谷間の村と、風を聞く午後
ここは渓谷の村──ノイエ。
高い崖と崖の間にへばりつくように家々が並び、空は細く切り取られた青。
谷の朝は、風の音で始まる。
「ヒューッ」と鳴るのは、崖の上から落ちてくる風が岩肌をかすめる音。
それを聞いて、村人たちは「ああ、今日も崖は機嫌がいい」と言う。
朝一番の仕事は、崖の草刈り。
傾斜のきつい岩に生える薬草は、谷の貴重な資源。
村の少年ルッカは、今日も腰にロープを巻いて斜面にぶら下がる。
「ルッカー、崖下からヤギが見てるぞー」
下から叫ぶのは村の少女ミレイ。彼女はいつも谷底で小さなヤギを放牧している。
ヤギたちは断崖絶壁を歩くのが得意。なのに、よく帰り道を忘れてミレイに連れられて戻る。
昼になると、谷に陽が差し込む。
短いその時間に、村人たちは広場に集まる。
谷の中心に吊るされた風鈴たちが、風を受けて澄んだ音を鳴らす。
それを聞きながら、誰かが作ったキノコスープをすする。
渓谷のキノコは岩の影で育ち、香りが強くて栄養満点。
「ここの谷風で育ったキノコは、他のと味が違うのよ」
と、村の年長者が言う。
午後は各々が好きに過ごす。
ルッカは自分で作った風の羽で崖の上を目指す。風をつかまえ、少し浮いた……ような気がして、またすぐ落ちる。
ミレイはヤギに笛を吹いている。ヤギは音に合わせて首を振るだけで、踊っているわけではない。
でも、それでいい。ここではそれが“踊り”だ。
夕方、谷に陽が落ちると、一気に気温が下がる。
その合図で、みんな家に戻る。
小さな家には風除けの布が張られ、岩塩のランプが灯る。
そして誰かが言う。
「今日も、風は優しかった」
そうして谷は眠る。
ノイエの暮らしは、冒険も戦争もない。
でも、風と岩とヤギと、きのこのスープがある。
そんな静かな日々こそが、この谷の宝物だ。