第28章
翌日、ルネやディアナがやって来てからは、話の進むのは速かった。ミカエラはその後もずっと俺という存在がいないかのように過ごしていたし、ディアナとルネが到着してからはこのふたりを介して間接的に話しはしたが、それ以外では――俺は彼女にとってすでに「いないも同然」どころか、有害な存在ですらあるようだった。
ディアナが号泣して義理の娘と抱きあい、ルネもまたその様子を見て目尻に浮かぶ涙をぬぐっていた。俺は彼ら三人それぞれの愛の絆を、一歩引いたところから冷静に眺め……それから、ここからは壊れそうになる心が耐えられるように、「自分は人間に見えるアンドロイドなのだ」という設定を己に課すことにしたのである。
終始一貫して、心優しき繊細なルネが俺のことを気遣っていることはわかっていた。何故といって彼はついこの間まで今の俺の立場にあったのであり、それゆえにこそ恋のライバルであるはずの俺の気持ちが痛いほどわかっていたのだ。ゆえに、必要以上にミカエラとの間にあった恋愛関係の深さを匂わせるようなことすらせず、かといってミカエラが『もうわたしのこと、愛してないの?』と不安にならずに済むよう――ちょうど彼はその真ん中あたりの橋を渡るよう心がけていたようだった。
話の流れのおもな主導権はディアナにあり、彼女はミカエラのバレエの復帰のことを第一に考慮して語り、それが会話の中心主題であって、それ以外のことは第二第三の、中心主題に付随する出来事であるかのようだった。簡単にいえばこのことに関する元恋人の俺の心情についてなど、ディアナにとってはどうでもいいとまでは言わないにせよ、「すでに運命の神によって決定していることに従え」という、何かそれに近いことらしかった。
もともと、薄々そうなるだろうと予感していただけに……俺はそのことに大して逆らいもせず、反対の意を唱えることもしなかった。ようするに、今までルネが心中では苦しい思いを抱えつつ、俺に対して友好な関係を持ち続けてくれたように、彼のそうした理想的な態度を真似することにしたのだ。結局、3:1では勝ち目がないと思ったというより、どんな激情をぶちまけても見苦しい結果しか招かないとわかっていた。それなら、せめても忙しい中駆けつけた彼らの苦労をねぎらい、せめても美味しい食事を提供し、理解ある理想的な人間を演じるしか――俺には選択肢が残ってなかったのである。
それでも、何気ない会話の中から「親権」ということに話が及んだ時、初めて食事の場が一瞬ピリついたかもしれない。俺は自分が父親である以上、せめても定期的に会えるくらいの権利があるはずだとの思いがあり、もっと言えば「俺のミカエラ」の忘れ形見として、子供のことを引き取りたくもあったのだ。
「わたし、この子のことは……パリでは無理でも、ヨーロッパのどこか別の国で生むわ」と、妊婦であるがゆえに、ワインを飲めないことを残念がりつつ、ミカエラが言った。「あれから考えたんだけれど、当然いくら隠したところでミカエラ・ヴァネリの子は誰の子かっていうことが、必ず人の噂にのぼると思うのよ。マスコミの奴らが想像するのはたぶん元恋人の誰かってことでしょうけど、そんなことはどうでもいいことだわ。それより……」
「どうでもよくないよっ!!」と、ルネがシャンパングラスをモリス風のテーブルクロスに戻して言った。食事のほうは、割と近くにあるイタリア料理店から取り寄せたものである。「ミカエラ、君がもしよければ……それと、テディがよければ、世間向けにはおれとの間の子だっていうことにしたほうがいいと思うんだ。ミカエラはこれから子供を無事に出産して、バレエダンサーとして復帰を目指す。それがどのくらい大変なことか、おれも理解しているつもりだ。何故といって、おれだって自分のバレエ団を持ってるんだし、ミカエラと同じように期待してたバレリーナが突然妊娠して決まってた公演をキャンセルしたことがあるからだ。だから、パリとスイスで離れてるかもしれないけど、今までと同じく心から君のことを支えるよ。あとのことはそのあとのこととして考えよう。それと、おれは今もミカエラと結婚したいと思う気持ちに変わりはない。記憶を失ってる間の君はおれの愛した君とは別人なんだと思って一度は諦めようともした。だけど、もし今のミカエラにとっては『結婚している』ことのほうが前とは違って望ましいのだとしたら……」
「ルネ。こんな浮気な女のために、そうとまで言ってくれるの……」
ミカエラはチーズリゾットを食べる手をとめると、感動したように口許を押さえていた。ここで、俺のロボットとしての心の硬化度は最高点に達したと言って良かっただろう。
「そ、そうね。べつに、結婚してなくて出産したからといって、今はそういう時代じゃないし、パリはもともとそうした街でもないけど……今回の場合はそのほうがいいかもしれないわね。ルネ、私は肩書きとしてはただのオペラ座バレエ学校の校長ってだけだけど、それでもオペラ座内では誰に対しても顔が利くわ。そもそもあなたは誰からも好かれるタイプの人だし、いつこちらへ出入りしてもいいようにするのは簡単なことよ。ねえ、そうしましょう?」
ここで初めて、ルネがあらためて俺のことを気遣わし気な目で見た。俺は軽く頷くと、ただ顔の表情だけで賛成だということを表明した。彼がかつて、俺と記憶を失ったミカエラを笑顔で祝福してくれたことを思えば……このことはある意味当然のことですらあったのだから。
このあと、ルネとミカエラは心から愛しあう恋人同士として抱擁を交わしていた。その後、ディアナはタクシーで予約してあったホテルのほうへ向かったが、俺は客室を用意すると、ルネには泊まっていくよう勧めたのだ。何故といって、ミカエラは身重の身だというだけでなく、俺が知らなかったというだけで、普段はバレエにまったく興味がないという人物でも彼らふたりは「名前と顔くらいは知っている」有名人であったからだ。そのふたりが連れ立って歩いているというだけでも目立つだろうし、それなら我が家へ泊まっていけという、これはそうした話である。
「ごめん、テディ。君が今どのくらいつらいか、おれほどわかっている人間は他にいないくらいなのに……」
ゲストルームに案内した俺に対して、ルネはそう言ってあやまっていた。この時俺は、以前母がここへやって来た時のことを思いだし、孫の誕生を楽しみにしていた彼女がいかにがっかりするか――心の中で、この日何度目になるか知れない溜息を着いた。だが無論、顔には一切何も出さぬよう最大限努めた。
「いいんだ。それに俺が今思ってるのは、ルネ、君がいかにいい奴かってことだけだ。それも、聖人君子といってもいいくらいのね……確かに、ショックにはショックだけど、この場合見苦しく暴れることさえして、『俺のミカエラを返せ!』なんて言っても無意味なことだものな。ルネが前に言ってたみたいに、誰が悪いというわけでもない――だが、恋愛の三角関係においては必ず誰かが割を食う、そうしたことなんだと思う」
「ごめん、本当に……テディがこの一年の間、どのくらいミカエラのことを献身的に愛してきたか、そばで見てなかったとしてもおれには想像がつく。ほとんど自分の力じゃ何も出来ないような子のことを支えて、なんでも面倒をみてあげるようなものだ。普通の男なら、最初は容姿の可愛さや何かから惹かれても――途中で投げだしたくなっても全然不思議じゃない。仮に相手が妊娠してようとなんだろうとね。なのに、今のミカエラはこのことを何も覚えてない。テディ、君が色々苦労したことなんて何ひとつ……」
(そう思うと堪らないよ)という顔をルネがしたため、この時俺は本当に心から彼を許すことが出来た気がした。許すだって?そもそも何を……という話ではあるが、とにかく俺たちは同じ穴のムジナにも等しい何かだということだった。
「そんな苦労を苦労とも思わない、それが愛なんだということを教えてくれたのもミカエラだった気がする」と、俺は何かを諦めるように溜息を着いた。「第一、俺はルネのことでは一切何も恨みに感じたりすることはないよ。これは本当のことだ。何より、元の本当の記憶のないミカエラとつきあっていくより、俺は今の本物のミカエラ・ヴァネリと君が結婚してやっていくことのほうが……きっと遥かに大変なことなんだろうなって思ってる。とにかく、そのことでは応援するよ。応援するなんて言っても、実質的に俺には何も出来ないけどさ」
「ありがとう。それと、子供のことなんだけど……」
「ああ、うん……」
俺は、シズカが完璧に整えてくれたとわかっているのに、ペイズリー柄のベッドカバーの埃を払ったりしつつ、最後にはそこに腰かけていた。すると、同じようにルネがそばに座る。
「表向き、ミカエラとおれとの間の子にするなんて……あんなこと、勝手に言っちゃってごめん。そのことはミカエラとも今後話しあわないとなんとも言えないけど……テディにとってはきっと、親権が欲しいっていうか、自分の子供として育てたい気持ちがあるんじゃないかと思って……」
「まあ、そりゃあね」と、俺は泣きたくなりながら言った。声が震えそうになって、自分でも驚く。「今は……ルネやディアナの気持ちが本当の意味で痛いほどよくわかる。『こんなこと、絶対嘘だ、悪夢だ』と感じ、明日の朝にはミカエラが自分のよく知る前のミカエラに戻っているんじゃないかと願う。でも、ミカエラが自分の知らない自分、自分にない記憶のことをよく知る人のことを恐れていたように、今のミカエラにとっての俺こそがそれなんだ。もともとの彼女は性格のほうがキツくてはっきりしてるって、ルネ、そう言ってただろ?ほんと、記憶が戻ってどういうことなのかわかって以後、ミカエラは俺と口すら聞こうとしなかった。むしろ、このくらいはっきりしてたほうが諦めがつきやすいのかもしれないけど……それでも、この心の空白を埋めるのに、せめてもミカエラの忘れ形見として子供が欲しい。もし彼女が、全然知らない男との間の子なんか愛せないということなら、俺のほうでは喜んで引き取るつもりでいるって、それが俺の本心だって、一応承知しておいて欲しいっていうか」
「うん、わかった。どちらにしてもすべてはミカエラ次第だ。なんといっても生むのは彼女なんだし……生んだあと、誰との間の子であれ愛おしいというふうになるのか、どちらに心が振れるのか、男のおれにはわからないところがあるから。だから約束は出来ないけど、おれとしてはテディ、父親である君の意見を最大限尊重したいと思ってるってことなんだ」
――この時、俺とルネの間にわだかまりのようなものは一切なかった。むしろ、特殊な状況下における、同じ女性を愛する男同士としての連帯感のようなものすらあった気がする。けれど、それでいてやはり、ルネが俺に成り代わるようにミカエラの体のことを何かと気遣い、ふたりで同じ部屋に消えるのを見守るのはつらかったし、彼らがフランス語であれこれ話す声を聞くのもつらかった。また、この状態で出産するまでの間、今のミカエラがここに留まり続けるというのは不可能なのだろうことも、割合早く察することが出来ていたといえる。とにかく、もし仮に俺に世界を支えるアトラスほどの忍耐力があろうとなんだろうと、ミカエラの側では「一緒にいること自体無理なものは無理」というそうしたことなのだと……。
こうして、ミカエラとルネとディアナは、この翌日の夕方には俺の元から去っていった。最後、お腹の子供に挨拶することだけは許されたが――タクシーに乗り込む時、ミカエラが冷たい眼差しで「アデュー」といった言葉が、本当に最後の「さようなら」という意味なのだと理解したのは、俺にとってもっとあとのことだったのである。
>>続く。




