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第31章

 ――四万年だって?一体なんの話をしている……ということではあるだろう。それはさておき、俺はルネに誘われると早速パリまで出かけていった。場所はチュイルリー公園近くのアパルトマンで、エントランスには屈強な体躯をした黒人のドアマンがいたものである。


 ボクサーが軍隊風の制服を着ているといったタイプの男であり、(殴られたら二メートルは軽くすっ飛びそうだ)などと思いつつ、俺は拙いフランス語で彼に話しかけた。すると、「マダム・ヴァネリから承っております」とのことで、すぐに二重式の電子錠については解いてもらえた。あとからルネに聞いたことだが、他にも俳優やモデルや作家、スポーツ選手など、有名人が何人も住んでいるようなアパルトマンだったらしい。


「もう首のほうは座ってるからね。抱っこする時、そんなにドキドキする必要はないと思うよ」


 パパとして俺より上級生のルネに指南されつつ、俺はずっと家事アンドロイド越しに見つめてきた我が子のことを初めて抱いた。ミカエラはすでにレッスンのほうへ戻っており、その時は留守だった。


「ああ、本当に可愛いな。男の子だけど、目許のあたりや口許や輪郭が……ミカエラのほうに似てる気がする。容姿のDNA的には俺に似ないほうがいいとは思ってたけど、このまま美人のママに似たイケメンに育ってくれたらって思うよ」


 赤ん坊は明らかにルネのほうに懐いており、俺が抱っこすると最初は激しく泣いた。けれど、そのうち慣れてきたのか、一度思いきり泣いたあとは笑顔になっていたものである。


「可愛いなあ。どうしてこんなに可愛いんだろう……そりゃ自分の子じゃなかったとしても赤ん坊ってのは可愛いもんだろうけど、こんなに可愛い子は今まで見たことがないだのと思ってしまうのは、やっぱり親バカだからかな」


 ミカエラが留守と聞いて、がっかりする部分も多少ないではなかったが、その後部屋にいるのがルネだけだとわかるとほっとしたのも事実だった。室内はアンティークな趣味のいい家具でまとめられており、それでいてあまり贅沢といった印象でもなかった。そしてこの時俺はふと――ミカエラ名義の口座に百万ドルの金が残っているのを思いだし、そのことを彼女に伝えなければと思った。


「テディ、おれは君に悪いことをしたと思ってるんだ」


 生まれて初めてオムツを交換するといった体験をさせてもらい、ラファエルが一度眠ってしまうと……俺はルネとリビングのソファに隣り合って腰掛け、自然今後のことを話しあうことになっていた。


「ラファはおれの子でなくてテディの子だけど、やっぱりミカエラの子だと思うとすごく可愛い。このことは本当だ。だけど、本来はこうした父親としての幸福や喜びといったものは君のものだと思うと、時々後ろめたいような苦しい気持ちになることがあってね……ミカエラは今いないけど、君とはやっぱり会いたくないらしい。自分が覚えてないことをテディのほうではすべて覚えているとなったら、なんとなく居心地が悪いんじゃないかと思う。それで、テディとおれと自分の三人で顔を合わせて何話すのよっていうか、大体そんなような物言いなんだ。かわりに、自分の言いたいことをおれが代弁しといてくれないかってことでね」


「ああ、うん。大体予想はついてるよ」と、俺はこの部屋を時々覗き見ることがなかったとしても、大方のところわかっていたことを口にした。「親権のほうは俺に譲りたくないっていう、そういうことだろ?でも、俺のほうでは親権を完全に放棄して二度と会いに来るなと言われても……そんなこと、決められないんだ。ミカエラのほうでルネ、君が父親だっていうふうにしてラファを育てるのはいいと思うよ。だけど、今は健康診断なんかで簡単に自分のDNA解析についても調べられる時代だ。ラファエルが『自分の本当のお父さんは?』みたいに聞いてきたら――俺はルネほど自慢にできるような人間ではないにしても、会って話すことくらいはしたいと思ってる」


(それが当然だ)とでもいように、ルネは神妙に頷いていた。それから、今はミカエラ・ヴァネリの復活公演についての話が進められており、彼女はいつになく少しナーバスになっているということだった。出産自体は母体にも胎児にも概ね問題なく済んだとはいえ、ミカエラはバレエダンサーとして本調子とは程遠く、本人も復帰するには時間がかかるかもしれないと感じ、焦りを覚えているらしい。


「ディアナも、ラファエルのことではメロメロになって可愛がってるんだけど……その様子を見て、ディアナが帰ったあと『あの鬼ババアが』って言って、ミカエラはいつも大笑いしてる。だけどまあ、それとミカエラ・ヴァネリの完全復活公演は別だと考えてるらしくてね……『白鳥の湖』でオペラ座の頂点に自分が今もいることを示すべきだなんていう方向で話を進めてるんだ。おれは反対したし、もう少し軽めの……っていう言い方はなんだけど、そうした作品から慣らしていったほうがいいんじゃないかと思って、一応そう助言もしてみた。だけどまあ、ミカエラ自身がディアナの言うとおりだと思ってるわけだから、おれなんかが何を言ったところであのふたりが聞く耳を持つはずもない」


「ルネも、自分のバレエ団があって大変なのに、俺も君には悪いなと思ってるんだ。自分が父親としてそばにいられない以上、男親としてルネがそばにいてくれるのといないのとじゃ全然違うってことは、俺もよくわかってるつもりだから」


「いや、うちは優秀なスタッフが勢揃いしてるもんでね。素晴らしい公演を上演できるという、芸術面に関しては何も心配してない。時折帰ってレッスンの様子を見るくらいでも、みんなプロだからおれが口出ししたり手直ししたりするようなことっていうのはむしろ少ないくらいなんだ。それよりも、チケットが売れるために最大限努力したり新種のアイディアを出したり、PRできるようなところがあったら、どこへでも出向いていって頭を下げて頼むとか……おれの役目として大切なのは、どっちかっていうとそういう経済的なことのほうかな」


「そっか。なるほど……」


 この時、俺はノア博士の気持ちがわかるような気がしていた。自分の気に入った人間に対しては、惜しみなく資金を与えようとすることに関して。だが、百万ドル程度の金でひとつのバレエ団が持つのはそう長い期間のことではないだろう。それでも俺は、ミカエラやラファエルのことは別として、ルネのことは友人として、彼が何か困っているのであれば助けたいという強い気持ちがあった。


 その後、ミカエラがオペラ座のレッスン室から帰ってくるまでの間――俺たちは以前会った時と同じように色々なことを話した。N社のコラムニストを辞めたと聞くとルネは驚いていたが、俺が巨大企業の重役の椅子に座ることになった経緯について教えると、妙に納得していたものである。これは実際には幽霊が重役の椅子に座っているにも等しいことだったが、「表向き、何か名乗るべき身分が必要だったらそう語ってくれて構わない」として、ノア博士から与えられた身分だった。


 まるでゲイのカップルのようにラファエルを間に挟んであやしたり、ミルクの作り方を教えてもらったりしたが、お互いの息子のことを話す以外では、彼のバレエ団の次の公演のこと、彼自身も日々決してレッスンを欠かすことはないこと、それから小さい音でつけていたテレビの時事ニュースについてあれこれしゃべったりと……時間のほうはあっという間に過ぎゆき、夕方ごろ玄関のほうでガチャリという音がすると、俺は一瞬ドキリと緊張していた。


「じゃあ俺、そろそろ帰るよ」と、胸に抱いていたラファのことをベビーベッドへ戻そうとした時のことだった。「あっ!」とルネが何かを思いだすような声を発するのと同時――「オギャアアアッ!!」とラファエルが激しく泣きだす。ところが、俺がもう一度「おおっと」と胸へ戻すと、今度はピタリと泣きやんだのだった。


「背中スイッチってやつよ」


 ムスっとした顔のまま、ミカエラがリビングの入口付近で言った。家事アンドロイドのアデルが「お帰りなさいませ、ミカエラ」と挨拶しても、彼女の不機嫌そうな顔に一切変化はない。


「そのままずっと抱っこしていて欲しい時、ベビーベッドに戻そうとするとね、背中がベッドに触れた途端泣きだすの。ところが、またこっちが抱っこするでしょ。するとニコニコっとして泣くのをやめたりするわけ……大したものよね。まだ赤ん坊のくせに、大人たちをいいように操縦する術を心得てるんですもの」


「ああ。でも、そんなところも可愛いっていうか……」


「まあね。でもあなたは今日初めてここへ来たばかりでしょ?これが毎日ずっと続くのよ。ベッドへ下ろそうとするとオギャアアアッ!!、またもう一回抱っこするとニコニコ、ベッドへ下ろすとオギャアアアッ!!もう一度抱っこすると……こんなこと、一日に十回も二十回もやってられないわよって話。でも、ベビーシッターを雇ってミカエラ・ヴァネリの私生活があーだこーだ、何年もしてから情報を売られたくもないしね」


 口ではそう言いながらも、ミカエラはラファエルのことを抱っこすると、幸せそうな母親の顔になった。彼女のそんな様子を直に見ることが出来ただけでも、俺は今日ここへ来た甲斐があったと感じたほどだ。


「ベビーシッター用のアンドロイドを雇うとか……」


「そんなのダメよ!」その直前まで「んっふふ、あっはは、ママでちゅよ~」などとやっていたにも関わらず、ミカエラはキッと俺のほうを睨んで言った。「まあね。今まで何か事故があったとか、一応聞いたことはないわよ。それに近いものがあったとしてもロボットが悪いわけではない……みたいなそんなケースばかりですものね。逆に身を挺して子供を事故から守っただの、感動的な話のほうが多いくらいだし。わたし、料理してくれたり掃除してくれたりって意味では、アデルに心から感謝してるわ。だけど、流石に赤ん坊のことまでは任せられないもの。もし万一のことがあったらと思うとね」


「テディは父親としてとても優秀だよ」と、ルネが口を挟む。「オムツを交換するのも、ミルクを作るのも、おれより覚えが早かったくらいだ。ニューヨークとパリで離れてるっていうのでなかったら、もっとちょくちょく来てもらえるのにって思うんだけどさ」


 社交辞令とわかっている俺のほうでは、「そろそろ帰るよ」と、あらためてそう言った。一度はあれほど愛した女が今目の前にいるのに、おまえは本当に何も感じないのか……と、そう思う人もあるかもしれない。けれど、今目の前にいるミカエラは、俺にとって一緒にいると神経がピリッと緊張するような、まるで別人の女なのだ。


 それ以上は特に引き止められるようなこともなく、ミカエラはラファエルのことをあやし続け、ルネが玄関のほうまで俺を送ってくれた。「滞在するのはいつまで?」とか、「どこか行きたいところがあれば案内するよ」といったようにも聞いてくれたが、俺は忙しい彼の手を煩わせるつもりはなかったのだ。


「いや、いいんだ。あと数日いて、またラファエルの面倒を短い時間でも見させてもらえたらそれで……邪魔者はすぐに消えるよ」


「せめて、夕食だけでも食べていかないか?ミカエラだってテディのことをもっとよく知れば、記憶がなかったとはいえ、流石は自分が選んだだけのことはある男だって、そういうこともわかると思うんだ」


 俺は首を振ると、(問題はそうしたことではない)といったように身ぶりだけで伝え、明日もまたミカエラのいない間に会いにくると言った。それがほんの短い間であれ、もう少し自分の息子と過ごしてからニューヨークへは帰りたいのだと……。


 パリ行きの飛行機へ乗った時は、ラファエルに直接会える喜びでいっぱいだったというのに、帰りに飛行機の中で俺は涙を流して泣いていた。自分でも、まさかここまでの切ない思いを我が子との別れに感じるとは想像してもいなかった。出来ることならあのまま、ずっと一緒にそばにいたかった。けれど、俺はルネから(非常に言いにくいが、言わねばならない)といった気配を感じた時、自分から「親権のほうは放棄しても構わないよ」とはっきり口にしていたのだった。「ただそのかわり、ひとつだけ条件がある」と。「もしラファエルでもミカエラでも、あるいはルネ、君でも……何か困ったことがあったら俺のことを思いだして欲しい。俺程度の人間に一体何ができると思うかもしれないし、せっかく親権を放棄させたのに、そんな奴とどんな形によってでも関係を復活させたくないと思うかもしれない。また、実際に会ったらがっかりするだけかもしれなくても、ラファエルが大きくなって本当の父親は誰かってことでもし会いたいと言ったら、俺のほうではいつでも会う用意があるってこと、覚えておいて欲しいんだ」


 最後、シャルル・ド・ゴール空港まで送ってくれた時、ルネは最後に俺のことを抱きしめていた。パリ滞在中の五日ほどの間、ルネはミカエラやディアナがいる時、俺が気詰まりな思いや居心地の悪い思いを味わわなくてもいいようにと、終始気を遣ってくれていた。それと同じように俺のほうでも彼の側にあるであろう事情をそれとなく察し、親権の放棄についてまでも同意することにしたわけだった。


 この点について、俺のほうで考え方が変わったのには理由がある。もしあのままN社のコラムニストという社会的身分のままでいたとしたら――俺はやんわり「親権を放棄することまでは出来ない」ことをルネに伝えていたことだろう。「でも、だからといってミカエラとルネの間の関係に割って入りたいとか、これはそういうことでは絶対ないんだ」といったように。


 けれど、オカドゥグ島にて「地球全体の二酸化炭素濃度を下げ、温暖化を防ぐ」ためのプロジェクトに取り掛かっていた時……俺はかつてあった転轍機による運命の分岐点のことについて、くよくよ考えるのをついにやめることが出来たのだ。また、研究員たちが最初の一番目の人生であった家族関係等について、今はどういった関係性なのかと知るうち、「ああ、なるほど。そういったスタンスなのか」ということがわかったというそのせいもある。つまり、夫や妻や息子や娘、孫に曾孫などなど……彼らは気になる人物のことについては、家事ロボットとは限らないが、なんらかの手段を講じて見守り続けているのだ。そうして、相手に何か人生における困難や問題などが生じた時、それとは名乗らずになんらかの形で助けの手を差し伸べるわけである。


 俺はもう、何かの奇跡でももう一度起きて、ミカエラが自分のことを思い出してはくれまいかと、そう願うことはやめることにした。そして、その代わりに――時折彼らの生活を覗き見て、何か困っていることはないかと、遠くから見守ることに心を決めたわけだった。



   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *



「ミカエラは、間違いなくあれから変わったんだ」


 ラファエルのことを乳母車に乗せ、チュイルリー公園を散歩していた時、ルネが隣を横切っていくサモエド犬を見ながら言った。散歩させているのはアンドロイドだったが、犬のほうはそっくりすぎて、本物かどうか判然としなかったものである。


「おれ、このことではテディに直接会ってお礼を言いたいと思ってたんだ。前までのミカエラっていうのはさ、本当の意味でおれに寄りかかってくるってことまでは絶対になかった。普段からそのくらい気を張ってるとか、ミカエラ・ヴァネリとしてプライドが高いとか……それで恋人にも弱味を見せられないとか、彼女はそういうのとは違うんだ。ただ、あのあとわかったことなんだけど、ミカエラは父親がウクライナ人で母親がロシア系でね。テディも知ってのとおり、ロシアとウクライナの間では散発的に戦争になるってことがあるから……ミカエラが五歳くらいの頃、彼女が住んでいた町に爆弾が落ちた。そのせいで、ミカエラの両親や近所に住んでいた叔父さんや伯母さん家族や親戚の多くが死亡したんだ。偶然ミカエラは母方の祖母のいるサンクトペテルブルクへ来ていて、彼女ひとりだけが助かったっていうんだよ。驚いたなんてものじゃない。今までそんな話、ミカエラは一度もしたことなかったし、ネットを調べても彼女の過去に関してそんな情報は一切出てこないはずだ。その時の戦争の期間は約三か月。犠牲者の数は百余名……でも、その中にはミカエラの両親の他に、お医者さんをしていた伯父さんや、声楽家の叔母さんや――親戚の多くの人々の命が含まれていた。自分の娘が三人も死んだショックからだろう、お祖母さんもやがて亡くなって、ミカエラは孤児になった。それ以来、ずっとバレエだけが心の支えだったって……そう言うんだ」


 俺たちが隣りあって座ったベンチからは、大きな噴水池が見えた。チュイルリー公園は東はルーヴル美術館、西はコンコルド広場を経てシャンゼリゼ大通りへ続く美しい庭園だった。面積のほうは約25ヘクタールもあり、緑とあちこちに配された彫刻を見て歩くだけでも心楽しい場所だった。なんにせよ、こうしたパリの中心地で今後自分の息子は育っていくのだと思うと……ニューヨークとどちらで育つのがラファエルにとって良かったのか、俺はこのことでも頭を悩ませることになったかもしれない。


「ずっと前に……『ただ踊れるっていうだけで、それがどのくらい幸せなことか、今の若い人にはわからないわね』ってミカエラに言われたことがあるんだ。特段何かの嫌味とか、辛辣な調子ってわけじゃなくね、本当に、その前後に何を話してたのかよく覚えてないんだけど……ミカエラが不意に優しく笑ってそう言ったことだけ覚えてて。その話を聞いて、なんか妙に『ああ、そうか。そうだったんだ』なんて思ったんだ。うまく言えないけど、とにかく一度記憶を失って以来彼女は変わった。どこがどうとは言えないし、バレエに関することではまったく変わってないとも言える。ただ、前とは違っておれのほうにグッと寄りかかって来るようになったんだ。なんていうか、その……変な話、恋人として甘えてくるようになったっていうのかな。それで『わたしのことはすべて、今後はあなたにお任せするわ』とか、『あなたがいなかったらもう生きていけない』とか、以前までのミカエラなら、口が裂けても絶対言わないようなことを口にするようになって。赤ん坊を生んだことで精神的に不安定だとか、そういうこととも違うし、なんて言ったらいいかわからないけど……」


「たぶん、彼女の記憶のない間のミカエラが、誰にでもすぐ子供みたいに頼ったり甘えたりしてたから……そういうせいも多少なりあるんじゃないかな」


 ずっと黙っているのも不自然だろうかと思い、俺はそんなふうに言って相槌を打った。ルネの言いたいことは大体わかったが、幼少時にそんなショックなことがミカエラにあったのだと思うと、俺自身も言葉を失うくらいショックだった。


「うん。つまり、おれは決して遠回しにノロけたいってわけじゃなくて……単に、ミカエラが記憶を失っていたことには意味があったんじゃないかってことを言いたかったんだ。彼女、ずっとテディにべったりだったろ?まるでテディが夫で恋人だってだけじゃなく、お父さんでもありお兄さんでもあり、自分という存在が頼ることの出来るすべてだとでもいうくらい、自分の全身全霊をのしかけるみたいにして君のことを愛してるみたいに見えた。彼女はおれの愛したミカエラとは違うんだと頭ではわかっていても、おれはテディ、君のことが羨ましかったんだ。記憶がなかったとしてもいい。テディに対するのと同じくらい、おれのことを頼って愛してくれたら……おれだってもうひとりの彼女のことを心から愛していただろう。でも現実にはそうなっておらず、突然家出していなくなり、捜しに探してようやく見つかったと思ったら――ディアナの物言いを借りるとしたらね、どこの馬の骨ともわからぬ男と相思相愛だっていうんだ」


「でも、今はまた時が流れて……結局、ミカエラはルネのことを選んだんだ。それで、今後は彼女はもう一度何かの拍子に頭を打ったところで記憶を失ったりとか、そういうことは二度とないんじゃないかと思う。だから、そうした苦しくてつらい思いが、もう一度ふたりを結びつけたのなら……」


「いや、だからさ。そういうすべてがテディ、君のお陰だっていうことに対して、おれは心から感謝してるってことを言いたかったんだ。テディはミカエラと一緒にいる間、彼女に対して他の誰も出来なかったことをしたんだと思う。五歳の頃くらいまでは彼女も、記憶にはあまり残ってなかったとしても、両親に我が儘を言ったりとか、そんなことも少しくらいはあったろうと思う。でもそれ以後はそんなこともなく、ディアナも義理の母として一切甘えさせてくれなかったとまでは言わないし、あのふたりはバレエを通して特殊な絆で結ばれてるから、そこのところはなんとも言えない。ただ、小さな子供の頃に返ったみたいに、あんなふうに誰かに甘えるだなんてやっぱり普通はなかなか出来ないものだろ?だけど、テディはミカエラが全身全霊をかけてのしかかってきても――「いいかげんにしろ!!」って態度にだすでもなく、とにかくひたすら優しく受けとめてくれて……だから、おれも見てて少し歯痒いと思ったりもしてるんだ。一年もかけて、今まで誰にも甘えてこれなかった分のすべてをテディが受けとめてくれたのに、だから彼女は今、おれに対しても前にはなかったくらいグッと寄りかかってくれるようになったのに……そのことを誰もテディに感謝もしないだなんてと思うと、おれも苦しいんだ。記憶のない間、いかにテディがミカエラに優しかったかとか、そういう話をしても彼女は『その話はもうしないで』みたいな、すぐそういう態度になるもんだから……」


「いいんだよ、それで……」思わず俺はこの時、声が震えた。水色のクマの帽子を被ったラファエルは、天使のような寝顔ですやすやと眠ったままでいる。「そっか。じゃあ、ミカエラが俺と一緒にいたことは、あの時間は決して意味のないことじゃなかったんだ……」


 それ以上のことは、俺の中で言葉にならなかった。ルネにしてもそんなこと、俺にわざわざ伝えるような義理も義務もない。けれど、彼がそうした分析能力のある繊細で優しい人間であればこそ、今俺は自分の知るべきことについて知ることが出来たのだと、そんな気がしてならない。


「おれも、あれから色々考えたんだけど……」ルネは俺の涙について、見て見ぬ振りをして続けた。「子供は、四歳の頃までに親に恩返しをするものだっていうだろ?昔は『ふうん。そんなものかな』って思ってたけど、ラファのことを見てると思うんだ。大体物心のようなものがつくのは、早くても四歳とかそのくらいだっていうし、それまでの間、ミカエラやおれがいくらラファに尽くして面倒を見ても、彼は当然覚えていない……だけど、どう言ったらいいのかな。それであればこそ愛おしいっていうか、目に入れても痛くないほど可愛いっていうか。ミカエラも記憶にない部分で、両親には心から愛されていたし、きっと間違いなくそうだったと思うんだ。でもテディと出会ってずっしり重く、他の誰に対しても出来ない寄りかかり方で甘えられたことが――ミカエラに前まではなかった、無意識のうちにも人に甘えたり頼ったりできる何かを生んだんだって、そのことについてはおれ、見ていてよくわかるんだ」


「ありがとう、ルネ。何より、ルネが本当にいい奴でよかったって、ずっと前からそうは思ってたけど、今は心から本当にそう思うよ。それで、ルネのような男にミカエラのことを任せられることが出来て良かったっていう言い方は、何か上から目線だけど……ラファエルのこともさ、ルネがいなかったらどうなってたかと思うんだ。裁判に訴えて泥沼になるとか、決してゼロではなかっただろうから……」


 ――ミカエラとラファエルのことに関しては、俺の中ではこれで十分だった。もちろん、俺にとっての「元のミカエラ」と、子供のラファと三人で幸せに暮らしていく、何故そんなささやかな願いが叶えられないのかと随分長く諦めきれず苦しんだ。この時も、こんなに可愛い子を置いてオカドゥグ島へ戻るだなんて、そんな自分が信じられないくらいだった。ルネの言ったとおり、まだ物心もつかない一番可愛い時期を、俺は息子と一緒にいることが出来ない。だが、今にも切れそうな一本の糸だけで彼とは結ばれるような形で、俺はラファエルとは別のところで生きる以外仕方がないのだと納得せざるを得なかった。


 ディアナとはミカエラとルネ、それにラファエルのいる時に一度だけ一緒に食事をし、ミカエラとはルネやラファを間に挟む形で多少なり話のようなものもした。だが、俺が彼女に対してはっきり壁を感じるように、それは距離としてどんなに頑張ったところで縮めることが出来そうもないものだった。そして俺のほうでも、何かおかしなことを話したとすれば地雷を踏むのではないかという恐れから――何やらまるで愛人のいることが妻にバレた時の男のように、ミカエラとは内心ではびくびくしつつ話をしているわけだった。


 ド・ゴール空港で最後、抱きあってから別れた時、ルネは「ミカエラ・ヴァネリの復活公演には必ず来てくれ」と言った。「テディのために必ずいい席を用意しておくから」と。


 実際のところ、その電子チケットが送られてきた時、俺は危うく見逃すところだったものである。ミカエラの『白鳥の湖』による完全復活公演というのが、それから半年後も先のことだったから……ではない。俺はあれからもちょくちょく息子のラファの顔見たさにアデルの視覚や聴覚を借りていたし(正確にはカメラとサウンドスピーカーだろうか)、ミカエラがストレスが溜まっていそうな様子が心配で、オペラ座のレッスン室やリハーサルの様子を見ていたこともある。


 ゆえに、ルネがもし仮に俺とした約束のことを忘れていたとしても――すぐに完売になったというチケットをどうにか買い求めてでもパリへ向かったことだろう。そしてある意味、この『白鳥の湖』の公演を見たことが、俺の中ではあらためてルネとミカエラの間に俺の入る隙間は一ミリたりとてないのだとの烙印を押される結果を生んでいたと言って過言ではない。


 とはいえ、エルネスト・アーウィンはジークフリート王子としてキャスティングされていたわけではなく、彼はオデット姫に呪いをかけた悪魔ロットバルト役だった。ジークフリート王子は、リフトの練習中に失敗してミカエラの頭を打ちつけさせた、エトワールのアルブレヒト・カールハインツだった。


 どう言えばいいのかわからないが、最前列から二番目の座席にて、『白鳥の湖』を俺が見ていて思ったのは――ある種の奇妙さだった。極めて小さな虫のカメラによって、バレエの練習風景を覗き見ていたから、このアルブレヒト・カールハインツというゲイっぽく見えるダンサーがもし緊張のあまりリフトで失敗しなかったとしたら……ミカエラは頭を打ちつけることもなく、俺と出会うこともなかったのだと思うと、その点にしてからがなんとも奇妙な気がした。


 そして客演として出演しているというルネだが、(王子じゃなくて悪魔役とはな……)と、俺は幕が上がる前までルネが悪魔ロットバルトとはと思い、若干首を捻っていた。出演者は彼以外全員がオペラ座に所属しているバレエダンサーらしい。けれど、いざ幕が上がってみると――観客の人気がジークフリート王子よりむしろ悪魔ロットバルトにあるのを見て、俺は驚くということになる。


 一度はあれほど愛しあっていたミカエラ・ヴァネリに、今や自分はすっかり嫌われているのだ……そのことがはっきりわかってからも、せめても彼女との心の距離を縮めたくて、俺は自分なりにバレエの勉強を始めていた。そしてそうした時にわかってきたのが、『白鳥の湖』にしても『眠れる森の美女』にしても、「大体こんなような話だったような……」と記憶しているのとは、実際には違いがあるようだということだったかもしれない。もちろん、その舞台ごとの演出の違いといったこともあるにせよ、第一幕で王子が白鳥を狩ろうとクロスボウのようなものを持っているのを見た時、(なんつー猟奇的な王子だ……)と俺は思ったものだったし、白鳥と黒鳥の両方を同じバレリーナが踊るということはぼんやり知っていたが、あらためて全幕を最後まで見てわかったのは、技術的にも感情表現的にも非常に難しい役柄らしいということだった。


 また、黒鳥オディールが悪魔ロットバルトの娘であることがわかったのも、バレエに関して色々と調べてみた結果のことであり、第二幕ではこのオディールのことをジークフリート王子は本物のオデットと勘違いし、プロポーズしてしまう。オデットの昼間は白鳥でいなければならない呪いは、まだ愛を誓ったことのない男性が、彼女に真心の愛を捧げることによってのみ解ける――にも関わらず、その愛を王子はオディールをオデットと勘違いしてしまったことで誤って捧げてしまうのである。


 こうして、とうとう解けると思われたオデットの昼間は白鳥、夜だけ人間に戻れるという呪いは、最早永久に解けないのではないかと思われた。第三幕で、ジークフリート王子は自分の行いを悔い改め、オデットに赦しを乞う。だが、オデットが愛する王子のことを赦そうとも、黒鳥のオディールにすでに愛を誓ってしまったあとでは最早呪いを解く術はない。こうしてふたりは高い崖から湖へ身を投じて死ぬ。けれど、本当に心から愛しあっていたオデットとジークフリート王子の愛の力によって悪魔ロットバルトは滅び、ふたりの魂はしっかりと結ばれたまま、永遠の国において復活を果たすのだった……。


 演出によって結末部分には様々なものが存在するようなのだが、俺が割と驚いたのが、オーソドックスな版のほうの終わり方だったろうか。俺は今までバレエといったものにほとんど興味を持ってこなかったので、ある意味知らなくても当たり前なのだが、『白鳥の湖』というのはてっきりハッピーエンドの物語だと誤解していたのである。ゆえに、3Dバレエシアターで最初に『白鳥の湖』を鑑賞した時、ジークフリート王子とオデットが湖へ向かい、崖から飛び下りたのでびっくりしたのだ。これでもう呪いは解けないことに絶望しての行動かとも思われたが、そこまで深く愛しあっているふたりの愛の前に悪魔ロットバルトは滅び、王子とオデットは永遠の魂の国のような場所で結ばれたらしいと示唆されて『白鳥の湖』は幕を閉じるのだった。


 俺は今回、ミカエラがオデット役の『白鳥の湖』を見る前にも、歴史的に名を残したプリマバレリーナによる『白鳥の湖』の名演をいくつか見て予習していたのだが――ミカエラ・ヴァネリの復活公演における『白鳥の湖』は、その中でも見たことのない奇妙なものだったような気がする。これは俺がバレエについて専門的なことがわかってないとか、そうしたことを抜きにしても……間違いなくちょっと類を見ないものだったのではないだろうか。


 結末部分はジークフリート王子とオデットが心中することを選んでのち、悪魔ロットバルトがふたりの死をも恐れぬ真実の愛の前に滅び、永遠に結ばれるところで終幕となる――というオーソドックスなものであるにも関わらず、ロットバルト役のルネが、まるで舞台上で一時的に悪魔を本当に召喚して自分に取り憑かせたのではないかというくらい見事なロットバルトを演じており、彼が登場するたび、観客席ではやんやの拍手喝采が起きるのである。


 オデットとオディール役のミカエラのバレエや演技については、誰もが溜息を着いたり、鳥肌が立つほど感動を覚えるものであり、彼女が今後もオペラ座の女王であり続けることを証明するような素晴らしいものだったのは間違いない。だが、ルネの悪魔ロットバルトの役があまりにも存在感が凄まじく、この超一流のバレエダンサーふたりに挟まれたカールハインツのジークフリートは、あまりにも存在感が薄すぎた。俺はバレエの素人に過ぎないが、それでもオデットとロットバルトのふたりが結ばれてもいいのではないかと頭の隅でちらと考えたほどだったから――この結果について演出家やディアナのほうではどう考えているのだろうと不思議に感じたほどである。


 たとえば、「ジークフリート王子より存在が濃すぎるから、もう少し抑え目にしてくれ」とか、指示することはなかったのだろうか?無論、この復活公演が発表された時、ミカエラは恋人であるルネがいかに心の支えになったか……といったことにも言及し、隣の彼のことを縋るような目で見ていたことは、オペラ座へ実際に足を運んだ多くの人が知っていることではあったろう。だが、そうした私生活のことは別としても、舞台上でのミカエラ・ヴァネリの完璧なオデットとオディール、それに悪魔ロットバルトの持つ存在感の大きさと、観客を引き込む吸引力というのは――バレエダンサーとしての天才的な才能による、類まれなる力を示すものだったのではないだろうか。


 ゆえに、ジークフリート役のカールハインツにしても、踊り手として相当な才能を持つバレエダンサーなのだろうに、それ以上の天才ふたりの間に挟まれたことで、何かその真価を発揮しきれずに終わった感があるにも関わらず……舞台の終幕において、俺は最後、涙を流していた。舞台演出において、今や特別な眼鏡やゴーグルを付けずとも、奥行きのある素晴らしいホログラムを簡単に投射することが出来る。それでも、第一幕や第二幕では、王城での舞踏会の様子や、夜の湖など、本物としか思えぬリアルな映像が背景としてあったのに――第三幕において、崖から湖に飛び下りたふたりが、永遠の愛に結ばれて復活を果たす場面、その背景となっているホログラムは鳥肌が立つほど幻想的な素晴らしいものだった。


 人間は、自然の素晴らしい風景と出会う時、時々それを「まるで一幅の絵画のようだ」と感じることがある。だが、そのホログラムの背景はそれをも超えていた。実際の現実に存在する湖と、人の心の中にある魂の湖のイメージとの間にあるような、そうした淡いの国を表現するかのような中に、一艘の舟が浮かんでおり……オデットとジークフリートとは、その星屑と月虹の輝きを合わせ持つかのような舟にふたりで乗り、永遠の愛に結ばれたことを喜ぶような顔の表情や仕種によって最後、去っていくのである。


 その後、再び幕が上がると、何羽もの白鳥役の娘たちがまず出てきた。「ブラヴォー!!」という声とともに、口笛や拍手が上がる。それからオデット役のミカエラ・ヴァネリが出てきて優雅に足を引いて挨拶すると、さらに歓声と拍手が大きくなる。それからジークフリート王子役のカールハインツが出てくると、若干拍手が控え目となり、口笛のほうもやむ。こう言ってはなんたが、ちょっとお義理的な雰囲気だ。けれど、今度はカールハインツの手に引かれてミカエラが挨拶すると、再び万雷の拍手となる。それから悪魔ロットバルトがどこか控え目な仕種でマントを翻し、優雅に礼をする。途端、「ブラヴォー!!」と叫ぶ声があちこちからこれでもかとばかり上がり――そしてミカエラを間に挟み、カールハインツとルネが互いの肩を抱きあって現れ、三人一緒にお辞儀をする。その後さらに第一幕に出ていた、ジークフリート王子の母である王妃や、舞踏会へ参加していた貴族の面々など、すべての出演者たちが出てきて挨拶し……この頃には舞台の前面は花束の山がうず高く積まれており、さらにいくつもの花が「ブラヴォー!!」という賞賛の声とともに次々投げ入れられた。


 俺はこの間、ただ呆然と舞台のほうを眺め、オーケストラピットの指揮者が紹介されて軽く頭を下げる様子を視界の隅で捉えたりしていた。そして最後、ふらふらした病人のような足取りで、美しく着飾った人々の群れを泳ぐようにしてガルニエ宮を出た。ホテルまではかなり距離があったが、俺はぼんやりした頭のまま、歩いて帰ることにしたのである。


 ルネとミカエラの間に、単に恋人同士としてだけでなく、バレエに関しても強い絆があるということはもろちんわかっていた。けれど、ルネがジークフリート王子役だったわけでもないというのに、俺は何をどうしてもあのふたりの間を引き裂くことは出来ないのだとの思いに、この時あらためて打ちのめされていた。そうなのである。舞台に感動したという部分もあったのは確かだったが、それ以上に俺は自分があの悪魔ロットバルトなのだと自覚したような気がする。それが俺が涙を流した理由のひとつだった。


 そしてここからは何やらこじつけがましい話になるが、俺のミカエラはあの星屑と月虹の輝きで作ったような魂の舟に乗り、どこか天国のような永遠の素晴らしい国へと旅立っていったのだと、俺はそう考え、自分のことを納得させることが出来るような気がしていたのである。


 ――こうして俺は、完全に何かを諦め、そして一度諦めることが出来たからには、二度とミカエラにもルネにもラファエルにも会おうとは思わなかった。俺がその後、ラファエル・アーウィンに関しての詳しい消息を知るのはこの約四十三年後、テレビに映る息子の姿を見てということになる。




 >>続く。






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