第17章
「ミカエラ、いるかい?」
今度は鍵がかかっていなかったので、俺はドアノブを回してそっと中へ入っていった。室内のほうは全体としてパステル調の可愛らしい雰囲気だった。それをダリやキリコの抽象的な絵画がぶち壊しにしてるような気もしたが、室内を一渡り見回し、そこにミカエラの姿がないとわかると、俺はベッドルームのほうへ向かった。
まあ、話の内容と流れから察するに、ありえないとわかってはいても――寝室のほうが男女の事後のそれ……といったように乱れてなくて、俺は心からほっとした。だが、かわりにそこではミカエラが「ひっく、ひっく」としゃくりあげるように泣いていて、俺はそのことに対しては胸が痛んだ。
「その、さ。正直に本当のことを言うよ」
俺はベッドサイドに腰掛けると、そこで枕に突っ伏して泣くミカエラの長い髪を撫でた。今までもずっとそうだったように、この時も俺は情欲に押し流されず、理性を保つのが大変だった。
「部屋で自分の推理のこととか色々まとめてると……隣から人の声がしてきたんだ。だから誰だろうと思って例の鎖のかかってるドアのところで耳を澄ましてたら、君がミロスと話してるのが聞こえてきたんだ。そしたら、ミロスが医者に診てもらったほうがいいみたいなことを言って、ミカエラ、君は何か彼に対して怒っていたね。だからどういうことなのかと思って……」
「ようするに、盗み聞きしてたってこと?」
「えーと、結果としてはそうだけど、その前に俺、君に話があったから、ドアの前でいるかどうか確認したんだよ。そしたら、なんの返事もなかったのに一体誰だろうと思ったもんだから……まあ、サラやロージーあたりが何かくっちゃべりながら掃除してるのかなくらいに思いはしたんだけどね」
ミカエラはノースリーブのワンピースを着ていたので、剥きだしの腕で顔の涙をぬぐっていた。それからナイトテーブルの上にあったティッシュを二枚ほど取り、それで鼻をかんでいる。
「やだわ。泣いたあとの顔って不細工になるんですもの。だけどテディ、あなたが盗み聞きするくらいにはわたしに感心があるってわかって嬉しいわ」
(え?そこ?)と俺は一瞬思いもしたが、まあそんなこともすぐにどうでも良くなった。ミカエラは終始一貫して一般の常識とはちょっと価値観がズレており、それが彼女が実は本物そっくりのヒューマノイドでないかと疑わせる理由でもあったが、ミロスが部屋を訪ねてきて『医者に診てもらっては……』と言ったということは、やはり彼女は間違いなく本物の人間なのだろう。
(まあ、少なくとも『医者に診てもらえ』というのが、技術者にメンテナンス受けろの隠語でない限りはそのはずだ)
「わたしね、ここ数か月くらい前の記憶が全然ないの」
「え……っ!?」
(どういうこと?)と俺が口にする前に、ミカエラは矢継ぎ早に早口で言った。まるで、俺が疑問として思い浮かべるであろうことを先取りするみたいに。
「でも、そんなこと言ったらたぶん、テディ、あなたの中ではわたしが本物のヒューマノイドかもしれないっていう疑いが高まるってことなんでしょう?わたし、あなたに嫌われたくなかったのっ。だからずっと黙ってたのっ。ごめんなさいっ!!」
「えーっと……」
俺はこの時、ミカエラが自分に抱きついてくるのを受けとめつつ、言葉の選択に迷っていた。記憶がない……もしもっと早くにそう聞かされていたら、俺は確かに彼女のことを疑いの眼差しで観察して過ごしていたことだろう。だが、今にしてみればそんなことは知らなくて良かったのだという気がしてならない。
「つまりそれは、自分の名前以外思いだせないとか、そういう種類の記憶喪失ってこと?」
「ミカエラね、パリのオペラ座のお星さまのバレリーナなのっ!!でも記憶がないからもう踊れないでしょ?そしたら、まわりの人の視線がどんどん冷たくなっていって……ディアナもそうだけど、踊れないわたしは必要ないのよ。だから、なんだかいたたまれなくなって……そんな時、フォアマンさんからお手紙が届いたの。ミカエラその時苦しくって、針のむしろに座らされるみたいでとってもつらくって……だから、だから、パリから逃げてきたのっ。そしたらテディ、あなたがいたのよ。わたし、すぐわかったわ。あなたのブロンドの髪からは、色のせいじゃなくてね、黄金のオーラが洩れていたものっ。それであなたがわたしのための人だってことがすぐわかったの。ミカエラにわからなかったのはね、テディ、わたしにこんなにはっきりしてることが、どうしてあなたにはわからないのかしらっていうことだけ……」
俺はミカエラのことを黙らせるようにキスした。本当はもっと詳しくどういうことなのか聞くべきではあったろう。けれど、一度キスしてしまうと、自分の気持ちを抑えることが最早出来なかった。それで「俺だってずっと、君のことが好きで堪らなくて苦しかったよ」と、本当のことを言った。「テディ、それ本当なの?わたしにとってこんなに嬉しいことってないわ……」――ミカエラの腕が背中に回され、俺たちはもう一度キスを交わすと、そのままベッドのほうへ倒れ込んだ。
ところが……。
「あ、あのね、テディっ。わたしは本当に全然かまわないのよっ。それからわたし……っていうか、これはほんとの最初のわたしって意味だけど、彼女には今まで何人か恋人がいたらしいの。だからきっとそういう経験もあると思うわ。でもわたしは記憶がないから、そういう方面のことはよくわからないっていうか……」
「えっと、そういえば君、ミカエラ……婚約者がいるとかって、最初にジェット機に乗った時に言ってたよね?」
(おい、俺よ。何故よりにもよってこのタイミングでそのことを思い出す……)
自分でそんな自分に絶望しつつ、俺は一度起き上がり、ミカエラの体から離れた。肉体的には処女ではないが、精神的にはヴァージンだ――などと言われた場合、男は一体どうすればいいのだろう?
「ごめんなさい、テディっ。いいのよ。本当にあなたはわたしに何をしてもいいのっ。それに、わたしだってこんなにあなたのことを愛してるんですものね。あなたとふたりで見てた映画でも、恋人同士のそうしたシーンはいつでもロマンチックだったし……」
「ううん、いいんだよ」
俺はやはり、ミカエラの額にチュッと清らかなキスをすると、(これで良かったのだ)と無理に言い聞かせることにした。彼女がオペラ座のバレリーナで、そちらへ黙って逃亡するようにカリブ海にて言わば――行方不明になっているにも等しいのだ。『オペラ座のエトワール、謎の失踪』などというニュースは見た記憶がなかったが、おそらく怪我や故障か何かで休暇中ということにでもなっているのだろう。それとも、彼女を引き取ってくれたおばさんという人が、『もうミカエラは踊れない』として諦めたということなのかどうか……。
「それより、それはミロスじゃなくても誰もが心配になるって話だ。ああ、違うよ、ミカエラ……」
彼女が俺の胸にがしっとしがみつき、いやいやをするように何度もかぶりを振っていたので、俺は誤解を解こうと必死になった。
「君が嫌なら、お医者さんには行かなくていい……というより、この場合のお医者さんはたぶん精神分析医ということだよね?それとも、体にどこか他に痛いところでもあるってことなのかい?」
「ううんっ。体はどこも痛くないのっ。昔はね、バレエダンサーっていつでも体のあちこちのどっか痛いのが普通だったみたい。とにかく、ディアナおばさんの話じゃそういうことだったわ。でも今は医療技術が進歩したことで、以前よりずっとバレリーナは長命になったのよ。それなのにわたし、踊れなくなっちゃって……」
「そっか。俺はバレエにはまるで詳しくないけど、とにかくミカエラ、君がバレリーナとして踊れるかどうかは俺にとってはあまり………なんていうか、ようするに詳しくないからよくわからないことなんだ。でも、君のことを小さい時に引き取ったそのディアナおばさんにとっては大変なことなんだろうなってことはわかる。あと、確か君、婚約者だったか恋人がいるらしいって最初にジェット機で話した時のこと、覚えてる?」
「うっ、うん。エルネスト・アーウィンのことね?ルネはとってもいい人なの。バレエダンサーとして有名で、自分でも舞踏団を持ってるとかなんとか……でも、見た目は全然バレエダンサーみたいに見えないのよ?肩幅が広くて、顔のほうがちょっとコワモテだからかしら。彼がチロッと睨んだだけでチンピラはすぐ退散しちゃうみたいな感じなの。あ、誤解しないでね、テディ。わたし、ルネのことは今もとってもいい人と思って尊敬しているんだけれど、男の人としては全然好きになれないのよ。元のというか、前のわたしは『こういう人が好みで好きだったんだ~』みたいに、他人のことのようにしかとても思えないの。ミカエラは……えっと、元のわたしはね、『何かあってバレエを引退することになったらあなたと結婚するわ』ってルネと約束してたんですって。だから『結婚しよう。記憶ならいずれまた思いだすさ』ってプロポーズされたんだけれど、わたし、彼のことはやっぱり全然そんなふうに思えないの。だから、そのことでもとってもつらくって……ディアナおばさんは『踊れないミカエラ・ヴァネリなんてほんとのミカエラ・ヴァネリじゃない』みたいにヒステリックに叫びたてるし、ルネはね、『踊れなくても、僕は君が好きだよ』って優しく言ってくれるけど、わたしはとても彼の愛に相応しい人間じゃないのよ。だって彼は今のこのわたしをではなくて、前の元々のバレエの妖精のようなミカエラ・ヴァネリのことを愛しているんですものね」
「その……答えたくなかったらいいんだけど、精神分析医の先生はなんておっしゃってるんだい?たとえば――これはあくまでもたとえばだけど、暫くバレエはお休みして、自分の好きなことだけして伸び伸び過ごしていたらそのうち記憶のほうは回復するだろうとか、そういう診断だったりするのかい?」
「さあ……どうなのかしら?」ミカエラは自分のことなのに、頭の上に疑問符でも浮かべたような顔をして、しきりと首を捻っている。「でも、わたしが一番信頼できそうだなって感じた女性のせーしんの先生はね、『何かちょっとしたことをきっかけに思いだすかもしれないし、一生このままである可能性もある』って、そうおっしゃってたわ。でね、アタマの具合を見てもらうとしたらわたし、この女性の先生が良かったの。だけどディアナおばさんがね、『あんなヤブ医者話にもならない!!』って怒って言って、他のお医者先生にまたわたし、一から同じことお話したの。それで、この先生がおっかない男の先生だったの。記憶退行療法だったかなんだか忘れちゃったけど、何か気分の悪くなる薬を飲まされて、ようするに催眠術?何かそんなあやしげなのにミカエラをかけようとしたのよっ。わたし、その時なんかすっっごくやだった。最後にその先生が『あなたは今まで私に話したことを覚えていません』とかって言って、パチンと指を鳴らしたらしーんだけど、ミカエラ、恐くて怖くて……とにかくそれ、過去の一番おっかない、わたしにとっていやな記憶だったのっ。だから、わたし、わたし……っ!!」
「心配しなくていいよ。もう二度と俺が、君にそんなことはさせないから。それでももしどうしてもその必要があるとしたら、ミカエラ、君が最初に診てもらってもいいかなって感じた女性の先生にお願いすればいい。俺はたぶん、君の元婚約者か元恋人かはわからないけど、そのルネって人以上に君に相応しい人間ではないと思う。だけどミカエラ、君が不安だとか怖いと感じるすべてのものから……俺のすべてを懸けて守りたいとは思ってる。もちろん、俺に君の一体何が守れるかって話ではあるかもしれないけど……」
「テディっ!!わたし、わたしね……きっとあなたならわたしのこと、わかってくれるって思ってたの。そうなの。わたし、ずっと怖くて不安で……でも、あなたに出会った最初の瞬間からわかってたのよ。あなただけはきっとわたしのすべてを理解してくれるって」
その後、俺は泣きじゃくるミカエラのことを、ただひたすら抱きしめて過ごした。俺にしても、ある瞬間から記憶が途切れ、それ以前のことが思い出せない状態というのがどんなものか――それは想像の域を超えることではあったけれど、多少なりわかることはあった。たとえば幼少期の記憶を突然失い、自分の両親にあたる人のことが(ミカエラの場合は血の繋がらぬディアナおばさん)まるで思い出せないとした場合……さらには自分の恋人or婚約者という人物が現れても、いい人だとは思うのに、何故以前の自分はこの彼に惹かれていたのかまるで理解できないとしたら、不安で怖くないはずがない。さらには、俺は知らなかったにしても、オペラ座のエトワールということは、彼女はバレエの世界ではとても有名な人物なのだろう。そして、そんなところからも「踊れないオマエに価値はない」とするような、無言のプレッシャー(あるいは有言のプレッシャー)まであったのだとしたら――それが多少あやしげな招待状であれ、カリブ海の楽園と呼ばれる場所へ逃げていきたい衝動を抑えきれなかったミカエラの気持ちというのも、痛いほどよく理解できる。
「むしろ、俺のほうこそわかってあげられなくてごめん。ミカエラ、君はいつでも明るくて楽しげで、その優しい笑顔でまわりのみんなを同じ気分にさせてくれた。だから、君みたいな感じの子はそんな大して悩みなんてないんだろうなあ……なんて、勝手に思ってたんだよ。それに、君みたいな綺麗な子が俺のことを本当に好きだなんて、なんかうさんくさいっていうかさ。だから俺、てっきり……ミロスあたりにでも俺に言い寄って様子を探れみたいに言われてるのかと、最初の頃はそんなことまで思ってたくらいなんだ」
「まあ、テディったら……」ミカエラはさもおかしそうにくすりと笑った。「わたし、あなた以上に素敵な人なんて、今までの人生で一度も出会ったことすらないほどよ。それにわたし、あのミロスって人、最初に映像で連絡を取り合った時から全然好きくなかったわ。もちろんね、とても感じのいい人だとは思うのよ。だけど、なんかそんなのは表面だけで、中身はきっと薄っぺらい、冷たい感じの人だなってずっと思ってたの。フランチェスカも言ってたけど、わたしもこのホテルに今いる人の中で一番ヒューマノイドに近いとしたら、あの人なんじゃないかって今もそう思うくらい」
「…………………」
(愛してるよ、ミカエラ)、そう言いかけて、俺はやはり喉が詰まったようになって何も言えなかった。そう言うのはまだ早いのではないかとの思いとともに、例の『人間そっくりのヒューマノイド当てクイズ』のことがあった。その件がすっかり片付いて、ここオカドゥグ島を無事出ていき、ニューヨークで元の生活へ戻れたとしたら、その時こそは……などと、俺があれこれ思い迷っていた時のことだった。
「愛してるわ、テディ。わたしにはあなただけよ。そしてあなたさえいてくれたら、わたしの人生には他に何もいらないの」
「ああ、ミカエラ……」
俺は胸をぐっと掴まれ、喉のあたりがぎゅっと締めつけられるかのようだった。ミカエラの純真で美しい鳶色の瞳で見つめられると……俺は苦しくなるあまり、今では目を背けることさえあったほどだ。
「俺も、君のことを心から愛してる。そうだ。このおかしな『ヒューマノイド当てクイズ』とやらが終わったら、結婚してずっと一緒に暮らそう。結婚式はどこで挙げるのがいいかな……でもその前にやっぱり、ミカエラの育ての親だっていうディアナっておばさんに挨拶したり、色々と片付けなきゃいけない問題もあるし……」
「そんなこと、今のわたしにはもうどうだっていいわ」と、再び美しい瞳に涙を浮かべてミカエラが言った。本当の意味で恋人同士として心が通いあえたことに感動しているのだと、俺たちは互いにわかっていた。「ねえテディ。わたしを攫ってちょうだい。そして、そのあとはずっとわたしたちふたりだけで幸せに暮らしていくの。ニューヨークって人がたくさんいるんでしょう?そしたら、ディアナおばさんだってルネだって追ってはこれないわ」
「う、うん……でも俺にはそこまで無責任なことは出来ないよ」
「あら、どうして?黙っていたら、きっと絶対あのふたりにはわたしたちのことはわからないわ。きっと元のわたしはバレリーナとして忙しくて、そんな毎日が嫌になるか、踊ったりすることにも飽き飽きしてしまったのよ。だけど、オペラ座で今もバレエのコーチをしてるディアナおばさんには恩義があるでしょ?でも、そんなおばさんの操り人形でいるのが嫌になって、自分が自分であることをやめてしまったんじゃないかしら」
「…………………」
俺にはなんとも言えなかった。ミカエラとまずは結婚して既成事実を作り、幸せな甘い新婚生活を送る……そしてその後のことを考える。もし俺がまだ二十二か三くらいの若い男ならば、それでも『若気の至り』であるとして許されるかもしれない。だが俺はもうすでに三十二歳だった。それに、あらゆる状況から鑑みても、ミカエラを取り囲む今の彼女の状況は複雑極まるものだった。
「テディ、わたし、きっとあなたのためにいい奥さんになるわ」と、ミカエラは俺にしがみつくようにして言った。「毎日朝は早起きして美味しいごはんを作って、それからあなたのことを優しいキスで起こすの。それまでにお花に水をやることもすませておいて……テディ、あなたのお仕事の邪魔をするつもりはないけれど、時々はわたしにも今どんなことを書こうとしてるのか、お話してくれなくっちゃいやよ。夫婦ってね、共通点がなくなるとあっという間に空気みたいになって、子供と飼ってる犬や猫のことくらいしか話すこともなくなるって、これはロドニーがそう言ってたことなの」
「そっか。だけどミカエラ、君がそんなに頑張ることはないんだよ。家事のほうは家事ロボットにでも任せて、君は自分の時間を自分の好きなように伸び伸び使ったらいい。俺は一度仕事に夢中になると確かになかなか部屋から出て来ないし、そのことだけで頭がいっぱいになってしまうかもしれない。だけど、お金を稼ぐっていうのはそういうことでもあるし、そうした俺の大きな欠点について君が見逃してくれたとすれば、たぶん俺たちはうまくいくんじゃないかという気がするんだけど……」
「そう。わたしも、ただ飯食らいの居候みたいにならないように、何かちょっとしたことでもしてお金を稼ぐことを覚えなくっちゃね。それか、テディ、あなたのお仕事の何か役立つお手伝いでも出来るといいんだけれど……」
「大丈夫だよ、そんなに今から色々心配しなくて」と、俺は笑って言った。「ミカエラ、君はただ存在して俺のそばにいてくれさえしたら……それ以上のことを俺は特に望むつもりはないんだ」
「テディ……」
俺とミカエラのまわりには何かと問題が山積してはいたが、それでもこの時、間違いなくミカエラも俺も幸せだった。最早お互いのことしか目に入らないという、あの恋愛によくある状態にあっても、俺はまだ周囲に怠りなく注意を配ることを忘れなかったものだ。そして、ミカエラが自分の腕の中で一度眠ってしまうと……そっと体を彼女から離し、俺は色々なことについて、あらゆる可能性のことを考え続けた。
百万ドルという金は、この時点で俺にとって本当に意味のないものとなった。恥かしい言い方をすれば、『金よりも愛のほうが大切』とでも言えばいいのか。とはいえ、モーガン・ケリーが言ったとおり、『あればあったで困らない』という以上の意味が、その金額にあったというのも事実である。結婚式を挙げるにも、ミカエラを美しいウェディングドレスで装うのにも金がいるだろうし、オペラ座のほうでは何年契約といったようなことがバレエダンサーに存在するものなのかどうかもわからない。また、おそらくは怪我や病気のような仕方のない理由であればともかく、それ以外でオペラ座を辞めるとしたら、違約金のようなものが発生するのかどうか……そうしたすべてを考えあわせると、気が重いことではあるが、一度フランスのパリへ飛ばなければならないだろう。
(でもその前に……ここオカドゥグ島で、『本物の人間そっくりのヒューマノイド当てクイズ』にまつわる問題を解決しなけりゃあな)
そんなことを思いながら俺は、天使のような寝顔で安らかに眠るミカエラの額に、前髪をかき分けてもう一度キスしていた。
>>続く。




