斜陽
首のあたりに軽い衝撃が来て、視界がグワングワン回転した。つまり俺の首はゴロゴロと勢いよく転がった……のだろう、たぶん。生首なんて初体験だがおそらくそうだ。ガツガツべちべちと硬い床がぶつかってくる。痛みは無いが、衝撃そのものがひどく鬱陶しい。俺の大事な脳細胞が減ってしまうだろどうしてくれるんだ。
不意に頭が柔らかいものに挟まれる感覚がして、ようやく世界は回ることをやめた。
「ご無事ですか、あるじ様」
ガンマン女の声だ。先ほどまでの、俺に対する取り付く島もない素っ気ないものとは違う。それは、純粋に主の身を案じる、忠誠心に満ちた声だった。
「忌み子は処した。……最初からこうするべきだったか」
クソガキは真っ赤に染まった杖をだらりとさげたまま、今朝の朝食の出来でも評するかのように言った。その傍らには、ダラダラと血を流し続ける首無し死体が横たわっている。
あの首無しは、俺だ。
あー……これはヤバいな。首チョンパか。それはさすがにまずい。ようやく事態の深刻さを理解してきた。手遅れかもしれないが。致命傷……いや即死だ、普通に考えるなら。
だが俺はノーマルではないスペシャルな身体のはず。
まずは……止血だ止血。切れて死ぬのは血が流失するからだ。血管にナノメタルを詰まらせて塞ごう。それから……酸素だ酸素。酸素が無いと肉体は死ぬ。まず真っ先に脳からだ。
普通なら死ぬ状況でも、ナノメタルが血液とともに流れる身体ならなんとかなる。ナノメタルとは回路の力を発揮させる触媒であると同時に、あらゆる物質に変換可能な万能素材だ。酸素不足に陥った組織内で、ナノメタルをダイレクトに酸素へと変換させるのだ。失われる血液を補充するのでは遅い。気泡が生まれてしまうのではないかなどと心配をする必要はない。この働きは運動時などにも無意識下に行われる基本回路だ。それを強い力で実行させるだけだ。
落ち着け、首チョンパなんて見た目のインパクトが強いだけで大したことはない。ただ胴体と頭との接続が断たれたというだけ。コクピットに砲弾直撃した衝撃で『マッサージ』されるほうがよほど深刻だ。パニックになるな。
そのとき、クソガキが俺の体にむかって身を屈めた。しまった、まだ生きているのがバレたか? 回路の力を抑えて死んだふりをしているべきだったか? そう思ったが違った。
細い枯れ枝のような手を手刀の形にすると、俺の胸にむかって無造作に突き刺したのだ。
手首まで、ズブリと抵抗なく沈み込む。そして、そのまま引き抜いた。
血に塗れたその手には、球体が握られていた。虹色の光沢をもつ銀色の球……コアだ。おいおいやめてくれよ。勝手に取るな。
「目的は果たした」
「この死体はどうなさいますか」
「用済みだ。此処ごと消去しろ」
俺の視界がまた揺れだした。生首コロコロほどではないが、アーマーの歩行動作時に揺れ補正をしていないカメラくらいの振動だ。そのとき初めて、この俺は──俺の首はガンマン女によって抱えられていたのだということに気付いた。
ガンマン女は脇に生首を抱えたまま、俺の体のほうへ近づいた。赤と銀の液体を流し続けている断面図がよく見える。グロい。喉のあたりの穴──気道がかすかに開いていて、僅かに空気が出入りしている。呼吸しているようだ。偉いぞマイボディ。ガンマン女の手がその襟のあたりを鷲掴みにして、ゴミ袋でも運ぶかのように、そのままズルズルと引きずっていく。
水上建築の端のほうへ。
これは……まずい、沈められる。これ以上はさすがにまずい。まずいぞ。断頭に対応するだけでも手一杯なのに、水没まで加えられるのはまずい。
無造作に宙へ放り投げられた瞬間、俺は死んだふりをやめて最後の抵抗で噛みついた。姿勢制御のために運動できる筋肉なんて生首には存在しないのでただの悪足掻きだったが、偶然にも歯が指に届き、釣られた魚のようにぶら下がることができた。
だがガンマン女は狼狽えたそぶりも見せず、淡々と振り払った。
「恨むなら、心無い月を恨め」
視界がふたたび回転し、ドボンと水に飲み込まれた。
↵
一瞬気絶していた。
気がつくと、キラキラと銀色の舞う無重力の空間にいた。まるで天国みたいな光景だ。それがナノメタルを豊富に含んだ湖の水中で、自分は首を斬られて投棄されて今まさに死にかけているのだということに気づくのに、少し時間がかかった。
気が遠くなっていく。血が、酸素が、体液が、生命のために大事なものが急速に失われていくのがわかる。俺は死ぬのだろうか。まあ首斬られたら普通は死ぬよなあ。今度ばかりはさすがに無理だろうか。
死ぬ前に最後に考えることってなんだろう。俺は何を思いながら死ぬのか。
リンピアのことを思いたい。アーマーのことを思いたい。だけどそんな意思すら根本から薄れていく……消えていく……
眠い………………
『助けにきたで、ジェーやん』
水中からヌッと箱が現れた。ちょっと目が覚めた。
最後に見るのが鉄の箱っていうのは、ちょっと嫌だなあ。そう思っていたら、なんと姿を変えた。
箱が開いて、中身が出てきたのだ。
現れたのは、長身の女だった。この体積がどうやって箱の中に収まっていたのか不思議だ。蛹から抜け出る蝶のようにズルリと体を伸ばし、俺に向かって手を差しのべる。水中に乱れる長髪がまるで溺死を誘う不吉な水精霊のようだが、眼には懸命な光があった。
『絶対に、死なさへんで』
湖が振動し、ふたたび激しく発光しだした。
↵
『それがキサマらの返答か……?』
いきなり明るい乾いた場所にいて、多数の人間のざわめきと、聞き慣れた声が響いた。
転移したんだ、たぶん。
だが視界がぼやけて良く見えない。脳が限界なのだろう。聴覚くらいしかうまく働いていない。
聞き慣れた声はしかし、初めて聞くような恐ろしい音色で、ビリビリと全身を針で刺されるような感覚も感じた。これは殺気ってやつか?
声の主はリンピアだ。
『よく分かった……命をもって償え』
怖い。リンピアが誰かを殺そうとしている。ざわめきの中には顔見知りのような声も混じっている気がする。
知人を殺そうとしているのか? ちょっと待て、事情を聞かせろ。あと先に俺を助けてくれ。
喋ろうとするが、口がパカパカと震えるだけで、舌すらマトモに動かない。生首なんだから当然だ。
そうだ、《通話》すればいいんだ。
『リン……こっちこっち……助けて……』
『!?!? ジェイ!? どこだ!?』
バシュンと音がした。これは赤兎が装甲展開してコクピットを解放した音だ、間違いない。高静音性のジェネレータ音もしていたことに気づく。
対光熱コーティング付きの軽量装甲が叩かれるタンタンという音、それから近くにズダンと何かが着地した音……リンピアが飛び降りてきたのか。猛烈な速度だ。
そして勢いよく持ち上げられる感触。
「嫌だ、嫌だ!! 死ぬな!!」
『俺は死なない……体が近くに……首つけてくれ……それでたぶん死なない……』
「体!? どこだ!!!!」
ブンブンと振り回される。俺を抱いたまま探しているのか。もっと優しくしてくれ、気が遠くなる。
体が近くにあることはかすかに感じられた。その方向を《通話》でなんとか感覚伝達すると、「あ、なんか倒れてるよここ」とリンゴの声がした。リンゴも居るのか。
「なんだこの女は!? どけ!!!!」
ドチャッと濡れた重いモノが転がる音がして、それからガツンと首の骨がぶつかる衝撃。
繋がった。
みるみる意識が回復し、思考がハッキリしてきた。途切れていた血管や神経束がナノメタルでガイドされて再接続し、温かく健康なフレッシュ血液がギュンギュン循環していくのがわかる。そうだ、俺の全身には8個のコアがある。1個は頭に、残りは胸に。1つ奪われてしまったが、胴体のほうにはまだ6コア残っている。1コアだけで脳という重要かつ燃費の悪い器官を生かし続けていたのと比べると、かなり余裕ができた。過負荷のかかっていた頭コアから、頭痛のような不快感が消え去る。ナノメタルも使い切れないほど有り余っている。過去に地底生活や野党狩りで溜め込んだナノメタルは、胴体のほうのコアに貯蔵されていたらしい。
全力で7コアをぶん回すと、あっという間に新鮮な体組織が構築されていき、首が蘇るのがわかった。手や脚、全身の感覚も戻ってくる。
「あ゙あ゙あ゙……ぐぐ、げ……だ、たすかった……」
ダクトテープでぐるぐる巻きにしたような銀色の首になったが、おおよそ回復した。安静にしていれば大丈夫だ。
「おまえはもう……ほんとにもう……」
蘇った視界に映ったのは、その場にへたり込むリンピアの姿だった。目の下には隈ができ、自慢の髪も乱れている。心配をかけさせてしまったようだ。
「ごめん……」
「にいちゃん、ギリギリセーフだったねえ。姉さま、もうちょっとで警備隊みんなをぶっ殺しちゃうとこだったよ」
「えぇ……」
俺がいるのは、ディグアウターギルド兼斡旋所の屋上だった。半開放的になっているオフィススペースには、大勢の荒っぽい人間たちが集まり、何かをめぐって騒然としている。
問題なのは、屋上に突き刺さるように立っている赤兎機だ。ギルドに集まる者たちを威嚇するようなポーズのまま停止している。街の中ではアーマーは原則、ジャンプやブースト移動を禁止されているはずなんだが。屋上の端のほうとか、壊れかけているし。修理費どうなるんだろ。
それに加えて、さっきの発言。リンピアはアーマーに乗りながら生身の人間たちに対してブッコロ宣言していたのか。あぶねえ。
いやそれより、セキトに見たことのない装備が追加されている。空欄だったはずの右肩に鋭い装甲のようなものが……強化レーダー装備か?
「にいちゃんがいつまでたっても帰ってこないからさあ、サジ兄ぃが千里眼したらこの地域一帯から反応無いっていうじゃん? ギルドじゃ警備隊も行方不明だって騒ぎになってて、でもその任務ってのがにいちゃんをラチるって内容らしくて、んで警備隊その1その2だけは落ちてきたんだけど肝心のにいちゃんはいなくて、そしたら姉さまが警備隊の拠点をアクティブスキャナーで全力照射しはじめてさあ……」
リンピアの肩を支えるリンゴが話すところによると、おおよそこういうことらしい。
俺だけがセントラルの中身に飛ばされたとき、途中まで一緒にいた警備隊第一と第二は、もとの大岩屋上に戻された。ただし、人間たちだけ。アーマーは消えていてどこを探しても反応がなかった。場所が悪く、人の脚で帰るのに時間がかかったらしい。
ギルドでは当然大問題になった。セントラルからの依頼が通ったのは、依頼主が領主だということもあるが、長年の細々とした取引上では問題がなく、信頼度スコアが良好だったからだ。だが俺が無事に戻らなければ、セントラルの評判は地に落ちる。そして警備隊にとっても、犯罪行為に手を貸したことになり、無傷ではいられない。
そこで暴れ出したのがリンピアだった。サジたちから俺が消えてしまったことを聞き、警備隊の失態を知ったリンピアは、強化レーダーユニットを急遽購入して強制調査を敢行した。ジャンク街の有力者たちが派閥ごとに出資してできた4つの自治部隊……その拠点に対してスキャンをかけ、俺の身柄がどこかに囚われていないかを確かめたのだ。分厚い岩盤や遺跡を調べるための探波。家屋の壁などたやすく見透かし、保護されていない電子機器や生身の人間には物理的影響すら与えるほどの強力なものだ。街中での使用など当然禁止のはずだったのだが。そうだ、最初に感じた殺気のような気配はこのスキャンのものだ。
しかし……なにもそこまでしなくてもいいのに。『命をもって償え』なんて……殺すなんて。隅まで調べて俺が居ないことが分かったのなら、警備隊の言い分を信じて、少しは様子見するだろうに。普段のリンピアなら。
「にいちゃんあれ見なよ」腑に落ちない俺に対して、リンゴが空を指差した。
街そのものが巨大な坂になっているジャンク街。その斜面の上方には、空が見えた。見上げれば空がある。それは当然のことだ──だがそれがおかしい。ジャンク街は大岩に寄りかかる坂の街。坂を登った先には、岩壁がそそり立っているはずだからだ。
大岩が消えている。
「マジかよ」
大岩は、飛んでいた。
目をこらすと、はるか彼方の空に、小さな黒い点となって浮遊しているのが見えた。地中に埋まっていたらしい、大根のような下部構造もろとも、謎の超技術によって空を飛んでいる。そして今現在も高速で遠ざかっている。
「つっよいバリアがあるらしくてさ、攻撃も接近も受け付けずに、飛び去られちゃったんだよね。そんなだからニイチャンは絶望的だと思われてたワケ」
攻撃っていうのは、やっぱりリンピアが斬りつけたり撃ち込んだりしたんだろうな。
リンピアは、ようやく落ち着いてきた様子で、バツが悪そうな顔をしてゆっくりと立ち上がった。
「おまえが悪い。勝手に変な場所へ行くな」
「そうだな。俺が悪かった」
屋上から下、ギルドでは多数の人間が騒々しく動いている。
満身創痍という風体の第一第二警備隊。装甲服の随所がボロボロになっている。浮上した大岩からなんとか脱出してきたせいだろう……リンピアによるものではないと思いたい。さっきまで最上級の脅しをかけてきていた赤兎機が静かになったので、彼らも安堵している様子だ。第一隊長のあの横柄男が、俺に向かって何か言いたげに、力なく睨んできた。マイク隊長は、やれやれといった様子で部下たちをなだめ、次の指示を考えている。
屋上に戦闘用アーマーが突き刺さるというのは、本来なら大事件のはずだが、今はそれどころではないらしい。
皆、大岩が飛んでいってしまったことで──セントラルという『寄りかかる壁』が無くなってしまったことで頭がいっぱいのようだ。防衛機能も、そしてある種の秩序も失った。これからどうなるのか。大岩に近かった高層部では崩落が始まっているようだ。あれだけの巨大物体が消えたあとには不安定で危険な大穴もできているのだろう。不安になった人々がギルドに押しかけていて、混乱の様相を呈している。
「誰にやられた? 何があった?」
「魔法みたいにデタラメな奴らだったな。洗脳みたいなことしてくるし、言ってることは意味わからないことばっかりだったし」
「……『超越者』だな。ジェイ、今後一切、くれぐれもやつらには近づくな」リンピアが、真剣な目で俺に釘を刺した。
「超越者?」
「超越者、あるいは支配者。文明を途切れさせず、過去の技術を保持し続けている者たちのことだ。理解も予測もできない動きをみせるから、関わるべきではない。お前ですら手に余る相手だ」
なるほど。たしかに理解不能だった。発掘品のような超技術力があるはずなのに土から作物を育てるという非効率極まりない光景。意味不明なことしか話さなかったクソガキ領主。呼びつけ、洗脳し、問答無用で命を奪うという理不尽さ。今後、超越者に対しては最大限の注意を払うべきだ。
「もうこんな心配をするのは御免だ。約束しろ」
「約束します」
結局、なぜ俺なのかという理由も目的もわからないままだった。冷酷な女ガンマン。ミイラのようなクソガキ領主。あれが本当に人間だったのか、俺達と同じ心を持つ存在だったのかも疑わしい。
いや……心については、完全に分からなかったというわけではない。
俺は口に残る鉄錆の感覚を……血の残滓を感じた。あのガンマン女の血。最後に噛みついた時のものだ。
血にはナノメタルが含まれる。ナノメタルは回路の触媒であり、回路とは意思の力だ。つまり血には意思が宿っている。通話回路に意思を添付できる原理を応用すれば、思考や感情をおぼろげながらも感じ取ることができる。
ただしあの時、彼女の血から俺に流れ込んできた感覚は……分析することはできたが……どちらにせよ、理解しがたいものだった。
あの女の中にあったのは、強く深い、哀しみと憐憫の情だった。
↵
:archivesystem//アーカイブ化視点移動
_同時刻
_エリアD1監視センター内部
_代替人類試験牧場
地平線に埋まりかけている夕陽により、麦畑はまるで自ら発光しているかのように輝いている。
遠く続く一本の土道を、ゆっくりと進むふたつの影があった。一人は、華美ながらも古風な服をまとった子供──この地の領主。その足取りは、屍人の行進のように無造作で無頓着だ。もう一人は、砂色のマントを羽織った女狩人。彼女は、領主の数歩後ろを、一定のリズムで淡々と歩き続けている。その視線は道の先と領主を見据え、揺らぐことがない。
やがて、道の先にささやかな広場が見えてきた。かがり火がパチパチと音を立て、収穫されたばかりの麦束が円形に積み上げられている。その中央で、原始的な笛の音と、乾いた手拍子がリズミカルに響いていた。粗末な木製のテーブルには、焼かれた穀物や木の実のパイが並べられ、小規模だが、心からの喜びに満ちた収穫祭が開かれているようだった。
領主と狩人の二人の姿を認めると、その素朴な音楽はひときわ高くなり、火を囲んでいた者たちが一斉に駆け寄ってきた。
その顔は人間のものではない。彼らは「農民」──すっぽりと被ったフードの奥から除くのは、黒く濡れた鼻先と、ぴんと張った長い髭、そしてつぶらな黒い瞳。
彼らは二本足で立ち、服を着て、農業を営む、ネズミだった。
「キィ! キィ!」「チュー! チュー!」
甲高い歓声が上がり、農民たちは領主と狩人の周囲を歓喜して取り囲むと、感謝を全身で表現するように、熱心な舞を踊り始めた。ピョンピョンと跳ね、お互いの手を叩き合い、尻尾を揺らすその動きは滑稽にもみえるが、確かに豊かな収穫への感謝と、彼らの主である領主への深い敬意が込められていた。
舞が一段落すると、ひときわ年老いたネズミが、おずおずと一歩前に出た。その腕には、小さな布のおくるみが大切そうに抱かれている。彼は領主の前に進み出ると、深く頭を垂れ、祈るようにそれを差し出した。
布の隙間からは、まだ目も開いていない、ピンク色の小さな小鼠の顔が覗いている。チィ、という儚い鳴き声。今月生まれたばかりの赤子だ。来年以降の将来を担う、農民たちの希望。
この子に領主からの祝福を授けてほしい――その仕草は、言葉がなくとも明らかだった。
領主は、その差し出された小さな命を、無感動なガラス玉のような瞳でじっと見下ろした。農民たちが、固唾を飲んで言葉を待つ。焚き火の爆ぜる音だけが、やけに大きく響いた。
やがて、領主はゆっくりと口を開いた。その声は、黄昏の静けさの中に、何の感情も乗せずに響き渡った。
「わたしの愛しい擬き子たちよ。おまえたちにもう、用は無い」
その言葉を合図にして、何かが切り替わった。
笛を吹いていたネズミの手が、その途中の音階で凍りついた。手拍子を打っていた農民の掌が、合わさる寸前で空を掴む。
おくるみを差し出していた老ネズミの黒い瞳から、光が消えた。彼は糸が切れた操り人形のように、カクンと膝から崩れ落ちた。続いて、歓声を上げていた他のネズミたちも、踊っていた者も、酒を注ごうとしていた者も、一切の抵抗も、悲鳴一つ上げることなく、その場に折り重なるように倒れ伏していく。異変は広場だけではない。麦畑の奥で、まだ黙々と収穫作業を続けていた農民たちの影もまた、その動きを同時に止め、抱えた麦束と共に、大地へと沈んでいった。
音が消えた。笛の音が絶え、篝火は倒れて闇に染まり、大地を踏む足音は無く、それまでかすかに聞こえていた虫たちの羽音すらもが、ぴたりと止んだ。墓場のような静寂がおりた。まるで世界そのものが呼吸を止めたかのような、完全な沈黙だった。
「書記官が盗み見ている」領主は眼前の光景などまるで無かったかのごとく呟いた。「ほとんど復活したか。適当なセリフを吐いて追い払っておけ」
狩人は、その一部始終を、ただ黙って見守っていた。彼女の指は長銃の柄に軽く触れていたが、それは警戒からではなく、単なる癖によるものだった。広場を埋め尽くす動かなくなったネズミたちの亡骸にも、その引き金となった幼い領主にも、眉一つ動かすことはない。まるで風が麦の穂を揺らすのを眺めるかのように、ただそこに立っていた。
領主は広場の真ん中で小さなため息をつき、「疲れた。抱け」とつぶやいた。そして静止した。その場で微動だにしなくなった領主を、女狩人は何も言わず、手慣れた仕草でそっと抱き上げた。まるで疲れて眠ってしまった実の子を運ぶかのように、小さな体を腕におさめる。無抵抗にまるまった領主の掌の中には、虹の光沢をもつ銀球があった。
「おやすみなさいませ、お嬢様」
死の広場に背を向け、再び長い土道を踏む。
狩人は、遠く沈み細まりゆく太陽にむかって歩き続けた。
闇を広げつつある夜空に、月は無かった。




