二階は元宿屋だった名残で、宿泊用の部屋がいくつか並んでいる。ラナは一番奥の扉の前で立ち止まった。
「ここです。」
痩せた警備官はラナに一瞥もくれず、彼女の横をすり抜け、何の躊躇いもなく扉を押し開けて中へ入ろうとした。事務的な圧力は強引な実力行使に勝る。相方の警備官も、無言でそれに続いた。
ラナは怒りに唇を噛みながらも、彼らの公的な権威に逆らえず、開け放たれた扉の中を見上げるしかなかった。
警備官たちはヴィックの部屋に入りると、痩せた方が無遠慮に立ち、
「金融機関での銃撃事件での事でお聞きしたい。まずは貴方の氏名、年齢、出自を」と問い詰めた。
アレクはちょうどスプーンで、ヴィックの口元へスープを運ぼうとしていたところだった。
突然の訪問に、手が一瞬止まる。
ヴィックはベッドの上で左眉をぴくりと上げた。
いつもの尊大な仮面を張り付けながらも、その瞳には強い警戒の色が浮かんでいる。
「ヴィックだ。そして、見てのとおり、私は病人だ」
警備官はペンを止め、不満そうに書類を睨んだ。
「氏名が『ヴィック』のみというのは承服しかねる。フルネームを。なぜ金融機関におられたのか、答えていただきたい」
「悪いが、私は加害者ではない。被害者だ。何故そのような質問に答えねばならない? 逆に聞こう」
「被害者かどうかは、我々の判断だ」
「ほう」
ヴィックの目が鋭くなった。
「私は金融機関の馬車の駐車場で撃たれた。『ラナハイム』では撃たれた者が加害者なのか? そんな理屈は初めて聞いた」
アレクはスプーンを持ったまま、警備官たちの無遠慮な態度に怒りを覚えたが、ヴィックが静かに応じるのを見守り、スプーンを下ろした。
ヴィックは一歩も引かない。
この無礼で礼儀知らずの警備官に対し、その尊大な仮面の下に隠された猛禽のような眼差しで、静かに威圧を加えた。
痩せた警備官は一瞬たじろいだが、すぐに事務的な傲慢さでそれを押し戻した。
彼は書類の束を軽く叩き、不機嫌そうに言葉を続ける。
「我々は単に事実を確認しているだけだ」
「何故金融機関にいたのか? 馬鹿な質問だ。金融機関に洗濯にでも行ったとでも思っているのか?」
アレクは吹き出しそうになった。――流石、ヴィックである。
アレクはその返しに惚れ惚れとしてしまった。普通の男なら生意気な口を利く『生意気な女』と見下すのだろうが、彼女の発言、姿勢、そして彼女の持つすべてが、アレクの目にはただ一つの揺るぎない美点として映っていた。
「だいたい、朝っぱらからノックもなしにいきなり入ってきて……礼儀もわきまえない連中に、私が何故礼を尽くさねばならぬ?
そもそも私の名前を問う前に、自分たちの名を名乗りたまえ。それが礼儀というものだろう!」
「我々をなんだと思っている」
「商業ギルドが雇っている警備官だろう? ただの。君たちが行うのは事情聴取であって、取り調べではない!」
ヴィックは一息置き、冷たい微笑を浮かべた。
「そもそも逮捕権、強制捜索の権利、個人情報開示の権利――君たちにはないはずだ。……君たちの権限を、ラナハイムのギルド支部長にでも問い合わせてみるがいかがか?流石にあの横着者のドルトンでも、偽りは言わないだろう。
それで足りないなら、本部に使いをやってバミルトンに来てもらうが」
警備官の顔色がみるみる変わった。
この目の前の少年は一体何者なのか。
西のギルド支部長ドルトン…その名を知っているのか?
バミルトン…サントゥスにあるギルド本部のギルド本部長だ。
自分たちは一度も会うことが叶わない、雲の上のような存在の方である。
その方とも繋がりがあるというのか?
しかも、二人の名前に敬称をつけずに呼び捨てた。
額にいやな汗がにじみ始めた。自分たちが不利な立場に追い込まれているのを悟る。
「まぁ、君たちにも職務というものがあるだろう。一応答えておく。
私は金融機関の馬車置き場で至近距離から撃たれた。
残念ながら犯人は帽子を深く被っていて顔は見えなかった。目の色も髪の色も、どこにでもある黒だ。これといった特徴もない。
…もう一度言おう。私は被害者だ。何か他に尋ねたいことはあるか?」
痩せた警備官は書類を握りしめたまま、口ごもった。
「な……何もありません」
「だったら、さっさと帰ってくれないか。私は病み上がりだ。朝から不快な思いもして……非常に疲れた」
二人の警備官は、ヴィックの威圧と、権威ある名の登場により、すごすごと逃げるように部屋を出た。
扉の外で待っていたラナは、彼らが通り過ぎる際、その顔が冷や汗で光り、完全に戦意を失っているのを見た。
痩せた警備官はラナに一瞥もくれず、相方と共に足早に階段を降りていった。
「ヴィック! 大丈夫かい? まったく、なんて無礼な……」
「あれだけ脅せば、もうここへは来ないだろう。たとえ訪ねてきても、あんな慇懃無礼な態度は取らないさ」
ヴィックは、まるで劇場の幕が降りるように、静かに目を閉じた。
先ほどまでの鋭さは影を潜め、病み上がりの疲労が表情に濃く浮かび上がる。
「無理をしたね。少し休んだ方がいい。まったく、あんな連中に、あそこまで張り合う必要はなかったんだよ」
「大丈夫だ。ただ少し疲れただけだ。……しばらく一人にしてくれないか。眠りたい。食事はもういい」
ラナはアレクの顔を見て静かに頷いた。それはヴィックの言葉通り、そっとしておくべきだという合図だった。
「大丈夫だろうか?」と、アレクは一瞬、ヴィックの疲労を案じた。しかし、「一人にしてくれないか」と言われた以上、これ以上立ち入ることはできない。彼は飲みかけのスープをトレイに乗せると、ラナと共に部屋を後にした。
『本編を読まなくても分かる『勇盾』簡単物語』
生死の境を彷徨ったヴィックが意識を取り戻し、アレクは献身的に食事を介助する。絆を深める二人だが、翌朝、商業ギルドの警備官が強引に事情聴取に現れる。ヴィックは毅然とした態度と知略で彼らを圧倒し追い返すが、その代償に深い疲労を見せるのだった。




