仮 一章
この声が誰かに届くことがあるのかは知らない。知らないが声を上げる以外に私を救う方法が分からなくなった。この物語に捧げるものがあるとすれば空虚さだ。
六畳間の一室に住み着いた私は熱心に何かを書き込んでいる。外では雨が降っていて、室内の湿気が高かった。私の頭の中では、改札を通り抜けるサラリーマンと、どこかの荒野で歩いている青年がいる。
ネクタイを締めながら駅内の公衆トイレにある鏡を睨んでいる高草は、電車の発車時間ギリギリを狙いながら乗り込もうとしている。
昨晩磨き上げた革靴で勢いよく改札を抜け、三番線の階段を一段飛ばしで駆け上がり電車に飛び乗ろうとする彼は迷惑乗車で有名だった。
青年は歩いている。ここがどこかもわからずに。
青い空と地平線。それしかない。自分の記憶を探ろうとする。何も思い出せない。
思い出そうとしているかもわからない。歩きながら空を飛ぶ鳥を見た。十羽の鳥が私の頭を越していく。
自分の服装を見た。黒い帽子に青いズボンと黒のポロシャツ。後は汚い靴。
私は冷蔵庫から空のペットボトルを持ってきて野球の打者がするような素振りを始めた。
高草は電車に乗れた。駆け込み乗車はお止めくださいと語気の強いアナウンスと共に。
スマートフォンをいじりながら、乗車したドアに背中を預けている高草は四つ先の駅で降りた。
駅前の居酒屋に入って生ビールを頼む。スマートフォンのメモ機能に今日あった出来事をメモしていく。
起床時間6:00
乗車時間7:14
帰社時間17:59
来店時間20:04
ビールを飲みながら店内を見回す。会社の上司と後輩、同僚同士。高校、大学時代の友人同士。
性別も年齢も見当がつかない。高草はビールを飲み終え店を出る。
青年はまだ歩いている。
弱い風と自身の汗が心地いい。
自分が何なのかわからないまま歩いていく。
終わらないまま歩いていく。ただ歩く。
私は付き合っていると思っている彼女と映画を見ている。三度愛が邪魔をするというラブストーリーだ。
その主人公とヒロインが別れるシーンで私の横に座っている彼女は泣いている。私は彼女の手を握ろうとしたが、彼女はハンドバッグからハンカチを取り出した。
私は何とも言えない表情をしただろう。
映画を見終えて駅で彼女と別れてから自室に籠ろうとする。
雨が降っていた日から久しぶりの外出だった。
高草は深夜のランニングをしている。
頭の中に浮かんでくる数字と数字を足したり引いたりしながら。
腕の振りをリズムで刻みながら呼吸のタイミングを図っていく。
走りながら時々声を出しながら呼吸をする。
はっ!!、ふっ!!みたいな声だ。
爽快さに身を任せ、目的地も分からずに高草は走り続ける。
青年は歩く。
私は喫茶店でコーヒーを飲んでいる。彼女と別れた。恋人として別れた。
本を読むと、気が紛れる。
高草は会社の同僚と昼食を食べている。
「大した案件じゃないのに何でこんなに時間がかかるんだろうな。」
「部長の古い友人が進捗にあれこれ口出してるんだよ。現場は振り回されっぱなしだよ。」
同僚はプログラマーとして入社して七年経つ。
「なぁ、こっちに戻ってきてくれよ。」
「上司が変わればぜひともね。昼間にする会話じゃないぜ。今日も残業だろ?またいつか会おうぜ。」
青年はある場所にたどり着く。人の集落のようだ。
一人の少年が青年にしゃべりかけるが、青年は言葉が分からなかった。
身振り手振りを使ってもうまく伝わらないまま、少年に手を引かれ、青年は連れていかれる。
植物の大きな葉で出来た屋根に木で作られた床の簡易住宅があった。
その中から、杖をつきながら老人が歩いてきた。
皺が顔中に刻まれていて、何歳なのか図れなかった。
「ここにいるといい。」
しゃがれた声でそう言った。
青年は言葉の意味が分かった。
「今のは何語なんですか?」
「日本語だよ。」
そのうちに記憶が戻ることを老人は知っているようだった。
私は大学生だったころを思い出していた。夜まで飲み歩いて路上で寝っ転がったこともあった。
よく卒業できたなと思っている。断片的で嫌な記憶が断続的に続く。
友達が一人だけいた。そいつとの出会いはもう覚えちゃいないが、授業を受けるときはいつも一緒だった。
バイトも一緒だった。妙に気が合ったんだろうな。
久しぶりに連絡を入れてみたいと思った。
「久しぶり、元気?」
返事はすぐに来た。
「おう、久しぶり、どうした?」
「なんとなく、思い出してね、今何してるの?」
「社畜だよ。お前は?」
「僕は何もしてない。」
「そっか、今度飲みに行くか?俺のおごりだ!」
「いいね、また連絡するよ。」
私は読書を続ける。
高草は職場の休憩室に籠ってアイコスを吸いながら次のアポの確認をしている。
プログラマーを外れて営業に回ったのは一年前。当時の上司が高草に対して暴言を吐き続け人事に相談をしたことがきっかけだった。対応の速さに驚いたが、今のご時世パワハラ、セクハラなんてあっちゃならないらしい。
青年は集落まで水を運ぶ。働かなければここに居場所は与えられないと老人が言っていた。
「ここはどこなんですか?」
「さあな」
老人は知らないことは知らないと言った。だが、君のことは少し分かるとも言った。
「少なくとも君は日本人だ。」にやりと笑いながら言った。




