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第23章

「おまえの知っているやり方で騙してほしい。夜明けに葉を一枚、そっと落としておくれ……」


 落ち葉の多いセントラル・パークの道を散歩しながら、俺がロバート・フロストの詩の一節をつぶやくと、ミカエラはいつものように俺の腕をぎゅっとした。


「なあに?ミカエラになんとなくわかるのは、有名なOヘンリーの『最後の一葉』くらいなものだわ。絵を描くのが上手な画家のお嬢さんが病気になって、窓から見える樹からすべて葉が落ちたら、最後の一葉までもが落ちたらその時自分は死ぬだろうと信じこんでいるの。けれどね、お酒で身を持ち崩していた画家のおじさんがそのことを知って、壁に本物そっくりの葉っぱを描いておくのよ。それでそのお嬢さんは命を取り留めるんだけれど、かわりに寒い中そんな本物そっくりの葉を描いていたおじさんは、そのことが元で肺炎になって死ぬの……つまり、そのおじさんにとっては畢生の大作だったっていうことよね。文字通り命を懸けて描いた一世一代の名画だったのよ」


「…………………」


 こういう時、俺は本当に不思議になってしまう。『畢生の大作だって?よくそんな難しい言葉知ってたね』と突っ込みたくもあるが、やはり何も言えない。それに、彼女のこの記憶は元のミカエラが過去に持っていたものを引用しているに違いなかった。おそらく、オカドゥグ島のホテルの図書室にもOヘンリーの短編集はあったことだろう。だがミカエラが暇潰しにでもその時に『最後の一葉』を読んだとは思えない。


「どうしたの、テディ?わたしの顔に何かついてる?」


「ううん、なんでもないよ。パリの冬がどのくらい寒いものか、俺はよく知らないけど……ニューヨークの冬も寒いからね。体を冷やさないように気をつけなきゃって思ったんだ。俺はもう慣れてるけど、君は今年が初めてだから、色々体が温まるようなアイテムを買い揃えないとね」


「そうねー。ミカエラったらちょっと冷え性なのかしら?確かに手足が冷えやすい体質みたいではあるのよ?ウクライナで生まれてロシアで育ったはずなのに、寒さには実はあまり強くないってことなのかしら?」


「う~ん、どうなのかな。ウクライナやロシアの人たちだって、どんなに厚着したりなんだりしてようと『寒いものは寒い』と思ってる気がするしね。明日あたり、デパート巡りでもするかい?3Dプリンターで衣類を印刷して裁縫されたものが簡単に出来るようになってから……自分でデザインしたものを着る人も多くなったけどね。マフラーや手袋や、今ミカエラが着てるのより厚手のコートってことになると、俺もそこまでのことはしてる時間が今週はなさそうだから」


「ミカエラのことはどうでもいいのよ?だって、ミカエラはテディとず~っと一緒にくっついてさえいれば、心も体もぽかぽかだもの!でも、あなただって冬支度として色々買う必要があるんじゃなくて?そういうことならミカエラも一緒に選んであげる!!」


「うん。そうだね……」


 いつも通り、ミカエラがにっこり屈託なく笑うと、俺はそれ以上何も言えなくなってしまう。寒い夕暮れの中、いかにも健康オタクそうに見えるジョガーふたりと通りすがる。友人か恋人同士らしいのに、ベンチに隣り合ったまま、それぞれデバイスの操作に夢中になっている人々の姿を見、自分がいかに幸福な人間かと考えたりもした。


 たぶん、普通に考えた場合――いかに愛している恋人であるとはいえ、ここまでべったりくっつかれ続けることにいつしか苦痛を覚えるものだろう。俺にしても(まったくそんなことはない)とまではもちろん言えないし、「今日は取材先について来ないで欲しい」と思うこともよくあった。けれど、結局彼女の言い分を通してしまうのは、俺自身ミカエラをひとりにするのが不安だからでもあった。シズカの他にもっと高性能のアンドロイドを雇って――ようするにボディガード・ロボットを――彼女のことを守らせるという方法もなくはない。だが、俺は最早そうした部分も含めてミカエラのことを深く愛していた。


 そもそも、俺には彼女が「この男こそ自分の運命の相手だ」と感じるほどの何かが備わっているわけでもない。けれど、何故かはわからないがミカエラはそう信じ込んでおり、彼女が自分でそう魔法をかけたようにしか思えぬ魔法は今も続いており、一向覚めないままのようなのだ。それなら、俺のほうでもその夢のような時間が一分一秒でも長く続くよう……ミカエラが望むことであれば、なんでもしてあげたかった。


 だかとうとう――(こんな可愛い子が自分を好きだなんて、こんなに愛していると毎日言ってくれるだなんて、こんな嘘のような幸福な生活はそのうち終わりを迎えるのではないか?)と危惧していた予感が当たる日がやって来たのだ。


 アンドロイドではない、イタリア人シェフが経営しているレストランで食事して帰ってみると、地下アパートの入口にはヘリンボーンのコートを着た上品な顔つきの男と、すでに六十歳を越えてはいるが、まだ若々しい雰囲気の残る、肩で髪を切り揃えたデザイナーのような中年女性が立っているのを見た時……最初に反応したのは彼らふたりのことをよく知っているミカエラのほうだった。彼女はサッと素早く俺の背中に隠れていたのだ。


 一応ミカエラ・ヴァネリについて、俺はその後よく調べていた。もちろん、ミカエラのいる前では(彼女が嫌がるため)本人が過去に踊っていた映像を見たりはしなかったが、仕事部屋にひとりで籠っている時など、仕事をしながらバレエダンサーとしてのミカエラ・ヴァネリのことや、彼女の育ての親であるディアナ・レジェンテ、また恋人であるエルネスト・アーウィンのことも調べていたのである。


 だがこの時、本人に直接会ったその瞬間に俺がすぐ気づけなかったことには理由がある。街灯や地下アパートの建物を照らす照明があったとはいえ、やはりPCの画像などと実物の私服を着た本人とでは明らかに雰囲気が異なっていたからだ。


 また、ディアナはインタビュー動画などでも見たとおり、この時もやはり厳しいというかキツい顔立ちをしており、彼女は俺の後ろに隠れたミカエラの元までつかつか歩いていくと、シュッと手を振り上げ、大切に育てた血の繋がらぬ娘のことをぶっていた。俺が止める間もなかった。


「あんた……っ!!一体私たちがどのくらい心配したと思ってるのっ!!」


「ごっ、ごめんなさ……」と途中まであやまりかけて、ミカエラは突然毅然としたようになると、キッとディアナのことを睨み返していたものである。「わ、わたしっ、パリへはもう帰らないわっ!!ここで、ニューヨークでこれからもテディとふたりで幸せに暮らしてゆくのっ。わたしたち、もう結婚の約束もしてるのよ。だから、だから……っ」


「この……っ!!」


 一発でわからなければもう一発、とばかりディアナが手をあげようとした時――俺が間に入る前に、エルネストがディアナの腕を止めていた。


「とにかく、少し冷静になって話しあいましょう。あなた……」


 ちなみに、彼らはここまでフランス語で話していた。だが、俺にも言っていることの大体の意味はわかったのだ。俺は工学科専攻だったが、それでも外国語については英語以外に二か国語が必修で、フランス語やドイツ語、スペイン語などから選ばなければならなかった。結果、俺はフランス語と中国語を選び、その後そのどちらも選んだことを深く後悔したものである。


「いえ、失礼。まずはミカエラのことを保護してくださったことを感謝すべきなんでしょうね」エルネストは流暢な英語でしゃべりながら会話を続けた。「もしよろしければ、どこか近くのお店にでも入って、今後のことを互いに話し合えませんか?」


「ええ、俺の……というか、俺たちの部屋でよければ、そちらのほうへどうぞ」


 俺たち、と言い換えてしまってから、俺は後悔した。何故そんな言い方をしてしまったのだろう。元のミカエラの恋人である男に対する対抗意識からだろうか?わからない。とにかく彼は「落ち着いた男の大人」といった雰囲気で、自分の恋人に新しい愛人が出来たらしいのに、そんなこともさして気にしてないように見えた。


 一方、エルネスト・アーウィンが俺のことを知らないだろうことに対し、俺は彼のことをネットで調べまくっていまやよく知っていた。スイスのチューリッヒ出身で、十六歳の時にローザンヌ国際バレエコンクールで優勝。その後、スカラシップでイギリスのロイヤル・バレエ団へ留学し、そのままプロとして入団するとプリンシパルの地位にまで昇りつめた――とかなんとか。


 ミカエラとは若い頃から知り合いというのか友人で、『白鳥の湖』、『ドン・キホーテ』、『ロミオとジュリエット』その他、共演したことが何度となくあるらしい。ふたりの交わしたバレエの雑誌などにおけるインタビューがネットにも掲載されており、俺は今のミカエラと過去の彼女とが別の人格なのだとわかっていても……その時激しい嫉妬を禁じえなかったものである。


 また、ウィキペディアなどを見ると、ふたりの「人物像」なるところには、それぞれ恋人であることが書き記してあり、「知り合った極若い頃からルネはミカエラにぞっこんだった」と周囲の誰もが認めていたという。ルネはミカエラをバレエのミューズと思い、ずっと彼女に恋をしてきた。だが、ミカエラにはその間も誰かしら恋人がいたりと、ルネもまた自分の恋心が届かないと思ってのことだろう。彼にも他に恋人のいる期間というのは当然あった。そして、何かをきっかけにしてふたりは再び交際するようになったようなのだが、ルネのほうではひとりの女性としてもバレエダンサーとしての彼女にもベタ惚れなので、ふたりの恋人としての上下関係というのは傍で見ている誰にとってもはっきりしているものだったらしい。


(その、ようやく射止めた意中の相手が、今度は記憶を失って他の男と浮気……じゃない。本気で結婚しようというのだ。俺が彼の立場なら、こんなふうに冷静でいられるものだろうか?)


 ミカエラが言っていたとおり、エルネスト・アーウィンは一般的なイメージで想像する男性のバレエダンサーのイメージとはかけ離れていた。肩幅が広くて背が高く、どこか高貴そうな顔立ちをしているものの、全体として妙に男っぽいオーラを漂わせているのである。


(だが、そんな彼が唯一ミカエラには弱かった……エルネストのミカエラに対する恋心は周囲の人々にも丸見えで、そのせいで本人もすぐ気づいただろうに、ミカエラのほうではまったく知らない振りをしていたという。けれど、そんな相手がとうとう振り向いてくれた時、彼はどんなに嬉しかっただろうか……)


 ミカエラ・ヴァネリとエルネスト・アーウィンについて調べるうち、俺はそんなことを考えた時のことを思い出し、この時あらためて複雑な気持ちになった。(もしかして彼は、愛する女性がとりあえず元気で無事な姿を見られただけでも満足で、それ以上のことは特に求めていない……というくらいミカエラのことを愛していたりするのだろうか?)と、俺は一瞬そんなふうに思いもした。


「それにしてもよくこんなカビくさい場所、ガマンして暮らしてられるわねっ。ミカエラはカビ……正確にはハウスダウトだったかしら。そういうアレルギーがあるのよ。しかも地下一階だなんて、こういうところっていうのは、地上階に住めない貧乏人が住む場所って相場が決まってるのよ。まだ一匹もゴキブリを見かけてないのが不思議なくらいだわっ」


「まあまあ、ディアナ。落ち着いてください」


 ディアナの早口のフランス語とエルネストの会話について、俺はある程度理解できていたが、明らかにディアナのほうでは『フランス語もわからぬアホなヤンキー』と俺のことを決めつけているため――とりあえず英語しか理解できない振りを通そうと考えた。確かにミカエラは引っ越し準備をしている時、埃が舞い、何度となくくしゃみをしたりはしていたのだ。けれど俺はアレルギーとまでは想像していなかった。


 ミカエラは怯えたように俺の腕にしがみついたままでいたが、俺は囁くような小さな声で「大丈夫だよ」と、何度か彼女に言った。するとミカエラは「テディはディアナおばさんがどんなにおっかないか知らないからそんな暢気なことが言えるのよっ」などと逆に囁き返していたものである。すると、耳ざとくディアナがギロッと睨んできたため、エレベーターは再び沈黙の重い空気によって満たされた。


「ゴ主人サマ、オカエリナサイマセ」


 シズカが喜びのデジタル表示を顔のあたりに示して、俺とミカエラのことを出迎える。そして次にディアナとエルネストの姿を認め、「オヤ?オ客サマデゴザイマスカ?」と、忙しくなく体を動かして奇妙な歓迎の舞を踊りはじめる。


「こんなポンコツしか家に置けないだなんて、間違いなく収入のほうも大したことはないっていうことね」


 軽蔑したようにきょろきょろ廊下や室内のものを見て歩きながら、ディアナはそう結論づけたようだった。シズカは二十数か国語を解するので、フランス語によって自分がポンコツ(tas de ferraille/ブリキ野郎)と言われたことが即座にわかったようだった。バスルームのある脇の部屋のほうへ入ると、暫くそこで落ち込むようなジェスチャーをしてのち、動かなくなる。


「シズカっ、元気だしてっ!!ミカエラなんてねえ、踊れなくなってからずっとディアナおばさんにイヤミばっかり言われ続けてるのよ。だから、落ち込んだりしちゃダメっ。テディとミカエラがシズカのこと愛してたら、それでいいじゃないの。第一、あのおばさんたちはすぐに帰っちゃうんだしっ」


「ソ、ソウデスカ。スミマセン、ショックヲ受ケルアマリ、オモテナシ精神ヲスッカリ失ッテイマシタ。マズハオ茶ナドオ入レシナクテハ……」


 シズカはピコピコと色々な顔をデジタル表示しつつ、キッチンのほうへ向かおうとした。けれど、ディアナとエルネストに「コーヒート紅茶……」と聞こうとした途中で、ディアナは「いらないわっ」と怒鳴るように言い、エルネストも特に必要なかったようなのだが、旧式の家事ロボットが流石に気の毒になったのだろう。「おれはあったかいコーヒーがいいな」と、優しく答えていたものである。


「何よ、この部屋。あなたたち、もしかして引っ越すの?」


 俺に通じないと思ってのことだろう。ディアナは英語でそう言い、ソファに座って足を組むと、フェンディのバッグから電子タバコを取りだして吸いはじめた。彼女の隣にエルネストが座り、俺は袖椅子に腰かけたが、もうひとつある離れた位置の袖椅子にミカエラは座ろうとせず、俺の後ろに立ったままでいる。リビングも寝室のほうもダンボールだらけだったから、誤魔化すことは当然出来なかった。


「ええ、まあ……と言っても、この同じアパートの上階が偶然空くということだったので、とりあえずそちらへ移動するってだけの話ではあるんです。引っ越し用というか、荷物運搬ロボットを二体も雇えばそう時間もかからず終わると思います。1103号室ですから、何か御用があればそちら宛てに来てください。広さはここ以上にありますし、十一階ですから見晴らしのほうもすごくいいんです」


「あんた、この子のこと、一体どうするつもりなの?」


 スパーっとディアナが煙を吐きだすと、ペパーミントの香りが空気中に広がった。エルネストはシズカに「砂糖ヤミルクハイカガイタシマショウカ?」と聞かれ、「ブラックでいいよ」と答えている。


「どうって……俺はミカエラと結婚する約束をしました。知り合ってまだ四か月半ほどにしかなりませんが、お互い心から愛しあっています。彼女の過去のことについては一応聞きました。バレエのリフトの練習中にレッスンルームの床に頭を打ちつけ、その後記憶喪失になったことや……一応、医師の診断のほうも仰ぎましたが、現段階ではなんとも言えないことだと言われたんです。記憶のほうはいつか戻ってくるかもしれないし、あるいは一生このままかもわからないと……」


「わかってないわねっ。ミカエラ・ヴァネリはフランスの宝と言われるほどのバレエダンサーなのよ!あんたはその国宝のような女とこれから結婚しようとしてるのよ。ジャーナリストなんかやってる割にまるでわかってないのね。マスコミが騒いであんたのことを追いかけまわすわよ。私たちは私たちで、そんなことになったら本当のことを全部話さなくちゃならない……記憶喪失が本当で、医師の診断書があってさえ、ミカエラ・ヴァネリは実は嘘をついてるんじゃないかだの、色々な憶測が飛び交うでしょうね。それよりも、ミカエラには昔の記憶を取り戻すべく治療を受けさせるべきだわ。わからない!?もしそれで駄目なら私たちだって諦めがつく。それに、引退公演なしでオペラ座を辞めるにしても、健康上の理由だとか、もっと他にもっともらしいことが言えるわ。『オペラ座のバレエの女神、突如謎の引退』……それでも結局、マスコミは色々書きたてるでしょうよ。でもそのほうが穏当でしょ!?私たちはね、そうしたまっとうなミカエラ・ヴァネリの未来をあんたのくだらない男の行動で潰したりして欲しくないのよっ」


「一応、そうしたことについては俺のほうでも考えていました。でも、俺とミカエラは一度引き離されたとしたら……もう二度と会えないかもしれない。そう思ったら連絡するような勇気もなかなか出なくて……」


 ディアナは(心底頭が痛い……)というように、タバコのほうをもう一吹かししていた。その昔は煙草というと「体に害のあるもの」、「寿命を縮めるもの」と認識されていたが、現在では逆に肺や血中をクリーンに保つ健康嗜好品となっているのである。彼女がリキッドのフレーバーとしてペパーミントを選んでいたということは、そうした精神鎮静作用を求めてのことだったに違いない。


「ねえ、ルネ。このバカにあんたからもしっかり言い聞かせてやってよ」


 ディアナはルネに対してはフランス語でそう言い、俺は「バカ」(=gros conグローコン/大バカ者)と言われていても気づかない振りをしていたのだが――ルネのほうではどうも、俺が多少なりフランス語がわかるらしいと気づいているようだった。


「ええと、ミスター・ミラーにはミカエラを無事保護してくださいましたこと、あらためて感謝申し上げます」


 ルネが若干コワモテの感すらある容姿であるにも関わらず――そんなふうに慇懃に礼を口にするのを見て、ディアナは「チッ」とはっきり聞こえるように舌打ちしていた。「一体なんのためにあんたを一緒に連れてきたと思ってるのよ」と、彼女が小声で呟くのがはっきり聞こえる。


「また、一見して思いますのに、今の状態のミカエラをおれたちが無理やりパリへ連れ帰ることは出来ないとは、一応理解します。とはいえ、来年以降一年先までびっしり、ミカエラはオペラ座だけでなく、世界中のバレエ団にて踊る予定というのが詰まっている状態なんです。もし怪我をしたとか故障ということなら……あるいは何かの病気にかかったということでも、彼女のことを心配するバレエ関係者から引っ切りなしに連絡が来ることは間違いありません。単に公演をキャンセルせざるを得ないという経済的なことだけじゃないんです。ミカエラ・ヴァネリは世界中から愛されているバレリーナ……もし彼女が二度と踊らないか踊れないとするなら、その世界的損失について嘆く人々がどれほどたくさんいるか――という、これはそうした話なんです」


「すみません。俺もインターネットで色々調べて、ミカエラ・ヴァネリがただのバレエダンサーでないことは理解しているつもりだったんです。ですが、ミカエラは今の状態では絶対にパリへは帰せません。彼女は嘘をついていて『本当は踊れるのに踊れない振りをしている』わけではありませんし、何より本人が身に覚えのないことについてマスコミから注目されたりすることに耐えられるような精神を持ってないんです。なんというか、元のミカエラ・ヴァネリは成熟したプロのダンサーであり自立した女性であったかもしれませんが、今のミカエラは元の彼女より精神の退行した……子供とまでは言いませんが、色々な難しい状況に耐えてマスコミ対応できるような精神状態をそもそも持ってないんです」


「ふん!そんなアタマの足りない小娘をどうやって騙くらかして性交渉にまで持ち込んだのよ!?あんた、出るところに出て変態か変質者として訴えてやったっていいんだからねっ」


 俺は男同士の下ネタ話には強いほうだったが、この時は流石に柄にもなく頬が赤らむものを感じた。すると、婚約者の窮地と感じたのだろうか。後ろからぎゅっと俺のことを抱きしめて、ミカエラが言った。


「テディは変態でもなければ変質者でもないわっ。夜の時もね、とっともとっても優しいのっ。ミカエラにとって嫌なことは何もしないのよっ。ただ気持ちよくだけしてくれるのっ!!」


 彼女のこの言葉で、俺はますますカーッと頭に血が上るものを感じた。ディアナおばさんは軽蔑とも呆れともつかない顔をして、「信じられない」というように首を振っている。それから心底ゾッとするとでもいうように、自分で自分の肩を抱いていた。


「それにね、テディは最初、ミカエラのことなんかどーとも思ってなかったのっ。だけどミカエラが何度も「好き好きっ」てしつこく言い続けたから……それでね、少しずつ相手にしてくれるようになったのよ。ミカエラ、最初に出会った瞬間にすぐわかったの。テディこそ、ミカエラのために定められた運命の人なんだっていうことが……」


 俺は恥ずかしさのあまり顔を上げることさえ出来なかったが、人間同士のややこしい関係を何も知らないシズカが「ドウゾ」とコーヒーを差し出すなり――ルネはぶっと吹き出していたものである。


「何よ、ルネっ!!笑いごとじゃないわよっ。第一あんたわかってる!?自分が間抜けな間男になりつつあるっていうことがっ」


「いえ、ディアナ」と、彼はやわらかく微笑むことすらして言った。「おれはね、ニューヨークへやって来る前からずっと現実的な問題についてだけ考えてました。正確な言い方をすれば、現実的な妥協点ということですね。この場合、大切なのはオペラ座のエトワールであるミカエラ・ヴァネリの『公の顔』をどうすべきかということが第一優先です。「ミカエラはおれとつきあっていた恋人だったはずなのに~。くっすん」なんていう私的なことは二の次だ。おれは……というか、おれはおれの愛するミカエラのバレエダンサーとしてのキャリアを何より第一に優先にしたい。何故なら彼女にとっては生きることそのものがバレエであるからだ。けれど、今目の前にいるミカエラにデヴェロップだのアラベスクがどうこう言っても理解不能であるように、引退するなら引退するで、医師の診断書と入院して真面目に治療に専念しているといったような、せめても見せかけだけでもいい。そうした何かをマスコミに……引いては世間や世界に対して示さなくてはならないという、これはそうした話なんです。そしてその点について、ミスター・ミラー、あなたがどの程度理解してくださるかという、大切なのはそうしたことでないかと思うのですが……」


「そうですね。それでしたら……こうは出来ませんか?ニューヨークの馬鹿高い診察料を請求してくる精神分析医にでもミカエラのことを診てもらい、あなた方にはその診断書を持ち帰っていただくというのは?どう考えても今のミカエラのことをマスコミの前に出すのはあなた方にとってもプラスになるとは思えない。『こう聞かれたらこう言え』であるとか、そんなシナリオを何十度となくレクチャーしたところでミカエラには対応不可能なんですから、むしろ逆に世界に対して『オペラ座のエトワール、電波的な発言をして醜態をさらす』であるとか、結果としてあなた方が望まない結果しか生まれないでしょう。だったら、ミカエラ・ヴァネリは当初パリやフランス国内で治療を受けていたが――ここで、何かもっともらしい病名をつけたほうがいいかもしれません。記憶障害云々という病名があなた方に気に入らないとしたら……その後、ニューヨークの専門医に診てもらうために渡米したとかなんとか。今のミカエラが前と同じように踊れない以上、公演のほうは無期延期ということにするか、それともスッパリ引退し、もし万一彼女が記憶を取り戻すなどして踊れるようになったら、それはそのあとにその時考えるべきことではないでしょうか」


「バカっ、バカッ、一体なんなのよ、このクソの塊みたいな大馬鹿はっ!!」とディアナはフランス語で悪態をつき、それから英語になってイライラしたように言った。「あーもうっ!!今問題なのはね、あんたが今のガキみたいなミカエラを愛するあまり、私の娘にまともな治療を受けさせようとしないってことじゃないのっ。私たちが精神分析医なんていううさんくさい連中に馬鹿高い大金を支払うのはね、ミカエラが元の通りに踊れるためなのよっ。で、そういう治療が怖かったり不安だったり苦しかったりするのも当然のことなのっ。だって病院に入院して治療するのは病気を治すためなわけでしょ?で、治療っていうのは苦痛や苦難を伴うもんなのっ。それにミカエラには支えてくれる人間やスタッフがパリに……ううん。フランスだけじゃないわね。世界中にたくさんいるし、何より恋人であるルネがミカエラのことを心から支えてくれるわ。わかる!?あんたみたいな他人のスキャンダルを漁っては金に換えるゴミなんかお呼びじゃないってことなのよ」


「…………………」


 俺は一旦黙り込んだ。(俺はジャーナリストだが、パパラッチとは違う)だの、そんなことを説明したいわけではない。だが、もし用向きがそうしたこと(何がなんでもミカエラをパリへ連れ帰って治療を受けさせる)であるならば、これから何時間かけて話しあっても無意味に平行線を辿るだけだろうと思ったのだ。


「ディアナ、これ以上は話してもおそらく無駄ですよ」


 むしろ、エルネスト・アーウィンのほうが俺と同じくわかっていそうだった。パリにいた頃、ミカエラは記憶を失って踊れなくなってから、育ての親と聞かされたディアナなど、周囲の人々の言うなりになっていたのだろうと思われる。けれど、そんな生活に耐えられなくなって彼女は逃げ出したのだ。そして今のミカエラには居場所がある。それも、自分にとって居心地のいい居場所だ。彼女はここから引き離されまいとして、いくら強引に連れていこうとしても――柱にでもすがりつくか、壁に爪を立てることさえして、どこへも行こうとはしないことだろう。そのことがよくわかっているのは、この場合ディアナ・レジェンテではなく、エルネスト・アーウィンのほうだと、俺は直感的にそう感じていた。


「何よっ。私もあんたも暇人じゃないのよっ!本来なら他にしなきゃならない仕事が山積みだっていうのに、無理してニューヨークくんだりまでやって来たんじゃないのっ。ルネ、私はあんたと違って、ミカエラがとりあえず無事で良かっただの、そんな理由で納得はしない。最低でもゴミ男付きでもミカエラにはパリへ帰ってもらわなくちゃ」


「こちらへは、何日の滞在予定なんですか?」


 リッツやフォーシーズンズといった高級ホテルにしか泊まらないように感じられるふたりに、俺は冷静にそんなふうに聞いた。ミカエラは話の成りゆきにすっかり青褪めて、床にぺたりと座り込むと、微かに震えながら俺の腕をぎゅっと掴んでいる。


「一週間ほどの予定です」と、そう答えたのはルネだった。「とりあえず今日はこちらの用向きと事情のほうをお伝え出来ただけで十分ではないかとおれは考えます。ミスター・ミラー、あなたがもしミカエラ・ヴァネリという女性がただのプロのバレエダンサー以上の存在であると理解するなら、おそらく一緒にフランスのほうへ来ていただけるでしょう。その場合の滞在費用その他はこちらで持ちます。とはいえ、あなたにもお仕事があるでしょうから、そのあたりのことも含めて一晩考えていただけないでしょうか?その上でまた明日、ご都合の良い時間に伺います」


「ルネっ、なんであんたが……いいえ、私たちが下手に出なくちゃならないのよっ。こういうマスコミ関係の奴を相手に交渉する時っていうのはねえ、上から高圧的な態度に出なきゃダメなのよ!じゃないとこういう奴らっていうのはいくらでもこっちの足許見てくるんだからっ」


「ディアナ、何か誤解しているようですが、ミスター・ミラーはそういった種類のマスコミ関係の人間じゃありません。歴史あるN新聞社のコラムニストなんです。それに、優れたノンフィクション・ライターでもある……それに、その文章のほうも読めば、ある程度人柄や知性のほうも窺えようというもの。なんにしてもミカエラが、おかしな人間に誘拐でもされて薬漬けにされてたらどうしようだの、あなたが一番心配していた最悪の事態だけでも回避されたということを――それだけのことでも我々は喜ばなくては」


「何よっ。私はそんなこと、喜んだりなんかしないわよっ!!私が唯一喜ぶとしたら、ミカエラ・ヴァネリがもう一度舞台で踊れるまでに快復するっていうそのことが起きた瞬間だけだわっ。医者の話じゃ、元のミカエラの記憶を取り戻す方法はあるっていうことだったし、そんなことを何ひとつ試しもせずに突然謎の引退ですって!?この特大級のクソバカは、本当になんにもわかってないっ」


「それは、俺としてはちょっと疑問ですね」と、震えるミカエラの手を慰めるように撫でながら俺は言った。「ここニューヨークにだって、いくらでも金を積むから彼女の記憶を取り戻してくれと頼めば、そういった種類の精神科医というのは見つかりますよ。でもそうした医者というのは金目的であって、本当の意味でミカエラのことを心から考えているわけじゃない……俺はそうしたことが心配なので、催眠療法だなんだ、あやしげな治療を彼女に受けさせるつもりはありません。また、あなた方のミカエラをパリへ連れていきたい目的がそれなら、俺は彼女の手を離すつもりは絶対にありませんから」


 この時もルネは、顔の表情にも目の奥にでさえも、秘めた怒りのようなものを見せることは一切なかった。もっともディアナおばさんについて言えば、怒りのあまり最早言葉もないといったような顔つきだったが、ルネはコーヒーを飲み終わると、そんな隣のオペラ座バレエ学校校長の腕を引いていた。


「おそらく、おれたちがいくら脅してもすかしても怒っても、話のほうは膠着状態のまま進まないでしょう。今日はとりあえず、こちらがここまで苦労してやって来た用向きを伝えられただけで十分です。ミスター・ミラーはミカエラに対する愛情によって目が曇るあまり、我々の話すことに一切耳を貸そうとしないといったタイプの人間ではありませんよ。また、彼が言ったことについても一理あるというのはおれ自身認めるところです。今のミカエラにバレエに関することで微かにでも記憶が残っていて、鍛え直せば再び前と同じように踊れるようになるのではないか……といったようにはまるで期待できないほど、彼女はダンサーとしてまったく使いものにならない。むしろここまでだと、ディアナ、あなたが一度言っていたことがあるようにまるっきり諦めるしかないと思える分、判断を下すのに楽だとすら思えるくらいね」


「どちらのほうに宿泊しておられるんですか?時間を指定していただければ、こちらから出向くことも出来ますし、あるいはまたここへ来ていただくというのでも、どちらでも構いませんが……」


 俺はこの時心底ほっとしていた。一時的にせよ、彼らが居座るのではなくとりあえず退散してくれそうなことに、ではない。育ての親と恋人のふたりがかりで何がなんでもこちらを懐柔しようとしてこなかったことに対して――本当に良かったと思っていた。もっと言えば、ディアナが怒り狂った挙句、情に訴えようとして最終的には泣き叫んだり、ルネはルネで「おれの女を情婦にしようたあ、てめえいい根性だな」とばかり、同じように怒り狂い、マフィアよろしくこっちの胸ぐらを掴んできたりだの……とりあえずそんなことにならなくて良かったと思い、心からほっとしていたのだ。


「ワーウィック・ニューヨークのほうへ宿泊しています。部屋番号のほうを言っていただければ、電話のほうは繋いでもらえるようにしておきましょう」


 ポケットに入れてあった携帯のほうが震え、俺は多少驚いた。もし彼らが私立探偵といった情報屋を雇い、俺とミカエラの居場所を突き止めたというのであれば、俺が仕事関係で使用している電話番号を知っていても……なんら不思議ではないことだったが。


「じゃあ、そんなに離れてもいませんね。また、今いただいた連絡先のほうでよろしければ、ホテルのフロントにいる接客アンドロイドの手を煩わせる必要もないかと思いますが……」


「そうですね。ではまたあらためて、この件についてはゆっくり話しあいましょう」


 ディアナおばさんはまだ何か言いたげだったが、この場は一旦引き下がることにしたようだった。それでも最後、ミカエラの両腕をがしっと掴むと、「私は絶対諦めないわっ。だからあんたも頑張るのよっ!!」と、深層心理の奥深くにいるだろう彼女の愛する娘に語りかけ、そうして彼女は去っていったわけである。


「どっ、どうしよう、テディっ!!わたしたち、見つかっちゃった……っ!!」


「大丈夫だよ、ミカエラ。たぶん彼らには俺たちをどうかすることは出来ない。それでも俺たちがパリ市内にでもいるっていうんなら、誰かその手のヤバい筋の人にでも頼んで君のことを誘拐して取り戻すとか、そうしたことはあったかもしれない。でも、前にも言っただろ?ミカエラが今持っているのは、婚約者ビザ(K-1ビザ)だ。カップルのうち片方がアメリカ市民で、発給入国後は、九十日以内に結婚しなければならない。俺たちは今この段階で、ニューヨークのどこで結婚式挙げるかって毎日のように話してただろ?最悪、友人のひとりに証人になってもらって、市の書記局で結婚式をすることも出来るけど……せめても教会でってことになると、俺たちの署名の他に結婚式の司式者と証人の署名がマリッジライセンス(結婚証明書)には必要になる。もう知り合いの牧師さんや友達には頼んであるからそれは問題ないにしても――教会のほうは無理して時間のほうを空けてもらった日時が十一月中のことだから、結婚式まではもう間近だ。それまで、せめてもディアナおばさんと君の元恋人だっていうエルネスト・アーウィンにはバレたくなかったっていうのが本当のところ。これまでも俺は移民局へ何度も行って面倒な手続きをしてきたけど、結婚したらこれですべて手続き完了ってわけじゃなく、今度はさらに永住権の切り替え手続きっていうのが必要なんだ。俺とミカエラみたいに本当に心から愛しあってるカップルだけじゃなく、時々永住権欲しさからよく知らない者同士で偽装結婚することがあるから、一度あやしまれるとしつこく調べられる可能性がある。そうしたことも考えあわせると、ディアナおばさんとは万一何かあった場合に備えて、本当はそこそこ仲が悪くもなく、何か頼み事が出来る程度には関係が良好だってことのほうが理想的ではあったんだけどね」


「そ、そうなのっ。ミカエラ、頭悪くってごめんなさい」ミカエラはしょぼんとしたようになって言った。まるでいつもの明るいひまわりが、水と陽光を失って萎れてしまったかのように。「でもね、ミカエラ、ただテディと結婚して一緒にいたいっていうそれだけなのに……何か色々ややこしくって難しいものなのね。ディアナおばさんたち、諦めてさっさとパリへ帰ってくれるといいんだけれど……」


「そうだね。というか俺、エルネスト・アーウィンって奴がそこそこ話せそうな奴だってことに驚いたよ。冷静そうに見えて心の奥底に実は怒りを蓄えていて、次に会った時にフルボッコにされる可能性もなくはないけど……そうだよな。ネットで軽く調べてみたところによると、ディアナおばさんはオペラ座のバレエ学校の校長という以上に、オペラ座総裁にも対等に物を言えるくらいの影の実力者らしい。まあ、自身バレエダンサーとして一流だったんだし、振付師としての才能もあって成功してるとなったらそれもそうかって話ではある。しかもその大成功を収めた舞台っていうのがすべて、ミカエラ・ヴァネリが主役だとなったら猶更――君のことを手放したくないのは当然すぎるくらい当然のことではあったろう」


「あ、あのねっ、テディ、わたしね……前はずっとディアナおばさんやルネや、バレエに関するあれやこれやから逃げることばかり考えてたの。でも今は……テディ、あなたと幸せになるためにも、頑張って戦わなきゃって思うの。それで、わたしにこうした力を与えてくれるのもあなただわ。一生わたしのそばにいて守ってくれるって言った時のこと、覚えてる?」


「覚えてるよ。っていうか、俺、一度だけじゃなく何度もそう言ってるからさ、いつそう言った時のことかっていうのはわからないけど、面倒くさいことや怖くて不安なことなんかは全部俺に相談すればいい。永住権の申請のことなんかは、信頼できる弁護士事務所に頼んであるし、彼らは移民局の面接でどんなことを聞かれるかについても熟知してる。だからそのあたりのことは面接の練習にも事務所の人たちがつきあってくれるはずだ。ただ、記憶障害があっても結婚したとか、そのあたりでうさんくさく思われないためにも……念には念を入れなくちゃいけないって話は、前にもしただろ?」


「う、うんっ。ミカエラ、そのえいじゅーけんが取れるかどうかがテディとずっと一緒にいられるかどうかの鍵だってわかってますともっ。だから、そのためにはいくらでもがんばるわっ」


「そっか。なら良かった」


 ――このあと、俺たちはキスを交わすと寝室のほうへ向かい、恋人としての絆を確かめあうように愛しあった。けれど、ミカエラは最後、しくしく泣きはじめていた。「ミカエラ、こんなに幸せなのに、テディがこんなに愛してくれて幸せなのに、どうしてこんなに不安になるのっ……」と、そう言って。


「人生ではね、何もかもを一度にすべてうまくいかせるってことは出来ないんだよ」と、俺はそう言って泣きじゃくるミカエラのことを抱き寄せた。「好事魔多しって言うとおり、物事がうまくいってるように思える時ほど、突然落とし穴があったり……現実っていうのは言わば、確実性と不確実性の合いの子みたいなものだ。秩序とカオスの合いの子でもあって、物事がすべて秩序だって進んでいる時こそ、何かのバランスを取ろうとでもするみたいにカオスが突然落とし穴のように顔を覗かせる。だから俺、あの人たちがやって来て驚いたし、どうなるんだろうとも思ったけど、ある部分では少しほっとしたよ。ミカエラ、君と結婚してしまってから、フランスの国宝とおまえ如きがっていうことで責め立てられたら、それはそれでつらいからね」


「まあ、やだわ。テディはミカエラの運命の人ですもの。本当はミカエラのほうがあなたに相応しくなどないのよ」


 ミカエラはそんなことを言って、肌触りのいい毛布の中からもぞもぞ起き上がると、俺の頬にチュッとキスした。


「愛してるよ、ミカエラ。こんな気持ち、本当に初めてなんだ……」


「わたしもよ、テディ。こんなにも愛しあってる者同士を引き離そうとするだなんて、おばさんたちはきっと自分たちが何をしているのかわかってないんだわ……きっとそうよ」


 俺がもう一度ミカエラと愛しあおうとすると、彼女もまた官能的に応えてくれた。この日の夜、俺は恋人を求めるのに少し執拗だったかもしれない。というのも、エルネスト・アーウィンの姿が脳裏をよぎっていき――『彼もこれを知っているのだ』と思うと、激しい嫉妬に駆られたせいである。また、それと同時にミカエラ同様心に不安が生まれてもいた。彼は俺に比べ、何もかもすべてにおいて完璧だった。容姿、経歴、人望、バレエダンサーとしての才能、その他……また、俺がルネに嫉妬しているのに比べ、彼のほうではまるきりそうではなかったらしい。ミカエラが元の彼が愛した彼女ではないからか?いや、それはあまり関係ないのではないだろうか。ただ、相手が俺のような想像していた以上にショボい男だったと直に知り――もしかしたらほっとしたのかもしれない。自分が嫉妬するにも足らぬ相手だと、そう思って……。


 俺はそんなことを思うと、何かの発作でも起こしたように胸が苦しくなった。そして、こんなにミカエラのことを愛していても、バレエに纏わる何かの事情から、もしミカエラにアメリカでの永住権が下りないなどの問題が起きたとしたら……そんなことを考えはじめると、俺は何やら根源的な不安にすら襲われた気がする。それからそんなすべての自分の気持ちを誤魔化し忘れるため、再びミカエラと激しく愛しあったのだった。




 >>続く。






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