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第十五話 氷の境界線

アレクの右腕の状態を見たヴィックは、旅立ちの決意を固めた。

物取りに襲われた際に負った右腕の傷は、逗留していた数日間で赤みも腫れも引き、化膿の可能性もなくなったので、ヴィックは、もう大事を取って滞在を続ける必要はないと判断したのだ。


アレクには旅立つ前に法律顧問アドヴォカートに無駄な労力を使わせてしまったことを改めて詫びてくると言って、彼女は宿屋を出たが、彼女が向かったのは、法律顧問の事務所ではなく、街で最も大きく、古い石造りの建物、アルストリアの領主館だった。


彼女の目的は二つ。

一つは、イザベラ伯爵令嬢の捜索という薄弱な理由で、彼女の伴を強引に拘束した憲兵の最高責任者に公的に抗議し、憲兵の権限の逸脱に釘を刺すこと。

二つ目は、その責任者に直接圧力をかけ、憲兵側の責任を曖昧に処理させたジュリアンの傲慢な介入にも、公の場で明確な境界線ラインを引くことだった。


この街の憲兵の上官、つまり軍のトップは、この街アルストリアを治める領主だ。そして、その領主こそ、『中央都市サントゥス』の聖騎士団に籍を置くジュリアンの父親であった。


アルスターの屋敷の執事に応接間に通されたヴィックは、重厚な革張りのソファに腰を下ろした。しばらくして、父親である領主よりも先に、ジュリアンの妹、エミリア・アルスター伯爵令嬢が現れた。


「ヴィクトリア様。お久しぶりでございます」

穏やかで上品な声だった。ヴィックは形式的な挨拶を返した。


「レディ・エミリア。ご無沙汰しております。領主様にお目通り願いたいのですが、お忙しいでしょうか?」


エミリアはふわりと笑い、ヴィックの対面のソファに座った。


「父は今、急な会合で少し手が離せないようでして。ヴィクトリア様が来たと聞いて、私が挨拶に参りましたの」


エミリアはそう言うと、周囲に気配りを見せ、執事と給仕の侍女を遠ざけた。静寂が応接間を包む。


「ありがとうございます、レディ・エミリア」

ヴィックは、柔らかな微笑みを浮かべた。


「では領主様が来られるまで、お話をさせてもらいます。最新作の『湖畔の騎士と星見の公女』を拝読させていただきました」


ヴィックは、静かにエミリアの目を見つめた。エミリアは一瞬、目を見開き、すぐに微かに頬を紅潮させた。その動揺は、伯爵家の令嬢としての教育されたポーカーフェイスをもってしても隠しきれないものだった。彼女が『エリック・エルトンジョン』と言う男の名前で小説を書いていることは、極秘の秘密だった。


「ヴィクトリア様……、貴女がロマンス小説をお読みになるとは……想像もしておりませんでしたわ」

「私はこれでもロマンス小説は好きですよ。自分にないものには惹かれるものです」

「まぁ何をおっしゃってるのかしら。ヴィクトリア・ルベライト様にないものを見つけるのが大変ですわ。その美貌・知力・財力、人脈、ひとつとして欠けてるとは思えませんが」

「ないものだらけですよ…人としてもまだまだ未熟ですし…」


その言葉でエミリアはハッとした。

「(この人は、自分自身の完璧なイメージの裏側で、何を欠けていると感じているのだろう――)」


目の前の人の、表ばかりの世間一般の評価を口にした自分の軽率さを彼女は恥じた。

ヴィクトリア・ルベライトは全てを持っている人間と言う、世間が彼女に抱くイメージを語るのではなく、自分は貴族の娘のお遊びとして小説を書いているわけではない。

もっとその奥底の、その人の本質を見ないといけないはずだ。


「私としたことが……ごめんなさい、ヴィクトリア様」


重苦しい雰囲気を払うように、ヴィックは努めて明るく振る舞った。

「貴方の小説の一読者として、特に、湖畔で騎士が公女に、自分の過去の過ちを告白する場面。あの描写は本当に見事でした。騎士の心の葛藤と、それを静かに受け止める公女の包容力……。エミリア、あなたは人間の本質的な感情の機微を、本当に上手く捉えている。読者として、心を揺さぶられました」


自身が最も心血を注いだ部分への的確な評価に、エミリアは瞳を輝かせた。

「あの、あの場面……! そう、騎士が自分の弱さをさらけ出すところが、今回の核だと考えていましたの。それをヴィクトリア様に理解していただけて、とても嬉しいわ!」


彼女の顔は、一人の熱心な創作者としての純粋な喜びに満ちていた。しかし、エミリアはすぐに、ヴィックが自分との秘密を共有しているにもかかわらず、本題を切り出していないことに気づいた。


エミリアは深く息を吐き、微笑みを消した。


「……父に面会と言うのは、余程のことですわよね」

彼女の表情からは、一瞬で小説家の喜びが消え、貴族令嬢としての緊張感が戻ってきた。


「――もしかして、兄が何か無粋なことを?」


ヴィックは静かに肯いた。


「まぁ、やらかしたでしょうね。でないと、わざわざヴィクトリア様がうちにいらっしゃるはずはないですもの」


彼女は兄のジュリアンがヴィックに執着していることを知っていた。そしてその兄が、彼女の周りにいる人間、特に親密そうな異性に対して、慇懃無礼な態度をとる事も知っていたのだ。


「お兄様が、ヴィクトリア様にご迷惑をおかけしたのであれば、妹としてお詫び申し上げます。そうだわ…兄は今休暇中で屋敷にいます。父に会う前に兄に直接、お話をされるとよろしいわ」


ここにジュリアンを呼び出せばどういう目にあうのか予想できたが、悪魔の微笑みで彼女はそう提案した。


「そうしていただければ…」

「すぐに、兄をこちらへお呼びいたします」


エミリアは応接間の扉まで歩き、控えの執事に小さく指示を出した。彼女が戻ってきてソファに座るまでの数秒で、その顔は再び、冷静沈着な伯爵令嬢の表情に戻っていた。


静寂の中、ヴィックはカップに残った冷めた紅茶を一口飲み、ソファにもたれた。彼女の視線は、扉をまっすぐ見据えていた。


間もなく、応接間の扉がノックされ、勢いよく開いた。

「エミリア、何事だ。急に呼び出して……」


入ってきたのは、邸宅でくつろいでいたジュリアン・アルスターその人だった。

彼の装いは、豪華な正装ではなく、深い紺色のバニヤン(ゆったりとした絹やビロードの紳士用室内ローブ)を、上質な薄い生成りのシャツ(シュミーズ)の上から羽織っただけのものだった。室内着とはいえ、それは上質の素材で仕立てられ、襟元や袖口からは、繊細なフリルが覗いている。下は、膝下丈の仕立ての良いブリーチズ(半ズボン)に、脚にぴったりと沿ったホース(長靴下)を合わせているが、普段の軍装の硬質さとは違い、リラックスした雰囲気が漂っていた。


休日に呼び出されたことへの不満が、彼の表情にはっきりと浮かんでいた。

彼がヴィックの姿を捉えた瞬間、その表情はわずかに──ほとんど気づかれないほどに──硬直した。


ジュリアンは形式的な挨拶を省略し、バニヤンの前を整えながら、ヴィックを正面に見据えるように、エミリアの隣に立った。


ヴィックは座ったまま、冷徹なまでの厳しさが宿る青い瞳をジュリアンに向けた。それは先程までのエミリアとの会話では見せた事のない顔だった。

エミリアは少し背筋が凍る思いがした。今までヴィックのこんな顔を見たのは初めてだったからだ。彼女はいつでも商人としての作った顔を崩す事はなかったのだ。


「ジュリアン、君には色々と骨を折って貰ったようだから、一言お礼は言わせてもらうよ……余計な事をしてくれた!」


ヴィックの言葉は、社交辞令を完全に排し、最初から核心を突いていた。


ジュリアンはすぐさま、この言葉の意味を理解した。イザベラ伯爵令嬢を拐かしたと言う冤罪でアレクが憲兵所に捕らえられた際、『サントゥス』の聖騎士団と領主の息子と言う自分の立場を利用して、釈放させたのだ。


ヴィックは余計な介入を嫌う。それが分かっているからこそ、内密にしていたのだ。バレてしまった。


だがジュリアンは焦りを隠す為にすぐにポーカーフェイスに戻した。


「何のことでしょうか? 私が貴女のために骨を折ったことなど、何かありましたか」

ジュリアンは今後に及んで白を切った。


ヴィックのその青い瞳には、一切の迷いや情はなかった。

「私の伴の事だ。随分精神的にいたぶってくれたみたいだな」


「あのアレクサンダー・ハートレイは貴方に私の悪口を吹き込んだのですか?」


「『君は彼女に相応しくない』『この汚点が』『君は彼女の引き立て役だ』『足枷』」

ヴィックはジュリアンが言ったであろう暴言の数々を並べ立てた。それは過去にジュリアンが、ヴィックの横に居た者達に言った言葉である。


「私は彼、アレクサンダーにその立場というものをわからせる為に忠告したまでです」


隣で聞いていたエミリアは、兄が自爆したことに呆れていた。


「ふん!やっぱり言ったのか」


ジュリアンは仕舞ったと言う顔をしたが、虚勢を張って続けた。


「私は貴方の為を思えばこそです」

「私の為だと?」

「くだらない人間と付き合って、又貴方が悲しい思いをされてはと……あの婚約者のような卑怯者と同じような人間を二度と貴方の隣に…」


ジュリアンは自己擁護するために、最も踏み込んではならない地雷を踏んでしまったことに気づいたが、もう遅かった。

ヴィックには婚約者がいた。その話はほとんどタブーとされていて、公の場では誰も口にしなかった。


ヴィックの顔から、微かな冷笑すらも消え失せた。その表情は、文字通り「氷」だった。


「私がどんな人間と付き合って悲しい思いをしたとしても、それは私の個人的な事だ! ジュリアン、私のプライベートに関して首を突っ込むのは今後一切やめてもらおうか! もし今後君が私の大事な人を傷つける事があれば、私は君を決して許さないから、そう思ってくれ! 君に言いたいのはそれだけだ」


張り詰めた空気の中、間が悪くも会合を終えた伯爵が帰ってきて応接間に顔を出した。ジュリアンは父にこの状況を見られるのを避けたい一心で、エミリアに目配せをし、二人は応接間を出ていく。


応接間から出てい行ったジュリアンは、ヴィックから放たれた言葉と、この後控える父である伯爵からの尋問を恐れて、うなだれていた。


その兄の横でエミリアは、胸の高揚が止まらず目を輝かせていた。


こんな恰好な話題(ネタ)を作家の彼女が見逃すはずもなかった。それはもう作家の(サガ)と言っても良い。


「(愛する人の汚名を払う為に伯爵家に乗り込む美少年の商人。傲慢な態度を咎められ、ぐうの音も出ない伯爵家の御曹司。

『もし今後君が私の愛する人を傷つける事があれば、私は君を決して許さない』宣言。

そうだ、美少年の商人が愛する人は女性ではなくて男性! 男同士のラブロマンス。

これだわ! 新しい新境地きたーぁ!)」


こうなったら何がなんでも今回の件、もとい小説のネタ情報を集めなくてはと彼女は考えて、兄ににこやかに言った。


「お兄様。これから先は覚悟しといた方がよろしくてよ。ヴィクトリア様はお父様にお兄様の事で苦言を呈しにいらっしゃったみたいだから…」

エミリアは兄に゙最後の精神的打撃を与える言葉を突きつけた。


ジュリアンは怯えた顔でエミリアを見た。


「よかったら、私がお父様にとりなしてあげても…ただし、今回の事を洗いざらい私に話してくださいな。ヴィクトリア様のお連れの方の情報も残らず…どうせお兄様のことだから相手の方の情報を色々お調べになってらっしゃるでしょうからね?!」


エミリアは意地悪く微笑んだ。その瞳は、獲物を前にした狩人のように、興奮にきらめいていた。


『本編を読まなくても分かる『勇盾』簡単物語』


ヴィックはアレクを不当に扱った憲兵とジュリアンの介入に抗議すべく領主館へ向かう。密かに小説を書く領主の娘エミリアを味方につけ、軍服を脱いだ無防備なジュリアンを冷徹に糾弾。地雷を踏んだ彼を退け、エミリアは兄の失態を創作の糧にしようと企む。

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