表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
28/34

第27章

「キャーー-ッ!!」


 忘れもしない、独立記念日から一週間後の七月十日の朝、俺は妻の耳をつんざくような悲鳴によって目を覚ましていた。しかもその後も「ヒィッ!!」という、ホラー映画でしか聞いたことのないような怯える声がし、俺はぼんやり(ミカエラがまた何かやらかしたな……)と考え、急いで体を起こしていた。


「あ、あんた、一体誰なのよっ!?それで、ここはどこなの?それに、わたしのこの体……」


 ミカエラは廊下にあった大きな姿見の前でわなわな震えだすと、最後にはそこにガクリと膝をついていた。話していた言葉はすべてフランス語だったが、この場合、意味のほうは流石に俺にもすぐわかった。だが、それが彼女の記憶が戻ったせいだったのだとは――本当の意味で即座に気づけたわけではない。


「……ええっと、Je ne parle pas très bien français.(ジュ ヌ パル パ トレ ビヤン フランセ「俺はフランス語をあまり上手く話せない」)」


 俺が首を傾げつつ、困ったようにそう呟くと、ミカエラは初めて何かを本能的に察したようだった。


「あんた、アメリカ人!?」と、英語でそう聞き返してきた。


「う、うん。決して悪い人間じゃない……あなたの義理のお母さんのディアナや、その……恋人のエルネスト・アーウィンのことも知ってる。だから、決してあやしい人間というわけでは……」


 怯える雌鹿を相手にする時のように、俺は猟銃を手にしてないことを示して両手を上げていた。何分、俺はちょっとくたびれたようなパジャマの上下を着ていたし、頭に寝ぐせだってついてた。だから、そもそもそんな必要はなかったのかもしれないが、あとにしてみれば俺も寝起きで、まだ相当寝ぼけていたのだろう。


「じゃ、じゃあ、このお腹の膨らみっていうのは……」ミカエラは絶望したように口にしていた。「ルネの子ってこと!?」


(違うよ)とは、流石にこの時の俺には言えなかった。とにかく、すぐにディアナかルネに連絡することを約束し、彼女にどちらと先に話したいかとだけ聞いた。


「こ、この場合ルネだわ。どうしてこんなことになってるのか、彼に説明してもらわなくちゃ……」


 この時、ミカエラは俺に対して『それであんたは一体何者なのよ!?』とまでは聞かなかった。これもまた本能的にそう聞くのを恐れたものか、それとも使用人か何かと間違えているのか、そこのところは俺にもよくわからない。


 寝室に戻ると、俺はナイトテーブルの携帯を手に取り、ルネの番号にコールした。シズカが混乱し「奥サマ、ドウ致シマシタカ!?」とおろおろしながらしつこく纏わりついているらしき気配を感じる。ミカエラは「わたしに構わないでっ!!」とだけ叫ぶなり、バタン!!と大きな音をさせてドアを閉めていた。聞こえてきた方角から察するに、彼女はおそらくバスルームのほうへ一度入ったに違いない。


(アーウィンバレエ団はスイスが本拠地だけど、もしヨーロッパの他の国へ公演に出ていた場合……)と、俺は壁のデジタル時計を見た。ニューヨークとパリの時差は約六時間であり、それはスイスでも同じくらいなはずである。そして今、ニューヨークは朝の六時で、向こうは大体正午頃ということになるだろうか。とりあえず、ルネがヨーロッパのどの国にいるにせよ、真夜中や早朝に叩き起こすといった事態だけは避けられたようである。


『ああ、テディかい?実は今、公演のリハーサル中でね。もし良かったら、終わり次第こちらから……』


「ミカエラの様子がおかしいんだ」と、俺は早口になって言った。デバイスの中の彼はバレエの練習着を纏っているわけではなかったが、総監督として稽古をつけている、ということなのだろうか。「もしかしたら記憶が戻ったのかもしれない。それで、お腹が大きいことに驚いて、君との子なんじゃないかと思ってる……俺、そのことを否定できなくって、ルネとは知り合いだから連絡を取ろうみたいに言って、それで今こうして電話を……」


『わ、わかったよ。ちょっと待ってくれ……リハーサルのほうは芸術監督のロナルドやミーガンに任せて、一度抜けさせてもらうことにするから』


 このあと、ルネがドイツ語で何かを話す声が続いた。俺はそのままバスルームのほうへ向かおうとしたが、ミカエラがちょうどそこから出てくるところだった。相変わらず顔色のほうは青ざめ、はっきり(何よこれ、信じられない……)とでもいうような顔つきをしている。


「奥サマ、オ食事ノホウハイカガ致シマショウ?妊婦用ノ完全栄養食ヲイツモ御用意致シマスガ、オ味ノホウハ何ガオヨロシイカト……」


「シズカ、今日はちょっと待ってくれ。ミカエラはその前に済ませなきゃならない用事があるもんだから……」


 俺はミカエラに寄り添うように隣りを歩き、リビングにある『妊婦に快適な椅子』というのに彼女を座らせた。それから、デバイスを壁に埋め込まれたスクリーンに繋ぐことにしたわけである。


「よかったわ、ルネ。今、あなた一体どこにいるの?……」


 スクリーンの向こうのルネは涙ぐんでいた。無理もない。彼やディアナのほうではこうなることを長く望み、一度は諦め、ミカエラが記憶を取り戻すことはもうないのだ、その可能性のほうはおそらく数パーセントもないのだ……と、医者がそう言ったわけではないにせよ、彼らの心境としてはそれに近かったろう。そして俺のほうではミカエラの元の記憶が戻ってのちのことなど――考えてみたこともなかったとまでは言わないが、それはどうしても想像のつかないことだったのだ。


「いつもの……チューリッヒのレッスン場だよ」と、ルネは一度鼻をすすってから続けた。どうにか涙のほうを押し殺そうとしているようだった。「ミカエラもよく知ってる……お腹の子は、おれの子だ。だから心配しなくていい。すぐ迎えにいくから」


「そ、そうなの。だけど、どうしてわたし……よく思いだせないのよ。わたしも、オペラ座のいつものレッスンルームにいた気がするのに、妊娠だなんて……こんなのおかしいわ。公演のスケジュールは一年先まで埋まってて、ルネ、あなたとはまた『人形の家』で再演する予定だったはずだわ。それなのにどうして……」


「ミカエラ、君はレッスン中にリフトで失敗して頭を打ったんだよ。相手のバレエダンサーはエトワールになりたての若手で、君とパートナーになるのは今回が初めてだった。そのせいできっとすごく緊張してたんだろう。その後、記憶に混乱が見られて踊れなくなった君はバレエのほうは少し休むことにしたんだ。それでその間に……その、妊娠のことがわかったんだよ。だから、これはそうしたことなんだ」


「そうだったの……わたし、よくわからないんだけど、ディアナはこのこと、どう言ってるの?『そんな無責任なこと、この私が絶対許さないわ!』だのいうおばさんの顔しか、わたしには思い浮かべられないんだけれど……」


 この時、ミカエラはとても不思議そうな顔をしていた。記憶の配線がうまく繋がってはいないが、脳がどうにかうまく合理化をはかろうとしているのだろう。実際、普通の人間であればそれで大体のところうまくいく。だが、彼女の場合は最後に持っていた記憶から、欠けのあるタイムラグを置いてのち、再びそれを繋ぎ直そうというのだから、そこに混乱が生じているに違いない。


「ミカエラが元に戻ったと聞いて、きっとディアナも喜ぶよ。バレエのレッスンのほうは、子供が無事生まれたら……君ならきっと順当に回復して再び前と同じように踊れるようになると思う。前みたいに、ロン・デ・ジャンプとかジュテと聞いても、全然ピンと来ないみたいにはならないだろうし……ああ、そうだっ!!これからチケットを取ってすぐニューヨークへ向かうよ。でもどんなに急いでも……」


「ニューヨークですってっ!?」ミカエラは突然素っ頓狂な声を上げていた。「なんでわたし、ニューヨークへなんか……もしかして、治療かなんかのため!?ニューヨーク・シティ・バレエのディアナの長年の愛人みたいな――実際には愛人じゃないけど、ディアナの崇拝者みたいな振付師のあいつにでもわたしのことを頼んだんじゃないでしょうねっ!?」


『もしかして、ダニエル・ニューマンのことかい?なんにしてもとにかく違うよ。詳しいことはそちらへ到着したらすぐ説明する。それまではテディ……すぐ近くにいる彼の言うことに従ってくれ。彼は信頼できる人物で、おれたちの味方という言い方はなんだけど、とにかくミカエラ、君に不利になるようなことは何ひとつしない男だってことだけははっきり保証できるから』


「だけどルネ、わたしほんとにびっくりしたのよ。目が覚めてみたらお腹がこんなでしょう?一体これはなんの悪夢で、これは何か詰め物でも詰まってるのかと思ったくらいなのよ……」


 ルネはこのあと、細かなことにまで納得できる説明を求めようとするミカエラに苦慮したようだった。まるで今まで俺がミカエラにしつこく同じことを繰り返し聞かれても、じっと堪えてその質問に答え続けてきた時のように。そして、きのうの夜もちょうどそうだった。「キライになんかならないよ」、「愛してるよ」とここのところ毎晩のように何度もリピートしてきたみたいに――この時のルネの辛抱強さには並々ならぬものがあったと言える。


 ミカエラが今自分が不思議に感じていることを何度となく質問し、さらにほんの少し時間が経つとまた繰り返すため、ルネも流石に不安になり、戸惑ったようだった。けれど、海馬に記憶が溜められず、十分後には忘れてしまう……といった症状とは、彼女のそれは違うようだと俺は傍で見ていて感じた。記憶を取り戻したものの、ミカエラ・ヴァネリは一年以上も前に起きたパリでの出来事から、突然タイムジャンプして今ニューヨークの見知らぬ場所へいることの、その「不可思議さ」をどうしても誰かにわかるように説明して欲しい――という、その根本のところが深く関係しているようだった。


「ごめんなさい、ルネ。わたしったらいやね。あなただって忙しいのに、こんな同じことばかり聞かれて……」


「いや、おれこそうまく説明できなくてごめん。とにかくミカエラ、君が記憶を失ってから一年以上経ってるってことだけ、今は一旦理解して欲しい。その間君は……医者に言わせると、ある種の記憶退行といったことだったけど、子供か十代前半くらいの少女みたいな感じだったんだ。バレエのあれこれについては少しも思いだせず、ポール・ド・ブラがどうこう言ってもさっぱり理解していなかった。理由のいかんによらず、とにかく踊れない以上は――記憶が戻らない以上はどうしようもないということで、マスコミに対しては詳しい事情は語らず、「病気による無期休業」といったような会見を開くことにしたんだよ」


 ルネのこうした話を聞いて、ミカエラは顔が青ざめるどころか、最後にはぶるぶる震えだしていた。確かに、自分のまったく知らない、関知できないところで突然そんなことになっていると知ったのだ。バレエダンサーの自分のキャリアに傷がついたと思ったのかもしれないし、もしかしたらそんなことはプライドの高い彼女には許しがたいことですらあったのかもしれない。


「もし今こんなお腹じゃなかったら……」と言って、ミカエラは最後にはショックのあまり泣きだしていた。「すぐにでもバーの横に立ってレッスンを始めてるところだわ。それなのに、こんな醜いお腹のせいでそんなことも一切できないのよ。信じられない……悔しい………」


 その元凶となった俺としては、最早言葉もなかった。昨晩までとは違い、その肩に触れて撫でさすったりしながら、優しく慰めの言葉をかけることすら出来ない。


 この時俺は、ウォールスクリーンのルネが、(テディと変わって欲しい)とでもいうような顔の表情と目の動きをしたのを見て、彼の視界へ入ることにした。


『ごめん、テディ。君もショックだと思う。言うなればこれは、前におれ自身が味わったことなんだから……とにかくディアナに連絡して、すぐニューヨークへ行くよ。それからのことはそのあと、四人でじっくり話しあおう』


「話しあおうって何よっ!!」と、俺が何か言う前に、会話の間にミカエラが飛び込んできた。「こんな醜いお腹してたんじゃ、バレエどころか、暫くなんにも出来ないじゃないのっ!!もしこれが三か月とかそのくらいなら……子供を堕ろすってことも出来たかもしれないわ。でもわたしの意志なんて関係なく、こんなんじゃもう生むしかないじゃないのっ。ほんと、ルネ、あなたったら信じられないっ!!わたし、前にもあなたに言ったわよね!?子供なんて欲しくないって。しかも妊娠してる間はバレエのキャリアも中断しなきゃならないし、オペラ座じゃ他の若い子たちがわたしの座を虎視眈々と狙っていて、妊娠のことを知ったら、顔では笑顔満面で「おめでとう!」なんて言いつつ、「ミカエラ・ヴァネリもそろそろ年だし、これを機会に引退かしらね」なんて思うような連中ばっかなんだからっ」


『わ、わかってるよ、ミカエラ……そのことは会った時にでもまたあらためてあやまるから。でも、今はとにかく目の前で起きてることがおれたちの現実なんだ。何か魔法の呪文でも唱えて、一年前の、あの不幸な事故が起きた前に戻るってことは出来ない。その上で、おれは……というかおれたちは、君の意向を無視して無理に何かを強いたってことは一度もないんだよ。赤ちゃんも、記憶のない間の君が欲しいと願ったからこそ天からの贈り物として授かったんだ。気持ちが落ち着いてきたら、そうしたことも少しだけ考えてみて欲しい』


 このルネの最後の言葉は、彼自身というよりも、俺のためを思って語られたものであるように聞こえた。けれど、ミカエラはルネのこの言葉に納得することはなく、再び少し前にしたばかりの質問が一からはじまりそうだった。ルネは最後、『とにかく二三日後にはそちらへ行くから、その時に……』と言って電話を切ろうとするのだが、ミカエラはそのたびに何度となく「ダメっ!切らないでっ!!」と強制してくるのだった。まるで、この電話を一度切ったら、もう二度とルネと話せないのではないかと疑ってでもいるかのように。


 流石に俺のほうでも見かねて、二台目の携帯でディアナに電話することにした。本当はそのあたりの説明についても、俺としてはルネからディアナにしてもらいたかった。けれど、ディアナに電話が繋がり、スクリーンにはルネの隣にディアナがいるようになると、彼らはこの場で三人で話すことにしたのだった。そして俺自身はただそのように回線を繋ぎ直すことにしたわけである(この場合、ディアナはもちろんパリにいるため、彼らふたりの間にはちょうど真ん中のところで一本線が入るような形となっている)。


 ディアナはバレエの天才である義理の娘の記憶が戻ったとわかるなり、涙を流して喜んでいた。そして『あなたにとっては忌々しい膨らみでしょうし、バレエの練習に今すぐにでも戻りたい気持ちもわかるわ。だけどもう、堕ろすにしても母体のほうが危険な時期なのよ。あともう少しの辛抱と思って耐えてちょうだい』……このディアナの言葉は、ミカエラにとって大きな影響力があったようだ。


 俺が雰囲気として感じ取ったのはとにかく、ミカエラにとっても(あのディアナおばさんが泣くだなんて……)という驚きがあったらしく、それで彼女は一度静かになると、ただ黙って育ての母の話を一から聞くことにしたようだった。曰く、『ミカエラ・ヴァネリが病気で無期限休業だなんて発表することがどれほど屈辱的だったか』ということや、『記憶喪失だなんて到底受け容れ難いし、頭を打った程度のことであんたがバレエのことを忘れるだなんて信じるまでにも時間がかかった』ということや、『その間自分がいかに苦しみ、記憶のないあんたに何か奇跡でも起きてまたすべて元通りに癒されないか』と、パリの教会にて長く忘れていた神に祈ったことなどなど……バレエのことではこの母娘は、おそらく時に反目することもあったにせよ、それでも魂の根底では一致した情熱を持っているのだろう。最後には深く心を動かされたらしいミカエラは、静かに泣きはじめてさえいたのである。


 この間、俺はすっかり蚊帳の外といったような立場で事態の推移を見守っていたわけだが、ミカエラとディアナが話す間、ルネはチケットの予約できる日時を確認し、最後にはディアナと打ち合わせて電話を切っていた。それによると、明日の午後にはこちらへ到着することが出来るということだった。


 会話が終わり、フランス語によるやりとりが途絶えると――正直、俺は狼狽した。今目の前にいるのは、俺の愛しているミカエラとはまったくの別人だということ、また彼女は迎えに来たルネとディアナによって近くパリへ連れ戻されることになるだろうと、一応頭ではわかっていても……感情のほうではそうでなかったらしい。俺は心のどこかで、ここ一年ほどの記憶の残骸が少しくらいはミカエラの中に残っており、そこから何か奇跡のようなことでも起き、彼女が今目の前にいる男を再び愛してはくれまいかと、そんなありえないことを無意識のうちにも願っていた。


「この子、たぶんあなたとの子ね……?」


 女性としてのミカエラの勘の鋭さに、この時俺は心底驚いていた。もしルネのほうからディアナに先に説明がされてから、ディアナが娘と話したというのであったなら――話のほうはややこしいことになったに違いない。けれど、ディアナが『記憶のないあんたが選んだとはいえ、テディは本当にいい人なのよ。バレエのことも忘れて、バカみたいなガキになっちゃったあんたのことを心底支えてくれた人なの。だから、記憶がなくても変に下に見たりせず、私たちがニューヨークへ着くまでの間、彼の言い分もちゃんと聞いてあげなくちゃダメなのよ』といったことを何度か言ったため、ミカエラはそれでピンと来たのだろう。そして彼女はこの時、「ルネがさっき自分との間の子だって言ったことは嘘なの!?」とは聞き返さなかったのだ。


「う、うん。ミカエラ、今の君にとっては不本意だろうけど……」


 次の瞬間、ミカエラはセラフが死んだ時と同じか、それ以上の音量によって「わーっ!!」と叫んでいた。


「し、信じらんないっ!!ルネがいるっていうのに、どうしてそんなことになるのよ!?わたし、あんたのことなんか全然知らないっ。それなのにナンパされるかなんかしてそーゆーことにでもなったってこと?」


「大体それに似たことは、前にも聞いたよ……」


(本当は、君のほうが言い寄ってきてしつこかったんだ)などとは、俺は言わなかった。そのくらい、俺はミカエラのことを愛していた。今ならばわかる……ルネやディアナがいかに絶望し、俺の愛したミカエラに対し、いかに『元に戻って欲しい』と切望したかということが。いまや、俺はその逆の立場を経験していたからだ。


「こんなこと、どこの誰とも知らない俺が口にしたところで、今の君には到底信じられないだろう。だからもし『そんなこと、あるはずがない』って思ったら、明日やって来るディアナやルネに確認を取ってほしい。記憶がない間、君はルネのことを『あんなに優しい人、ちょっといないくらいだわ』と言いながらも、会うと落ち着かないような気持ちになるから会いたくないと言っていた。もちろん、自分のことやバレエの記憶がなくても、ルネのほうではミカエラ、当然君に会いたがった。でも、とにかく記憶のない間の君はそうではなかったんだ。つまり、俺が結婚したはずの君は、ルネのことを恋人として紹介されてもどこの誰かもわからず、さらには自分にない間の記憶についてよく知る人物として……会うと落ち着かない気分になる人間だったっていうことなんだよ。また、こうも言ってたっけ。『ルネは優しいけれど、異性としては全然好みじゃない。でも、前のわたしはああいう感じの人が好きだったのね』みたいに、まるで他人事のようにね」


「けっ、結婚って……」


 ミカエラはますます青ざめていた。だんだんにどういうことなのか、俺自身がそうであるように、彼女にもわかってきたのだろう。


「心配しなくていいよ。確かに俺と君は、タキシードやウェディングドレスを着て教会で式を挙げ、互いに夫婦になる誓いをしたかもしれない。でも、完全な永住者カードの取得についてはまだなんだ。結婚してから二年後、もう一度確かに今後もふたりで結婚生活を営むつもりがあるかどうか、確認が取れてのち、今度こそ通常のグリーンカードを取得できるっていうまだその前段階だから……そうした意味で解消すること自体は難しくない。もちろん、それが君のフランスにおける身分証明書にどういった形で記載されるのかまでは俺にもわからない。もし君が結婚した事実自体なくしたいということなら、お互い弁護士に相談でもするしかないだろうし……出会いの経緯については色々あって詳しくは話せないけど、少なくとも俺は詐欺師といった類の人間ではないし、ここで一緒に暮らしていたのだって君の同意あってのことだ。信じなくてもいいけど、俺たちは一緒に暮らしてかなりのところ関係性についてもうまくいってた。きのうも君は『幸せなはずなのに、何故かとても不安で怖くてたまらない』と言って泣きだしたりして……もしかしたら君の記憶が戻ったのも、妊婦としてのホルモンバランスの乱れといったことの他に、そうしたことも関係あるかもしれない。記憶を失ってる間の君は精神的に少し幼くて――よく考えたら、出産や子育てなんていう実際的で現実的な行為に対応できるほど成熟したものを持ってなかったのかもしれない」


 俺は自分でしゃべりながら、そんなふうに思考を整理していた。でもそれでいて残り数パーセント、今目の前で起きているルネやディアナにとっての悲願の成就が、明日には失われており、やはりミカエラは元の俺の愛しているミカエラに戻っていてはくれまいかと、そんなふうに少ない可能性に縋っているのだった。


「随分、冷静なのね。それともわたしのほうが悪夢としか思えない混乱の極致にいるから……あなたのほうが平静であるように見えるのかしら。とにかくわたし、ディアナやルネが迎えにきてくれたら、明日にはパリへ帰るわ。前の通り、いつもの通りの生活に戻って、この重い体からも解放されて、なるべく早く前と同じバレエが第一の生活へ戻りたいの」


「そう、なんだろうな。でもその子は、俺の子でもある。もしバレエのために子供のことが邪魔なんだとしたら……」


「邪魔よ!!」と、ミカエラは鋭く叫ぶように言った。「今までにもオペラ座や、他のバレエ団のプリマたちもそうだけど、何人もの同世代のバレリーナたちが出産を機にフリーとなって退団するなり、大変な思いして復帰する姿を見てきたわ。わたし、そういうのが絶対イヤだった。彼女たちはみんな言うのよ。『夫に愛されていて幸せだ』とか、今がバレエダンサーとして旬で絶頂にあってさえ、『今妊娠できて良かった。若いうちに出産をすませて早く復帰すれば、あとがラクだもの』とか、そんなふうにね。わたしのほうの答えはこうよ。『おめでとう。夫のなんとかはあなたにゾッコンですものね』とか、『あなたほどのバレリーナなら、すぐ復帰して前と同じように踊れるようになるわよ』とか、笑顔でね。ふふっ。あなたにはわからないでしょうけど、オペラ座にはわたしに成り代わりたい野心家のバレリーナなんて腐るほどいるのよ。戻ったら、みんなが笑顔と拍手で迎えてくれるのはわかってる。だけど決してそれだけじゃない。もっと複雑で難しいことが色々あるの……ルネがもしこの子の父親なら」


 ミカエラは自分のお腹のあたりをさすると、最後にはそこに涙をこぼしていた。


「わたしは、全面的に彼を頼ることができた。それなのに、わたしを混乱させないように、お腹の子は自分との子だなんて……一体どこまで人が好いのかしら。でもこれからのわたしは孤立無援よ。こんなお腹をしていて子供をひとり生んだなんて言うんじゃ、昔の恋人を頼ることさえ出来ない。ディアナはもちろん全力でわたしのことを守ってくれるでしょうけど、あの人はわたしにバレエの才能があったから引き取ったっていう人なのよ。無償の愛情を注いでくれる人なんて、わたしには小さな頃からいなかった。誤解しないでね、わたしはディアナのことを尊敬しているし、お互い、色々あるけどバレエのことでは一致していて、親子として愛しあってもいるのよ。だけど、こんなのってあんまりだわっ。わたしが一体何をしたっていうのよ。すべてをバレエのために捧げて犠牲にしてきたのに、一年記憶を失ってる間に妊娠って……どういうことなのよっ。しかも、あんたみたいな全然パッとしないような男が相手だなんてっ」


 もちろん、ミカエラのこうした物言いに傷つかなかったと言えば嘘になる。けれど、自分よりも彼女のほうがより傷ついていて混乱しているのだとわかっていた。またこの場合、俺が映画俳優のように格好よかったら良かった――といったような問題でもなかっただろう。俺がバレエについて深い理解力があるでもない、異性としてタイプでもまるでない「ただのどこにでもいそうな男」だというのが問題なのだ。


「ルネは、いい奴だ。こんなこと、俺がわざわざ口にしなくても君のほうがよくわかってることだろうけど……もし出産後、子供が邪魔なら俺のほうで引き取るし、そのあとでなら、ルネは君と元のとおり恋人同士でいたいんじゃないかな。ディアナやルネが来てから話しあうべきこととは思うけど、もしかしたら今フランスへ戻るのは賢明ではないかもしれない。何分、一年くらい姿を消してたかと思ったら、お腹が大きくなったミカエラ・ヴァネリを見かけただなんて……悪い意味で世間の噂になるかもしれないからね」


「でもわたしは――あなたになんか金輪際頼りたくないのよっ。ディアナの話じゃわたし、今妊娠半年くらいなんでしょ!?じゃ、あと三か月くらいこの耐え難い醜さに我慢すればいいってことよね。子供のことは当然わたしが引き取るわよ。母親ですもの。邪魔っていうのはね、バレエに邪魔だっていう意味であって、子育てしたくないとか、そういう意味じゃないの。ただ、せめてもルネか、過去に自分が知ってる恋人の誰かとか……それなら理解できるのよ。あんた、わたしの今の立場なんてほんとは全然わかってないでしょ!?わたし、あんたのことなんか全然知らないし、記憶のない間の自分の趣味の悪さにも心底腹が立ってるのっ。なんだったら、今すぐここから飛び出して、ニューヨークのどこかのホテルへ泊まりたいくらいね」


「そっ、それだけはやめてくれ。心配だから……」と、俺は跪いて懇願したい気持ちになって言った。「他のことなら、ミカエラ、なんでも君の言うとおりにする。だからせめて、明日ルネやディアナがやって来るまではどんなにここが嫌でも、俺のことが嫌いでも――ここにいてくれ。お願いだから……」


 ミカエラはつんと澄ました顔をすると、ぷいと俺という存在を無視するようにどこか別の方向を見ていた。(やれやれ)と俺は思った。ルネから一応聞いてはいたのだ。『元のミカエラがどんな女性かだって?そうだなあ。気が強くて芯が強いってところじゃないかな。ほら、バレリーナに対してか弱くてたおやかな蝶か花……といったイメージを持つ人がいるけど、おれの知る限りプリマっていうのはそんな存在じゃないね。みんなしっかり自分ってものを持ってて我が強いっていうか。まあ、ミカエラもそうだけど、公式会見の場じゃ人が自分に持ってそうなイメージを大切にして応対してるけど、実際の彼女はそうじゃないからね』――といったようには。


「とりあえず、食事だけでもしてくれないか?」と、女神に跪く奴隷になった気持ちで、俺はそんなふうに口にしていた。「料理のほうはシズカが一日の栄養バランスを計算したものをきちんと作ってくれる。変な話に聞こえるかもしれないけど、元の君はシズカと仲が良かったんだ。だから、なんでも食べたいと思ったものを言って作ってもらうといい。なんにしてもとりあえず、明日ディアナとルネが到着するまでの我慢だと思って欲しい」


 俺は間が持たなくなると、一旦自分の仕事部屋のほうへ逃げ込むことにした。それから机の前で頭を抱え込むと、ぐしゃぐしゃと髪の毛をかいた。そして、小さな声でしぼりだすようにして叫ぶ。


「一体なんなんだよっ!ようするに最終的に俺だけが……すべてを失うっていう、そういうことなんじゃないのか!?」


 せめて、子供の親権だけは欲しいと思ったが、ミカエラが一言冷たい横顔で「ノン」と言えばそれまでだろうと俺にはわかっていた。とにかく、彼女にはそうしたところがあった。パリのオペラ座で女王というだけじゃない。私生活においてもミカエラ・ヴァネリは女王であり、彼女の意に染まないようなことは誰もさせることが出来ないのだ。またその場合、俺は今までに築いてきたルネやディアナとの信頼関係ということもあり、醜い親権争いといったことまでは決して出来ないだろう。


(じゃあ、俺は一体どうすればいい?今のミカエラを振り向かせることは俺にはおそらく絶対出来ない……彼らの望みがもし三人が三人とも、『これからはこちらに一切関わらないでくれ』ということであったとしたら?)


 俺はそう考えただけでゾッとした。いや、一応映画やドラマの中では見たことがある――一度は愛しあった夫婦が別れ、親権について揉めるのだ。そうした時、俺はあまり男親のほうに感情移入したことはなかった気がする。また、自分の身のまわりでも、そう親しくはない同僚が、別れた奥さんと親権を巡って争っていると聞いた時も……「子供と引き離されるのがいかにつらいか」という話について、本当の意味では本気で同情してなかった気がする。


 ミカエラはその後、「こんな男とは話をしない」と心に決めたらしく、俺とは一切口を聞こうともしなかった。むしろ、フランス語を解するシズカのことが気に入ったらしく、何か身のまわりのことでわからないことはなんでもこの家事ロボットに聞いていた。


 シズカは俺とミカエラが一切話さないため、「アノウ、御主人サマ、奥サマトノ間に何カアッタノデゴザイマショウカ?」とおずおずした素振りで聞いてきたが、「なんでもないよ」とだけ答えておいた。「君のデータベースにだって、夫婦っていうのは時々喧嘩して口を聞かなくなることがあるっていう情報があるはずだよ。つまりはそういうことなんだと思ってほしい」


 それから俺は、前にもここへ来たことのあるディアナとルネが明日の午後か夕方頃来ることも伝えておいた。食事のほうは何か注文して持ってきてもらうにしても、一応そうした予定なのだということを……そして俺はこの日の夜、本当に久方ぶりにひとりきりで眠った。『ロボットになりたい症候群』というのが、アンドロイドが人間社会の日常生活に溶け込むようになった昔からあるのだが、俺はミカエラの眠る主寝室のほうへ神経を向けつつ、初めてその心理状態というのが理解されていたような気がする。


 シズカはおそらく、もしミカエラがここから去っていっても――データとしてそのような人物が過去のいつからいつまで自分の属する家に存在したか、食事の好きなものの傾向その他についてまで正確に覚えているだろう。そしてその千日後に、まったく同じ容姿の人物が訪ねてきたら、そのことをきのうのことのようにデータから取り出し、好みの味付けなどに基づいて料理の献立を組み立てるに違いない。その間に、人間の目には疑似的に思われる感情が存在しようとも、シズカにとってはそうではない……俺はこの時、おそらく生まれて初めて「自分がロボットだったら良かったのに」と心からそう思った。


 もしもそうなら、今自分が感じている喪失感も、ただの脳内のデータ上のこととして完全に処理が可能だったことだろう。今この段になって俺は自分のことを馬鹿だと思った。ディアナの話では、ミカエラのことを診せた精神分析医は、「今後何かの拍子に記憶が元に戻る可能性はある」し、「あるいはこのままかもわからない」と言っていたのだ。そして、あれから約一年以上が経過した今、彼女は元に戻った……よく考えてみればこうなる可能性のほうが間違いなく高かったのだろうに、何故俺は都合よくこの幸せが今後も永遠に続いていくのだと、無邪気に信じ続けることが出来たのだろう?


 なんにしても、その夢は覚めた。俺とミカエラとの間にあった恋の魔法は、儚い虹色のシャボン玉のように壊れてしまったのだ。




 >>続く。






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ