第十六話 嫉妬と戸惑いの旅路
アレクがかつて仕えていた御屋敷のお嬢様、イザベラ伯爵令嬢が行方不明になったという話は、どうやら事実だった。
「馬鹿な女だ」と、ヴィックは心の中で吐き捨てた。
憲兵の騒動を経て明らかになった真相は、イザベラがアレクを追いかけて屋敷を奔放したというものだった。
アレクが領地を出る原因を作っただけでなく、旅立った彼に無用な冤罪という迷惑までかけた、この貴族令嬢の愚かしい行為に、ヴィックは心底呆れ果てていた。
そして、その事実はとてつもなく面白くなかった。
ヴィックは、イザベラが行方不明になった件が事実であること、そして彼女がアレクを追って屋敷を飛び出したことを、アレクに改めて話さなければならない。
彼はどんな反応をするだろうか?
当然、アレクのことだ。向こうの一方的な恋心だったとはいえ、屋敷のお嬢様の身の心配をするに違いない。だが、ヴィックは、アレクがその反応を見せるだろうことが、妙に面白くなかったのだ。
しかし――ヴィックの予想に反して、アレクは何の反応も見せなかった。
ほとんど感情が動かなかったと言っても良い。
「そうですか」
それだけだった。
まさか「そうですか」という返事が返ってくるとは思わなかったヴィックは、思わず言葉を失い、御者台で手綱を握るアレクをまじまじと見つめた。
「なんですか?ヴィック。なんで俺の事を凝視してるんですか」
隣で自分を見つめているヴィックに気づいて、アレクは戸惑いの声を出した。ヴィックに見つめられただけで、何故だかアレクの心臓が跳ね上がる。
「あ……なんでもない、というか……右手は大丈夫か?と思って。駄目なら私が代わろうか、とか」
ヴィックはとっさに嘘をついた。
本当は「何故?お前はそんな薄い反応なのだ!」と、アレクの感情の核心を問い直したかったのに、それができなかった。
これ以上イザベラお嬢様の件を蒸し返したくなかったのだ。
アレクを追い詰めたくないというより、彼の口から、イザベラに対するわずかでも心配や未練の言葉を聞くのが耐えられなかった。
そこでヴィックははっとした。
(これは……小説なんかで読んだことがある、嫉妬という感情ではないか?)
自分が、嫉妬? ヴィックはこれまで、そんな感情に一度だってなったことがなかった。自分に向けられる愛や熱意は、全てビジネス上の優位性か、単なる計算の産物として処理してきた。
確かにヴィックには婚約者がいた。だがお互いに打算での婚約だったせいか、一度もその婚約者に対して、そのような感情を持った事がなかった。
だからこそ婚約者が破棄されても何の感情も湧き上がる事がなかったのだ。
アレクへの感情は、女性の感情だと世間では言われるものだ。この初めて湧き上がる感情にヴィックは動揺していた。
「俺の右腕は大丈夫です。それよりヴィックこそ手は本当に大丈夫なんですか?」
アレクの言葉で、ヴィックは思考の迷路から引き戻された。
「私の手はもう大丈夫だ」
あの集落で荷馬車が露店商に突っ込んだ際に、馬車の下敷きになった男を救う為、丸太を使い馬車を持ち上げたヴィックは、そのせいで両手の皮がめくれてしまい、手綱が握れなくなっていた。手綱が握れなくなったヴィックの代わりに、アレクが御者として、荷馬車を走らせて『サントゥス』まで行くという約束だった。
ヴィックの手はもう治っていた。
アレクは、もう自分が御者を務める理由もなくなったとして、『アルストリア』の街で役目を終えるつもりだったが、「サントゥスまで私を安全に送り届ける。それが約束だ!その約束を違えるな」とヴィックに怒られてしまったのだ。
「安全に送り届ける」その約束を、散々違えて仕舞っていた。
ジュリアンの言う通り、自分はヴィックの『足枷』でしかない。
それがアレクは悔しくて仕方なかった。
多分、以前のアレクならイザベラお嬢様が行方不明になったと言う情報を耳に入れたら、動揺しただろうし、心配もしただろう。
だが、今のアレクの心の中をかき乱すのは、ヴィックの存在だった。
あの憲兵所の牢の中でも、一晩中、気にかかったのは、憲兵に殴られて口の端を切ってしまったヴィックのことだけだったのだ。
もはや自分でもおかしいとしか思えない。ヴィックは男だ(とアレクは思っている)。
あの嫌味なジュリアンとかいう男もヴィックに惹かれていたようだった。
「(ヴィックは同性を惹きつける、何か怪しい魔力でも秘めているのではないか――)」
アレクは自分自身の異常な感情に戸惑いながらも、手綱を握る両手に力を込めた。
御者台の静寂の中、ヴィックは自分の中で目覚めた『嫉妬』という未知の感情に動揺し、アレクは『同性への執着』という理解不能な感情に戸惑っていた。
二人は顔を見合わせることなく、ただひたすらに、感情の目的地が見えない旅路を走り続けた。
旅は順調だった。
ヴィックは余計な事は一切言わず、アレクも言われた通りの事をやっていた。
お互いの感情を二人は封印していた。
あと数日荷馬車に揺られれば、『サントゥス』の検問所につくところまで旅は進んでいた。
その日の午後、街道沿いの森を抜けたところで、ヴィックとアレクの旅路は思わぬ出来事に中断される。
アレクが、茂みから何か小さな音がするのに気づいたのだ。
「ヴィック、ちょっと待って!今の、人の声じゃないか?」
アレクは荷馬車を道端に停め、慎重に茂みの中を覗き込む。ヴィックは「ちっ」と小さく悪態をついたが、表情はすでに警戒心で引き締まっていた。
茂みの奥、人気のない場所で、二人は驚くべき光景を目にした。一人の男が、まだ幼い少年を荒っぽく馬に乗せようとしている。少年は泣き叫び、必死に抵抗していた。
「な、何だ、あれは…」
アレクは状況が理解できず、呆然とする。男は少年の頭を掴み、怒鳴りつけた。
「いい加減にしろ!お前を連れて行くのは、親御さんも承知の上だろうが!」
男の言葉を聞いたヴィックの目が一瞬細められた。彼女はすぐに状況を察する。これは強奪ではない。貧困による売買だろう。
少年は抵抗を止めず、男の腕を噛みつこうとする。苛立ちに耐えかねた男は、少年の頬を乱暴に叩いた。
「逃げようとするんじゃねえ!大人しくしやがれ!」
少年は泣き声をあげながら地面に崩れ落ちた。
「ヴィック…!」
アレクの顔は、怒りと、目の前の惨状に対する純粋な悲しみで歪んだ。
それは自分が幼い時シオス村での出来事(赤髪の双剣使いに助けられた)を思い出させた。
眼前で力の弱い者が理不尽に暴力を振るわれている事実が自分とオーバーラップする。
彼は、一瞬の躊躇もなく剣を抜き、茂みから飛び出そうとした。
しかし、ヴィックの鋭い声がそれを遮った。
「待て、アレク!手を出すな!」
ヴィックは低い声で警告した。彼にとって、貧しい親が子供を売るという行為は、商人の旅路で度々見かける現実であり、迂闊に介入すれば面倒なことになると知っていた。
「見過ごすのか!」
アレクの瞳はヴィックを非難していた。その純粋な怒り、誰かを助けたいという衝動は、ヴィックの現実的な判断を凌駕した。
「ああ、見過ごすのが賢明だ。これは…」
ヴィックが言い終わる前に、アレクは剣を構えたまま、まるで突っ込んでいくように茂みから飛び出した。
「その子を放せ!」
アレクの声が森に響く。
人買いの男は、突然現れた見慣れない旅人の少年に驚き、一瞬動きが止まった。
「なんだ、お前は!邪魔をするな!」
男は少年の手を引き、馬の陰に隠れようとした。
「アレク!この馬鹿野郎が!」
ヴィックは、アレクの無謀さに忌々しげに息を吐き出した。真剣を構えて飛び出せば、人買いを逆上させるのがオチだ。
ヴィックは、アレクのフォローに回ることを決意した。
「おい!」
ヴィックは冷静に、しかし鋭い殺気を込めて男に声をかけた。
人買いの男はヴィックの異様な雰囲気と、子供にも関わらず見下すようなその態度に警戒心を抱いた。
「なんだ、このガキは!関係ねえなら引っ込んどけ!」
「私はこの件に穏便に介入したいだけだ」
ヴィックは、冷静な声色で交渉を始めた。騒ぎを起こすつもりはなかった。だが、男は一瞬顔色を変え、すぐさま暴力に訴えかけた。
「ふざけるな!なんだその態度は!ガキが偉そうな口利きやがって!」
男が殴りかかって来た。
ヴィックは咄嗟に男の懐に滑り込むと脇腹の急所めがけて打ち込んだ。彼女は穏便な話し合いが通じないと悟り、やむを得ず手を出したのだ。
「ぐっ…かひゅ…!」
男は呼吸を詰まらせ、崩れ落ちた。
「くそっ!!これは親から正規の金で買った『商品』だぞ!証文だってある! お前ら、これがどういう事か?分かってるのか…これは強奪だ!」
アレクの顔から、一気に血の気が引いた。彼の中で、目の前の暴力の構図が、一瞬で「強奪者」という逆の構図にひっくり返る。
「親が...」
ヴィックは、その純粋な動揺を一瞥で切り捨てた。小声で男にささやいた。
「だから、私は穏便に介入したいと言った。それをお前が暴力で訴えかけてきた。どちらに非がある?…この騒動で失ったお前の『商品代』と、『治療代』として、倍額を支払おう」
ヴィックは懐から革袋を取り出し、必要な銀貨を取り出すと、男の目の前に投げつけた。男は崩れ落ちた姿勢のまま銀貨を貪るように掴み取る。
「チッ、わかったよ…!」
男がよろめきながら立ち上がり、銀貨を懐にしまい込んだのを見届け、ヴィックは冷たく言い放った。
「待て。金は渡した。証文は出さないのか?」
男は一瞬、ギョッとしたように顔を凍らせた。まさかこの子供が、商売の慣習を知っているとは思わなかったのだ。売買が成立すれば、その証文は新しい買主――ヴィックに渡されるべきものだ。ヴィックに金だけを渡させて、証文を隠し持ち、後で「不当な強奪だ」と訴え出るつもりだったのだろう。
「…チッ」
男は舌打ちをしたが、ヴィックの鋭い眼光に気圧された。証文を渡さなければ、今払われた金を強奪したと言われかねない。
男は汚れた布切れに書かれた証文を苛立ち紛れにヴィックに手渡した。ヴィックはその証文を広げ、視線を走らせる。
〜カナス村、ティモールの三男、ユリウスを、銅貨 五枚 にて永久に譲渡する。これに異議なし〜
人買いの男が支払った銅貨五枚という金額は、この種の売買における相場の半額以下だった。ヴィックは、貧困に喘ぐ親の足元を見て、人買いが徹底的に買い叩いたことを一瞬で察した。そして、自分が今支払った銀貨が、本来この子に支払われるべき最低限の適正価格であることを知っていた。
ヴィックの口元が、わずかに皮肉げに歪む。
「ふざけた内容だ」
彼は低い声で吐き捨てると、音を立ててその証文を二つに、四つに、そして細かくビリビリに破り捨てた。風に舞う紙片は、誰にも気付かれぬよう森の闇に消えていく。
「これで、お前はこいつに関する権利を一切失った」
その冷徹な宣告に、人買いの男は痛みと金の誘惑に負け、一瞬の躊躇の後に、憎々しげに頷いた。彼は馬に飛び乗り、一目散に逃げ去って行った。
人買いが遠ざかるのを確認し、ヴィックは大きく息を吐き出した。
「はぁ...全く、厄介な事をしやがって。」
ヴィックがアレクを非難した。
だが非難されたアレクは少年に駆け寄り、優しく抱きしめながらヴィックを振り返った。
「でも...きっと、何か事情があって、その子の親御さんも...」
「甘いな、お前は」
ヴィックは冷たい声で切り捨てた。
少年は震えながらも、『カナス村』から来たことをアレクに告げた。
カナス村は『商業都市ラナハイム』に近い、小さな村だ。
それを聞いたアレクはヴィックに向かってとんでもない事を言い出した。
「ヴィック、彼を家に送り届けよう!一人で帰すわけにはいかない!」
「正気か、お前は!」
ヴィックは声を荒げた。
「私たちは『サントゥス』へ向かっているんだ!カナス村は逆方向だぞ!」
「しかし、彼は幼いんだ!」
アレクは必死に食い下がる。
「カナス村はここから丸々一週間はかかる。彼をこのまま見捨てろと言うのか!」
ヴィックの顔が一層険しくなった。
「一週間あれば、『サントゥス』にとっくの昔に着く。お前のお人好しの為に、旅の計画を台無しにするのか!」
アレクは、ヴィックの厳しい言葉を正面から受け止めたが、揺るがなかった。
「でも、彼を見捨てて旅を続けるなんて、俺にはできない!」
その真摯な眼差しに、ヴィックは左眉をあげた。自分の旅の目的は、アレクを『サントゥスに送ることだけだ。しかし、ここで強引に拒絶すれば、この馬鹿がつくぐらいの純粋なアレクが一人で逆方向へ向かいかねなかった。
「…くそ」
彼女は小さく、深く喉の奥で悪態を吐いた。まるで自分の運命を呪うかのように。
「わかった、わかったよ!だが、道中は私の指示に従え!一歩たりとも勝手な行動は許さんぞ!」
結局、アレクの意見に押し切られる形で、渋々ヴィックは逆方向への旅を承諾した。
「ありがとうヴィック!」
眩しすぎる笑顔をヴィックに向けて彼は言った。
その笑顔を見たヴィックは、「(この何色にも染まってない、純粋なアレクさんが!)」と心の中で毒づいた。毒づかないと自分の心臓が持ちそうになかったからだ。
ヴィックはわざと、ドスドスと足を踏み鳴らしながら荷馬車へと歩いて行った。
『本編を読まなくても分かる『勇盾』簡単物語』
アレクがかつて仕えた令嬢への無関心と、自分への執着に動揺するヴィック。旅の途中、人買いから少年を救うが、アレクの正義感に押し切られ、目的地とは逆方向の少年を送り届ける旅に同行する羽目になる。二人は互いへの未知の感情を抱えたまま、迷路のような道を進み出す。




