第8章
朝食のほうはそれぞれの希望により、五時半以降であれば用意できるということであったので、俺は六時に起きるとアイスコーヒーにスパニッシュオムレツ、パンケーキといったような食事を軽く済ませ、以降はノートに鉛筆を走らせつつ、今のホテル内の人間関係についてまとめたり、あるいはコラムの下書きにあたる文章を書いて過ごしていた。
(やれやれ。鉛筆なんてものを使うのは一体何年ぶりだろうな……)
そんなことを考えながら俺は、時々文章に詰まるとノートの片隅にイタズラ書きをしたりしつつ――ジェームズ・ホリスターかアーサー・ホランドかクリストファー・ランドのいずれかがやって来るのを待った。何分、きのう到着しての今日なのだから、昼過ぎに起きてきたとしてもまったくおかしくはない。だが、俺の中である程度計画のほうは決まっていた。つまり、ランド博士やホランド博士やホリスター博士がひとりでいる時を見計らって話しかける瞬間をひたすらに待つ。三人ともいい歳をした大人なのだし、いつでも三人で朝食もランチもディナーも取るということまではないだろう。いつかそのうち、午後の三時くらいにでもコーヒーなり紅茶なりハーブティーなり、ひとり優雅に飲んで過ごす……そんな瞬間がやって来るに違いない。
そしてそういう時に俺は、実際にはこのホテルの図書室の棚にあったものであれ、自分のものだという振りをして著者名のところに彼らの名のある本をサッと差しだし、「博士のファンなんです。出来ればサインしてください」と頼むつもりでいた。
もしかしたら訝しがられるかもしれないし、邪険にされるどころか、敵対視するような目で見られる可能性もある。だが、この三博士のうちふたりが話しているというだけでも俺には彼らの間に入っていく勇気がなかったし、唯一ひとりひとりについてということであれば――それぞれの専門分野について多少なり知識もあり、少しくらいは相手にしてもらえるのではないかと想像したのだ。
到着の翌日の七月十五日、アーサー・ホランドは八時十分頃、いかにも眠そうな様子で食堂にやって来てトロピカルジュースを飲み、チーズサンドとツナサンド、それに野菜サンドを食べていた。強い癖のある黒髪のほうはまるで梳かしてなく、庭で好き放題に伸びた雑草そのものだった。俺はこの時、(早速とばかりチャンス到来!!)と思い、『臓器プリンターのさらなる未来』について云々……といった言葉を頭の隅に思い浮かべつつ博士に近づいていこうとした。ところが――偶然クリストファー・ランド博士がやって来て、「やあ、アーサー。いい朝だね」などと話しはじめたわけだった。
俺はじりじりする思いで、(いっそのこと思いきって話しかけてみるか?)と思いもしたが、やはりじっと待つことにしたのである。
「ジェイムズはどうしてるんだい?まあ、きのうの今日だから、まだ寝てたとしてもおかしくないが……」
「いやあ、彼は噂で聞いていたとおり頭がおかしいね」と、ランド博士は快活に笑った。「朝はもう五時半か六時には起きて、オカドゥグ島の白浜をひとっ走りしてきたようだよ。そのあとはホテルの庭先あたりでストレッチしたりしててね。今もうちょっとしたらこっちに来て朝食をとるんじゃないかね」
「ふう~ん。せっかくネットのない環境で、仕事や人の予定に煩わされずに過ごせるのに、いつも通りのルーティンを崩すことまでは出来ないってことなのかな」
「そういうことなんじゃないかね。僕も、若い頃みたいに昼過ぎまで寝てようかと思ったのに……歳なんて取るものじゃないねえ。朝陽が昇るのと同時になんていうのは流石に大袈裟だが、部屋を真っ暗にして寝てても睡眠が浅くて起きてしまうんだね。まあ、ネットに接続できるか否かは別として、研究のあれこれに関して純粋に思考労働しようとは思ってたもんでね。環境が変わったことで斬新なインスピレーションでも湧いてくればいいんだが……」
ランド博士の言葉通り、こののち十分もしないうちにジェイムズ・ホリスターが「よっはっほっ」という掛け声とともに、体を捻りながら廊下の向こうからやって来た。俺は三人がきのうと同じく親しげに会話しつつ朝食を終えるのを見るとはなしに見守り続けた。残念ながらこの日は、三人とも大して実りのある話をしていたわけではない。ただ、この日から一週間としないうちに――俺は三博士の人物像について、大体のところ次のようにまとめていたのである。
・ジェイムズ・ホリスター=スカイウォーカー社の創業者。地上自動走行車の成功者としても知られるが、それ以上にエアカーに搭載する楊力エンジンの開発者として名高い。年商が軽く三十兆円を超えることから見ても、ミスター・ホリスターにとって『ヒューマノイド当てクイズ』で百万ドルが当たったとしても、それは氏にとって大した金額でないのは間違いない。
いわゆる「成功者」として行っている日々のルーティンに「なるべく七時間半は眠ること」、「規則正しく運動すること」、「栄養バランスの取れた食事をすること」などを挙げており、判で押したようにこの点については守っているらしい。年齢、六十七歳。二十歳年下の妻との間に息子と娘がふたりおり、先妻との間にも息子をひとり儲けている。
・クリストファー・ランド=長年のヒューマノイド研究の功績が認められ、ノーベル物理学賞を得る。ヒト型アンドロイド研究については多くの大学でなされているが、ランド博士はいわゆる<不気味の谷>を越え、アンドロイドをより一層人間に近い存在にした……というのが受賞理由である。年齢、六十五歳。同じケンブリッジ大学を卒業した妻との間にすでに成人した息子と娘がひとりずついる。
・アーサー・ホランド=マサチューセッツ医科大学卒の医師。心臓外科医として十年ほど現場で活躍したのち、生体3Dプリンターの研究のほうへ軸足を移す。三度の離婚歴があり、一度目の妻との間にふたり、二度目の妻との間にもふたり、三人目の妻との間には三人の子を成しており、現在は四人目の若い妻と結婚中。精力旺盛、意気軒高といった雰囲気で、肌が浅黒いせいだろうか、外科医というよりはチャラいサーファーのように見えなくもない。
インターネットに接続できない環境とはいえ、彼らの名前で検索してウィキペディアを調べたとすれば、もっと詳細な情報はいくらでも出てきたことだろう。とはいえ、これはあくまで俺の個人的なメモ書きのようなものなので、こんな程度でいいと思った。ちなみに、今のところ俺の中ではこの三人のうち『ヒューマノイドである可能性が高いのは誰か』と問われたとすれば――現段階では三名ともゼロパーセントだとしか言いようがない。
ところで、俺が早寝早起きして、食堂を見張る生活をはじめて数日としないうち、気づいたあることがある。簡単にいえば、モーガン・ケリーがずっと俺と同じことをしているのだ。そこで、ある朝俺はモーガンと顔を合わせると――「収穫のほうはどう?」なんていうふうに声をかけたわけだった。
「そうね。大体のところテディ、あなたと同じくらいなんじゃないかしらね」
「だよな。それに俺の場合は何も、あの三博士のうち誰かが本当に本物の人間そっくりのヒューマノイドなんじゃないかと思って探ってるわけじゃない。ただ、大学のほうで工学科を専攻してたもんでね、ランド博士のアンドロイド研究に興味もあれば、ホリスター博士のエアカー研究にも興味があるし、ホランド博士の生体プリンター研究についても然りだ。そんなわけで三人とそれぞれひとりずつ話せればと思って機会を窺ってるというか……」
「これから、あんたとわたしとふたりで協定を結ばない?」
モーガン・ケリーがそう言って、組んだ足の片方を俺の右足にぶつけてきた。もちろんこの場合、男女のなんちゃらとかいうそんな意味合いがないのは明白だった。また、彼女の申し出は賢いものでもあると、俺はそんなふうに判断してもいたのだ。
「そうと決まったら、わたしの部屋へ行きましょ。第一、それでいくとテディ、あんたやり方間違えてんじゃない?ジェイムズ・ホリスター博士は毎日朝早くに起きて、外の輝くばかりの白浜を走ってるわけだから、サシで話をしたけりゃ彼と並んで走って話を聞くべきよ。それか、走ってる間は息が上がって疲れるとかなら、そのあとホリスター博士が前庭あたりでストレッチしてるところへ偶然居合わせたなんて振りして、『エアカーって素晴らしいですよね』なんつー、目的見え見えの態度で話しかけるしかないんじゃない?」
「…………………」
実をいうと、そのことは俺も考えていた。他にもモーガンは、ランド博士が岩場でおかしな機械を前転させたり後転させたり、蟹のように真横に移動させてることや、ホランド博士が小さな植物園にて、カリブ海周辺の島国にある草花などをスケッチすることがあるのを教えてくれた。
そしてそんなことを小声で話したり、あるいはノートに筆記して会話するうち――クリストファー・ランド博士があくびをしながら食堂へやって来た。気さくな博士は「やあ、どうも」といった具合に、俺とモーガンに向かって手を上げてみせる。俺は今この瞬間にこそ話しかけるべき――と思ったが、モーガンに太腿あたりをつねられ、退室することを余儀なくされたのである。
「ぐ、グッモーニン、ミスター」
俺としては憧れの科学界のアイドルにそう挨拶するのがやっとだった。彼らとしてもそろそろ自分たちが起きて食堂へ行くと、左隅と右隅それぞれに若く見える男と中年の女性が常にいて、最初はそう思ってなかったが、あれはもしや自分たちの言動を見張っているのだろうか――くらいには感じはじめていたのではないだろうか。
ちなみにこの時、廊下ではホリスター博士、ホランド博士とそれぞれすれ違ってのち、俺とモーガンはエレベーターホールのほうへ向かっていた。
「本当はあんたの部屋のほうがいいんだけどね。あのミカエラって子がいつ飛び込んでくるかわからないでしょ?わたしの勘じゃね、あの子はまあ60%くらいはシロっぽい感じだけど、そのくらいじゃいくらでもクロに変わる可能性もある程度のことだものね。ちなみにロドニー・ウエストとフランチェスカ・レイルヴィアンキはその60%って数字以上に無害な感じかしら。とりあえず、今のところわたしの中ではね」
「じゃあ、ジェイムズ・ホリスターとクリストファー・ランドとアーサー・ホランドの三博士は……」
「さあてね。そこのところを判断するにはまだ全然情報が足りないものね。だからテディ、あんたに協力を頼んで情報提供者になってもらいたいんじゃないの」
「…………………」
(この女は、一体何者なんだろう)と、俺はモーガン・ケリーに対してあらためてそう思った。目尻や口許などに小じわがあり、それが表情筋の動きとともに深くなったり浅くなったりする。身長のほうは百六十センチほどで中肉中背といった印象だ。目のほうは薄いエメラルドで、彼女のキビキビした言動ほど、何か疑い深いような印象までは受けない。
エレベーターで五階まで上がっていく間、俺は隣の彼女の様子をなんとはなし観察し、やはりモーガンが人間そっくりのヒューマノイドである可能性は低いとしか思えなかった。うなじに生えるまばらな遅れ毛、白い肌に微かに残る日焼けの跡やシミの跡……もちろん今や、ヒト型アンドロイドにはどのような特徴を持たせることも出来るとわかってはいる。それでももしモーガン・ケリーがヒューマノイドなら、『オーケー、まったくもって騙されたよ』と両手を上げて降参することに、俺のほうではなんの依存もないほどだった。
ホテルの階数に社会的身分の高低はないということだったが、確かに五階のモーガンの部屋と四階のロドニーの部屋、それに三階のフランチェスカの部屋と二階の俺とミカエラの部屋とでは――広さ自体にはそれほど変わりはなく、単に置かれている家具類やインテリア、壁紙やカーテンの色合いや模様などが違うという、そのくらいの変化しか認めることが出来なかったものだ。
モーガンの部屋は特段散らかっているということもなく、彼女個人の性格を示していそうなものは一見して特に見当たらなかった。ただ、やはり俺たち同様モーガンも暇なのだろう。テーブルの上には数冊の本が積んであった。そのほとんどが『~~殺人事件』といったようなミステリー小説だったが、よもや俺はその後彼女が本物の刑事であるとまでは――そうと教えてもらうまではついぞ気づかなかったものである。
「この絵、どう思う?」
居間の目立つところに、アンリ・ルソーの『蛇使いの女』という絵がかかっている。熱帯雨林のジャングル、湖のほとりで月夜に真っ黒な影となった女性が横笛を吹き、その音色に蛇が聞き入っているように見えるという何かそんな絵だ。
「そうですね……まあ、こんな言い方はいかにも安っぽいかもしれないけど、ここはカリブ海に囲まれた島じゃないですか。だからいかにもそれっぽいっていうのかな。熱帯地方に合いそうなイメージの絵画として飾ってみた的な……」
「だとしたらいいんだけどね」と、モーガンは肩を竦めている。それから、室内にある他の絵画についても順にそれとなく目顔で示して続けた。同じく、ルソーの『熱帯嵐の中のトラ』、『飢えたライオン』、『虎と水牛の戦い』、『ライオンの食事』など……。「ここまで来ると、流石にちょっと意図的だと思わない?唯一、寝室にあるルソーの『夢』っていう絵だけ、安らかな感じでわたしも好きなんだけどね。果たしてあんたたちの部屋にはどんな絵が飾られてるのかと、少しばかり気になったりしたわけよ」
「言われてみれば確かに、ロドニーの部屋にはマティスの『ダンス』とか『赤のハーモニー』、ピカソの『泣く女』や『人生』なんかが飾ってありましたっけね。ロドニーは今のあなたと大体似たようなことを言ってましたよ。『この絵の並びはなんか気に入らねえんだが、なんか深い意味でもあるのかね』って。でも唯一、寝室にある『母と子』っていう絵だけは割と好きだとかって……」
(さもありなん)といったように、モーガンは溜息を着くと、風通しのいい窓辺の椅子に座り、タバコを吹かしはじめた。もっとも、キューバやジャマイカなどの地元民が今も吸っているタイプのものではなく、彼女のそれは電子煙草だったが。
「じゃあ、フランチェスカやミカエラやあんたの部屋はどうなの?」
「え~っと、確かフランチェスカの部屋には、マネやモネの絵が飾ってありましたよ。それで、時々どっちがマネでモネの絵だかわからなくなるって言って笑ってましたっけ。それで、マネの『バルコニー』の絵の横にマグリットの『バルコニー』が飾ってあったりして……『ただの茶目っけなんでしょうけど、なんか深い意味でもあるのかしらね』って言ってたり……でもフランチェスカは唯一寝室に飾ってある『ひなげし』って絵のことだけは嫌いなようでした。いや、違うな。『なんとなく不吉な感じがして、あんまり好きじゃないわ』って言ってたんだっけな」
クロード・モネの『ひなげし』は、美しいひなげしの野の中を画家の妻カミーユと息子のジャンが歩いているのだが、その上方の道のほうにも同じようにそっくりな一組の母子がいる……といったような構図である。のちにモネは心から愛したカミーユの死後、アリス・オシュデという女性と再婚するのだが、彼女はモネのパトロン、エルネスト・オシュデの妻であり、彼との間に六人の子供までいた。その後、エルネストが財政難に陥ると、モネは自分の家に彼ら一家を引き受けることにし、モネ家は一気に大所帯となる。カミーユはモネの父が結婚に反対したことで、若い頃から生活のことでは相当苦労してきており……だが病床にあった晩年、カミーユはのちに夫と再婚する女性やその子供たちと同居しており、その心境はいかばかりだったかと想像される。つまりこの絵は、製作年代的なことを別とすれば、その後の彼女の不幸な未来が予告されているような、何やら暗示的な絵であるように感じられてならない。
「ミカエラの部屋の絵画は面白いですよ」と、俺は何故か話題を明るくしたくなって言った。「サルバドール・ダリの『記憶の固執』や『記憶の固執の崩壊』や、『茹でた隠元豆のある柔らかい構造』とか……ミカエラは『面白い絵だけど、どんな意味があるのかしら?』って、不思議がってましたね。寝室に飾ってあったのはジョルジュ・デ・キリコの『通りの神秘と憂愁』だったかな。キリコの絵は他にも数点飾ってあったりして……」
「で、あんたの部屋の絵は?」
モーガンはフーッと煙を吐きだしながらそう聞いた。まるで、ここら一帯のカリブ海の島々を取り仕切るマフィアの女ボスといった風情だった。
「俺の部屋のは……レオナルド・ダ・ヴィンチのものが多いんです。『モナ・リザ』とか『受胎告知』とか『岩窟の聖母』とか。あとは、寝室にはこれも有名な『洗礼者ヨハネ』が天を指してるみたいな絵が飾ってあったり……」
「住み心地のほうはどう?」
「まあ、いいですよ。なんていうのかな、他の人はどう思うのかわからないけど、俺、ほんというと人物を描いた絵ってあんまり好きじゃないんです。たとえば、美術館とかに行って見る分にはいいんですよ。でも、夜中にトイレ行こうと思ったら『モナ・リザ』の絵と何度か目が合ったことがあったりして……もちろんわかってますよ、気のせいだって。でも、なんか絵の中の人物がじっとこっちを見張ってるみたいな感じがして、時々落ち着かなくなることがあって……」
俺がそんなふうに本音を吐露すると、モーガンは笑いだしていた。今までも彼女が笑ったところを見たことはある。それはたとえば皮肉気な笑みだったり、嘲笑を奥に隠したようなそれだったり、感じのいい笑みを見たことも――一度か二度くらいはあったような気がする。けれど、この時の笑い方はまさしく破格の大笑いといったところだった。
「アッハッハッ!!わかったわ。ようするにあたしたち、あのアダム・フォアマンか、彼のバックにいる誰かにいいように弄ばれてるのよ。やれやれ。こんなことならもっと早くに腹を割ってあんたたちと話してたら良かったわね」
そうは言っても用心深いモーガンは、おそらく時間を巻き戻せたにせよ、そんなことはしなかったに違いない。
「え~と、モーガン・ケリー、あなたがそう考える根拠は?」
(まあ、そこらへんにお座りなさいよ)と、目顔で示された気がして、俺は金の唐草模様のあるブルーのソファに、彼女と向きあうような形で腰掛けた。部屋のほうは全体としてどこか、東洋趣味とアラビックなそれとの合いの子といったような印象だった。
「あんたたちの話を聞いてる限り……本気で人間そっくりの本物のヒューマノイドを当てて百万ドルを得よう――みたいにはまるで思えなかったもんだわ。だってそうでしょ?もし本当にそう思ってるんだとしたら、クリストファー・ランド博士はその道の第一人者ですもの。今ごろそれとなくでも親しくしようとして、博士がひとりの時にでも……あるいは直接部屋へ訪ねていくなりして色々聞いてるんじゃない?」
「あ、そっか。なーるほど」と思い、俺は自分の鈍さかげんがおかしくなった。とはいえ、フランチェスカあたりが実は百万ドルを虎視眈々と狙っていて、こっそり博士の部屋を訪ねたりしているとも思えない。「でもそれでいくと、今のところ俺が一番百万ドルが欲しくてよだれを垂らしてる雑種犬ってことになるんじゃないかな?」
「あんたは違うでしょ。テディ、これはあくまでもわたしの勘だけど……あんたがここに来た動機は、わたしとは違ったにしても――おそらくは似たような種類のものなんじゃないかしら?詳しくは話せないけどね、ようするにわたしにはずっと追ってる殺人犯の男ってのがいて、相手があまりに狡猾で、下手をしたら法に引き渡す前にわたしのほうが殺されるなり死ぬなりするかもしれないって、ずっとそう覚悟しながら追ってきた男だった。で、ある時、ついにわたしも手詰まりになって、事件のすべてを諦めるべきかどうかの決断を迫られることになったわけ。そしてそんな時に……インターネットを通してね、接触してきた奴がいるのよ。その男が今どこでどうしてるか、どうすればこいつを追い詰めることが出来るか、色々なことを教えてくれたの。わたし、この男が死刑判決を受けた時――彼……ううん、もしかしたら彼女って可能性もあるわよね。その人に聞いたの。どうして助けてくれたのかって。そしたら、『復讐は私のすることである。我は仇を返さん』っていう、聖書の申命記にある言葉が返ってきたのよ。誤解のないように言っておくと、彼はこの言葉を本気で信じてたわけじゃない。それはそれまでの彼とのやりとりでもわかりきってることだった。神なんかいない。いたとしても、豚を屠殺するのと同じレベルで女をレイプして殺すような殺人鬼に対して――罰なんか少なくともこの世で完全に下ったりなんかしないものだものね。つまり、神が助けないからこそ自分が手助けしたのだといったような、そうした意味なのよ」
この時点で『ああ、そっか。モーガン・ケリー、あんたはきっと刑事に違いない!!』と思い浮かびもしなかったあたり、俺はジャーナリストの風上にも置けぬくらい、相当鈍い人間だったに違いない。
「えっと、その話と今回の『ヒューマノイド当てクイズ』との関連性は……」
(まったく鈍いわね)とでも言いたげに、モーガンはもう一度鼻で笑った。まるで、水タバコのシーシャでも吸った時のように彼女の唇からは煙が洩れている。
「つまり、このオカドゥグ島へ招待した人物と、ずっと追ってた殺人鬼がブタ箱行きになるのを手伝ってくれた人間は同一人物だってことなのよ。『君はそんなくだらない仕事をずっとしているべきじゃない。簡単ではないかもしれないが、百万ドルでも得て残りの余生を心楽しく過ごしてみては?』みたいに連絡をもらったの。ふふっ、でもだからと言ってね、棚からぼた餅とばかり、そんな大金をそう都合よく手に入れられるわけがないじゃないの。だからわたしはね、単に積年の恨みを晴らさせてくれた神の顔というやつを……ここへは出来れば拝みにきたっていう、ただそれだけのことなのよ」
「でも、チャンスのほうは誰にでも平等にありますよ」
そうなのだ。このホテルへやって来た初日、ミロスは『ヒューマノイド当てクイズ』のルールについてこう説明していた。もしひとりの人間だけが当てられた場合、百万ドルはすべて彼のものになる。だが、ふたりの人間それぞれが当てた場合においても――それぞれ百万ドルずつ、つまり計二百万ドルが与えられると。これは三人の場合であれば計三百万ドル、四人であれば計四百万ドル、ひとりにつき必ず百万ドルずつ与えられるものであって、百万ドルを折半せねばならない事態というのは生じえない……という、そうしたことだったのだ。
「俺も百万ドルについてはあまり期待しちゃいませんが、これからどうなるんだろうとは……不謹慎な言い方かもしれないけど、毎日朝目が覚めるたびに少し愉しみだったりするんです。第三陣の客たちの来るのは、来月の八月一日でしたよね?俺は今のところ、あの三博士たちのうちひとりがヒューマノイドだとはあまり……というか、ほとんど全然そうとは思えない。三人とも、インターネットが使えない環境ながら、究極の緊急事態というか、そうした時にはこちらへ電話がかかってくる手筈になっているそうです。そんな話、俺はとりあえず一度も説明なんかされなかった。よく考えれば当たり前のことだけど、たぶん彼らは彼らで、モーガン、あなたしか持ってない情報があるように、それぞれ接触のされ方が違ったということなんじゃないでしょうか」
「まあ、そういうことなんでしょうね」
このあとモーガンは、俺のジャーナリストらしくない鈍さ加減には呆れたといった顔をして見せたあと、耳から透明な小型のワイヤレスイヤホンを取りだし、それが録音した記録について、スピーカーから小さな音で流しはじめた。
『ハハハっ。僕はてっきり、五人もの招待客が先に来てると聞いてたもんだから、到着した途端「あのヒト型アンドロイドの権威、クリストファー・ランド教授ですよねっ。その道の第一人者としてどう思います!?ぼくらのうち、誰がヒューマノイドだと思いますか?」なんて具合で早速とばかり聞かれるんじゃないかと思ってたよ』
『彼らはもしかして、ここのホテルの関係者の親戚か何かで、それでバカンスでも過ごしに来てるのかなあ?』――これはアーサー・ホランドの声だ。
『さあてね。もしあの五人の中にくだんのヒューマノイドがいないのだとしたら、我々は残りの三人が到着するのを待たねばなるまいよ。やれやれ。私は企業経営者として、こんなネットのない環境で長く過ごせるほど暇人じゃないんだがね』
三人の話はその後も続いた。俺は朝寝坊したことが一度あったし、ランチの時間やディナーの時間に必ずずっと食堂にいれたというわけでもない。けれどそういう時でもモーガンは、ずっと入口から見て右隅の座席に座り、窓の外を眺める気怠いマダムといった横顔でもしていたに違いない。不思議なことだったが、俺が左隅の座席にいると時々、作為的に過ぎたろうか……と感じることがあったのと違い、モーガン・ケリーには何故か存在に違和感がなかった。うまく言えないが、人畜無害の中年女だとでもいうように、自然とその場の一部として馴染むというのか、ようするに気配を消すのがうまいのだ。
と、モーガン・ケリーは途中でブチッと録音を切った。
「これ以上聞いても、あの三人もバカじゃない……どころか、あんたの言い草じゃ、現代を代表するインテリ三人みたいな話だものね。大したことは話しちゃいないわ。たぶん用心して、七階の互いの部屋を行き来するかなんかして、大切な話はそっちでするんじゃない?あんたたちがちょうどずっとそうしてるみたいに」
「えっと、モーガン。おたく、あの食堂にいる間ずっと彼らの会話を録音してたのか!?」
彼女はここで鷹揚に頷いた。まるで(当たり前じゃないの)とでもいうように。モーガンはもうタバコのほうは吸っていなかった。
「安心なさいよ。あんたたちの話してることは一度も録音したことまではないから。というかね、録音しなきゃならないほど重要なことをあんたたちは話そうともしなかったでしょ?その点、あの三博士の会話のほうはね、もしかしたらわたしにわかんない専門分野について互いに深く語りはじめる可能性があると思って……それでずっと録音させてもらってたのよ」
モーガンは、三博士の座席より六メートルほど離れて座っていた。それでも、音声のほうはすこぶるクリアーだった。ノイズキャンセリング機能の賜物とでも言おうか、「それはそれ」、「これはこれ」といった具合に、いまや右耳で音楽を爆音で聴くのと同時、左耳では大学の講義を全録音して自宅に帰って聞き直す……そんな形で授業を受けたことなど俺も何度となくある(また、中学や高校でこれと似たことをして、突然当てられた質問に答えられず恥をかく生徒というのが必ずいたものだ)。
「で、超小型カメラで盗撮……っていうと、なんとも聞こえが悪いけどね、一応そんなものも持参してはきたのよ。念のためにね。でも今のところまだ使ってないわ。とはいえ、テディ、あんたにはこれからあの三人の博士それぞれと話してみた時の会話を必ず録音するか録画してもらいたいと思ってね。超小型カメラのほうは絶対といってもいいくらいバレる心配はないけど、あんたの良心が痛むとか、究極、それを持ってして何かの陰謀を暴くということになったとしたら……まあ、この場合逆を考えましょうか。あんただってわたしだって当然、『録画してもいいですか?』と先に言われずにそんなことされたらアッタマくるでしょ?そう考えた場合、ここはせめても録音だけに留めておくべきかという気もするんだけど、どう思う?」
「陰謀って、ようするにどういうこと?」
その昔は超小型カメラといえば、スーツのボタンくらいのサイズのものが連想されたかもしれない。だがいまや――ゴマ粒程度の超小型カメラが存在するのだ。難点は唯一、よく気をつけていないと失くしやすいということだったかもしれないが、あの三博士や次にやって来る残りの招待客三人の中に、同じことを行う人間がいたとしてもまるでおかしくないとは言えたろう。
「ほら、ジェイムズ・ホリスターがそう口にしたみたいに、彼ら三人は三人ともが、ネット環境のない中で長く過ごせるほど暇人じゃないってことよ。にも関わらず、彼ら三人はまったく同じ日の同じ時刻にやって来た……偶然というよりも、三人ともそうとわかってたってことなんじゃない?それでお互いにスケジュールを合わせることさえしたのよ。最後の招待客三人の顔ぶれや社会的身分についてもわからないことには、これから先何がどうなるやらさっぱり見当がつかないけど……次の第三陣の招待客がやって来るまで時間を無駄には出来ないわ。それとなくホリスター、ランド、ホランドの三博士には探りを入れておく必要がある――というわけで、録画か録音、どっちか必ずお願いね」
俺はこの時、録画と録音の両方を選んだ。何故かといえば、モーガンが図書室から持ってきたと思しきミステリー小説の『~~殺人事件』という文字が目の隅に入ってきたからだ。俺はこの時点では本当に殺人事件らしきものが起きるとまでは考えていなかったが、これもまたある種のミステリー、謎解き事件には違いない。その場合、ある種のパターンとして、最終的に天才的な探偵が映像の片隅に映っていた何かに気づき証拠とするなど、そんなことがあったりするものだと思ったわけである。
>>続く。