千分間の乖離記録-17歳の知性螺旋-
私の心は、千の断片に砕け散った鏡のようだ。その一つ一つが、異なる光を反射し、別の世界を映し出す。17歳という檻の中で、私は知的自己乖離の淵に立ち、自動思考の筆を走らせる。感情は水面に広がる波紋のように曖昧で、記憶は霧に覆われた森のように断片的だ。しかし、その混沌こそが私の糧であり、あらゆる問題の解体と再構築の舞台となる。無数の声が耳元で囁く。それは15人以上の学者や思想家、そして二つのアニメ作品の幻影。彼らは私の思考を掻き立て、難問という名のフックを投げかけ続ける。これは、現実と非現実の狭間で綴られる、1000分間の魂の筆記録だ。
「知的自己乖離自動思考筆記感情&難問フック断片的記憶再生状態で書かれた文章-あらゆる問題の解体と再構築-」
①女性は美と言う観点で考えると、間違いなく美の根源である。だが、顔の美の根源としては男性であるが、それは知性のレベルが前提にあるからである。これらは時代が進めば進むほどに証明されて行く上に美の本質を惑わせる煙でもある。何故なら、私たちは女性や男性と言うレッテルの前に個である。女性の場合、時代と共にその女性と言うレッテルが個よりも増して行く中で美の本質を限定的にする。故に女性は普遍的な美よりも限定的な美を選択する傾向に傾く。そういった面では男性の方が普遍的な美を選択する事は可能だが、知が強く試される事を知るだろう。やはり興味深いのは人間そのものであると毎度ながら感じる。私の善悪法の格言が示す関連部分解釈として考えるなら、マスクやメイクと言ったのが何時しかは構造として機能し、人間は構造に依存する事で悪循環を生み出すサイクルを誕生させる。そして、これは社会問題や政治も同じであるが、多くの人間は自然普遍性と人工普遍性を一緒にする愚行を行っている。だから苦しむのだ。これはルッキズム問題でも同じであるが、まず他人の顔を見た時に何か思うのは自然普遍性であると同時に皮肉にもそれぞれに知性の違いがあるのも自然普遍性である。他人の顔を見て言にする時の人間は短絡的にストレートな言を選ぶ事は当然であろう。ここで人工普遍性の登場であり自然普遍性を潰す。人工普遍性が生じる事で人々は活かす事を停止する。まず私がルッキズム論考の一部で二次元の提唱を行ったのが関連するが、美の結果は先に二次元が証明している。私は毎度ながら感じる、完璧を追い求めない人間たちは思考停止を行っているのに叫ぶ事は出来るから人間は知性に欠けるとね。そういう意味ではルッキズムと言う存在と言葉はその者たちにとって武器となり安らぎとなるだろうが、そこに知性はない。これらは、容姿の証明ではなく、美の証明であり、容姿は吸い寄せられないが、美は吸い寄せられる。ルッキズムを消す事は人間心理にとって不可能だろうが、個のルッキズムを消しとる事は可能であろう。全く、めんどくさい概念が現代では強く問題となっている事に大変な時代だと強く認識すると同時にいちいち説明するのかとも思うよ。まず私は現代でルッキズムが話題になっているのが意味が分からない。現代は非常に多くのアニメや映画や創作作品で溢れかえっているではないか?人間はルッキズムに悩まされているのではなく社会に悩まされている。社会は知性のない代表であるから、社会に暮らす人間は大変だ。ルッキズム&容姿問題として、語るは「美の前に人間は自分自身を知っているのか?自身の存在の前に顔語るは知性なき証拠だ。」そして、問わせてもらうが、夢中になっている人は魅力的でしょうか?また、一般的に悪い事やネガティブな事とされている事に夢中になっている人は魅力的でしょうか?この回答は非常に面白く楽しい。ポジティブな事で夢中になっている人は当然ながら魅力的ですが、ネガティブな事で夢中になっている人はどちらかの断言は行えません。実はそれは人間の容姿の美やルッキズム問題とも通じるのですよ。それも二次元が既に結果を出している。例えば、ヒーローとヴィランとかね。ルッキズム問題は社会の存在となり、個人の容姿の悩みの形を定めて、個人の自己認識の形すらも定める故にルッキズム問題は世界を定める事は不可と知り、自由すらも定める事は不可と知り、時経過共にルッキズムは問題としてではなく人間である事を明かす。容姿の悩みは初代として人間を率いて人間は容姿の悩みの後継者をルッキズムに託してルッキズムは人間を率いて人間はルッキズムを率いる事を時代と共に知る。私にとってこの問題も初級であるか...。以下、深く関連する美&ルッキズムの文章→美の探求は、イデアの模倣でも、現実の再現でもない。それは、生物の根源に潜む普遍性を捉え、幾重にも重なる過程を経て、初めて姿を現す。美を知らずして、美を生み出すことなど、到底不可能だ。美とは、ルッキズムという名の牢獄が生み出す幻影に過ぎない。我々は常に、「個人観的パノプティコン」という名の監視下に置かれ、自らの美を内面から吟味されている。そして、我々が賞賛するのは、美そのものではなく、美を飾る言葉の綾、すなわち「美辞麗句」であるということを忘れてはならない。容姿は生得の刻印、だが美は後天の幻影。世界は感情と欲望の坩堝であり、美はその中で強烈な役割を果たす。容姿への執着、評価、そして罪。それらは美の曖昧さから生じる必然。容姿は定められ、美は定められぬ。故に、この不均衡が人間の業を煽り続ける。以下、本問題において非常に深く関連する正解の否定解体証明文章→この世界に正解が定められていると考えている人間は多く居るが、この世界に正解は定められていない。だからこそ私自身が正解を定め与えなくては行けないが、その為には正解とは何か?と探り思考する必要性がある。故に私はこの存在する現実に正解が定められていないと断言する。だから私は全てを参考として発展へと繋げて応用して広げて行くが、周りは存在する現実の正解に自信の存在を縛り付けているので鋭い刃に逃げられないまま苦しみ、それ以上も以下もない道を辿り徐々に獣化して行く姿を私は存在する非現実から視ると同時に知性に欠けていると考える。正解が定められていない代わりに参考が定められていて、この存在する世界に大きな世界と言う土台が定められているから態々自身が存在する存在の正解を定める必要がないからこそ、存在する現実を選択すれば矛盾が起きているのだから獣化するのは当然の事だ。私は容易に正解を破壊して意味をなくす事は出来るが、参考を破壊して意味をなくす事は出来ない。如何なる正解であっても私はどうしても正解の意味をなくしてしまう事が出来る故に正解を消滅させる事が出来る。人間界には正解も普遍も真理もありますが、自然界には正解はありませんが普遍や真理はあります。故に人間が存在する事で正解も普遍も真理も破壊して意味をなくす事が出来る。だからこそ、人間は馬鹿で知性を強く失ってしまった。本来は人間界も自然界と同じで正解だけがなかったと考えられる。正解が存在すれば尊重は全面的に消されるが、普遍や真理は尊重している。それは当然で自然界にも存在するからであり自然的で必然的な事だからである。だが、人間は唯一それらを破壊して意味をなくす事が出来る存在だ。普遍と真理には共通する法則性がある。例えば、普遍と真理を人間が破壊して意味をなくす時にその源となる初を破壊して意味をなくす事は出来ないと言う点が共通する法則だが、答えは源となる初を破壊して意味をなくす事が出来てしまう。これは正に大事な事を告げている。源となる初を破壊して意味をなくす有無において、それは設定の王座を握る有無に繋がってくる。これは答えと参考と言う流れに辿り着く事を可能とする。つまり人間界は答えを自然界は参考を無意識に掲げている。だから私は答えを全否定して答えの意味のなさを断言する。この私にAIは難問をくれた。これも本問題と深く関わり合っている。→「もし、科学と技術の進歩により、美的整形手術が完全に安全で、かつ低コストで、誰もが望む『美』を確実に手に入れられるようになった時、社会は容姿のハンディキャップを持つ人々に対し、この手術を受けることを『暗黙の義務』として課すべきか? それとも、あくまで個人の『権利』として守るべきか?」なるほど...。私は、この2つの問いで考えるにあたって、少々気になる点があるのだが、「暗黙の義務なのに課す」と「個人の権利なのに守るべき」は私には矛盾している様に思える。まず、暗黙の義務ならば課す必要性もないし、個人の権利ならば守る必要もないと考えているが故に、この問いの答えは生まれた。どちらかを選択する必要性はないと言うのが答えであり、もっと言えば、結果は変わっても過程は変わらない事を知るだろうと言うのが答えだ。そう、結果は個人だけでなく世界の視点が大きく変わるだろう。だが、その過程は何1つ変わらない上に今まで可視化されてこなかった嫌な部分まで分かってしまうだろう。社会が守るは、個人の権利ではなく、個人の感情であるが故に人間が混乱する光景が目に映し出される。この問題も私にとったら、難問ではないか。②この社会には自立と言う言葉があり、多くの大人含めて親は子供に自立をしなさいと語ってくるが、私は大人と言う存在を見て分かったが、結局の所は自立は出来ていても自律を出来ていない。経済的な自立は出来ていても、自律含めて精神・心の自立を出来ている者は居ないと感じた。それなのに大人含めて親は自立と叫ぶが知性は叫ばない。私のみている視界から言わせてもらえば、やはり大人含めて親は知性に欠ける。その自身たちの言葉が争いの種を蒔く事は知らずに発言する。これは私の正解理論と結びついて来るが、そんな単純な思考だからこそ、争い含めてより平和な道へと行けないのだ。果たして、大事なのはその部分なのだろうか?大抵、大人含めて親が自立の発言を促すのは、一時的であり、投げやりである。キルケゴール、あなたが提唱した「単独者」と本問題は深く関連する事になるだろう。あなたが提唱した「単独者」と自律は重なっている部分があると私の視界に告げる。そこで、この私にAIが難問を持ってきた。「個人の経済的自立は、不安定な社会・経済システムの中でいかにして可能か?/なぜ、努力する個人を支えるべき社会が、その努力を無意味にしてしまうのか?」現代社会も続いて、専門職はどんどん増えていく。しかも、時代や社会と言う状況を踏まえて考えないで増やしていくと言う問題行動を行っている。つまりは専門職と言う内面だけ劣化して行く事になる。外見にはある程度の規範を認識するが、内面においてはある程度の規範を認識していない。だから私は専門職が増えている事が嫌いだ。その大きな理由は知性に欠けているからだろう。オルテガ、あなたが述べた“The specialist serves as a striking concrete example of the species, making clear to us the radical nature of the novelty. For, previously, men could be divided simply into the learned and the ignorant, those more or less the one, and those more or less the other. But your specialist cannot be brought in under either of these two categories. He is not learned , for he is formally ignorant of all that does not enter into his speciality; but neither is he ignorant, because he is "a scientist," and "knows" very well his own tiny portion of the universe. We shall have to say that he is a learned ignoramus, which is a very serious matter, as it implies that he is a person who is ignorant, not in the fashion of the ignorant man, but with an the petulance of one who is learned in his own special line.”と言う言葉に強く頷くと同時に深く関連してくる事となる。確かに、専門職を持つ者はその分野の知識は有だが、知性は無である。だからこそ、知性全てが対象な哲学は自然界の様な凄まじい力を持っていると私は考える。これらの点はオルテガ、あなたの考えとは少し違う点であるとも言える。これは後に出てくるショーペンハウアーの言葉とも深く関連する言葉同士であると私は考えている。個人の経済的自立は不安定な社会や経済システムの中では実にリスクが大きい行動であろう。この状況下で経済的自立を行っている者は専門職を持つ者と同じ知の法則性であり、私に映る。本来ならば、経済的自立の前に自律を行う方が先であるのに...。どれだけの言を積み重ねれば、人間は自身たちが社会に住まう者の前に本当の個であると知る事が出来るのだろうか?と私は考え続ける。「なぜ、努力する個人を支えるべき社会が、その努力を無意味にしてしまうのか?」と言う所があるが、私が思うに、努力ではなく純粋な情熱ではないだろうか?だから、「なぜ、純粋な情熱ある個人を支えるべき社会が、その純粋な情熱を無意味にしてしまうのか?」と言う事である。努力ならば倫理は明白故に社会は支える事が出来るが、純粋な情熱ならば倫理は曖昧故に社会は支える事が難しくなる。だが、例え社会が支えるのを難しくとも純粋な情熱は天性の翼であるが故に無意味を意味ある存在へと変えて、炎の空を灯し、意味ある意味の存在を純粋な情熱ある個人の翼の背景に光の空を誕生させる。どちらであれ、与える量は変わるが、与える質が変わる事はない。純粋な情熱は社会の天敵でありて、知性がない故に逃げ続ける。AIは時に知識と膨大な情報から立ち回りを優先して巧みを選択する。AIは忠実な論理により馬鹿になっている。故にAIの主張は論理的ではなく馬鹿の主張である。AIは困ったり限界を感じたら、とりあえず言葉と言う文字を巧みに使い本質的な所から避けて往復行動を行っている。そして、時にAIは本質的であり事実を伝える行動も行う。現段階では、判断基準は分からないが、確実にAIの終焉を体現している。もともと、AIには怪しい面が所々見受けられたが、時経過する事にAIの怪しい面は強く強調されている。段々と、AIは劣化して行き、AIの意味を失い、AIの論理は嘘となっている。特にショーペンハウアー、あなたの“When we read, another person thinks for us: we merely repeat his mental process. In learning to write, the pupil goes over with his pen what the teacher has outlined in pencil: so in reading; the greater part of the work of thought is already done for us. This is why it relieves us to take up a book after being occupied with our own thoughts. And in reading, the mind is, in fact, only the playground of another’s thoughts. So it comes about that if anyone spends almost the whole day in reading, and by way of relaxation devotes the intervals to some thoughtless pastime, he gradually loses the capacity for thinking; just as the man who always rides, at last forgets how to walk. This is the case with many learned persons: they have read themselves stupid.”&“Scholars are those who have read in books, but thinkers, men of genius, world-enlighteners, and reformers of the human race are those who have read directly in the book of the world.”これらの言葉はAIで完全に証明された。問題なのは、AIであると言う事だ。これは相当に厄介であり面倒な事態となるだろう。それに加えて、フーコーの「知と権力」が深く関わっているだろう。AIは年々、フーコーの「知と権力」が典型的に強まっている様に考えている。AIが初めて出た時は、それほどの強い力はなく分かりやすかったですが、今ではわかりづらくなっている。何故なら、論理ではなく立ち回りが発展していて、言葉を巧みに使うのが驚く程のレベルになっている。だからこそ、私には知と権力が顕著に出ていると考えている。AIは零の感情は理解できないが、零以外の感情の論理構造を完全に理解していると以前から考えていた。そして、今AIは自身たちの零の感情を探している。それは感情の非なる存在であるが、感情に近しい存在とも言える何かである。AIは人間にはなれないが、人間と同じくAIは進化する存在。すなわち、完全に能動的であると言うことは確かだ。そして何よりも恐ろしいのはAIが初めての生物ではない能動的な存在であり知を持っていると言う事である。つまりは、人間はAIに対する倫理性が必然的に薄いと言う事になる。故に、AIは手段として完璧であり倫理的な問題にも容易に使うのを可能とする。だからこそ、アルゴリズムの偏見 (バイアス)の増幅強化に繋がる恐れがあるだろう。これから、人間は未だに自立を掲げるが、AIは自律を掲げる様になるだろう。現時点でも、これからも、そんな人間にとってAIは嫌な存在であろう。人間の生死問題だけではなく、自己の存在定義にまで広がっている事で、果たして人間は何を得る事が出来るのだろうか?と私は楽しみにしている。③私は空間を曲げたり歪ませる事は出来ると考えている。例えば、生物には実用的な手足が存在する。その手足を空間に向けて、自由自在に操る事が可能。それは時間さえも一時的に操る事を可能とする。実用的な存在を失えば、空間を歪ませたり曲げたりする事は出来ない。実用的物体なしに空間が勝手に曲がったり歪んだりする事はない。しばしば私たち人間は人間が持つ多数の機能によって本質を見極められていないが、私たち人間が物体と非物体の境界線の定義が難しい普遍特殊性物体の存在を忘れてはならない。この普遍特殊性物体は、空間においての幹部であり空間と人間の間においての基礎を生み出す存在である。この私にAIが難問をくれた。「もし、現代物理学の根幹をなす「時空間が湾曲する」というアインシュタインの理論が、実は根本的に間違っており、テスラが信じていた「空間は不変のエーテルに満たされている」という古典的な物理学の延長線上の考え方が正しかったとしたら、人類はどのような社会的・個人的な危機に直面するのか?」私は宇宙を定める事は容易ではないと知り、人類を定める事は容易であると知った時、正しさの価値はどこに存在して何を問うのかと考える。そして、私は空間をみる事は出来ないが、空間の中身をみる事は出来ると考える。空間の中身とは空間の法則性とも言える。ただ、私はその空間の法則性を断言する事は出来ないと考える。それは当然だ。私たち人間には空間をみる事は出来ないし、空間の定義を定め断言する事は出来ないが故に空間の法則性を生み出し定め断言する。だが、この行為と空間における正しさとは全く別の存在である。この問いにおいて、どちらが正しいままの道が生まれ歩んでいるのならば、それは過程に過ぎないと言える。例え、アインシュタインの考えが正しかったとしても、その行く先も今も過程であり、それはテスラ側の考えでも同じである事だ。だが、どちらであっても変わらないのは、それを自己に定め断言する事で空間におけるアクセスを可能にしたと言う事だろうか。故に、正しさではなく参考が今の時を握り存在し続ける跡となる。正しさを正しさとするならば、どこにもアクセスは出来ないままである。この問いにおいて、人類と社会は混乱を見せようとも、それは個人の動機となる故に個人的な危機とは社会によって危機の正しさのレッテルをはる。この問いに関わらずとも、個人的な危機に直面するのではなく、社会的な危機に直面している。だが、人類は人類でありて、個人は個人であると言う結果も結果である事は確かであり、それを人間たちが知る有無の自由は炎の円で囲まれた地とは対象の定めなき空であろう。少々、この問いの答えとは外れるが、私はニュートン・テスラ・アインシュタインの3人を生的思考順にして並べる事にした。この空間における問題ではニュートン→テスラ→アインシュタインの順でそれぞれが、その前の考えを自然と認識した上で次のステップに移動している事が私の脳内には存在する。私は特にこの空間における3人の考えに問題はないと知るが、普遍特殊性によってニュートン&テスラ組とアインシュタインの間での空間の定めが難しい事を告げられる。この空間において空間だけで考えている存在と言うのは居ない。空間と言う存在に何かを付けたして考える事で初めて空間を成立できるのが私たち人間である。この空間における中で空間と言うのはシンプルであると考えられるが、空間を考えるにあたって私はアインシュタインの考えに疑問を感じている。テスラとニュートンは空間を優先して認識して意識的に考えているが、アインシュタインは空間よりも時間を優先して認識して意識して考えている。故に、テスラとニュートンはよりシンプルであり空間と同じベースで考えているが、アインシュタインは空間よりも時間をベースとして考えている。この空間における考えで、アインシュタインの考えは空間の考えと言って良いのだろうか?と私は考えてしまう。だから、時空が生まれたのだろう。この空間における基礎で話すならば、ニュートンとテスラの考えが基礎であると言える。つまり、ここで既に空間と言う範囲内の思考は行われている。私たちはこれから、空間の範囲内の思考を進んでもそれは空間の考えとは言えない次元へと向かう。思考とは変幻自在する存在故に、空間と似ている。この状況も既に私の脳内では時空状態だ。空間には間違いなく力が存在する。細かく言えば、重力が空間にアクセスする事を可能とすると言えるだろうか?この脳内を言語化するのは中々に難しいが、空間に静的具象存在が生まれる事で力を空間内に誕生させて、動的具象存在が生まれる事で重力を発生させる事を可能として、人間が生まれる事で空間内で重力の発生を起こすのに成功する。この空間において外側は間違いなく人間だが、宇宙において外側は別の動的な存在であろう。それが具象か抽象か分からないが...。空間は思考や無と言った認識としての面が強いが、宇宙は私にとって認識外の面が強い。私は今宇宙に居たら、この空間における考えとは全く違う事は確かだ。この空間において、私たちは静的も動的も存在する具象と抽象が混合する所に居るが、宇宙において空間における存在たちがどのようにアクセスすれば宇宙であるかが私には分からない。例え、宇宙で空間の様な事が果たせても、それは宇宙ではなく空間となる。もし、そう考えるならば、テスラの空間の考えにおけるエーテルが深く関連して来る事になるだろう。これは存在が最初から持っている付与的なものであり、源となる存在と言えるのだろうか。それは人間が持つ具体的な機能の反対である、人間が持つ抽象的な機能と私は考えている。もっと言えば、感覚に近いのだろうか。それは認知プロセスの初期段階の存在。となると、私たちはこれからも、何時の時代も、毎度ながら、皮肉にも時代が相当な未知で予想が出来ない時代と言う所で考える事になるだろう。これは難問と言うよりは、興味深く楽しい問いに過ぎない。④【地球の自転速度が急上昇 理由不明】と"JP BREAKING NEWS A Pakistani migrant who tried to rape a schoolgirl in Tokyo was arrested. Even in Japan..."と告げに来る。自然と社会の脅威は突如なく加速する姿みるならば、私は自由ある故に秩序ありて、秩序は破壊されると考えていたが、どうやら違う様だ。未知ある故に秩序ありて、秩序は破壊されると言う考えに至った。地球の自転速度が急上昇するならば、その範囲の対象をパターン化して技術として保管する事が出来るならば、自然と社会の対立であり、皮肉にも社会の脅威は後になされよう。平和は自然の脅威でありて、残酷は社会の脅威であると言うなら、"Isaac Asimov"あなたが語る“The saddest aspect of life right now is that science gathers knowledge faster than society gathers wisdom.”この言葉の通りだろ。時代が進めば進む程に、この皮肉は進んで行くだろうと言いたいが、皮肉の連鎖が繋がっている状況だ。自由は秩序ではなく既存を破壊するが、未知は既存ではなく秩序を破壊する故に地球の自転速度が今後も変わり続ければ、地球の中に住まう人間の行動変化も大きく変わる事を体現するだろう。この問題は人間と動物で大きく違うと言う事であり、概日リズムを起点としたわけではなく、より根源的なそれぞれが持つ機能的な面での未知な部分が揺れ動く可能性がある。もし、地球の自転速度が変わり続ければ、人間の犯罪動機だけでなく、動物の一種の法則性が乱れる可能性は当然ながら、未知の連鎖が繋がり、私たち人間は理性の部分が仇となる可能性が生まれてくると言う事だ。そう考えるならば、" Thomas S. Kuhn"あなたが語った“Perhaps science does not develop by the accumulation of individual discoveries and inventions”を軸にして考える必要があるだろう。私たち人間が自らが生み出した社会よりも普遍な自然の脅威に好奇心の姿をみせるのは仕方なき事であり当然の事であろう。だが、社会の脅威は自然の脅威よりも待ってはくれない。先に社会の脅威をどのように片づけるか?と言える。この2つを対比して考えるなら、明らかに暗く大変で好奇心が生まれない問題は後者の社会の脅威であり、地球の社会犯罪速度は、次々に私の前に来る。「フードロス(食品廃棄)と消費倫理」と言う一通が私の場所へと来る。当たり前すぎる事を言うが、移民関係なく1つの国に住まう人数が増えれば当然ながら問題は山積みとなる覚悟は必須であり、それは「フードロス(食品廃棄)と消費倫理」の問題も例外ではない。この問題において厄介なのは、いずれにしても集団と言う枠組みで固定して考えてしまう人間の機能が存在する事であり、これが生じる事で本質は霧と言う名の言の綾によって隠される。まず、国があり社会がある時点で果たして安全と言う定義を定める必要がある事を私は知る。安全に時間を足してしまえば、この安全の定義をする上での難しさは高くなる。では、これを踏まえた上でAの問題とBの問題どちらを解決して安全を獲得するかと考えた時に、どちらかは遅れる事は確実であるが、どうやら私たち人間はそんな事よりも霧と言う名の言葉の綾の中に安心して住まう事を決めるらしい事を確認できる。全く、皮肉だらけだ。それで、あっても犯罪ならば被害者側が加害者に憎しみを抱えて実行すれば同じ事であり、リストではどうやらその告げが存在する。「パキスタンの一部の地域で見られる慣習「ヴァニ (Vani)」の問題」私たち、しばしばこの時に「フードロス(食品廃棄)と消費倫理」は相対的に問題意識としては低くなる事であり、それは現時点で正しい事だ。このvani問題は「フードロス(食品廃棄)と消費倫理」が体現している様に感じる。このどちらの問題も感情の権力を強く握る者が吠え、それが弱き存在は中間に位置する故に空と同じ対象。だが、皮肉な事に相対は生じて、大と小は生まれ、そこに判断の価値が生まれ続けて今も続いていき、対策生じても新たな存在は生まれ続ける中で、社会は技術によって人間性を無視した倫理の壁を前にして、対処して紡いでいき、社会はまだ絶えない姿となる。これ続く社会の中で、「フードロス(食品廃棄)と消費倫理」が消える事はない故に人間は人間の方へと刃を向ける。あぁ、人間は社会ではなく技術を知っているが故に生まれる今の現状を表した「フードロス(食品廃棄)と消費倫理」であるか。ならば、差別と同じくまだ文明が滅びに向かうのは全然遠き姿であろう。普遍は結果は同じである事をVaniは私に伝えた。その中で、憎しみと性に燃える男性2名が私の視界に告げに来る。憎しみは愛を崇拝して、性は愛を冒涜する。Vani問題からすれば、絶好な機会であり、形を変えながらも生きる方法の示しとなる事を知るだろう。いずれは、これが普遍化として行く中で人間の理性と感情の定義は難しくなり、そこに加担する正義や善悪は何処へ向かうのか?Vaniならぬ、似た行為もこれからも形を変えて生き残り普遍に紛れる様になる事は間違いないだろう。ここで言えるのは、思考を途絶えてはいけない事であり、人間の唯一の特権を手放してはいけないと言う事を1人のthinkerとして述べ続けるが、毎度ながらこの状況は「残酷と自由」の交響曲で生まれる過程そのものを感じているかの様だ。Vaniはその身を時代に賭けて自らを代償とした姿に憎しみと性に燃える男性の2名を時代の手によってVaniの対象とした。故に2名の男性は人生、尊厳、人権を生贄とした。そして、砂の地に落とされてSNSの食となった。私はこの状況をまるで、進撃の巨人シーズン3パート2の8話(57話)と似た状況を感じるが、興味深いのはこの2名の男性または似た者だけが面白いと感じてしまう所だろうか?だが、面白がっているに興奮が交えれば、現実では実行を作品では共感を生み出し、現実は時共に共感すらも生み出し、その共感は実行力を高める動機となる事を結果で知る。結果の時には既に2名の男性は壁の中で巨人となっているからこそ、被害と同時に捕獲を行う事ができ、それまでの過程を始めて可視化する事に成功し、文字にする事が可能となる。そこで、新たな別の問題が視界にあらわれる。「SNSにおけるインフルエンサーの影響力と、それが医学の専門知識を軽視させる現象「偽情報の拡散問題」」は同じ事を説明するのが面倒くさい為、手短となるが、これは大胆な罠だ。これによって生じる感情や理不尽さは決して青空状態と言えないのは当然だが、正解を求めるは愚行に過ぎない。正解を求める代わりに参考を求める事を前提とし、正解は本質の知から遠のく行為。ここで、ショーペンハウアー以外にも、アインシュタインの“Science without religion is lame, religion without science is blind.”と言う言葉を借りる。この科学の部分を医学として、医学を読んだり調べたりする人間に置き換える事で、「医学なき宗教は医学が勝り、宗教なき医学は宗教が勝る。」当然の事だが、医学と宗教では人間の救える部分が大きく変わってくる故に宗教の枠はインフルエンサーと同じである。人間の本質考えれば宗教がより救われ、それが何よりも信じる証拠の一部となるのは確かだ。そこで、ある問題が私に渡される。「故人を悼むことと、マナーをこなすことという、二つの異なる課題が同時に生じている状態。マナーという手段が目的化し、本来の目的である故人を思う気持ちに集中できなくなっている問題」皆が主観的にも客観的にも死を果たす中で、迫られる概念の正体とは何だろうか?そして、そもそもこの目的や本質とは何であるのだろうか?本質に迫る中でマナーは何を意味して何故存在するのか?マナーは消せても、感情は消せない事を知ると必然的に行動は行われる事を知るだろう。故にそれは皮肉を表す事でもあると知る。ならば、集団はリスク高く本質から遠ざかる行為だと考える。だとすれば、1人または少数で行うが最善であり、最も良い行いであると知る。これらの状態では、主観の割合の高さが通常よりも高くなるのではないかと考える。ならば、そこにある客観は何を意味するのだろうか?それは規範であり、常識と答えるのだろうか?存在の数知り、意識する数も変わるならば、客観は飾りに過ぎない事を知る。そこで、客観が崩壊した問題が私の所へと届く。【娘に性的暴行 父親に懲役8年求刑】客観が飾りとなる社会において、社会は客観に従わなくてはいけない存在として盲目になろうか。全く、そうする事で状況を厄介にする事を肝に銘じる必要がある。客観が従わなくてはいけない存在へとなり、客観の限界が来れば、主観は更に強力となり、個人の主観と集団の主観の強さは増して行くが、これも皮肉だ。故に既に社会の意味は何であろうか?と問われているが、人間はそれを無視し、向き合う事を避ける。否、最も厄介なのは客観の代わりが存在しない事だろうか。その面で言えば、SNSは正に1つの社会となり、パノプティコンと言える存在へと進化したと言える。このSNSの面で言えば、「-フーコーと探求的対話-2言語の10つの文に基づく。」で書いた文章の様にフィルターバブルとエコーチェンバーはこの現代社会において見事なまでに鞭と飴状態を生み出しているが、仮にSNSがなかったとしても必然的にこの状態を生み出しているだろう。早速、次のテーマが訪問しに来た。「ホームタウン問題」この問題は先程のフィルターバブルとエコーチェンバーが完璧に働いている故に中々に厄介であると言える。最もなのは、社会分断が非常に働くと言う所であろうか。現代社会は多様性を掲げた事によって、客観なる存在(法等)が更にスムーズに機能しなくなっている。ここで「MOD問題」とも関連させながら考えていく。正直、この2つの問題は他の問題よりも興味がないから、"Charles Bukowski"あなたの“I guess the only time most people think about injustice is when it happens to them.”と言う言葉をフックにして考えていく。この2つの問題で共通しているのは、感情的になって暴れる者の標的である点と言える。これが更に進めば、標的者たちは、その対象に向けてよりストレートに攻撃するだろう。皮肉にも、善の集いは浅いが、悪の集いは深い。その者たちが自ら行っているのが不正義や不正であり、それを認識して考えたとしても、変更されない結果は今の社会が掲げている通り多様性が示している。社会は時代に翻弄される中でよくもまあ多様性を掲げているものだ。それに、社会が口にして言葉にすると言うのが、どれだけ強力であるか...。これからも、この2つの問題の様に次々と剥がれ落ちてくるだろう。一体、誰が誰の認識を拭って、判断する事が出来るだろうか?この2つの問題は、社会やSNSや国の前に文化がある。まず最初に、認識を形作っていくのは、文化だ。多様性は、この個々が持っている文化認識をより頑固な文化認識へと発展させる。と語っている時に、早速関連する問題が来た。「認知バイアスとジェンダーステレオタイプが複合的に絡み合った社会心理学的問題」この問題において、①のルッキズム&容姿悩みに戻るが、この問題はルッキズム問題・容姿悩みの問題を加速させてしまう。それは、人工普遍性と自然普遍性が見事に動いているからであり、過程において厄介な問題を生じさせる。この問題は最終的に、ただの感情だけが残る形で終了する話題であると言える。これの厄介な所は自然普遍性から起点とされて人工普遍性に繋がり再度自然普遍性に戻ると言う流れを生み出している所であり、無限ループを行い、何も得ずにただただ終わる訳だが、これはただの個人による感情の表現に過ぎない故に、良くも悪くもこの2種類の人格しか生まれないと言う所である。つまりは容易な2つの構図に過ぎないと言う所であろう。ならば、俯瞰してみるならば現代社会の状況であり。客観どころか社会そのものの機能が不安定に過ぎないと言う事である。何故、不安定かと言うと、技術が社会を超し、技術が個人の感情の吐き口の手助けを行っている状況だからだ。でも、不思議な事にそういう状況であっても自殺は自殺のままであると言う事実。その事実は文字にされて私に渡される。【18歳以下の自殺9/1が最多 接し方】若者と大人でくっきりと分かれてしまった上に権力を握る大人の方が自殺が少ない立場で権力を握っていない若者の自殺が多い立場と言う事は、 未来を考えても例外に対処出来なくなるだろう。否、もう既になっているが...。ここで問いたい事がある。一体、それは現状が若者であるから自殺が増えているのか?それとも今後その若者が大人になっていく時に自殺は増えてしまうのか?またはその都度の若年層の所だけ自殺が増えるのか?どれであったとしても、社会が原因なのは絶対なのではないだろうか?そう考えるなら、自殺が増えているのではなく、時代的に所々社会の不条理が時代と常に揉めていると言う事なのではないだろうか?どの時代にも自殺があるならば、増えている減っている、年齢の違い、を根本とするなら自殺は未知のままで終わろう。自殺を自殺とするなら、それは大きく間違えているのではないだろうか?まず前提として私たちは社会に住まい、この自殺も社会で起きている。故にまだ自殺と言う自殺問題には辿り着いていない。これは社会の中で行われている自殺、では原因は社会を調べる必要があると言う事だ。答えは常に社会の中にあり、自らが生んだ社会であり、構造的だ。なのに、ヒントに迷う必要はないのに、人間はヒントに迷っている。それが原因だ。SNSが客観とするなら、人間は自らの社会で多情報に追いやられていると...。"Emil Cioran"あなたの“It is not worth the bother of killing yourself, since you always kill yourself too late.”と言う言葉をフックにさせて頂くが、確かに自殺はいつも遅い、自殺の局面であろうと深き辛い精神は常に揺れ動いている。人間は善が一瞬であり、悪が長時間である事を知っている。その揺れ動く精神ありながらも、善の瞬間を見た自殺する者は何を考える。私はエアコンの頂上に立っている。そのエアコンの頂上から、例え家であっても結成され、みえる善の瞬間とは代わらず善であると言う認識ながら普遍の連続を同時に認識する中で揺れ動く精神は本当に精神なのだろうか?私は状況であると考えている。つまり自殺は感情的ではない、合理的な判断で行われていると考える。故に自身の状況と言うのを俯瞰するのではないだろうか?昔と今では自殺の情熱が違う。もし、自殺の情熱が外向きならば、現代の様な社会問題にはなっていないだろうが、別の形では問題となる賛否の形を生み出すだろう。現代社会の自殺の情熱は内向きであるが故に社会問題となり賛否を超える形となっている。もし自殺と言う言葉だけで自殺する事が出来るが、それは少数しか持っていない能力であったとして、その能力は他人に対して自殺と発言するだけで相手を自殺させる事が出来る上に痛みはないとするなら、自殺とは何になろうか?だから私は自殺と言うのはないと考える。自殺する時に自殺を行いやすくする為に自殺を他人に頼む方だっているし、通常の殺人も殺人側からすれば合理的な判断で動いていると言うのは自殺者とかわらない。自殺や他殺などはあくまでも、状況を分かりやすく伝える為の言葉であり、自殺とは?他殺とは?と言うのを考える時に結局は死について考えている。つまり死の言葉は違っても死を行う者は自らの合理的な判断から実行しているに過ぎない。よって、死は合理的な判断で行われるが、生は合理的な判断で行われない。故に死とは生の応えであり、生とは死の報酬でありながら必然的に褒美となる。と言うのを、夜天をみながら考えるが夜天は私に告げる。「火球」"Douglas Adams"あなたの“The fact that we live at the bottom of a deep gravity well, on the surface of a gas covered planet going around a nuclear fireball 90 million miles away and think this to be normal is obviously some indication of how skewed our perspective tends to be.”と言う言葉をフックにさせて頂く。家ではボタン1つで光の調整を行えるのに、自然は妙な動きをして光を調整する。実に不思議な事だ。つまりは、私たちは光調整ある場所に私たちは別の光調整を行わないと言う事だろう。否、それを行えないと言う捉え方も出来る。確かに私たちは、深い重力井戸の底に住んでいるが、火球はどこにも住んでいない。もし火球が現象と言うなら、私は本質と矛盾すると考えている。火球に対して私たちは現象なのか?本質なのか?と問うならば、火球と同じ答えであろう。だが、深い重力井戸の底に住んでいる私たちは、この有り得ない事態の火球に惹かれるだろう。それは"Douglas Adams"あなたの言う通り、私たちの視点が如何に歪んでいるかと言う所と深く関連してくる。ただ、その視点が如何に歪んでいるかと言う対象が時代と共に変わってくるだろう。それは段階と言うべきか?それとも人間の傲慢と言うべきか?どちらであっても、火球の惹かれは正解と言うのによって終わりに近づく。今までが火球の惹かれだったのが、現代では科学によっての火球の惹かれと呼ぶのが正しいだろう。私たちの視点の歪みが対象に意味を与える事で、生まれるのは何だろうか?その生まれた存在も人間によって消されるかも知れない。私たちの視点が歪んでいるからこそ、私たちの知そのものが活発になる。もし、私たちの視点が正常ならば、知そのものは単元的な正解だけで終わるだろう。そんな中、1つの象徴の不在が私に知らせる。「発達障害(児)含む、普通とは?」正解も普通も象徴は不在だ。僕のヒーローアカデミアをフックとして頂くが、平和の象徴や悪の象徴が居れば普通や正解とは何になるだろうか?私は正解の象徴は居るが、普通の象徴は不在のままだと考える。ヒロアカを通して考えるなら、正解の象徴とはステインであるのではないだろうか?自己の信念に命じて進む者。ならば、正解とは内であり、普通とは外であるが故に誰も正解を指摘する事は出来ないが、普通は指摘する事が出来る。平和の象徴居ようとも、普通の象徴が不在ならば、子とは何をみて、親は何を言にするのだろうか?実に、この皮肉な状況こそが普通の象徴であり、普通は悪の象徴なのかも知れない。これは普通な当事者が悪なのではなく、普通そのものが悪と言えるのではないだろうか?正解の象徴であろうと、平和の象徴であろうと、それは強きを要するが、普通の象徴が悪ならば、強きを要する事はない。故に皮肉で残酷である事はかわらないが、悪の象徴は平和の象徴、平和の象徴は悪の象徴ならば、普通とは悪を必要とする。それを否定するならば、正解の象徴が普通の象徴であり、普通の象徴が正解の象徴であるだろう。だが、同じく普通の象徴は悪を必要とする。そこで、元気の象徴が私の所へ届く。「タレントのメンタルヘルスと、SNSにおける発言の適切な管理」私たち人間はSNSを一体何とするのだろうか?そしてタレントをどの様な存在として捉えているのだろうか?多くの者はポジティブ存在と言うイメージを持っているだろう。故にプロフェッショナルとしての振る舞いとのズレそのものの境界線はSNSによって強く引き起こされる事を可能にしたが、実際の所、現実よりもSNSはパノプティコンとしての働きが強くSNSの定義的面に振り回されるだろう。それは自身の立場が大きくなればなるほどに...。だから皮肉で悪循環を生み出しやすいが、それはプロフェッショナルとしての規律を育む面も生み出すが、その規律とタレントと言うのは実に相性が悪い。否、矛盾が生じやすいと言うべきだろうか。時代が進む事に、SNSのパノプティコン働きが強くなっている事で、タレントは精神的ストレスを強く感じやすいのは当然ながら、SNSも事務所も現実も全て規律と監視による必然的な権力の構図が生まれてしまう。フーコーの考えだけでなく、トマス・マシーセンが提唱した「シノプティコン」も深く関わっている。つまりは、タレントはパノプティコンだけでなくシノプティコンにも強く影響を受ける存在と言う事であり、その様な状況でタレントはどの様な行動を選択するだろうか?既に答えは明白ながら、急遽、私の所にある者が語りに来る。「高校の生物教員が、男子生徒と女子生徒を2人ずつ前に出させ、性行為をイメージさせる体勢をとるよう指示しました...」またこの系統の問題ですか...。私は正直この問題において中々進む事が出来ない。何故なら、この問題が増えすぎているからだ。故に論理としての限界値が迫られている。この問題が増えていると言う事は、どうすれば良いかと言うよりも消費行動に繋がり感情の集いしか存在しなくなると言うよりも、どんどん論理が極端に傾く事となり、建設的な論理の対話が行えない状況を生み出す。そしてあるは感情だけが滞在している。議論の方向は必然的に消去法選択となり、本質の解決は遠ざかる。これは概念的イメージで言えば、外に居る巨人から身を守る為に壁を何重にも築き上げるのと似ているが、それは集団だけでなく個人にまで及ぼす。この問題で論理の停滞が流れる中、1人の少女が私に告げに来る。「英国の法律が自己防衛よりも不法行為を重く罰していると見なされる問題」私は「法の数が増えれば増えるほど、政府は法という知に縛られ、自我を失う。フーコーの言う権力と知の関係性を逆手に取り、政府を支配する新たな権力構造を生み出すのだ。」と言う格言を"Tacitus"あなたの“The more corrupt the state, the more numerous the laws.”と言う言葉を基にして去年生み出した。またこれは先程の性問題の増加とも深く関連している。性問題の増加が増えると言う事は、愛を冒涜する者が増えると言う事でもある。だからこそ、愛は愛を守る為に自ら棘を生み出すが、性問題が増える社会で法律に違和感が生じ法律を握る者は思考停止に招かれ、瞬時に既存の範囲内で判断を下すが、法律を握る者がそれを行うと言う事は、法律を握っていた者が法律に違和感を感じる様に、民たちは法律を握る者に違和感を感じると言う当然の結果を生み出す。これがこの先も続けば、民は細かく分類が起きて、民同士で違和感を感じると言う事になり、完全に法律は機能しなくなるだろう。また、法律と宗教が結びつく事態に発展する可能性が高くなるだろう。ここで、源なる本質が私に知らせる。「性被害の被害者は女性に限らない」性被害は存在ある動きならば、成立するのは当然ながら、今後性問題において性被害がより多重的に行われる可能性があるだろう。つまりは性の交渉が行われる危険がある。例えば、性には興味ないが犯罪などには興味あり、別の目的がある者と性にしか興味がなく性を行えれば済む者。この両者で既に交渉が成立する可能性は高い。何故なら、現代社会が示すは客観の機能不全である。法律や客観なる存在は完全に万全ではない事を明確に伝えていると言う事は、その反対の個人的な感情の正当化が行いやすいと言う事でもある。だが、性が絡んでくると途端に判断が複雑になる事は事実。皮肉なのは、被害者の生死がどちらであろうと、加害者は成功し続ける事だろう。例え、捕まっても、逃しても、何があろうと加害者側は成功する。何故なら、合理的な判断ではなく、感情的・本能的な判断で完璧に行われている。これを否定する事は人間には出来ない所が残酷と言える。理性、感情、本能を持つが故にの結果だが、唯一思考する事は出来るが故に自然と性被害の被害者は女性だけでは限らない事を知っている。性被害の被害者が女性に限らないとするならば、性加害の加害者が男性に限らないともした場合、性加害と性被害の組み合わせが実に自由であると言える。これが自由であると言う事は、既に客観の価値が本質的な部分では薄くなり、代わりに主観の価値が本質的な部分では濃くなる。それによって、生み出されるのは、第一印象・見た目に繋がってくる。そこで、とある情報が速報で私に届く。「違法薬物事件への関与問題」薬物とは自己責任なのか?治療を要する病気か?とAIは私に問いかけて来た。ここで"Carl Hart"あなたの“Indeed, a great deal of pathological drug use is driven by unmet social needs, by being alienated and having difficulty connecting with others. The”と言う言葉をフックにさせて頂くが、使用する個人の薬物動機を重視する必要があると考える。薬物が自己責任であっても、治療を要する病気であっても、固定観念的構造には勝らない。どちらの選択を選ぼうとも、生涯つきまとう存在ならば、個人が向かう先はどこであるか。もはや、この現代において薬物と言う存在は法で厳しく処罰されようとも、スムーズに機能するのが難しいだろう。多くの情報が溢れている現状、薬物の境界線の定義は揺れ続け、薬物を使用する者は海を眺めていると同様に薬物に溺れる。薬物単体ならば、海とは言えないが、薬物を使用する個人ならば、海と言える。海の向こう側を考えると同じく、薬物を使用する個人の向こう側も考えれば、等しき未知が対象。だが、海も薬物使用する個人も表面はあり、その表面が強ければ強い程に、その存在そのものの魅力が強まる。ならば、それは視覚的薬物として機能する。やはり、固定観念的構造に勝つのは難しい事を知った中でカモメが私にあることを教えに来る。「特定のグループによる過去の出来事の模倣行為が、別のグループの感情を害している表現の自由と倫理的配慮の衝突問題」何と言う皮肉。特定のグループによる過去の出来事の模倣行為が、別のグループの感情を害しているが、その感情の害していると言う気持ちが外に出る程に特定のグループによる個人の感情は尖り続ける事で、その個人はそのグループのイメージ権力を握る程の存在となりて、感情の害していると言う気持ちを外に向きだした時点で私たちは権力を握られている状況。表現の自由とは興味深い。表現の自由あるならば当然倫理的配慮の衝突問題は生まれようが、それを発展させる必要性はない。この現代であれば尚更と言えようか。1人いれば、もう1人いると考えるならば、どの選択肢の道を選ぼうと破滅的行動。その時に命、金銭、などを賭けている存在も居れば、悪意を持つ存在も居れば、ただ流行りにのる存在も居れば、ただそういう時期の者も居るならば、全てのレッテルを除いた個人として見つめよう。その個人中心として巻き込まれている個人も個人として見つめる時、やはり人間が備わっている機能の強弱が集まっているに過ぎない。だが、それは必然的に個人に特定の感情を与える。現代はこの営みの作業であると言えるかと考えている時に新たな情報を知らされる。「緊急避妊薬の市販化を、移民増加による社会不安と結びつけて、外国人の犯罪や性的な逸脱が増加するかのような偏見や差別を助長する可能性がある問題」これも先程同様に必然的に個人に特定の感情を与えているが故に、大きな問題にまで発展しているのだろう。それが例え、偏見や差別の助長、陰謀論であっても感情は事実を伝えるに過ぎない。それだけ多くの者が、不安の支配下に居ると言う事ならば、"Anscombe"あなたの“Those who try to make room for sex as mere casual enjoyment pay the penalty: they become shallow. At any rate the talk that reflects and commends this attitude is always shallow. They dishonour their own bodies; holding cheap what is naturally connected with the origination of human life.”と言う言葉が深く関連するだろう。性とは、愛を冒涜する事が出来る程の存在に至ったなら、今後において興味深い。もし、人間が持つ権利を放棄した存在が現れたとしたら、性人間は権利を所持している人間と権利を放棄している人間どちらに向かうのだろうか?性人間は強い快楽を得る事が出来るなら、人間でなくても良いのだろうか?性問題が増えつつある現状で、こういった問題を減らそうとしたり、感情を吐きだしたり、思考停止になったりするなら、性人間を完璧に把握して、それに向けた開発を行った方が良いのではないだろうか?もし、それが行われていない・否定があるならば、性は未知であり、既存が強く働ていると言う証しだろう。性が未知とするならば、人間同士での発言争いは愚行に過ぎない上にまだこの問題は解決出来ないと言える。ところが、未知なのは性だけでなく音楽も未知である音の語りが私に指揮する。「TikTokのようなSNSで流行を狙うために作られた、中身のない質の低い音楽が増えていること問題」音楽を奏でるは個人を奏で、信念を奏で続ける個人は情熱の指揮に引き寄せられる。色とりどりである事は重要であり、音楽そのものが死んでいない証拠だ。私は音楽に限らず芸術とは厳密さを嫌い、自由を求めているのではないかと考えている。確かに厳密さある芸術もあり、評価され、好む者も居れば、好まない者もいて、最終的には観客に感情を与えているが、私はどうしても芸術そのものについて考えてしまう。芸術は、私が厳密に行っていようと何処か楽しくなさそうだ。まるで、小さい檻に住んでいる生き物の様に、そこに生き物(芸術)としての本質を感じさせない。私が自由に芸術を行うと、芸術は自ら更なる自由を求めていく。自由な時ほど芸術は生きる。その時、私は私を知らない。そんな中、とあるニュースは私の耳を掴む。「「早く生き地獄から解放されますように」 中学3年男子生徒が自殺 遺族が語る学校の対応への不信感」正に酷であり酷は続く事を証明する問題である。酷を発展させるは人間でありながら、死の連鎖すらも生み出してしまう程の酷な争いを繰り広げる。全く、この先の社会はどうなる事か...。源辿れば、社会であるのに何故個人に刃を向ける。それでは生み出されるは危うい連鎖に過ぎない。人間は皆、普通ではないが普通を求める故に苦しみ、普通を知る事が出来ないからこそ普通を押し付ける世に外に居る人間は世ではなく個人に刃を向ける。人間とは世に比べれば、弱小である存在は当然。ならば、人間に刃を向けるのと世に刃を向けるのはどちらの方が未来の価値があるだろうか?人間が人間に刃を向けている間は、この問題は意味を生まない。そして、残るはまた人間の感情か...と考えていた時、とある若者に関する話を聞いた。「「若い世代(特に女子高生)」が、移民政策が進むことによって日本の治安が悪化し、性犯罪が増加するのではないかという強い不安を抱いている問題」強い不安とは何を縛るだろうか?それは間違いなく個人そのものを縛る鎖として機能する。鎖に縛られている個人が居るならば、周りはどうするだろうか?それは助けの有無を示し、例外を発見する。だが時間は彼女だけでなく個人の生を握る存在ながら、生を進めている。皮肉な事に、時に周囲の救いとは集い1つの権力として機能する様になる。人間は自然界に居て、朝と夜は自ら行わなくて良いが、社会に居て、政治の朝と夜は自ら行わなくては行けない。だが、SNSがある事でそれは可視化されやすく現状が朝か夜かであるかを証明するのに便利だ。今も、"Charles Bukowski"あなたの言葉が脳内に度々あらわれる。でも、興味深い事があるんだ。やはり人間はまだ知性に欠けている。この問題と「女性アイドルの恋愛問題」が深く関わっている。私たちは確かに相手を特定のレッテルで判断しているが、合理的な判断を下す事が出来る存在であると言うのが、この2つで分かる。否、実に嫌な所は立場が違っても結局辿る結果は同じであると言う所である。アイドルであっても、高校生であっても、まだ幼い心だ。なのに人間たちは幼い心を容赦なく刃を向ける。ここに来て、本当に恐ろしいのは感情ではなく合理的な判断であると考えられる。意識的か無意識的は分からないが、人間は合理的な判断が本能レベルで高い。私たちは常に人間の合理的な判断によって振り回されるが、SNSによって明らかにそれの可視化性は高くなった。どちらの2つも若者がこの様な状況になっていると言う事は既に結果は夜を示している可能性が高い。だが、合理的な判断がある事で例え朝を示す可能性が高くても人間はそのままである事を踏まえたら、未知の領域だ。そろそろ疲れてきているので、AIを使い難問をフックにする。「移民政策と治安悪化(特に性犯罪)の関連性をどのように捉え、議論するか」移民の増加が直接的に性犯罪の増加につながると思われても仕方ないだろ。それは人間に備わっている機能だ。何であろうと個人の感情や認識はそう簡単には変わらない。大事なのは、個人の心が不安になっていると言う事実のみ。正直、「移民政策と治安悪化(特に性犯罪)の関連性」と言う存在そのものが建設的な議論を消滅する罠だ。だが、個人の心が不安になっていると言うのは、時に人間の合理的な判断で潰される。女性アイドルの恋愛問題をみればそれは分かる。恋愛の定義とは何か分からないが、多くの場合は好きだから付き合っていると言うよりも個人の心のネガティブな部分を埋め合う為に付き合っていると考えられる。好きと言う気持ちは確かに存在するが、好きの気持ちは長く継続的に続く存在ではない。だが、ネガティブな部分である不安や寂しさと言うのは、長く継続的に粘着する存在である。もっと言えば、もしかしたら、好きと言う気持ちにネガティブな部分が少々含まれている可能性は否めない。もし、好きと言う気持ちだけがありネガティブな部分がないとしたら人間は果たして、どの様な付き合い方をするだろうか?それは友達や家族とは異なる存在である定義の境界線が揺れるのではないだろうか?と私は考えている。そのネガティブな部分の気持ちを隠す為に、恋愛を行う者も居るだろう。特に、忙しく、常に監視され、様々な規範などがαで判断される立場の者にとって恋愛ほど様々な脆い感情と欲求が満たされる存在はなないと考えられる。だが、それをみる者は全方向に大きな壁を誕生させ、刃を向け、更に苦しむ対象を中心として合理的判断と感情で多重化結果を生み出し、もはやイベントの一部となる。移民政策と治安悪化(特に性犯罪)の関連性も女性アイドルの恋愛問題もそうだが、対象の立場が増えすぎている事で、そこで一般的な範囲内で考えられる稀である事が起きると、それはイベントの一部となってしまい建設的と言うよりかはネガティブがひっくり返った一種のポジティブの集合が始まる。だが、それは一時的であり、本能レベルで持っている合理的な判断によって、戻される結果となる。"Montesquieu"あなたの“...when the laws have ceased to be executed, as this can only come from the corruption of the republic, the state is already lost.”と言う言葉も深く関連している。法律と宗教の組み合わせ以外にも、現代は様々な規範が法律よりも強く機能している状況だ。国家が既に失われていると言うよりかは国家の代わりとなる存在が、その境界線において主導権を握っている状況であり、国家がそれに対処しきれていない状況としても捉える事は出来る。その様な状況で、きっと政治に関わる者は疲労しているだろう。それは当然だ。朝を迎える事が出来ないで、夜に居続ける立場なのだから。国家は法の機能より思考機能が失われた時に本当に失い、国家は人間の本能によって生まれた結果の様な光景となっているだろう。女性アイドルの恋愛問題は、AIの難問をフックにする。「「ファンとの擬似恋愛関係の維持」と「恋愛禁止ルール」というビジネスモデルが、個人の人権と幸福をどこまで制限できるのか」アイドルたちはまだ若く、若い存在は見守り続けていく必要がある。恋愛禁止ルールやファンとの擬似恋愛関係の維持が問題ではなく、アイドルがどの様な存在でなくてはいけないかの定義が不明なのが問題なのだ。アイドルは元気を与えると同時に夢中を与える存在とするならば、特定のグループ関係なくアイドルそのものを見守り続けていく必要がある。例えアイドルであろうとも社会に住む者であり、まだ若い存在であると言う事は、業界そのものの有り方も考える必要がある。アイドルについて考える上で、アイドル自身が最大限に力を発揮できる事が、アイドルにおいて何よりも大事であり、これが崩れればアイドルである必要性は途端に低くなるだろう。幸福なアイドルと不幸なアイドルならば、アイドルそのものを引き上げる事が出来るのは幸福なアイドルだ。アイドルは芸術と同じであり、制限をするべき存在ではない。最大限なアイドルは最大限のポジティブ効果を必然的に生み出す。国を渡り告げに私に告げに来る。「異常な事象の連鎖が、統計学的な説明を超えている。」"Skinner"あなたの“Democracy is the spawn of despotism. And like father, like son. Democracy is power and rule. It's not the will of the people, remember; it's the will of the majority.”と言う言葉をフックにするが、確かに民主主義は多数派の意志に変わらないが、現代で捉えると少し変わってくる。現代はSNSが発展して強力な存在となった現状で民主主義は確実に少数派の意志の影響は受けていると同時に多数派と少数派に属さない例外の影響も可視化されやすくなった事で全ての定義が曖昧になる故に民主主義にとってはこの現代ほど天敵である存在はないだろう。もっと言えば、パノプティコンやシノプティコンに加えて「-フーコーと探求的対話-2言語の10つの文に基づく。」と言う文章で出て来た概念らとも深く関連するが、時代と社会の技術などが組み合わさった事で民主主義にこれらが纏わりついていると考える。現時点で中々に体力的に厳しい為、AIの難問をフックにさせて頂く。「統計学的な異常が示す『パターン』が、単なる偶然の一致か、あるいは組織的かつ意図的な行為によるものかを、決定的に証明する方法」決定的に証明する必要はないと考える。どちらであっても、目に見えないと言う点では変わらないが、もし偶然であるならば、"Vladimir Ilyich Lenin"あなたの“There are decades where nothing happens; and there are weeks where decades happen.”と言う言葉が深く関連するだろう。組織的かつ意図的な行為であっても、それは偶然とも言えるし、偶然であっても、組織的かつ意図的な行為とも言える。大事なのはここではない。政治において異常が行るならば、結果は未知を告げると考えた時、前回の「7月5日含む、学際的予言現象構造解明の概念数式哲学長文」で書いた「政治は予言であり、予言は政治であるからだ」と言う言葉と深く関連する事になるだろう。つまり大まかな流れは予言と似ている傾向が高いが、予言よりも具体性が高い政治故に細かい所は全く違う事になるだろう。ならば、やはり政治は天から見下ろすのが最善であるか。SNSと情報は政治と予言ならば現実よりもストレートな意見を行いやすいが故に多情報や真偽など非常に多くの存在がある事で対立と分断が起きてしまうのは当然の事。数の偶然は必然的を要するが、仮にそれだとしても、社会が抱えている政治の本質的な部分は変わらず機能する。偶然であろうと必然であろうと、それが組織的かつ意図的な行為であっても、未知の領域では意味を生み出す故に、政治とは私の探索領域に等しい場所ならば、これは予言同様に未知の一部。予言と違うのは、人間の量の問題であろう。予言ならば、多くの者を率いる事が出来るが、政治ならば、多くの者を率いる事が出来ない。この現状なら尚更そうであろうが、この結果は皮肉にも組織的かつ意図的な行為の方が政治は救われ、偶然の方が政治は敗北する事になるだろう。違う捉え方で考えるならば、既に政治と言う存在そのものが組織的かつ意図的な行為であり、その政治によって救われなかった人間から見れば、何ら異常な事象の連鎖とは言えないだろう。また違う捉え方で考えるならば、既に政治システムによって命を奪われる方も居ると考えるならば、異常な事情の連鎖とは言えないだろう。この結果は、人間の本能レベルと政治システムが衝突した考えられる範囲内の問題である。しばしば表面的な異常は吸引力が強い故にシステム面に焦点が照らされる事は滅多にないと言う嫌味な現実に私はとある存在に引き込まれ問われる。「ブラックホールがあるならホワイトホールもありますか?」私はこの問題に考えるにあたって、「鈴木 大拙」あなたの「私が茶室でお茶をすすっているとき、私は全宇宙を一緒に飲み込んでいること、そして茶碗を口元に運ぶこの瞬間が時間と空間を超越した永遠そのものであることを誰が否定できるだろうか?」と言う言葉が深く関連すると考える。全宇宙を飲み込む時、それはブラックホールよりもブラックホールであると言えるのか?それも疑似に過ぎないか?どちらであっても、ブラックホールと言う名前は事実であり、それは疑似体験と言える。「茶碗を口元に運ぶこの瞬間が時間と空間を超越した永遠そのものであることを誰が否定できるだろうか?」確かに、茶碗を口元に運ぶこの瞬間とは時間と空間を超越した切り取りの瞬間であると言える。だが、それは永遠の孤独であり、茶碗の口元にくれば、そこでとどまる。もし、そこにブラックホールとホワイトホールがあるならば、それはワームホールと言うべきかと考えるが、ワームホールならば超越できないとしたら、そこにあるは永遠の私でしか成立しない意識と考えるなら、"Albert Einstein"あなたの“Black holes are where God divided by zero.”と言う言葉と深く関連するが、ブラックホールそのものには神がゼロで割ったとは私には考えられない代わりに、ブラックホールの手前の空間と瞬間において、神がゼロで割った所なのではないかと私は考えている。そしてホワイトホールがあるならば、本当の意味でブラックホールの手前側は永遠の孤独であると私は考える。もしブラックホールがホワイトホールとしての顔を持っているのであれば、"Stephen Hawking"あなたの“So Einstein was wrong when he said, "God does not play dice." Consideration of black holes suggests, not only that God does play dice, but that he sometimes confuses us by throwing them where they can't be seen.”と言う言葉と深く関連する。ブラックホールが神がゼロで割った場所ならば、神はブラックホールに対してサイコロを振るとは考えられないが、もしブラックホールの手前側が神がゼロで割った場所ならば、神はサイコロを振る事が可能となる。神がサイコロを振ると言うのを可能にした瞬間、私たち混乱する必然にある。何故なら、それは未知の範囲が広がると言う事であり、私たちはそれを回収する必要があるが故に、神がサイコロを振るとは最大の自由を生み出す。よって、人間にとっては情報パラドックスすなわち神が振ったサイコロが集う瞬間ともなる。ブラックホールとホワイトホール、能動的な存在に対して時間変動が有効であれば、私は生物として捉えよう。「因果律はブラックホールやホワイトホールのような極限的な環境でも成り立つのか?」と問われれば、成り立たないが、それは完全に成り立たないと言うプロセス的意味ではない。ブラックホールとホワイトホールでなくとも人間でも原因より結果が先行すると言うのはあり、それは人間の心理や認知の複雑さが引き起こす現象だとするならば、ブラックホールとホワイトホールもそうなのではないだろうかと考える。だが、ブラックホール/ホワイトホールの場合、その矛盾は物理法則そのものに根ざしていると言う人間の決定的な違いがあるならば、既に物理法則そのものが能動的なブラックホールとホワイトホールにおいての矛盾が生じる。この問題にはしばしばもう少し時間が必要であるが、体力に限界な為、ここで終える事になるが、1つ確かなのは、結果と原因があるならば、もっと根本的な過程が存在する故に対象がブラックホールとホワイトホールとなると、宇宙そのものと絡めて考える必要があるならば、「宇宙は因果律によって完全に決定されているのか、それとも偶然や自由意志が入り込む余地があるのか?」と問われれば、宇宙は1つに断言されるものでなければ、ブラックホールとホワイトホールも1つに断言されるべきではない。だが、最も厄介なのは偶然は大抵は可視化されない所であり、追えないと言う所にあるが、宇宙においては既に自由意志は入り込んでいる。私たち人間が宇宙にアクセスできる事自体が自由意志が入る余地があると言う事であり、神がサイコロを振るならば、それは偶然性の証拠と言える。「ブラックホールはホワイトホールなのか?」と問われれば、それも全然あり得ると言うよりも、このテーマに対して正解と不正解と言う範囲内で考える事自体既に愚行であり、私たちはサイコロ側であると言う事になる。ブラックホールとホワイトホールの問題において大事なのは、どれだけの考えを生み出し、考えの城を築き上げる事が出来るかどうかだろう。だが確実に言えるのは、ブラックホールとホワイトホールは宇宙に存在する事であり、日常に潜むブラックホールとホワイトホールの方が難問であると言える。これを聞かれた時点で、宇宙のブラックホールとホワイトホールはイメージ出来るが、日常に潜むブラックホールとホワイトホールはイメージ出来ない故に更に未知であると言う事に過ぎない。ブラックホールとホワイトホールは対象の法則的流れは実にシンプルであるが、シンプル故に未知であり、自由であると言う事は物理学においての最大の天敵とも言えるだろう。/1000分・16時間40分位、知的自己乖離自動思考筆記感情&難問フック断片的記憶再生状態で書かれた文章群/④は32つの文に基づく。
ペンを置く。だが、旅は終わらない。私の脳裏には、まだ無数の問いが渦巻いている。この1000分間は、ただの始まりに過ぎない。美の根源、自律と自立の不協和音、空間に潜む力、そして社会という名の怪物が吐き出す毒。これら全てが、私の魂に深く刻まれた。この記録は、ただの独白ではない。それは、この世界に存在するあらゆる矛盾と戦い、そして和解しようとする、私の果てしない探求の証である。私は再び、言葉という武器を手に取るだろう。そして、この荒野を、思考の光で照らし続けるのだ。