第十四話 沈黙の抵抗 後編
翌日の朝、太陽がまだ地下まで届かない時間帯。
牢の扉が乱暴に開かれた。
「おい、アレクサンダー・ハートレイ!出てこい!」
昨日の憲兵が苛立たしげな声で呼んだ。アレクは覚悟を決め、重い体を引きずって立ち上がった。尋問の続き、あるいは肉体的な圧力が始まるのだろうと身構える。
しかし、連れて行かれたのは昨日の尋問室ではなかった。
憲兵所の応接室らしき、幾分か上等な調度品が置かれた部屋に通されると、そこには中央都市サントゥス聖騎士団の軍服を身につけた男が立っていた。ジュリアンである。
アレクは彼を知らない。見覚えのない、しかし明らかに高貴な雰囲気を纏った男が、なぜここにいるのか、警戒心を強めた。
「貴様がアレクサンダー・ハートレイか」
ジュリアンは、アレクを頭からつま先まで値踏みするように一瞥し、冷ややかな声で言った。その視線には、貴族が取るに足らない平民を見るような、隠しようのない侮蔑が込められていた。
アレクは右腕の傷がズキリと痛み、それを庇いながらも、身構えた。
「あんたは、一体……」
ジュリアンはアレクの問いかけを無視し、連れてきた憲兵たちに優雅な手の動きで命令した。
「そこの者たち。彼の容疑は、私の身元保証をもって取り下げとする。貴様らの薄弱な証拠に基づく軽率な行動は、中央への報告案件とさせてもらう」
ジュリアンが発した言葉は、明確な権威を含んでいた。
「し、しかしジュリアン様、グレイ伯爵家のご令嬢の件でございます!我々は」
憲兵の一人が戸惑いながら口を開いた。
ジュリアンは、微笑みを浮かべたまま、しかし瞳の奥は氷のように冷たい視線を憲兵に向けた。
「伯爵家?フン。憶測と噂に基づく単なる捜索に、どれほどの公的な価値がある?この男は、現に私が関知すべき人物の伴である。貴様らごときが、確証もないまま強引に拘束し、問題を拡大するつもりか?君たちはただ、私に従えばよい」
有無を言わせぬ断言だった。ジュリアンは自らの聖騎士団における立場並びに、この街の領主の三男と言う地位と確たる証拠がないという憲兵側の弱点を突き、介入を排除したのだ。憲兵たちは、ジュリアンの軍服と、彼が放つ圧倒的な立場と地位に屈し、深く頭を下げた。
「は、ははっ!謹んで、承知いたしました」
二人の憲兵が退室した後、部屋にはジュリアンと、ジュリアンの友人のカイル、そしてアレクだけが残された。
「さて、アレクサンダー・ハートレイ」
ジュリアンはアレクに向き直り、白いレースのカフスを整えた。
「一体、貴方は何者ですか?どうして俺を助けた?」
アレクは素直に疑問をぶつけた。昨日の尋問の疲労と、目の前の男の不遜な態度が、彼の口調を鋭くさせた。
ジュリアンは、アレクの質問に鼻で笑うような冷たい息を漏らした。
「勘違いするな!私は正義のために君を助けたわけではない」
彼は一歩、アレクに近づき、そのサファイア色の瞳が鋭く光った。
「私が動いたのは、あの方のためだ!」
その言葉に込められた熱量に、アレクはヴィックのことだとすぐに察した。
「あの方を殴りつけた不届き者がいたそうだな。あの方に不愉快な思いをさせた憲兵を、私が手ずから粛清してやりたいのは山々だが、それではあの方の不興を買う。だから、この件は穏便に、君を解放することで幕引きとしたのだ」
ジュリアンはため息をつき、心底うんざりしたといった様子でアレクを見下ろした。
「だいたい、女一人に振り回されて、自分の火の粉も払えないような、無力にも等しい君が、あの方の傍にいること自体腹立たしい事だ!」
ジュリアンは、ヴィックの前では決して見せなかった嫉妬と優越感を混ぜた冷酷な顔をアレクにさらした。
「物取りごときに右腕を負傷させ、今度は伯爵令嬢誘拐の冤罪で捕まる。君は厄介事しか持ち込まない。あの方の旅路に、どれだけ不利益を与えているか、自覚しているのか?」
ジュリアンは、アレクの何も言えない沈黙を勝利と見なしたように、口元に薄い笑みを浮かべた。その笑みは、ヴィックに向けられた優雅なものではなく、相手の弱点を容赦なく突き刺す毒を帯びていた。
「君があの方の足枷でしかないという事実を、よく噛みしめるがいい。そして、自分がどれほど取るに足らない存在であるかを」
「私の目的はただ一つ。あの方に不利益がないこと。君の存在があの方にとって有害であると判断した時は、容赦なく排除させてもらう。この言葉は警告と受け取れ」
ジュリアンは、それ以上何も言わず、友人のカイルに目配せをした。
「カイル。この厄介者を、速やかにあの方の元へ送り届けてくれ。そして、あの方には余計なことはなにも言わないようにして欲しい。私が介入したとなればあの方の不興を買うかもしれない」
「承知した、ジュリアン」
カイルは恭しく頭を下げた。
ジュリアンは、アレクに背を向け、悠然と部屋を後にした。彼の背中は、傲慢さと自負に満ちていた。
「行くぞ、平民。あまり手間をかけさせるな」
カイルに促され、アレクは重い足取りで憲兵所を後にした。
釈放されたという安堵よりも、胸の奥に灯ったのは、ジュリアンという男への複雑な感情と、ヴィックを守りきれなかった自分自身への苛立ちだった。
宿屋の食堂の隅にある、目立たないテーブル。アレクはそこで、ヴィックが老年の男と向かい合って座っているのを目撃した。ヴィックは顔に疲労の色を浮かべながら、真剣な表情で資料を広げていた。
ヴィックは、アレクを解放するために、この街の法律顧問に相談をしていた。
ヴィックはアレクの無事な姿を見ると、張り詰めていた緊張を一瞬で解いた。アレクは疲労困憊といった様子で、全身から気力を奪われているようだった。
そして、アレクの背後には、見覚えのある男が立っていた。深紅のフロックコートの男。ジュリアンと伴にいた男だとヴィックはすぐに認識した。
カイルは、ヴィックに一瞥をくれると、ジュリアンに言われた通り、先日の軽率な態度を反省し、最低限の礼儀をもってヴィックに深々と頭を下げた。
「御身の伴を無事にお送りしました。私はこれで失礼いたします」
カイルはそれだけを告げると、アレクの返事を待たず、すぐに食堂を立ち去った。
「先生。どうやら無駄足を運ばせてしまったようです。申し訳ない」
「お役には立てず恐縮です、ご無事なれば何よりでございます。私はこれで失礼いたします」
法律顧問は食堂を静かに立ち去った。
二人が去った後、ヴィックはアレクの顔を見て、彼の背中を優しく椅子に座らせた。
「全く、お前は本当に厄介事を引き寄せる天才だな」
ヴィックの言葉は皮肉めいていたが、その声には安堵が滲んでいた。そして、疲労困憊といった様子の彼の顔を見つめ、眉をひそめた。
「昨日の夜から何も食べていないのだろう?顔色がひどい。話はそれからだ。給仕を呼ぶ。何か温かいものを食べるといい」
ヴィックは給仕を呼び、簡単なスープとパンを注文した。
「ごめん…ヴィック」
アレクは視線を足元に落としたまま、謝罪の言葉を口にした。
「何度同じ謝罪を口にする?!聞き飽きだぞ!。で、どうやって戻ってこれた?お前を連行した憲兵は、そんなに簡単に手放す連中には見えなかったが」
ヴィックは鋭い青い瞳でアレクを見つめた。
ヴィックは、ジュリアンが介入したのを悟っていた。
ジュリアンの友人が、まるで使いのようにアレクを送り届けてきた。その事実は、彼女にとって何よりも雄弁だった。
アレクは、ジュリアンに言われた罵倒の言葉がまだ耳に残っているかのように、顔を上げてヴィックと目を合わせることができなかった。
「俺は…何も話さなかった。言われた通り、黙っていたんだ」
「ああ、それは正解だ。で?」
「その後、ヴィックの…その、知り合いのおかげで、解放された。身元を保証してくれたとかなんとかで……それしか、わからない」
アレクは、「無力にも等しい」「足枷」というジュリアンの言葉が、喉に引っかかって吐き出せないでいた。
「『知り合い』…か。あいつの芝居がかった傲慢さには、ほとほと嫌気がさす」
彼女の表情はわずかな苛立ちが混ざっていた。
温かいスープが運ばれてきた。アレクはパンを浸し、恐る恐る口に運んだ。
しかし、口に入れた温かいスープの味は、安堵の味ではなく、ヴィックの優しさと、自分の不甲斐なさに対する悔しさで塩辛く感じられた。
「それで?奴に何か、言われたのか?」
とヴィックに問われて、アレクは顔をあげた。
ヴィックはアレクの疲れた顔と、影を帯びた瞳をじっと見つめた。アレクの普段の、明るく単純な表情が失われていることに、彼女は気づいていた。それは憲兵の取り調べが原因というよりも、ジュリアンの言葉による精神的な打撃だと、ヴィックは瞬時に察した。
「…別に。大したことは」
アレクはジュリアンに言われた言葉をヴィックに話せなかった。それは告げ口のようで嫌だったのもあるが、何より自分の男としての自尊心がそれを拒否した。
「嘘をつけ」
ヴィックは、アレクの顔色と沈黙から、ジュリアンが言った言葉を全て見抜いているかのように、鋭く言い放った。
彼女は身体を前に乗り出し、テーブルの上で両の肘をついた。
「奴は、自分が価値のある人間だと証明したいあまり、私の傍にいる人間を見下す癖がある。私が知らないと思っているがな」
そう言ってヴィックはフフと笑った。その笑いには、ジュリアンに対する諦めと、彼を手のひらで転がしているかのような余裕が滲んでいた。
「奴に何かを言われたとしても気にするな。あいつはただの吠えるだけの犬でしかない。…それより部屋に戻ったら傷の手当てだな。この馬鹿げた騒動で右腕の傷が化膿してなければよいが」
アレクは、ヴィックの冷静な対処と、自分の身を案じる態度に、ジュリアンの言葉で落ち込んでいた心がわずかに持ち直すのを感じた。
しかし、同時に、彼を解放したのが自分の力ではなく、ヴィックの周囲に存在する見えない巨大な力であることを再認識させられ、その重圧に息苦しさを覚えた。
彼はヴィックの隣に立ちたいと願っているのに、現実が彼の無力さを繰り返し突きつけてくるのだった。
『本編を読まなくても分かる『勇盾』簡単物語』
釈放されたアレクは、ヴィックへの執着を見せる聖騎士ジュリアンから「足枷」と罵倒され、己の無力さを痛感する。再会したヴィックは、彼の心の傷を察して静かに寄り添うが、アレクは彼女を救うどころか周囲の権力に生かされている現実に、苦い悔しさを募らせる。




