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第24章

 翌日の十一月一日、エルネスト・アーウィンのほうから電話があり、俺たちはニューヨーク近代美術館(MoMA)のほうで待ち合わせることにした。今もモマはニューヨーク在住であることさえ証明できれば、ニューヨーカーは無料で入館することが出来る。だが、ルネはわざわざチケットを購入しなくてはならないだろう。


 彼曰く、見たい作品があるということだったので、多少つきあってから具体的に今後のことについて話しあうことになるだろうか。俺はマティスの「ダンス」やモネの「睡蓮」、ゴッホの「星月夜」、ダリの「記憶の固執」、ピカソの「アヴィニョンの娘たち」、アンリ・ルソーの「夢」……といった作品を見ながら、オカドゥグ島のことを思い出していた。中でも何よりロドニー・ウエストのことを。


(そういえば、あのオカドゥグ島にあったホテルの絵はすべて、アンドロイドによる贋作だとノア・フォークナー博士は言っていたっけ……)


『テディ、君はこの研究施設にある絵の中で、どの絵が一番好きかね?』


『ゴーギャンの「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」でしょうか。ホテルの一階ロビーでこの絵を見た時、アダム・フォアマン氏はそのことを問いかけたいのだろうかと思ったくらいです。その時はまだ、彼がここの最高責任者なのだろうと信じていたので……』


『AIにここまで本物そっくりの絵を模写できるということは――本物のコピーがあれば、元の芸術作品は必要ないということになりうるかどうかという話でもある。無論、我々はいかに本物そっくりであれ、コピーは何千何万と同じものが作られようとも、画家本人の手になるものこそかけがえのないもので、取り替えようのないオリジナルだと考える。だが、本当にそうなのだろうか?おそらく、アンドロイドが本物そっくりに描いた贋作と本物の飾られた美術館のそれとを取り替えても……多くの人間はすぐにそれとは気づくまい。このことの矛盾を我々がどう解くべきかということでもあるのだよ』


 俺がノア・フォークナー博士と話したそんな会話のことを思いだしていると、ぽん、と肩に手を置かれた。MoMAの5階で待ち合わせていた俺とルネは、その時サルバドール・ダリの「記憶の固執」という絵の前にいた。


「ダリがお好きなんですか?」


「むしろ、嫌いな人のほうが少ないんじゃないですか」と、ルネが俺に言った。この絵の前を待ち合わせ場所にしたのは彼のほうだったからだ。「ルネ・マグリットの『恋人たち』の前でも良かったんですがね、男同士で待ち合わせるにはちょっと意味深かと思いまして」


(そんなことを言ったら、アンディ・ウォーホルの『キャンベル・スープ缶』の前とかでも良かったんじゃないですか?)――俺はそう言おうかと迷ったが、よしておくことにした。それより互いに話しあわねばならない重要なことが他にあるのだから。


「俺はニューヨーク居住者として無料で入りましたが、エルネストさんは入館料を支払ったんでしょう?それなら、少しゆっくり美術館内を見てまわってから、小声でなくても話の出来る場所へ移動したほうがよくはありませんか?」


「いえ、待ち合わせ時間よりずっと前に来て、見たい作品であれば大体見ました。でも、ジャクソン・ポロックやマーク・ロスコ、ピエト・モンドリアンの絵などは、どのあたりが傑作なのか、おれにはさっぱりですねえ。審美眼がないんでしょうね、きっと」


「まあ、誰だってそんなものなんじゃないですか?」と俺は言った。「たとえば、マーク・ロスコは大量の抗うつ剤を服用し、自らの腕を滅多切りにするという壮絶な死に方だったでしょう。もし彼の自殺ということがなければ、ロスコの死後も彼の絵画にあれほどの高値がついたものかどうか、俺なぞは疑問に感じますね。絵そのものの中に画家の人生そのものが付加されてるってことなんじゃないでしょうか。ゴッホやゴーギャンの絵画の中にも似たところはあるかもしれませんが、印象派の絵はロスコほど難解ではないような気がします」


「絵の話はこのくらいにして、どこへ行きますか?ゆっくり話せるような場所というと……」


「近くにあるレストランとか?何か拘りはありますか?たぶん、エルネストさんはハンバーガーとポテト、それにビザなんかを食べるタイプじゃないでしょう?食べるにしても全部ヴィーガンとかそういう……それとも、菜食主義者だったりしますか?」


「いえ、こう見えてなんでも食べますよ」と、歩いて階下へ向かいながら、エルネスト・アーウィンはサングラスをかけた。もしかしたらここへやって来る間にも誰か――バレエに詳しいファンにでも遭遇したのだろうか。「それと、ルネで結構ですよ。昔はあまりその呼び名は好きじゃなかったんですが、ほら、ルネ・ラリックっていう宝飾職人がいるでしょう?ミカエラにそのことを教えてもらってから、割と好きになったんです。むしろフランス料理のような気取った店は苦手で……そういえば、それはミカエラもそうでしたね。彼女はそうした場所よりざっくばらんなビストロのような店のほうが好きだったんです」


「そうですか。じゃあ、まあ……」


 俺はデバイスを軽く操作して、地図上に近隣のレストランや喫茶店といった食事のできる場所を表示し、ルネに見せた。店内の込み具合なども瞬時にわかるが、今はランチ時間ということもあり、どこも込んでいるようだった。


「う~ん。ちょっと歩きますが、イタリア料理店がありますね。ここまで行きませんか?」


「いいですよ。ここ、確かピザやパスタやアクアパッツァなんかが美味しいんです。予約がいるっていうようなあらたまったレストランでもなく、今はまだギリで外にも席を出してるんじゃないかな」


 俺たちはミッドタウンを東に向かって数ブロック歩いていった。途中、ルネはそうあまり深刻な話はせず、「ニューヨークには年に数回程度やってくるくらいなんです」と言っていた。「ABTアメリカン・バレエ・シアターに客演で来たりすることもあるけど、そういう時は公演のことで頭がいっぱいで、そんなに足を伸ばして遠出したりもせず、街の雰囲気を十分楽しめるのは舞台が終わったあとの打ち上げ時くらいなものでね。おれ、世界の街の中ではロンドンが一番好きなんですが、ニューヨークへは時折ふらっとやって来るだけでも胸が高鳴りますよ。ブロードウェイを見てまわるのも楽しいし……」


 この時話していてわかったことだが、ルネはてっきり俺がバレエに詳しいと思い込んでいるらしかった。その前提で色々話されても、俺にはいくつもわからないことがあったが――適当に理解しているような態度で曖昧に返しておいた。知ったかぶりをしたいというわけではない。単に、もしこれから順に事情を話すとしたら「ミカエラ・ヴァネリというバレリーナの名前すら、実は知らなかった」と白状することになるだろうとわかっていたからだ。


『カルフィーニ&ヴァーガンディ』というイタリア料理店のほうは、外にあるカフェテリアに至るまで人で込みあっていた。それでも、前にふたりほど待っているだけのようだったので、俺たちは席が空くまで少しばかり待つことにしたわけである。黒のスーツを着たボーイが(言うまでもなく接客アンドロイド)、端末を操作すると次に座席が空くまでの予想時間についてまで教えてくれる。


 それによれば、十五分ということだったが、デバイスを操作しつつ待っていた前のふたりが外のカフェテリアへ案内されたのとは違い、俺たちは偶然ラッキーにも室内にある席のほうへ通されていた。店内はアンティークな雰囲気で統一されていたが、大体同じタイプのテーブルと椅子が配置されており、俺とルネの座った座席は窓際だったが、隣も、またその隣も――衝立の向こう側は大体似たり寄ったりのテーブル席がコピーでもされたように廊下まで続いているといった具合だった。


「こういう壁の動くデジタル絵画って、おれ、実はあんまり好きじゃないんですよね。なんか、落ち着かなくって……」


「ああ、わかります。俺もそうだから……じゃあ、消しますか」


 後ろや横の壁の、犬や猫やネズミが追いかけっこする、動く童話的風景を俺はスイッチを操作してすべて消した。待っている間に端末のほうで注文は済ませておいたので、クアトロフォルマッジやボンゴレ・スパゲッティ、ジェノベーゼのラザニア、イタリアンワインなどが届くのも早いのではないかと思われる。


「よくディアナさんが一緒について来なかったものですね」


『今日はふたりだけでじっくり話がしたい』と言われた時、俺は少し驚いていた。ミカエラは最後まで一緒について来たがったが、このルネとの話しあいが結婚できるかどうかの分水嶺だ――といったような話をしたところ、彼女はしぶしぶ承諾したわけだった。無論、俺の留守中誰が来ても居留守を使って出ないようキツく言い渡しておいた。シズカにも同じように言っておいたから、彼女が突然誰かに連れ去られるといったことはないだろう。


「彼女は仕事があったんですよ」と、長い指をテーブルの前で組み合わせてルネは言った。「ニューヨーク・シティ・バレエの、長く懇意にしている振付師とね。ほら、ミカエラの公演をキャンセルするに当たって、ディアナ本人が出向いてあやまらなきゃならないほどの理由はなかったかもしれない。それでも、オペラ座=ディアナ・レジェンテの縄張りというのか、世界中の多くのバレエ関係者がそんなふうに認識してるんじゃないかな。だから、普段滅多なことでは頭を下げない彼女が謝罪するというだけでも……驚く人は多いと思いますよ」


「そうだったんですか。これは――まあ、ありえないことではあるけれど、もしミカエラが元の記憶を失っていない……というのか、記憶喪失でも前と同じように踊れるというなら、俺は彼女のことをパリへ帰すことを検討したかもしれません。けれど、記憶がない上、バレエも踊れないというのなら、おかしな言い方に聞こえるかもしれませんが、彼女は俺の保護下にいたほうが絶対幸せなんです。このことについてははっきりそう断言することが出来ます」


(ほう)というようにルネが片方の眉を微妙に上げるのを、俺は見逃さなかった。だが、他にどう言うことが出来ただろう?今目の前にいる完璧すぎるほど完璧そうに見える男と、俺は張り合うつもりは毛頭ない。元の世界的バレリーナとしてのミカエラ・ヴァネリであれば、エルネスト・アーウィンが恋人であるのが理想的ではあったろう。そのことに異存はない。だが、現状今俺と暮らしているミカエラは言うなれば別人なのだ。そして、その彼女は百万回同じ質問をされようと、パリでの生活をではなく俺とニューヨークにいることを選ぶだろう……ようするに、これはそうした話だった。


「おれ、実は失読症なんですよ」


 ピザやパスタ、ラザニアやワインが届くと、彼はどこか男らしく食事にがっつきつつ、突然そんなことを言いだした。


「あ、誤解しないでください。セオドアさん、あなたの書いた本についてはすべてではありませんが、それでも大体のところ読みました。読んだ、といってもオーディオで聴いたといったほうが正しいかもしれませんね。今はニューラルネットワークによってその人それぞれの脳疾患を脳モデルによって再現した上で……症状の原因となる部分をナノボットによって治療することも可能です。ただおれ、小さい時からすごく内気だったんですよ。書いてある文字についてあちこち滲んで見えたり欠けていたとしても……そのことを両親や兄弟にうまく言葉で説明できませんでしたし、失読症であることがわかったのも十二歳とか、結構遅くなってからだったんです。それで、読解力というのは単に国語といった読み書きに関する教科だけでなく、算数や理科や、学校の教科全般に及びます。何故って、テストの解答を書く以前に何を質問されているのか理解できないこともしばしばだったからなんですよ。何もおれはそのことを「自分が頭悪い」ことの言い訳にしようとは考えなかった。性格が内気であまりうまくしゃべれず、学校の成績もよくない……今考えてもよくいじめられなかったものだと思いますが、おれには小さな頃からバレエがあった。言語的なことはてんでダメだったけど、いわゆる身体表現というのだけ得意だったってことなんでしょうね。口で軽く説明されただけでも、自分に何が求められているかすぐわかるんです。「ああしてこうしてそうしろ」と振付師に言われたら、大抵の場合それ以上の言葉はいらない。その言葉の意味について深く考える以前に勝手に体が動くんです……だからおれは失読症がわかった時もあえて治しませんでした。何故かわかりますか?バレエによる身体言語の表現性を、失読症が治ったら失うのではないかと恐れたからなんです。もちろんこれは理屈に合わないことで、失読症が治ると同時、俺はバレエに関する才能も失わない可能性のほうが極めて高い。けれどそうとわかっていても、機械による補助だけでも十分だと考え……自分で本を読むことの喜びについては保留することにしたんです」


「でも、あなたくらいバレエの才能があったら、本なんてくだらないものを読めなくても問題など何ひとつないのではありませんか?」俺は六等分されたピザをルネと分け合いつつ言った。こんなふうにミカエラのことを半分ずつ分けられないとは、なんとも悩ましいことだと頭の隅のほうで思いつつ。「バレエダンサー、エルネスト・アーウィンのように何ひとつ欠点のない男の動画付き記事をネットで読んだりしながら……俺はかなりのところ複雑な思いに悩まされました。単にバレエに関して才能があるだけじゃない。その人柄についても『彼を悪く言う奴は頭のおかしい奴だけ』、『嫉妬してるかなんかだろ』とか、『あんなにいい奴はいない』とか、バレエダンサー仲間にも評判がいい――みたいなことがえんえん書いてあるんですから。ようするに、引いたところから全体を見て人をまとめる能力もあるからこそ、あなたは多くの人たちから慕われているんでしょうね。そうしたことに比べたら、本なんて読めなくても些末なことですよ。第一、内容の把握ということであればオーディオででも聞けば十分でもあるし……」


「それは意外な意見ですね」ボンゴレ・スパゲッティの、パスタの上の浅利をフォークでいじりつつ、ルネは少し不思議そうに首を傾げている。「おれはてっきり、作家というのは言葉の専門家で『本をちゃんと通して読めないだなんて、言葉の繊細な表現について十全に味わえないだなんて、なんて哀れな奴だろう』みたいに思われるかと思ってました。まあ、確かにおれは昔から男友達にだけやたら評判がいいんです。何故なのかはおれにもよくわかりません。ただ……セオドアさん、あなたのプロフィールのところに大学でアンドロイド工学について学んだとあったのでこう申し上げるのですが、『人の気持ちがわかる』というのは、AIアンドロイドの未来予測モデルに似たところがある――という、そうした話を聞いたことがあるんですよ。おれは男女問わずそのへん、言葉で説明したりするのは下手なんですが、『彼はああしてもらいたがっている』とか『彼女はこうしてもらいたがっている』、『口ではこう言っているが、本心は別だ』といったようなことが、なんとなく直感として当たるんです。まあもしおこがましくもおれに人をまとめる能力が多少なりあったとすれば、そのあたりのことかもしれません。ここのレストランの接客アンドロイドにしてもそうでしょう?彼らは人間の気に障らない存在でありつつ、その職務についてはプロとして極めて忠実だ……そういうふうに上手く設計されてるってことですよね。あんまりしつこく「ナプキンは何枚必要ですか、フォークやスプーンは何本必要ですか」なんて聞かれるのは煩わしいし、人間のウェイターであれば常識で考えて人数分揃えて持ってくるなりなんなりします。そのあたりの必要が最低限でいいように行動が決定されてるんでしょうね」


「ルネは運命決定論者なんですか?あと、俺のことはテディで構いませんよ。俺のことをセオドアなんて呼ぶ人間はまわりにほとんどいませんから……」俺は美味しいジェノベーゼのラザニアを食べつつ言った。「確かに、AIの未来予測モデルにはそうしたところがあると思います。自分のご主人さまである人間が、次に『こうしてもらいたがっている』、『ああしてもらいたがっているに違いない』といった選択肢のうち、一番確率の高いものを実行に移すって意味では。人間がイメージとして漠然と心の内に描いているものを……進化・発達させて『こうも出来るし、ああも出来る』と予測していくらでもモデルを表示して見せてくれる。ただ、人間というのは本当に難しい生き物だなと思います。AIを搭載したアンドロイドがそこまでのことをしてくれても――自分に何か都合の悪いことがあれば、『所詮おまえなど心のないロボットじゃないか』と冷たい侮蔑の眼差しで見たりしてくるわけですからね」


「おれは運命論者などではありませんよ」と、ルネは笑って言った。「実際、今おれたちの間で起きてることがそうでしょう?もしこれが……ようやく対等な恋人になれたと感じた女性が記憶喪失となり、相手のことを忘れるのが運命なら、おれはそんな事実は到底受け入れられない。いわゆる標準理論というやつですよね。この世界は宇宙でビックバンが起きて以降、ずっと偶然の連続でここまで連綿と続いてきたとかいう……この広い宇宙に地球のような惑星が生まれたのもただの偶然という名の奇跡であり、その後生命が誕生したのも、その命が意識なるものを持つ我々のような人間にまで進化し、ここまで科学が発展してきたのも――すべては奇跡的な確率による偶然の連続なのだという。でもおれ、間違いなくこのことは信じてませんね。かといって、この宇宙も世界もすべて神が創ったとまでは完全に信じきれず、すべてはその中間くらいで起きるとしか思えない。いや、違うのかな。結局のところどう足掻いても人間というやつは主観でしか生きられないから、おれはその時々によって都合よくどちらかに揺れ動く。だから、ミカエラがおれに振り向いてくれた時には『彼女こそおれの運命の人だ』と自惚れ、まるで宇宙開闢以来そのように最初から決定していたのださえ考えていた気がします。恋に夢中になっている間は特にね」


「本当に、その人間の直感的な感覚というのはどこからやって来るものなんでしょうね」と、俺は溜息を着きたくなりながら言った。「最初に出会った時、『あなたのことがすごく好き』みたいにアピールしてきたのは確かにミカエラのほうだったんです。わかるでしょう?俺にしてみれば、あんなに可愛らしい女性が自分程度の男にそんなことをするはずがない……そうした理解でしたし、むしろ金をむしり取りたいであるとか、なんらかの裏の意図があるとしか思えませんでした。でもまあ、彼女は性善説を100%信じきっているかのように誰にでもそうした好意を見せる傾向が強いし、何か裏の意図があるわけではないらしいとその後わかってきて――なんて純粋な子なんだろうと感動することさえよくありました。この純粋っていうのは、そうした計算をすることが出来ないという意味の純粋さで……まあ、子供みたいなものです。ルネ、あなたには何か誤解されてる気がしますが、俺は今の今まで人生でバレエというものに興味を持ったことがただの一度としてなく、それゆえにミカエラ・ヴァネリというオペラ座のエトワールのことについても何ひとつ知りませんでした。でもまわりに『彼女はミカエラ・ヴァネリなんじゃないか』という人がいたりして、本人がその後自分の過去について話してくれることがあったんです。でもその時には俺たちはすでに互いに惹かれあっていて……ほとんど恋人同士にも近い感じになっていました。大体のところ、それがこの四か月半という短い間に起きたことなんです」


「そうですか……」


 この時、ルネは驚きとも諦めとも哀しみとも――なんともつかない顔の表情をしていた。俺がもし最新型のアンドロイドでも、今目の前にいる人物が何をどう感じ考えているか、予測することはまず難しかったろう。


「ディアナが私立探偵を雇ったと聞いた時、おれはそんな探偵なんぞアテに出来るかと思って、自分なりに方々を当たってミカエラの行方を捜そうとしました。ところがハッカーというやつは大したものですね。彼らはまずフランス国内にいるかいないかと考え、出国したとすればおそらくド・ゴール空港から飛行機でどこかへ行ったはずなわけじゃないですか。すると、パスポートの記録などによってアメリカへ渡ったことがわかったそうです。不思議ですよね。記憶を失ったミカエラは子供のように無邪気なアーパー娘にしか見えないのに、飛行機に乗って海外へ行くにはパスポートが必要だとか、そうしたことはわかるだなんて……」


(おそらくミロスが、ミカエラのわからないことはすべて教えたんだろう)と俺は思ったが、口に出しては何も言わなかった。


「その後、マイアミで消息が途絶えたということで、私立探偵たちはそちらへ渡って仕事を続けたようです。奇妙な話、なんというか彼ら情報屋には人捜しに特化したことを得意とする部門のような……そうした業界があるんですね。マイアミ空港内にある監視カメラをハッキングして調べたところ、確かにミカエラがそこには映っていた。しかも隣に背の高い――ギリシャ系かイタリア系かといったような背の高い男がいて、おれもディアナも顔が青くなったんだ。この人さらいは一体何者だということでね」


「彼、ただのアンドロイドですよ」俺は一瞬笑いが込み上げたが、ルネが男としていかにやきもきしたかと想像し、そう指摘せずにはいられなかった。「俺とミカエラはその後、カリブ海のあたりを一緒に旅行したりして……いわゆるパックツアーというのとは違うんですが、とにかく初めて会った人間同士で三か月くらいバカンスを楽しんだというか、そんな感じだったんです」


 オカドゥグ島のことをまったく語らず、どこまで話を事実に沿って脚色できるかと俺は思った。また、優秀な私立探偵には金さえ積めばそこまでのことが可能なのだということも驚きだったかもしれない。


「そうだったんですか……彼らはその後、かなりの長い時間マイアミで足止めを食うことになって、ディアナはかなりのところその間イライラもし、食欲もなくなって痩せたようです。もともと典型的なバレエ体形の細い人ですが、輪をかけてげっそりしてね。テディ、あなたの目にも今のミカエラの目にも、『バレエを踊れない人形に用はない』とでもいうような冷たさしか感じられないかもしれませんが……ディアナには六歳の時からミカエラを育てたという母親としての深い愛情があるということはわかってあげてください。ただ、元のミカエラ自身が自分とバレエを分けては考えられなかったように、ディアナにとってもそのふたつは不可分なんです。もしかしたら、バレエがなくてもお互いに共有した記憶が何もなくても娘のことをどこまで愛せるか……そんなふうにディアナ自身試されているのかもしれません。でもそんなことを彼女が考えられるのも、目の前にある『オペラ座のエトワールなのに踊れないミカエラ・ヴァネリ問題をどうすべきか』が過ぎ去って以降なんじゃないかという気がします」


「それは……そうでしょうね」


 俺はこの四か月半ほどの間――言い換えれば自分たちが幸せを満喫する間、ディアナもルネもいかに気を揉んでいたかについて思い当たり、初めて胸が痛くなった。ただ、当初想定していた以上にエルネスト・アーウィンが「わかっている人間だ」ということが俺に伝わっているように、これは彼のほうでもそうらしいと思えること、そのことについてのみ、少しばかりほっとしていた。


「でも、今のミカエラに『オペラ座を去るに当たって何か一言』とマスコミに質問されても、用意された言葉を暗記できたところで、彼女はつっかえつっかえにしかしゃべれないでしょうから……それだったら、神秘のヴェールに包まれたまま、謎の病気によってミカエラ・ヴァネリはバレエ界を去った、というふうにするしかないと思うんですよ。俺は……ミカエラと結婚して一緒になりたいあまり、こんなふうに言うってわけじゃないんです。記憶を失っていてバレエを踊れなかったとしても、もう少し場の空気を読んで演技するとか、そうした能力が今のミカエラにあればいい。でも、今の彼女は『出来ないものは出来ない』、ただそれだけなんです。ある意味、子供と一緒ですよ。自分が苦痛に感じることは一切何もしたくないっていう……」


「おれがきのう、『あなたみたいにまともそうな人がミカエラを保護してくれて良かった』みたいに言ったことは、ただの社交辞令じゃないんです」と、ルネは少し寂しげに笑って言った。「もっと他に、最悪のシナリオというのはいくらでもありえた。でも、あなたのようにちゃんとした男性が大切に守ってくれていて良かったと、俺はディアナにかなり強い口調で言っておきました。そしたらディアナは『あんな精神性が五歳のガキ以下みたいな女を好きだなんて、あのセオドア・ミラーとかいう男は小児性愛者か何かに違いない』なんて言うんですよ。ようするに『まともじゃない』っていうことなんです。何故といって、自分の食べたいものだけムシャムシャいくらでも食べようとするし、食べ方のほうも何かちょっと見苦しい。ミカエラの見た目の美しさを割り引いても、いちいちイライラさせられる幼稚な言動、あんなものにつきあっていて好きだの愛してるだの言えるということは……ちょっとどころじゃなくかなり頭のおかしい男だけだと、ディアナの中ではどうやらそういうことなんですね」


 ここで俺は、店内に響き渡るくらい大きな声で笑った。すると、ルネも一緒になって笑っていた。


「だから、おかしな意味じゃなく、おれは本当にほっとしたんです。今のミカエラは好きでもない男に対して、パリへ戻りたくないという一念からだけで『愛しあってる』だの言う子では絶対ないし、あなたのことが本当に好きなんだなあと思いました。それで、あの子があんなに懐いているということは、その上、あなたのほうでもあの子のことが好きで離れたくない、結婚したいとまで言ってくれるということは……間違っているのは自分たちのほうなのだろうと、おれは割合すぐ納得できたんです。もっとも、ディアナはそうではないし、彼女が唯一納得するのは自分が大金を積んだ精神科医が催眠暗示によってでもなんでも、ミカエラが治療を受けるということだけでしょう。その点についてはね、おれがこれからなんとか説得します。もちろん、どんなに言葉を尽くしても、彼女が最後まで納得しないだろうことは最初からわかりきっている。ただ、おれもディアナもニューヨークに長居できるような身の上ではないので、タイムリミットがやってきたらお互い一旦パリへ帰らざるをえない……これはそうした話なんです」


「でもあなたは……本当にそれでいいんですか?」


 彼らが一週間か、それを数日延期したくらいで帰るだろうと思うと、俺は少しばかりほっとした。だが、ディアナにも申し訳なく感じると同時、俺にはルネの心に隠した苦しみについても今やよくわかるようになっていた。


「今のミカエラは、おれの愛したミカエラじゃない……おそらくはそうとしか言いようのないことなんです」お互いある程度のところ食事のほうも終わり、ルネはワイングラスに残りの白ワインを注ぐと、俺のグラスのほうにも黙って同じようにしてくれた。「おれがミカエラ・ヴァネリと初めて出会ったのは、十九歳の頃のことでした。もちろん、おれのほうでは彼女のことを当然知っていましたが、向こうが多少なりバレエダンサーとしてのおれを認知したのは十九歳のその時だったという意味なんです。コリオグラファーのエドガー・ドノヴァンが『人形の家』という作品におれとミカエラがイメージとしてぴったりだと言って、初めて共演することになったんです。『人形の家』なんて言ってもイプセンのほうのじゃなくて、エドガーオリジナルの、ファンタジックな大人のお伽噺なんですよ。そうですね……ギリシャ神話のピグマリオンにも似たお話とでも言えばいいか。それで……ええと、このことを告白するのは恥かしいんですが、おれ、その時まだそうした経験がなくって……ミカエラが初めての相手だったんです。練習中なんかは全然そんな素振りもなくって、本当にプロのバレエダンサー同士の仕事というか、そんな感じでした。それと、誰もが何故ミカエラ・ヴァネリに対して『天才だ』とか、『バレエの女王だ』みたいに言うかの秘密もわかった気がしたり……舞台の上で観客っていうのは完成されたものだけ見るわけだけど、舞台袖にはけたあとはゼエゼエ言ってるなんてこと、当たり前によくありますからね。でもミカエラは努力型の天才というのではなく――エドガーがちょっと指示しただけで、振付師の意図を察してその通り動くことが出来るんです。かといって居丈高に存在感を示すというのでもなく、おれに対しても軽く注意したりするのはほんの聞き取れるか聞き取れないかの囁き声なんですよ。それが何故なのかも、他の時にわかりました。『あのミカエラ・ヴァネリがやって来る』というだけで、彼女がレッスンルームに姿を現すなり場がしーんとなってしまう。そんな中で彼女が言ったりしたりすることはバレエの女神として絶対なんです。だから、誰かに『もっとこうしたら?』といったような時にも、必要最低限ちょっと言う程度なんですね。まあ、ただ大声で注意するようなことなら他の誰かがやりますから……ミカエラは逆に褒めて伸ばすというか、しかも大袈裟にそうしないようにするコツみたいのをわかってるみたいでした」


「ディアナさんの影響もあるんでしょうね。俺はバレエのことはよくわかりませんが……それでも、映画やドラマのイメージなんかだと、バレエのコーチみたいな人は物凄く厳しいじゃないですか。そういう経験がもし自分にあったら、厳しく注意して才能を伸ばせる範囲には限界値がある……みたいになるものなんじゃないでしょうか」


「そうですね。もしかしたらそうだったのかもしれません」と、自分が今より若かった頃のことを思いだしてか、ルネは照れたように笑った。「ええと、とにかくおれ、その時感動しちゃって。ミカエラ・ヴァネリみたいにスゴイ人が、『こうすればあなたはもっと伸びると思うわ』とか、色々褒めてくれたり、今にして思えば舞台上のパートナーとして心の交流をはかろうということだったんだろうけど、彼女のほうから食事に誘ってくれたりして……それで、公演の終わった最後の日ですよね。ホテルで何かそうしたことになって……でも、それは恋人同士としてこれからもおつきあいましょうとかいう、おれが考えていたようなことじゃなかったんです。ようするに『これであなたはバレエダンサーとしてきっともっと伸びると思うわ』みたいな……年下の子をちょっとつまみ食いしたとか、ボランティアっていうのとも違うし……とにかく当時のおれとしては『フランスの自立した女っていうのはこーゆーことなのかあ』みたいに、とにかくぼーっとしちゃって……」


(そりゃあそうだろう……)なんて思いつつ、俺は同時に自分でも驚いていた。何故といって、俺はミカエラの元カレの話を聞かされているというのではなく、彼女とは別の女性の話を聞かされていると、何故かそのように分けて考えている自分に驚いたのだ。


「それで、そんなことがあったのはその時一度きりで、他の舞台の練習で会ったりしても、ミカエラのほうで態度のほうは一向変わりなくて……その後、彼女に恋人がいることがわかったりもして、ずーんと落ち込む一方、こんな言い方をするのは自分でも恥かしいけど、人間としても男としても一皮むけたというか、そんなところがあったのも事実で……時間が経つと最速失恋ショックなんていう気持ちも遠ざかり、他に自分のことを好きだという女の子がいればつきあってみたりとか……でもおれが二十八歳でアーウィン・バレエ団を立てた時、初演の舞台に出てもいいみたいに言ってくれて。まあ、自分でバレエ団を旗揚げしたまではいいものの、ポシャッて借金だけが残るとか、そういう笑えない結果になる可能性も大いにあったわけで……でもミカエラはそのことを察してるみたいに、その後も舞台に出てくれることが何度もあって……」


「その間に再び、今度は本当の恋人同士になったっていうことなんですか?」


「まあ、短く言えばそんなところ」と、ルネは赤くなりつつも、嬉しそうに言った。「でも、プロポーズしても結婚する気まではないみたいに言われて……おれも自分のバレエ団のことで忙しかったし、それでも関係が続いたのはお互い、バレエという共通の分身のようなものがあったからだと思う。だから、ミカエラが記憶喪失になって踊れなくなった時――ちょっと呆然としたんだ。もしバレエのことを完全に抜きにしたとしたら、おれと彼女の間には話すことって何かあったろうかと思ったりもしてね……それに、ディアナもそうだったろうけど、ミカエラは床に頭をぶつけたなんて言っても、何か大怪我をしたってわけでもなかったから、記憶喪失だなんて何か嘘っぽく思えて仕方なかった。ミカエラが嘘をついてるっていうんじゃないんだよ。単に、何か短い間悪い夢を見てるんだみたいな……だから、医者が脳震盪を起こしていて一時的に記憶が飛んだ患者というのは結構いるみたいな話にすぐ飛びついたんだ。そうした場合、あくまで一時的なもので、その後記憶のほうは何かの拍子に戻ってくることが多いって話だったから……ミカエラも絶対そうだと、おれとディアナは意見を一致させていたというか」


「そう、ですよね。俺だって逆の立場だったら、絶対そんなふうに考えたと思います」


 俺とルネの間には、言葉で説明しきれていない部分というのが大いに残っているはずだったが、それでいて互いに理解しあっていた。彼が直感的に相手が「ああしてもらいたがっている」、「こう言ってもらいたがっている」といったようなことを、その優しい性格からそれとなく察してしまうように……大体のところ、俺も小さな頃から似たような傾向にある人間だったからだ。


「でも、確かに何か変な感じだな」ルネはワイングラスを手に持ったまま、どこか不思議そうに目を伏せていた。「テディ、あなたはマイアミ空港の監視カメラに映っていたあの男をアンドロイドだと言ったけれど……もしあいつが相手なら、おれは彼と会ったその瞬間に問答無用でぶん殴っていたかもしれない。でも、例の私立探偵という連中が、マイアミからさらにニューヨークへミカエラが飛んだらしいと知り、今度はニューヨークの人捜し専門みたいな情報屋とコンタクトを取ってくれて――セオドア・ミラーというジャーナリストと一緒に暮らしていると教えてくれたんですよ。ディアナは現役のバレリーナだった若い頃からマスコミというのが大嫌いだったから、あなたのこともすぐ「ろくでもない奴」と決めつけたようだったけど、おれはあまりそう思わなかった。とはいえ、新聞社に寄稿しているコラムニストというのではなく、新聞社=記者という印象が強かったので、そうした人物がミカエラ・ヴァネリのことを知らないはずがないとも思い……まず最初にしたのが、あなたが出版されている本を読んでみるというか、オーディオで聞いてみることだったんです」


「俺はパパラッチのような、有名人を追いかけまわすといったタイプのマスコミではないけれど、ジャーナリストとしてはそう大したことないっていうのは確かですよ」と、俺は笑って言った。特段自虐といったことでもない。「どうにかギリギリそうした業界の端っこのほうにしがみついてるしょーもない奴みたいな……俺、小さな頃からN新聞社のコラム記事を読んでいて、大好きな憧れてる記者がふたりいたんです。毎週、彼らのコラム欄を読むのが楽しみで、その曜日にはまず真っ先にその部分を読みました。だから、わかるんです。このふたりみたいにコラム欄を持って、他の雑誌にも寄稿したり連載したり、自分でも本を出したりして生計を立てていけるような人っていうのはほんの一握りだけだって。だから自分がそうなれるとはまるで思えず、時々素人投稿欄に投稿して終わってました。現実的にはニューヨークにある大学の工学科に入り、大学院のほうへ進めたのも運が良かったとしか言いようがなく、研究室のほうに籍を置かせてもらえたのも……単にラッキーだったんですよ。ただ、これもたまたまアンドロイドに関して当時の時流に乗ったことを書いて投稿してみたところ、ありていに言えばそれが当たったんですよね。でも、人生にはいいこともあれば悪いこともあり、そう幸運ばかりが続くことはない。簡単にいえば、大学の研究室の同僚に嫉妬されたんです。その気持ちは俺にも多少わからなくもありません。俺が記事や本に書いたことというのは、彼らも専門家として研究していて、理解度といった意味では俺が書いたのと同じことはその場にいる誰にでも言えることだったから……まあ、今後は本を書いてお儲けになってはいかがですかといったようなわけで、居心地が悪くなって自分から辞めたんです。とはいえ、ライターとして食べていける自信まではなかったものの、あのままいたかった研究室のほうも追い出されたとなると――死んでもこの道にしがみついてやるぞうっといったような気持ちもあり、その奇跡がどうにか今も続いているといったようなところです」


 ある意味、ミカエラとの出会いも奇跡なら、オカドゥグ島へ招待されたことも奇跡だった……といったように今の俺には思われるが、ミカエラのことに関して言えば「他人の不幸の上に自分たちの幸福は築かれているのだ」と、この時初めてはっきり気づかされていたのだ。


「女性の恋愛における嫉妬よりも、体育会系の男の嫉妬よりも……極めて知的な研究者間における嫉妬のほうが手に負えないものだと聞いたことがありますよ。その時は「そんなものかなあ」と思ったりしましたが、ほら、バレエダンサーはよく優雅そうに見えて実は、白鳥が見えない水面下で必死に足を動かすように努力しているものだ――なんて言ったりするでしょう?大抵、人の嫉妬というのはそういうものだと思います。その人たちは仕事で自分が疲れて寝てる間も、テディが掲載されるかどうかわからない記事を書いてるってことを知らないんです。そして、そうした積み重ねがあってある日今のあなたになった……意味わかりますか?バレエダンサーだってそうです。小さな頃からずっと努力していても、どこのバレエ団でもダンサーの人数は制限してますからね。よほど「これは」という才能でもない限り、プロになることは難しい。今テディは何度か幸運だった、ラッキーだったと言ったけれど、それはおそらく違うと思います。普段から自分にとって出来るだけのことをし、努力を努力とも、苦労を苦労とも思わずコツコツ地道にやって来た人間だけが――いざ幸運がやって来た時に掴む機会に恵まれる、少なくともおれはそうしたものでないかと思っています」


「ええと、うちはお金のない家庭だったので……経済的に余裕のない人間はとにかく努力して奨学金を掴むとか、そうした道しかなかっただけの話かもしれません。当然、留年するわけにもいかないし、生活費を稼ぐのにバイトもしなきゃならないってわけで……でも、そうした努力や苦労っていうのは誰もがしているという意味で、そうした中でも自分はラッキーなほうだったってことなんです。どんなに努力しても苦労しても報われないということはいくらでもありえる。そしてその両方がわかるという意味で……自分はおそらく幸運だったように思うということなんです」


 ルネがくすりと笑ったので、俺もやはりはにかむように笑った。自分たちはまったく似てない者同士だと最初は思ったのに、案外似ているところがあると気づき――おそらく彼のほうでも何かがおかしかったのだろう。


「今後、ミカエラのことはテディ、あなたにすべてお任せします」


 その後、他愛のない世間話や互いの幼少期や青年期にあったことを語ったりしたあとで……ルネは最後にそう言った。(つらくないはずがない)、その時もそう思い、胸を痛めたのも事実だが、この時の彼の本当の気持ちが俺にわかるのは、実はもっとずっとあとになってからのことだった。


「とはいえ、今後ともディアナが口うるさく色々あなたに言うであろうことは、おれにも止めようがありません。ええと、なんというか……たまたま好きになって愛した女性に、信じられないくらい口やかましいクレイジーな母親がいるってたまにあったりするでしょう?その部分はそうした不運なクジに当たってしまったのだと思って諦めるしかないといったらいいのか。おれはこれでもまだ彼女に気に入られてるほうなんですよね。ミカエラの隣にいて見苦しくもなく、そこそこバレエの才能もあり、自分とも委縮しないで話せるだけまあまともな男だ……といったような意味においてね。でも気にしないでミカエラと結婚して幸せになってください。今後とも、どうしたらいいかわからない時には連絡をくださって構いませんし、実際、出来ることは少なくともおれに出来ることはなんでもします。何より、それが今のミカエラの幸せに繋がることならなんでも……」


 俺はルネと、ワーウィック・ニューヨークと自宅アパートへ向かう道の分かれ目で握手し、そこで別れていた。もしかしたら彼もそうだったかもしれないが、出会い方が違えば間違いなく友達……いや、あるいは親友になれた相手ではなかったかという気がして、帰り道では身体的にだけでなく、何故だか心までもが薄ら寒く寂しい感じすらした。


 いや、もしかしたら悲しかったのかもしれない。エルネスト・アーウィンは物凄くいい奴だった。今であれば彼の親友たちが『あいつのことを悪く言うのは頭のおかしい奴だけ』という意味が俺にもよくわかる。バレエというのは360度、どこからも誤魔化しの利かない身体表現であるという。それゆえ、踊り手の人間性についても隠しようのないものなのだとか……ルネはそうした世界にずっと身を置いているからだろうか、大袈裟な言い方をすればまるで悟りを開いた禅僧を思わせるような落ち着きがあり、それのみならず、その落ち着きによって一緒にいる人間をもリラックスさせることの出来る人格者だった。


 そして、そんな素晴らしい人格者である彼が、心から愛しあっている女性と、彼女が突然記憶喪失になったから――などという奇矯な理由によって最後の最後、幸せになることを阻まれたのだ。俺は自分がその阻害原因になっていることを思うと胸が痛んだ。自分が彼の立場であれば同じように出来たか?いや、絶対出来なかったに違いない……。


 俺はそうした色々なことを考えつつ家路に着き、地下アパートの入口に到着すると、きのうここにディアナとルネが立っていたことの驚きが、もう何年も前のことであるかのように錯覚し――自分の部屋の前に到着してからは、気分を切り換えて犬のように廊下を走ってきたミカエラを抱きしめ、何度となくキスしあった。そして「わたしたち、四時間五十三分も離れていたのよ」などという、普通の男であれば狂気であるとしか思えぬだろう恋人の言葉を聞き、心から喜んだのだった。




 >>続く。






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