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第十九話 葛藤の距離

翌朝、部屋で支度を整えるアレクは、胸の奥にまだ重いものを抱えていた。昨夜の「嘘の真意を見極めろ」という言葉が、心のどこかを軋ませた。


街道に出ると、アレクは御者台で一人、手綱を握った。苛立ちを押し込める彼の顔には、不機嫌さが消えていなかった。


荷台からは、ユリウスの楽しげな声が絶えず響いてくる。ユリウスはヴィックにすっかり懐いていた。


昼を過ぎた頃、街道沿いの木陰で休憩を取った。ユリウスは分厚い本を抱え、アレクに見せた。

「これ、もらったんだ!ヴィックから!」

中をめくると、竜や騎士の絵が色鮮やかに描かれていた。


「こんな大事そうな本……」アレクが呟くと、ヴィックが答えた。


「知識は、持っていても腐らない。だが閉じたままでは、何の価値もない。この子が見るだけでも、意味はある」


その穏やかな声音に、アレクは言葉を失った。昨夜の冷たさと、今の優しさ。どちらが本当のヴィックなのか――わからなかった。


旅は静かに進み、いくつもの日が過ぎた。夕刻、小さな宿に辿り着くが、女将は申し訳なさそうに頭を下げた。

「今夜は巡礼者で満室でして……一部屋しか空きがなくて」


案内された部屋は三人には狭すぎた。アレクは動揺を隠せずヴィックを見た。


「私は構わないが」ヴィックはさらりと言い、アレクの動揺を面白がるような光をその視線に宿した。


夜。ユリウスはすぐに眠りについた。アレクとヴィックは並んで横になる。部屋は狭く、互いの呼吸すら聞こえる距離だった。

薄い布団一枚隔てただけの近さに、アレクの心臓が奇妙な音を立てる。


アレクは壁を向いたまま、息を殺していた。背中に感じるヴィックの熱が、眠りを遠ざけた。重く、長い沈黙が続く。


それを破ったのはヴィックだった。

「おい。いつまでへそを曲げている?」

低い声が、暗闇を切り裂いた。


アレクはびくりと肩を震わせ、振り返る。月明かりに照らされたヴィックの瞳が、冷たく光った。


「……へそを曲げているわけではありません」


「じゃあなんだ?お前のその鬱陶しいまでの不信感が、空気を悪くしてるぞ」

ヴィックはふっと笑った。その笑みはどこか挑発的で、冷たかった。


「あなたに言われたくありません!散々不機嫌で振り回したのは誰ですか?そうかと思えば、ユリウスには聖母様みたいな顔をして!」


ヴィックが上半身だけ起こし、アレクの顔を覗き込んだ。距離は、手を伸ばせば届くほど近かった。彼の心臓が跳ねる。


「……どうやらアレク坊やは、私に優しくして欲しいらしいな。わかった。明日から思う存分母親ママンのように接してやる。お望み通りに」


ヴィックは心の守りに入った。

これ以上アレクの事で自分の感情をかき回されるのをよしとしなかったのだ。


「っ……!」

アレクは屈辱と怒り、そして説明のつかない熱に胸を焦がした。


「そういうことじゃありません!」

勢いのままに身を起こす。


「じゃあどういうことだ?」

ヴィックの声はさらに低くなる。

「お前は、私が優しくすれば『嘘だ』と疑い、突き放せば『優しくして欲しい』と不満を言う。…いったい、私にどうしろと言う?」


アレクは唇を噛み、俯いた。

「……俺は、ただ……あなたの本心が知りたいだけです」


その言葉に、ヴィックの瞳がわずかに揺れた。

「本心?私の本心を知って、どうする?」


「あなたも……嘘で騙すんですか?」


沈黙の後、ヴィックはふっと息を吐いた。

「……お前が夢の世界を壊した私に苛立っているのはわかる。だが、それはお門違いだ」


否定しようとしたが、アレクはできなかった。

苛立っているのはヴィックにではなく、自分の信じた『世界が崩れた』ことに打ちひしがれているだけだった。

自分がどれほどヴィックに期待していたかにアレクは気づく。


「(俺は……ヴィックに、何を求めている?

嘘じゃなかったと、言って欲しかったのか?

それとも、壊れた夢を――慰めて欲しかったのか?)」


ヴィックは静かに口を開いた。

「アレク、この世界は綺麗ごとじゃ済まない。嘘も本当も、混じり合っている。……でも、今まで穢れを知らぬまま綺麗な夢だけをひたすら信じてこれたお前が、私は少しだけ、本当に少しだけ羨ましい」


その声音には、かつて聞いたことのない重く、深い寂しさが滲んでいた。アレクは息を呑み、月明かりに沈むヴィックの横顔を見つめた。


「ヴィック」


「もう寝ろ。…ユリウスは別に私に懐いてるわけではない。お前があまりにもその陰鬱さを醸し出しているから、近寄れないだけに過ぎない。何も起きなければ明日にはカナス村に着くはずだ。出来るだけ機嫌は直して、最後の日位、あの子に良い思い出を見せてやれ」


図星だった。ヴィックの言葉は、アレクの最も弱い部分を切り裂いた。ユリウスに優しく接していたヴィックを妬ましく思っていたのは、他でもないアレク自身だった。アレクは後悔に背筋が凍り、隣で眠るユリウスの頭をそっと撫でた。



ヴィックは今朝方、悪夢で目が覚めた。

愛馬サンダーとの穏やかな光景が、けたたましい銃声と硝煙の匂いで終わる、辛い現実が待ち受ける夢だった。


自分の頬を濡らす涙。


身体を起こしたヴィックは、隣で眠る二人に気づかれないよう、そっと部屋を出て行った。


アレクは、ユリウスの寝返りの音で目が覚めた。昨夜のヴィックの言葉と、それに強く動揺した後悔がよみがえる。

「(俺は、ユリウスに良い思い出を見せてやらないと……)」。


アレクは静かに起き上がった。その時、隣の布団が、がらんどうだった。


「ヴィック?」低い声でそっと名を呼んだが、返事はない。

「(どこへ行った?まさか、置き去りに……?)」


不安が増すが、昨夜のヴィックの言葉を思い出し、無責任に放り出す人物ではないはずだと頭を振った。


アレクはユリウスを起こさないよう上着を羽織り、そっと部屋の扉を開けた。夜明け前の冷たい廊下に出る。


不安を抱えながら、宿の裏口の扉をそっと開けた。外はまだ暗く、星が瞬いている。


そして、アレクは息を呑んだ。


裏手の、小さな井戸の縁に、ヴィックは座っていた。背中を丸め、膝を抱え込んだ、ひどく小さく、脆い背中だった。


月明かりに沈むヴィックの横顔からは、全身から滲み出る重い静けさ、そして深い寂しさが感じられた。


アレクは、昨夜の激情も不信感もすべてを忘れた。ただ、目の前の彼が言い知れない苦しみの中にいることだけが理解できた。


アレクは静かに一歩踏み出した。

「ヴィック」

昨夜の激情とは違う、落ち着いた、それでいて少しだけ心配そうな声音で名を呼んだ。


ヴィックはゆっくりとアレクの方を振り返った。その顔には、いつもの冷ややかで隙のない仮面が被っていた。


「……何だ。騒がしい奴だな」

声は低く、平坦だった。微かに目元が濡れているように見えたが、彼は挑発的な笑みを浮かべた。


「部屋が狭くて寝苦しいから、空気を吸いに来ただけだ」


ヴィックは皮肉を混ぜた言葉を吐きながら、立ち上がった。


「大方、私がお前達を置いて逃げ出したかとでも思ったか?」

ヴィックは口の端を上げ、アレクの動揺を見透かすように言った。


「私の本心を知りたいのだろう、アレク。だが、夜中にこっそり後をつけて覗き見る趣味は感心しないな。それに、私の本心とやらがお前が期待しているような『綺麗なもの』だとでも思っているのか?」


「違います。俺はただ……」


「ただ?」ヴィックの視線がアレクの言葉を遮る。

「ただ、私が朝までそこに居なかっただけで、不安になったのだろう。大したことではない」


ヴィックはアレクの肩をポン、と軽く叩いた。それは、まるで子供をあしらうかのような仕草だった。


「ほら、さっさと部屋に戻れ。ユリウスを起こすなよ。今日はカナス村へ着く。最後に良い思い出を見せてやるんだろう?」


そう言い残すと、ヴィックはくるりと背を向け、宿の裏口へと戻っていった。その足取りは軽く、まるで何もなかったかのような、いつもの冷徹なヴィックだった。


アレクは一人、冷たい外気に晒されながら立ち尽くした。

「(嘘だ。今のは、嘘だ。絶対に、何かあった……!)」


アレクはしばらく立ち尽くした後、静かに部屋へと戻った。ユリウスはまだ眠っている。そしてヴィックは何事もなかったかのようにユリウスの隣に戻り、既に寝台に横になっていた。


夜が明け、太陽が窓の外をオレンジ色に染め始めた。


「アレク、起きろ。もう行くぞ」

ヴィックの低い声に、アレクは目を覚ました。


「おはよう、ユリウス」

アレクは、努めて明るい声でユリウスに微笑みかけた。ヴィックの言葉を、自分の責務として果たさねばならない。


朝食を済ませ、一行は荷馬車に乗り込んだ。


アレクはちらりとヴィックを見た。

ヴィックは荷台で、ぼんやりと遠くを見つめている。

彼の顔色が、ひどく悪いことにアレクは気づいた。血の気が引いたように青白く、目の下の隈が、昨夜の眠りの浅さを物語っていた。


アレクの表情に心配の色が浮かぶのを察したのか、次の瞬間、彼の顔にはいつもの冷徹で隙のない仮面が浮かび上がった。


「アレク、今日の行程だが、とにかく街道の道をひた走って、一旦ラナハイムの町に入ってくれ」


アレクは思わず声を上げた。

「え……裏道を通ったほうがカナス村に近くないですか?」


「それでもだ。とにかく、街道の道を走ってくれ」


ヴィックの言葉には、反論の余地を与えない冷たい響きがあった。その意図は全く読めないが、彼の言う通りにするしかなかった。


アレクは手綱を握り直し、大きく息を吸った。

「……分かりました」


荷馬車は、太陽を背に受けて、普段より人通りの多い街道の道をひた走った。


『本編を読まなくても分かる『勇盾』簡単物語』


疑念を抱え旅を続けるアレクは、強がるヴィックの裏に潜む深い孤独と脆さを目撃する。本心を隠し冷徹に振る舞うヴィックに困惑しながらも、一行は目的地付近の町へ。体調を崩しながらも最短ルートを避け、表通りを急がせる彼の真意とは。

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