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第30章

「モーガンのことに関しては、おそらくあなたの目に狂いはなかったんでしょうが、俺の科学者としての才能というのは凡庸なものだと思います。それでもいいなら、何かの形で必ずお役に立ちたいと考えていますし、何より才能と呼べるほどのものがない以上……博士、あなたがそれよりも大切なのは忠誠心だとおっしゃっていたように、その点においては絶対に裏切ることはないと今ここにはっきり誓えます」


 とはいえ、俺はもともとがジャーナリストである。今口ではそんなことを言っていたにせよ、『検証!オカドゥグ島は実在する!!』だの、『恐怖と脅威の科学技術研究所、その実態がこれだ!!』だのいう三流記者の書きそうな眉唾記事をいずれ発表するのではないか――そう疑われても当然ではないかと、その点については唯一心配していたのである。


「我々が裏切りということに関して悲しく思うのはね」と、ノア博士はつらそうに溜息を着いていた。「それが何より本人にとってためにならないことだからだよ。たとえばテディ、君がここの施設のことを十分見学してのち、来年の夏休みにでもバカンスへ出たとして、その時N社に記事を売ったとする。でもそんなのはあまり意味のないことだ。むしろ裏切りが発覚した時点で、記事が表に出ないのみならず、君はモーガン・ケリーの差し向けた部下にでもそれとわからぬ形で暗殺されているだろう。そしてモーガンもまた胸を痛めることだろうね。『出来れば殺したくない男だったのに、残念だ』なんて、苦渋の決断を下さねばならんわけだから……テディ、僕は何か遠回しに君のことを脅したいわけじゃないんだ。むしろ、今君が口にした忠誠の言葉を額面通りに信じている。だがやはり、数としては少ないとはいえ、やはりあることにはあるからね。『ブルータス、おまえもか』としか表現しようのない悲劇というのがね」


「では、その際には俺は単に自分の墓穴を掘るだけのことだと今から覚悟しているということで、信じていただけるのでしょうか?」


「もちろんだよ。僕はね、君のことが何か組織の部下としてといったことじゃなく、友達として好きなんだ。基本的に、ここの研究所へ引き抜くからには、それ相応の何かの才能を持っている人物が多いとはいえ、それよりも大切なこととして上回るのが忠誠心だ。なんにしても、ここに長くいればわかるよ。我々が一体なんのために存在しているのかといったような、そうしたことについてはね。まず、そもそもの君の専門分野であるAIやアンドロイドに関する研究について言えば『囲い込みによる監視』が主な目的といったところだ。どこかの国、あるいは民間の巨大企業によるAIが暴走した場合、こちらではそれを食い止めるための用意がある……他にね、テディ、君は類まれなる倫理観と道徳観、ユーモアセンスの持ち主だと僕は思っている。実はね、ある研究のメインストリームにいると、そこに携わっている人間というのは『自分たちのしていることは正しい』と思いがちなものなんだ。僕はここの科学技術施設のあらゆる機関において、君には倫理委員会にも近い諮問機関にも名を連ねてもらいたいと思っている。実はテディ、君のことをここへ招きたいと思った一番の理由はそこにあったと言ってもいいくらいなんだ」


「そうだったんですか……」と、俺は少しばかり拍子抜けしながら言った。「まあ、俺の持つ倫理観や道徳観など、風が吹けば飛ぶよなクズかゴミ程度のものにしか過ぎませんが、それでいいならという話です。博士、俺はね……結局のところ悲しい結果で終わったにしても、ミカエラとここで出会えたことに心から感謝してるんです。そしてそのためになら、なんでも出来るとも。それに何より、子供が出来たことで考えの変わったことがいくつかあります。正直、俺は『地球のためにゴミを分別しよう』といった考え方がそもそも好きじゃないというか。ゴミの分別をするのは明らかに地球のためではなく、人間の今後の生存のためです。というより、地球にとっての人間自体が有害なゴミのようなもので、このゴミの始末というのも地球がその気になれば極短期間に簡単に済ませることが出来る……だけど、子供にはやっぱり『地球のためにゴミを分別しようね』とか、そんなふうに話して教えるでしょう。つまりね、自分の子供や孫や――その次の代まで地球が存続してるかどうかもわからないって、前はずっとそう思ってたんです。すでにもう、この地球が何百回滅んでもおかしくないくらいの核を上回る兵器が存在してるんですからね。でも、自分の子供のことを考えたら、彼らにはなんの罪も責任もないんですから、美しくて平和な地球を保つために微力ながらでも何かしなきゃって考え方が変わったんですよ」


「なるほど……テディ、君、これから僕と月へ行かないかね?」


「えっ!?月へですか」


(何故急にそうなるのだろう)――と、俺は不思議に感じた。と、同時に周囲の宇宙スペースを星々が移動していくという映像が、月から見た地球のそれに変わる。こうした映像を見て疑似体験するだけでも、この地球という星はたとえようもない美しさをたたえた奇跡の惑星としか思えない。


「月エレベーターが完成して結構になるけど……いまや観光客による予約でいっぱいみたいな状況だものな。スペースシャトルへ乗るにはそれ以上に金がかかるけど、月には我々の息のかかった地下組織や民間施設もあることだし、ちょっと遊んで帰ってくるにはちょうどいいんじゃないか?というより、テディ、君の失恋の痛手はカリブ海のかわりに地中海をクルーズしたり、ドバイで豪遊したり、マカオでギャンブルに興じたりだの、そんな程度のことでは到底癒されない気がするからね。どうだい?いっそのこと地球を出て月へいってみたら――どういったらいいのかな。とにかく、ちょっと価値観の変わるところがあるからね。もしかしたら気分転換になっていいかもしれない」


「…………………」


 俺はこの時、ノア博士はおそらくミカエラと俺のことで部分的にであれ責任を感じているような気がした。むしろ俺は、そのような奇跡的な出会いを経験できたことに、博士に感謝すらしているというのに――それが、失恋旅行に月まで行かないかだって?


(博士、それは流石に人が好すぎやしませんか?)


 ところがこの時、ノア博士は突然すっくと立ち上がると、「よし、それがいい!!我ながらグッドアイディアだ」とすっかり一人決めしてしまったらしい。月から見た地球の映像も消すと、外のミロスを中へ呼び入れていた。


「メディカルチェックその他の用意も必要になりますから、そうした準備を含め数日を要しますが、早ければ再来週には予約を入れられるかと……」


「そうか。僕は今までに何度も月へは行ってるからね。そうした意味で審査が通るのも早いはずだが、テディは今回が初めてだから、色々レクチャーを受けたりしなきゃならないんだっけ」


「さようでございますね。まあ、リモートによる授業で出欠がきちんと取れてさえいればいいというものではありますが」


「すみません、俺なんかのためにそこまで……」


 月へ行きたい気持ちはあったが、果たして本当にいいのだろうかと俺は迷っていた。メディカルチェックに座学、それにちょっとした体力測定――を無事通ることさえ出来れば、スペースシャトルには乗れるということではあったのだが。


「いや、いいんだよ。むしろ僕のほうが久しぶりに月へ行きたくなったって話さ。テディ、君はそれにつきあわされる新人の部下……いいや、違うな。友人ってことだと思ってくれたまえ」


 ――こうしたわけで俺は突然、月へ行くことになった。実をいうと月へは、ミカエラとも新婚旅行で行こうかと話していたことがある。「重力が六分の一って、どんな感じなのかしら?」、「でも今じゃ、重力調整区画っていうのが増えていて、向こうでも地球の重力と同じように過ごせるらしいよ」、「あら。むしろそんなのつまらないんじゃなあい?」……などと、ベッドの中で話していたのが懐かしく思いだされる。


 スペースシャトルのほうは、1969年に世界で初めて月面着陸した人物、ニール・アームストロングが乗っていたアポロ11号と比べた場合、隔世の感があったろう。エンジンの燃料効率のほうも良くなり、危険性のほうも激減した。形態のほうもかつてのスペースシャトルのような巨大な形ではなく、飛行機により近くなっている。そして発射台から宇宙へ超音速によって飛び立ったあと、さらに極超音速へと速度を上げ、AIによる制御により安全に大気圏外へと運ばれていく。この時、非常に強い重力がかかるため、その模擬体験も事前にしていたが、実際の体験としてはもっと大きなGがのしかかっているように感じた。座席のほうはたったの六席であり、他の四席にはそれぞれ、世界各国のスーパーセレブと思しき人々が座っていたものである。そしてこの時、俺が何より驚いたのが――ノア・フォークナー博士がまったくの別人として自分の隣に座っていたことだったろうか。


「意識データのコピーによって複数人の自分になれる……ということの利点としては、悲しいことに逆にいえばどんな外見の人物にもなれるということくらいしかないもんでね」


 与圧服を着たノア博士は、一見どこにでもいそうな黒い髪に黒い瞳の白人中年男性だった。どうせなら容姿的に格好のいい若い男――というふうにも出来たはずだ。だが博士曰く、彼のような人物にとってはどこへ出かけるにせよ「目立たないのが一番」という、何かそうしたことになるらしい。


「君も、慣れたほうがいいよ」スペースシャトルが大気圏を抜け、強い重力の影響が消えると、ノア博士は(やれやれ)という顔をしてヘルメットを外していた。「僕のように複数人の『自分』というのになる必要まではないが、もし次の世において自分でオーダーメイド作成した肉体へ生まれ変わりたいということなら、すでに我々にとってこの肉体というもの自体がいくらでも乗り換えのきく『乗りヴィークル』に過ぎないということにね」


 ミカエラのことで落ち込んでいる今の俺にとって――また、まだ三十三歳という若さのこともあったに違いないが――次の世代に生まれ変わってまでも生きたい望みがあるかと言えば、それはノーだった。むしろ、ミカエラが何かの不慮の事故などによって亡くなったということなら、今俺は後追い自殺することを考えていた可能性すらある。その時、俺はきっとこう考えたに違いない。(死ねば天国で彼女に会えるのだ)と……だが、ミカエラ・ヴァネリは今も生きている。俺の愛した彼女が意識としてはすでに存在しないというそれだけのことなのだ。


 この中途半端な事態が、この上もなく俺のことを苦しめた。(相手が死んでいないというよりずっといいじゃないか)と、現在の俺のことをまるで覚えていないミカエラ・ヴァネリの幸福を願おうとしても――そのためには、俺にはまだ時間が必要だった。毎日のように動画でミカエラのバレエ映像を見ようとしてしまうし(彼女は俺の愛したミカエラとは別人格なのに!)、そうして自分の生傷を抉り返しつつ、その痛みを感じることのうちには甘い喜びも内在しているのだった。そして、ミカエラ・ヴァネリの踊る姿を見ても、俺がもしなんの胸の痛みも感じなくなるのだとしたら……そんな悲しいことがあるだろうか?あんなに愛していた誰かのことをそれは忘れるということを意味するのではないか?けれど、彼女は単に容姿が同じというだけの、別の人物だと思わなくてはならないのだ。


 俺は今後、何を見ても聞いても触っても――本当の喜び、ハッとするような魂の震えのようなものを何も感じないのではないかというくらい落ち込んでいた。だが、そんな俺の心にも月から見た地球は大きな驚きを与えるものだった。1969年に人類が初めて月面着陸した時、地球にいる人々はこの快挙を歓呼を持って迎えたという話である。その反面、別のある人々には心理的な絶望を与えた可能性もある……と指摘する哲学者や心理学者もいるということだった。つまり、月から見た地球はこの上もなく青く美しいものではあったが、それと同時に虚空に浮かぶ、この上もなく頼りなく孤独な、それは絶望の惑星であることを暴露するものでもあったからである。


 古来より、地球では天体礼拝が盛んであった。だが、それは当然のことながら、穀物といった収穫物の実りを天候が大きく左右すればこそ、人々は祈り、そのための神殿を建て、祭司と呼ばれる階級が必要だったわけである。時宜にかなって雨が降れば、何がしかの神の名のもと感謝を表して供物を捧げ、逆になかなか雨が降らなれば、やはり天体の運行などについて、太陽神他の神々に伺いを立ててみたりと――その後、科学が発展し当の太陽の正体がわかってみると、水素やヘリウムなど、数種類のガスと元素からなる惑星だという科学的事実が全人類に明らかになったわけである。


 つまり、この太陽をいくら拝んでも意味などなく、拝むべき神がそこに宿っているわけでもなんでもないことが人々にはこの上もなくはっきり理解された。それと似た感覚が、ある人々には月から見た地球にあったとしても不思議はなかったのかもしれない。無論、それからさらに科学の進歩があった現在という時代でも、神という存在は完全に否定され葬られたということなく、なんらかの形で連綿と生き続けてはいる。ようするに、神は宇宙においてこの上もなく特別な惑星として地球を選び、最終的に我々人間という存在を生みだし、そこへ住まわせたのだ……云々といった物語によって。


 俺はフォークナー博士の科学組織の息がかかった人物が何人もいるというアルテミス研究所、そこにある地球展望台という場所から遠く地球を眺め――(出来るならここにミカエラと一緒に来たかった……!!)と、肌に鳥肌の立つような深い感動とともに思っていた。すでに月へは何度も来たことがあるというノア博士は、なんの感銘も覚えないといったように無表情なままだったが、そんな彼でさえ、俺が泣きだしたことには驚いたようだった。


 何故なのだろう。あの美しい惑星にはすでに、俺にとっての最愛の女性であるミカエラはどこにも存在しない……そのことが突然にこの上もなく実感され、俺は涙が溢れて止まらなくなったのだ。もしミカエラが何かの不慮の事故で亡くなったのだとしたら、この広い宇宙のどこかに神は存在するのだというのと同じくらいの確率で、ミカエラはこの宇宙のどこかにいるのだ、今きっとその魂は天国にあるのだと俺は妄信しようとしたかもしれない。そしていつか自分も死ねば、もう一度彼女と一緒になることが出来るのだと……。


 だが、この時俺が感じていたのは(この広い宇宙のどこにも神なぞ存在しないし、天国などというものもない)という、圧倒的なまでの絶望感だった。まさか、わざわざ月くんだりまでやって来て、こんな気持ちにさせられようとは思ってもみなかった。もしこれが別の時なら、俺はこの展望台から遠く地球を眺め、魂が震えるほど感動したという思いのみによって再びそこへ帰っていったことだろう。


 とはいえ、月複合基地ルナプレックスでは他に色々と楽しいこともあった。月で働く人々のための歓楽街もあれば、動物園や遊園地といった娯楽施設もあったし、ショッピングモールでウィンドウショッピングをしているだけでも……地球で同じことをする以上に何かと面白かったものである。


 たとえば、エムドナルド・ハンバーガー月支店であるとか、某ブランドショップの月支店、大手アンドロイドメーカーの月支店など、どこかの大企業が「月支店」を出店すると、それは必ずテレビでニュースとなり、ネットを賑わせたものである。そして、むしろ地球の都市部におけるよりも、月支店というのはどこもそれほど洗練されているわけでもないのに(おそらく物流の関係と思われる)、にも関わらず「ここは月だ!!」という特殊な感覚と思い込みが観光客のほうに存在するためだろう。そのことがおそらくは、「月で食べる食事は格別だ」だの、「月遊園地は地球よりも超楽しい!!」、「月ホテル最高!!」、「月の無重力アトラクションはここでしか味わえない!!」……といった特別な感慨を人々にもたらすのではないだろうか。


 俺は最初に向かった人工重力基地アルテミス研究所の付属施設にて、月基地の歴史その他の電子パネルを見たり、VR体験をしたり、無重力ルームで泳いでみたりしたが、絶望感で打ちのめされたばかりの人間とは思えぬくらい、表面上は極めて元気だった。それまでもずっと「それはそれ、これはこれ」といったように脳内で分類してきたのだし、俺がミカエラのことで本当に落ち込むのはひとりきり、あるいは思い出の中の彼女とふたりきりでいる時に限られていたせいでもあったろう。


 それと同じように、月での滞在は俺にとって、絶望をもたらすと同時、癒しの効果ももたらしていた。ノア博士が――よく考えたら、俺より百歳以上も年上の彼が――月の軽い重力に酔ったかのように終始一貫して愉快そうであり、全世界の命運を握っているに等しい最高機密機関の長であることの責任から逃れ、空騒ぎする観光客に混ざって愉快そうにしているというのが、俺にとってもこの上もなく嬉しいことだったのだ。


 月に滞在していたのは約八日ほどの間ではあったが、ノア博士が最初に言っていたとおり、気分転換になったのは確かだった。初めてやってきた月という場所に対する興奮ということがあったのはもちろんのこと、毎日のように彼と何気なく会話を交わすだけでも……俺には極めて有意義なことだったのである。


 毎日、食事をしながら、あるいはホテルのお互いの部屋で、話すべきことなら尽きぬほどたくさんあった。その日、観光先で見聞きしたことについて語ることもあったが、それ以上にノア博士が自分が創設した科学技術機関についてどのような考えや理念、展望を持っているかなど……言ってみれば、上司と新人の部下にも等しい関係性によって、俺は彼から本心を語ってもらっていると感じていたし、ゆえに色々なことを熱心に質問したりもした。


「テディ、以前君はアンドロイドに関して『クオリアのないデジタルゾンビだ』といったように語っていたことがあるけれど、今もそう考えることに変わりはないかい?」


「ええ、まあ……あのあと、オカドゥグ島の地下施設では、オルガノイドと呼ばれる人間そっくりの内部構造の中に、ナノチップを埋め込むことで、『人間そっくりのアンドロイド』がいくらでも生み出せることが出来るとわかりました。オルガノイドというのが、人間の細胞そっくりでありつつ、そこに別の特質も付与することが出来るというのはなんとも驚異的でしたが……たとえば、我々の人体というのは今の形態が最上の形であるとまでは言い切れません。そこで、心臓や肺や胃や大腸、肝臓の場所などを少し変えてみたり、血液のほうも必ずしも赤い必要はなく、青や緑や紫の人工血液を流して循環させることも出来る。そんなことにどんな医学的意味があるかという話かもしれませんが、やはりここまで本物の人間と区別がつかなくなってくると、そうした形によってでも何かのしるしによって違いがわかるほうが好ましい場合があるからですよね。さらに、ある状況の変化における細胞の振るまいの違いについても実験できますし、痛みを感じない神経網を備えさせることも出来れば、外部や内部からの破壊において、速いスピードによる自己補修する再生能力を強化するなど……無論、脳の構造のほうも人間そっくりですから、あとはそこにプログラム通りの人格を発生させることさえ出来ます」


 それは、月から月コロニーへと移動した日のことだった。あちこち見学して歩き、宿泊施設のほうへ引き上げると、俺と博士は軽く食事をし、部屋のほうでいまやチャンネルが無限にあるテレビプログラムをザッピングしているところだった。そして結局、インターナショナルニュースのほうへ落ち着く。


「そうだね。そこにもしオーウェンバッハの法則を当てはめた場合、この人物はおそらく、どこの人間の都市や町で暮らしてもアンドロイドと見破られることはないはすだ。ただ、少しずつ細胞が老いていくといったようにプログラムしておかないといつまでも若いままだから、その点においてのみ注意しなくてはならないが……あとは幼い頃からどこでどんなふうに過ごしたかなど、疑似記憶プログラムといった自然な過去やプロフィールも用意しなければならないというそれだけだ。性格パターンのほうも細かく設定がしてあるし、本人自身が自分を人間と信じて疑わないことだろう。だが、この人物に本当に人間と同じ心があると言えるのだろうか?」


「俺が『クオリアのないデジタルゾンビ』と呼んだのは、あくまで自分が大学時代に一から組み立ててプログラムした、内部に金属や配線、コンプレッサーなどの詰まった機械的存在のことです。そのくらい人間に近ければ――心があるのかもしれないと思います。それも、本物の人間の側による錯覚とすら呼べないくらい精巧な心が。このあたりの考え方の変化については、ミカエラと出会ったことも俺には大きかったかもしれません。何分、彼女には『これこそは自分である』というクオリアに相当するものがある以外では、細かな過去の記憶などはなく、それでも生き生きとした存在として俺や他の人々に影響を与えることが出来、しかもそれは何か人に不快さを与えるものでもなければ害をなすものでもなく、むしろその逆ですらあった。たとえば、これを人間そっくりに造ったアンドロイドに当てはめてみましょう。器に相当する入れ物は精巧なもので、人間と変わりない。けれど、記憶や性格のパラメータをどう設定するかについては、設計者の好みや目的次第ということになります。細かな過去を設定しなければ、何故彼や彼女にその後そのような性格が形成されるに至ったのか、矛盾が生じる可能性がある。けれど、過去があまりなくとも、どうやら人は生きられるらしい……このあたりがミカエラを見ていて俺が妙に感心させられた点かもしれません」


「わかるよ。何故といって、僕はミカエラ・ヴァネリに関しては何かの気まぐれからでもやって来るとしたら、元の外見上はツンと取り澄ましたほうの女性が現れると思ってたんだし、まさか記憶喪失になっているだなんて想像してもみなかった。しかも、その彼女がテディ、他に招いた客のひとりに一目惚れするだなんて一体誰に予想できる?」


 合成皮革のソファに深く腰掛けたまま、テレビのほうを見つつ、ノア博士は自分の黒の巻き毛を指でいじっていた。ニュースのほうでは世界の株式市場がどう動いたかの解説をやっていたが、彼が真剣にそれを見ているとは思えない。


「もちろん、記憶喪失なんていうのはあくまで特殊な例で……やっぱり、あるひとつの社会でやっていこうとしたら、過去というものはないと不自然です。また現在の自分へと至るコネクト部分がしっかりしている必要もあるでしょう。そこまでしっかり細かくプログラムしてから一般の人間社会へ彼なり彼女なりを送り込むとしたら――誰もこの人物のことをアンドロイドとは思わないのではないでしょうか?」


「まあね。だけど、こんなものを僕たちは創り出して、そもそもどうしようっていうんだろう。おかしな話、我々はどこまでアンドロイドを人間に近づけられるかと研究してきて、最終的にこの生き物の始末や処分に困ることになったのだよ。そもそも、人間に心がある、意識があるのはどういうことかといえば、それは『自分が自分で、自分であると気づいている状態』であると言われている。けれど、いわゆる<不気味の谷>を越える前の旧ヴァージョンのアンドロイドたちだって、デカルトの『我思う、ゆえに我あり』という言葉を引用し、だから自分には人間らしい意識があると主張することくらいはしたんだからね。ところがだね、これは実験の結果わかったことだが……<不気味の谷>を越えて我々がより人間に近づけたアンドロイドに何が起きたかというと、彼らはこちらがそうとプログラムしたわけでもないのに、ミロスのような旧ヴァージョンには出来ないこと、我々人間が普段酸素を吸って吐きだすのと同じくらい自然に行っていること――つまりは一般社会において『嘘をつく』というスキルをとうとう自然に身に着けたのだよ。どういうことかわかるかい?ようするに、彼らは一般社会で生きるにおいて、自分に都合の悪いこと、辻褄の合わないことは脳内プログラムにおいて合理化をはかり、結果としてこの都合のいい合理化ということが、嘘として口を突いて出ることになったわけだ。これは実際のところ、人間にもよくあることだ。たとえば、実際には旅行したことのない場所について行ったことがあると嘘をつく。僕も君も、嘘をついた人物と次に会う時まで、おそらくその場所に関してネットで調べられるだけのことを調べるなり、今はバーチャル観光ツアーのパッケージだってあるから、疑似旅行することだって可能だ。そんなふうにしてどうにか辻褄を合わせるうち……自分でもそこを『本当に旅行したんじゃないか』と錯覚してもおかしくはない。だが無論、心の奥底ではわかっている。自分はつまらぬことで愚かにも見栄を張ったから、そんなことに時間を費やすことになったのだとはね」


「そうなんですか。そこまでアンドロイド研究というものがやって来ているのだとしたら……メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』ではありませんが、読者が博士の生み出した名もなき怪物を人間として認めるべきだと感じるように、彼らを人間と同じだと考えるべきなのかもしれませんね。また、人間に心があるとはどういうことかというそもそも論でいえば、今現在、俺には博士、あなたが本当は心の中で何を考えているかなどわかりません。そして、ノア博士、あなたのほうでも同様です。人間は本当は怒っていたり、相手を気に入らないと感じている時でも、社交辞令から笑ってみせたり、怒りを抑えて相手に優しくすることも出来る……ただ、確かにミロスは人間に忠実で基本的に嘘をつくことがないし、人間に善をなし、その益となることのために働こうとします。また、彼の心のようなものも覗き見ようと思えばそうすることが出来ます。ただ、このアンドロイドの心というのはブラックボックスのようになっていて、何故彼がそのように答えを導きだしたか、ひとつひとつのプログラムを解きほぐすのにも時間がかかる。おそらく、<不気味の谷>を越えて進化したアンドロイドたちを回収し、脳内のチップを解析すれば、彼や彼女たちの見たこと聞いたこと、経験したことを再現することは出来るにしても……同時に、そのアンドロイドから「それでこの時、どう感じていたのだね」とか、「何故嘘をついたのだね。嘘の過去と辻褄を合わせるためかね」だのと聞く必要があるのではないでしょうか」


「やれやれ。それじゃあ本当に最後の審判じゃないか」


 ノア博士は俺のつまらぬ結論に失望したようだった。また、彼の話によれば、『心を持っている』と言えるほどのアンドロイドを誕生させたまでは良かったが、それならそれで『一度誕生させたもののプログラムを停止させることは出来るが、人間に似すぎているがゆえに今度は殺すことも出来ない、始末に困るものを我々は創りだしたに過ぎないことがわかった』という話なのである。以来、この分野に関しては興味を失い、別のことに関心を向けるようになったのだとも。


 実際のところ俺も、そうした実験結果やアンドロイドの記憶領域にある映像を見たりして、ある程度のところを理解すると――別のことに関心を向けるようになった。アンドロイド研究については、クリストファー・ランド博士を新たな長として迎え、他の研究員たちがその後も研究を続けていたが、俺はこの分野に関して今は前にあったほどの熱意を持つことが出来なくなっていた。ノア博士から話を聞いて、アンドロイド研究はすでに頭打ちだと感じたからではない。ただ、月から地球へ戻ってくると、環境保全ということについていくらでもやるべきことがあるのでないかと気づき、アマゾンの熱帯雨林に緑を増やすことや、海洋汚染の軽減についてなど、今の自分にも出来そうなことから順に着手していったわけである。


 結局のところ俺はN社のほうも辞め、早々に地下世界へ潜ることにしたのだ。だが今のところは、行方不明や死亡に見せかけることまでは流石にしないでおいた。何より、両親がショックを受けるということもあり、「いずれ同時代人などひとりもいない」時が来るとノア博士から教えられ、「まだ生きていて不自然でない」うちは、表とこちらの裏の世界を行ったり来たりしたほうがいい――と勧められたせいでもある。


 また、ミカエラ・ヴァネリがその後無事出産したかどうかについても、俺は彼女のパリにあるアパルトマンにいる家事ロボットの目を通し、時折観察していた。また、超小型カメラ内蔵の虫(ハエでも蚊でもなんでも)に近くを飛ばせれば――そのカメラから産気づいた彼女が病院で無事出産した姿についても確認することが出来ていたのである。


 だから、ずっとミカエラのそばにいたルネからその後電話があった時も、特段俺は驚かなかった。すでに生まれた子供が男の子でラファエルと名付けられたことも知っていたけれど、もちろん「本当かい?ああ、良かった……!!」と、新鮮な感動を込め、我が子の誕生を祝福するのを忘れなかった。本当はカメラで見ながら(ルネの今の役目をしているのは俺だったはずなのに!)と、激しい嫉妬に駆られたことは押し隠しての演技である。


 たぶん俺はそんなことはすべきでなかったのだろうが、その後もミカエラ・ヴァネリの私生活について覗き続けていた。彼女のプライヴェートについて恥ずべき覗き行為をしたことは一度もなかったが、単に自分の子供が――名づける権利さえ与えられなかった我が子がその後どうしたかと、赤ん坊の顔を見るのが毎日楽しみで仕方なかったのだ。親権については、俺が当初そのように予想していたように、ミカエラは『二度と自分とラファエルにあの男を近づけさせないで!』という言い方によって、ルネを困らせていたようだ。


『そんなこと、おれには出来ないよ』と、ルネはリビングでミカエラと話しあっていた。『何度も同じことを言うようだけど、テディはいい奴なんだ。それに、どれほど自分の子供の誕生を楽しみにしていたか……もし時々彼がラファエルと会いたいと言ったとすれば、そうする権利が彼にはあると思わないか?』


『わたし、ラファのことはあなたとの子として育てたいのよ。それなのに、わたしがよく知りもしない男が時々会いにきたりしたら混乱するわ。それに、大きくなったらどう説明するのよ?あなたはママが記憶喪失の間に知らない男との間に出来た子なのとでも言えってこと?』


『大きくなったあとのことは大きくなったあとのことだよ。とにかく今は、生まれたばかりの赤ん坊であるラファエルのことをテディに抱かせてあげなくちゃ駄目だ。彼がどれほど自分の子と会いたいと思っているか、ちょっと想像すれば君にもわかるだろう?』


『それはそうかもしれないけど……』


 ここで俺の可愛い息子が「あーんあーん、うわああんっ!!」と泣きはじめ、ふたりはすぐそばのベビーベッドで眠る赤ん坊のほうへ寄っていった。それから「おお、よちよち。おっぱいでちゅね」などとミカエラが言い――いつもの女王然とした彼女らしくもない物言いだった――着ていた服の肩紐を外すと胸の部分をはだけ、授乳をはじめる。


『とにかく、親権のことについてはいずれ折を見てテディに話してみるけど、彼がパリへ来たいと言ったら、ラファには会わせてあげなくちゃ駄目だよ』


『わかったわ。だけど、もしあの男が親権が欲しいといったらどうするの?この子はバレエダンサーとしてのキャリアを削ってまで生んだ、わたしの大切な子よ。それにあの男との記憶が一切ないせいか、本当にルネとの子か、マリアさまの処女懐胎じゃないけど、そんな形で生んだとしか思えない、本当に神聖な子なのよ』


(ああ、それでラファエルか。なるほどな……女の子だったらガブリエラがいいとか、前にミカエラが言ってたことがあるけど……男の子だってわかってからはちょっとがっかりしてたんだよな)


 俺はミカエラとルネと我が子ラファエルが、自分の手の届かぬ聖家族のように見えるのがつらくなってきて、一度通信を切ることにした。(実の父親なのに俺だけ除け者かよ)といったような、ひねくれた悪魔のような思いが心の隅を掠めるが、俺の心中では憎しみよりも何より、息子への愛情のほうが遥かに勝っていた。こんなふうに時々彼らの姿を覗き見ることは、相も変わらずふたりのラブラブっぷりを見せつけられることでもあり、精神衛生上は非常によろしくない。けれど、ラファエルがどうしているかが気になるあまり、つい見ずにはいられないのだ。


(パリか……ルネがもし誘ってくれたら、俺は絶対行くぞ。ただじっと盗撮でもするみたいに見てるなんていうんじゃ全然物足りないからな)


 俺はオカドゥグ島では変わらず、例のダ・ヴィンチの絵のある部屋を自分の私室として過ごしていた。研究員たちがひとり、またひとりとバカンスから戻ってくるごと紹介してもらっていたが、おかしな話、「誰ともどうということもなかった」気がする。簡単に言えば、ノア・フォークナー博士に感じたようなある種の好感、シンパシーのようなものを感じるでもなく、ただ本当に「研究だけ」、「仕事だけ」という関係性だった。みな、それぞれ自分の専用ラボのほうへ閉じこもり、何か協力してもらいたいことや相談にのってもらいたいことがあれば迷惑そうな顔もせずアドバイスしてくれるが、それ以上のことが本当に何もないのだ。


「プライヴェートで、あとでまた話しましょう」とか、「ちょっと食堂で一緒に食べませんか?」など、そうした交流は何ひとつとしてなかった。俺はそのことを「人間らしい交流が何もない」とか「寂しい」と感じたわけでもなんでもなかったが、だんだん時が経つうち、「確かにこれは全体を統括することの出来る人間が必要だな」と、よくよくわかるようになってきたというそれだけだった。


 つまり、優れた才能のある天才が何人も集まっていれば組織がまとまっていくかといえばそうしたことではなく――彼らはノア・フォークナーというひとりの尊敬する組織の長がいればこそ、一枚岩にも近い形でまとまっているということだった。実をいうとノア博士は、月のホテルで毎晩のように色々なことを話すうち、自分の究極の夢について、こう語っていたことがある。


『なあ、テディ。僕の今の夢がどんなものか、わかるかい?』


『いえ、わかりません』と、隣のベッドで横になったまま、俺は言った。『博士ほどの偉大な人が、さらに描く未来の夢といったら……不老不死にも近い状態の技術もあるし、アンドロイドも完成の域に到達しているし、宇宙開発についても一枚噛んでいまや火星都市建設のみならず、木星との間の小惑星群開発に至るまで――計画が先へ進んでいます。これ以上のこととなったら、一体何がありますか?』


『死ぬことだよ』


 あたりが暗かったせいもあり、俺はこの時一瞬どきりとした。実は隣に遥か昔に死んだ男がいて、今そこにいるのは間違った肉体に宿った幽霊なのだということに……そうした見方も出来るということに、この時俺は初めて気づいたのだった。


『かなり以前からね、自分の後継者というか、この裏の組織を僕以上にまとめられそうな人物がいたら、僕自身は死んで、もう二度とどのような形によってでも甦りたくないと考えている』


『…………………』


 俺はこの裏の科学機密機関について、まだよく知ってもいない段階だったから、どう答えていいかもわからなかった。するとノア博士のほうでは『なんか、ごめん。暗い話しちゃったね』とだけ言って、その後『おやすみ』と眠りに就いていたのだった。


 だが、俺はこの時まさか、ノア・フォークナーがこの男こそ自分の後継者になるだろう――そんな予感がする……といったような目で俺のことを見てくれているのだとは想像してもみなかった。そして結局のところ俺は、ノア博士からこの秘密科学機関を受け継ぎ、最終的に四万年以上もの時を生きるということになる。




 >>続く。






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