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第十七話 優しさと隠れた真実

先に荷馬車の前でアレクとユリウスを待っていたヴィックは、不機嫌を隠そうともせずに言った。

「お前と、そのガキが御者台に乗れ!」

「え…でも」アレクは戸惑う。

「いいからそうしろ」

ヴィックはそれだけ言い放つと、さっさと荷台の方に乗り込んでしまった。


「(不機嫌だ!)」

アレクはそう思った。『サントゥス』行きの旅路を、自分の独断で逆方向に変えてしまったのだから、当然の報いだろう。

主従関係、自分はあくまでもヴィックに雇われた者に過ぎない。それを逸脱したのだ。


微かに後悔はあったが、それでも自分は間違っていないと言い聞かせ、アレクはユリウスを優しく抱き上げ、御者台に座らせた。


手綱を握り、ロバのパリスを先導してカナス村へ向かう街道へと荷馬車の向きを変える。


御者台に座ったユリウスは、その見晴らしの良い眺めにどこか興奮を覚えているようだった。瞳をキラキラと輝かせ、御者台と荷台を交互に見やる。


その瞬間、アレクは、ヴィックが自分が不機嫌な役回りを演じつつ、ユリウスに最も快適な御者台の席を譲ったのだと気づいた。

彼女の無愛想な態度の中に隠された、優しさを感じた。


アレクはユリウスの顔を覗き込み、不安を拭おうと努める。


「ユリウスって、いくつ? 俺は、16で、アレクっていうんだ」

「…八つ。アレク、にいちゃん…」

「ふふ、にいちゃんか! ユリウスはパリスが怖くない?」

「ううん、優しいロバ。さっき、頭を撫でてくれた」

「そうだろう? パリスは賢いんだ」


アレクは旅の話で幼い少年を和ませようとする。

「カナス村はどんなとこなんだ? ユリウス。俺は、旅に出る前は、シオス村っていう漁村から一本も出たことがないから、あんまりほかの村の事は知らないんだ」


「畑がいっぱいあって、商業都市ラナハイムの街のすぐそばで…でも、みんな、いつもお腹空いてた」


「もう大丈夫。家までちゃんと送っていくからね。そしたら、美味しいものいっぱい食べられるよ」


アレクの純粋で飾らない優しさが、ユリウスの心に温かく響いた。ユリウスは、アレクという年長の兄貴分に心底安堵しているようだった。


そのうち、御者台の心地よい揺れに抗えず、ユリウスは眠気に襲われ始めた。

うとうとしだしたのを見たアレクは、荷馬車を道の脇に寄せてゆっくりと停める。


ユリウスを優しく抱き上げ、荷台の羊の毛皮の上にそっと寝かせ、その安らかな寝息を確認してから御者台に戻った。


ヴィックはすでに荷台から御者台へと移動しており、空いた隣の席に座るようアレクを促した。


「随分と楽しそうだったな? お兄さん」

ヴィックは微かに皮肉めいた響きを込めて言った。

「そうかな?」

アレクは少し照れたように笑う。

「俺に弟がいたら、あんな感じじゃないかと思って。無邪気な子だ」


「ふーん」

ヴィックは興味なさそうに、視線を前方に向けたまま答えた。


「ヴィックは兄弟は? 弟とか、妹とか」


「いない。私は一人だ」

ヴィックは短く答えた。

「……イトコなら腐る程いる。その中でも1番仲の良いイトコは、口が悪くて女グセの悪いマダムキラーだ」


ヴィックの言う従兄妹とはモリスの事だった。だが、アレクはヴィックとモリスが従兄妹である事を知らない。もし知っていたとしても、モリスが『女グセの悪いマダムキラー』であるの事を知らないので、モリスだとは思わないはずだ。


アレクはヴィックの従兄妹評に思わず呆れながらも、自分の家庭環境を口にした。

「俺は、母さんしかいないんだ。父さんは……王権統一のための戦役で、兵として採られて亡くなった」


アレクの声には、遠い過去の出来事であるにもかかわらず、隠しきれない寂しさが滲んだ。

ヴィックは目を細めてアレクを見た。


「そうか。お前は母親が一人か」

アレクの家庭事情まではヴィックは把握してなかったので、それは初耳だった。

「私は、その逆だ。父親しかいない」


「え? お母さんは?」

アレクは驚いて尋ねた。


ヴィックは一瞬、言葉を選んでいるかのように沈黙した。

「産後の肥立ちが悪くてな。私が生まれてすぐに亡くなったそうだ」


その言葉は、まるで自分の存在が母の命と引き換えだったとでも言いたげな響きを伴っていた。


「そうか……ごめん。変なこと聞いちゃったな」


アレクの表情に浮かんだ露骨な同情の色をヴィックは見逃さなかった。


「私が可哀想だとでも思ったのか? 馬鹿にするなよ。今さらどうにもならない昔の話に、お前が勝手に感情を乗せるな。私は誰の同情も必要としていない」


ヴィックは怒鳴ったあとに後悔した。

アレクは周りと同じ様に反応しただけだ。

それなのに…


ヴィックは自分の母親の死に関して、散々周りから同情をされてきた。

だが、その同情に対して、感情を爆発させた事はない。


周りから憐れだと思われるのは、彼女にとっては屈辱に近かった。


だからこそ、絶対に感情を動かしたりしなかった。


「……そうだな。悪かった」

アレクは沈黙し、手綱を握る手に力を込めた。彼はこれ以上、ヴィックの個人的な領域に触れるのはやめた。

御者台には、重い沈黙が落ちた。


二人の間の空気が殺伐としている中、荷台の干し草で眠っていたユリウスが身じろぎをし、小さく呻き声を上げた。

「ううん……」


ユリウスは羊の毛皮から起き上がり、御者台にいる二人の顔を見上げた。彼の目には、先ほどまでの楽しそうな雰囲気が消えていることがはっきりと映る。


ユリウスは、アレクとヴィックの顔を交互に見比べ、小さく、しかしはっきりと口を開いた。


「お兄ちゃん、お姉さんと喧嘩したの?」


その幼い問いかけは、張り詰めた空気を一瞬で打ち破った。


「え?」

アレクは間の抜けた声を出し、ヴィックもまた、微かに目を丸くした。


ユリウスは、ヴィックの整った顔立ちと、アレクよりも少し長い髪を見て、ヴィックを女性だと判断したのだ。

そう思ったアレクが否定しようとするより早く、ヴィックが口を開いた。

その声は、驚くほど平坦で、先ほどの鋭い怒りは影を潜めていた。


「……私は女ではない」


ユリウスはキョトンとした顔で首を傾げた。アレクは慌ててユリウスに笑いかける。

「そうだよ、ユリウス。ヴィックは男の人だ。喧嘩もしてないよ。ちょっと、旅の疲れで機嫌が悪かっただけなんだ」


ヴィックはアレクのフォローを無視するように、ユリウスをジロリと一瞥した。


「ユリウス。もうすぐ宿屋に着く。今日はそこで泊まって、美味しいご飯を食べよう。そして、カナス村に向かおう」


ユリウスは「うん!」と元気よく頷き、羊の毛皮の上で膝を抱えながら、再び御者台にいる二人を見上げた。


アレクは再び手綱を握り、荷馬車を動かし始めた。道の角を曲がると、街道沿いに建つ一軒の簡素な宿屋が見えてきた。


アレクは荷馬車を宿屋の脇の物置場に停めた。

「ヴィック。街道沿いにこの宿屋しか見当たらないが、どうする?」


ヴィックは、不機嫌を隠そうともしない顔で、手の甲をひらりとアレクの前に向けた。「他に選択肢があるなら聞いてみたいものだな。勝手にしろ」


アレクはユリウスを連れて宿屋の女将に声をかけ、部屋を取った。ヴィックがさっさと一人で部屋に向かうのを、アレクは寂しそうに見送った。


三人が再び顔を合わせたのは、宿屋の階下にある簡素な造りの食堂だった。暖炉の火が心地よく、客は他に数人しかいない。


アレクはユリウスと横並びに座り、向かい側の席に座った仏頂面のヴィックを気にかけながら給仕に声をかけた。具沢山の煮込みスープと硬いが焼きたてのパン、そして香草で炒めた肉料理を注文する。


料理が運ばれてくると、ユリウスは目を輝かせ、遠慮がちにスプーンを取った。アレクは自分のスープをユリウスの皿に分け、柔らかそうな肉片を選んでパンに乗せ、笑顔で食事を見守る。


和気あいあいのアレクとユリウスに対し、ヴィックはスープにほとんど手をつけず、肉料理に至っては一切手をつけていなかった。


「ヴィックは食べないのか? 美味しいよ」アレクが心配そうに声をかけた。


ヴィックが肉を食べないのは、過去のトラウマのせいで、この時だけではないのだが…アレクは全く気づいていなかった。


「余計なお世話だ」

ヴィックは短く吐き捨て、アレクから視線を外して壁を見た。


殺伐とした空気に、ユリウスは再び心配そうな目で二人を見上げた。


「お兄ちゃん、やっぱりお姉さんと喧嘩したんだ」

食堂のざわめきの中で、ユリウスの無邪気な声が再び響く。


「だから、ユリウス。ヴィックは男の人だよ。喧嘩もしてないって」

アレクは困ったように眉を下げた。


しかし、ユリウスはアレクの言葉を信じず、純粋な観察眼でヴィックをじっと見つめていた。ヴィックは、スープの具材をスプーンでつつきながら、完全に無視を決め込む。


「だって、」ユリウスは小さな声で続けた。「さっき、お姉さんのにおいがした。パリスの荷台で寝る前に、外套をかけてくれた時」

その瞬間、ヴィックの動きがピタリと止まった。


普段からヴィックはキツめの香油を使っていた、月のものの匂いを完全に覆い隠すための、男装に不可欠な武器だった。


ユリウスが荷台に運ばれて羊の皮の上に寝かされた際、ヴィックはユリウスが寒いだろうと、自分の外套をユリウスに掛けたのだ。

その時香油では隠し切れない匂いをユリウスに気づかれたのかも知れない。


「(……くそっ!) 」

ヴィックは心の中で舌打ちした。動揺を悟られまいと、いつも以上に低い声を出した。

「……何を馬鹿なことを」


「ほら、ユリウス。ヴィックは男性だって言ってるだろ?」


アレクはユリウスの背中を優しく叩き、食事を促した。


「さあ、ユリウス。早くご飯を食べよう。明日も早いぞ」


「ふーん……」ユリウスはまだ少し納得がいかない様子だったが、促されて再びスープを口に運び始めた。


ヴィックは、誰も見ていないのを確認してから、乾いたパンをちぎって小さく口に運んだ。ユリウスの鋭い指摘に、冷や汗をかいていた。


「(まさか、こんな幼い子供に看破されかけるとは)」


ヴィックは、二度とユリウスに触れないようにしようと心に決めた。


どうせアレクとは、『サントゥス』までの付き合いだ。そこから先は互いに違う人生を歩むだけの関係だ。


ヴィックは自分が女である事をこの先も秘密にするつもりだったので、アレクがこの奇妙な会話を単なる子供の勘違いとして処理した事に、密かに安堵した。

『本編を読まなくても分かる『勇盾』簡単物語』


アレクたちは保護した少年ユリウスを連れ、宿場へ向かう。ヴィックのぶっきらぼうな優しさを通じて一行は絆を深めるが、生い立ちの話題で険悪な空気に。しかし、ユリウスの無邪気な一言が、隠されたヴィックの秘密と繊細な素顔を浮き彫りにしていく。

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