無知
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リンピアと男女の仲になった。
なっていたらしい。
実は、俺はそのことに気づいていなかった。
初日、彼女がどんな覚悟で部屋に来たのか、その夜の重要性についてまったく理解していなかった。
髪を梳いただけだったからだ。
「ジェイ、その……髪が、乾かなくてな。手伝ってほしいんだが……」
俺の部屋に立ち、リンピアはそう言った。言葉通りの様子ではなかった。肩に力が入っていて、その目はまっすぐこちらを見据えていた。そのわりに、いつもよりずっとか細い声だった。
肌が透けるほどの薄着姿。それは普段の服装とは似ても似つかない、柔らかな布地の、いわゆるネグリジェに近いものだ。彼女の小さな身体のラインが、いつもよりずっと生々しく感じられた。
俺は戸惑って疑問を口にしたが、リンピアは「乾かすのを手伝ってくれ」という言葉を、まるで呪文のように慌てて繰り返した。そのあまりの必死さに、かえって俺の方が冷静になったのを覚えている。
素直にタオルを手にとり髪を拭いてやることにした。ほどよくシットリとした髪。半ば乾いていて、明らかに手伝いは必要なかった。今にして思えば、そういう『決まり文句』だったのだろう。
「次は、髪を梳くのを手伝ってくれないか」
タオルでの髪拭きが終わると、今度はそう頼まれた。少しだけいつもの調子が戻ってはいたが、声はまだ上ずっている。
手渡されたのは、黄金色に輝く櫛。細かな装飾のほどこされた、実に見事な工芸品だった。金は前世地球ほど貴重でも高価でもないのだが、これが特別な品であることは一目で分かった。
リンピアは、おそるおそるといった仕草で俺のベッドに腰かけると、うつぶせになった。そして、俺にも隣に寝転ぶよう、小さな声で求めた。そのままの体勢で髪を梳いてほしいらしかった。「肘はこうついて」「梳く方向はこっち」「ゆっくり、五回」……やけに細かい指示が飛ぶ。
俺の頭の中は疑問でいっぱいだったが、だんだん慣れて楽しくなった。
長い髪を整えるのが、単純に新鮮だった。リンピアの豊かな髪はいじり甲斐があった。甘い香りがした。コンディショナーのものではなく、しかし普段の彼女のものとも少し違う。俺の知らないリンピアの匂いだ。とてもいい香りだった。
丁寧に、優しく、もつれを解くように櫛を動かす。リンピアは身じろぎもせず、ただ俺の手に身を任せた。時折、満足げな、小さなため息が聞こえてきた。
どれくらいの時間が経ったか。彼女の広大な髪を梳かし終える頃には、リンピアは俺の隣で、すうすうと穏やかな寝息を立て始めていた。その寝顔は、ひどく無防備で、そして今まで見たどんな表情よりも愛らしかった。
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で、そのまま寝た。
眠ったという意味だ。
子守をした気分だった。あるいはよく懐いた犬を撫でながら寝るような。
俺にとってはそういう夜だった。
彼女にとっては全く違う意味があったということを、翌日知った。
『ニイちゃん、お姉様とは最近、どう?』
昼ごろ、リンゴから遠話通信が入った。俺はまだガレージで寝転がっているときだった。
リンピアは朝から上機嫌で出かけていた。自信に満ち溢れた顔で、元気いっぱいだった。
そう素直に返答すると、ものすごく大きな溜め息が返ってきて、そのまま切れた。
『テメエおいコラ糞玉無し野郎、テメエの〇〇〇〇には〇〇〇〇ちゃんと付いてんのか!? テメエの〇〇〇〇は〇〇〇〇の〇〇〇〇かァ!?』
回収屋の女船長から、意味不明な遠話通信が入った。以前の仕事のあともたびたび情報交換はしていたが、あくまでビジネスライクな内容だった。プライベートなことをわざわざ遠話してくるのは珍しい。
感情的に怒鳴った後、女船長は一転してやけに落ち着いた口調で、なぜか『女の口説き方』を説明し始めた。押せばいけるとか、酒をたらふく飲ませろとか、かなり野蛮な方法だったが……
俺もさすがに察しつつあった。
その日の晩。
リンピアはガレージのテーブルいっぱいに酒瓶を用意し、俺に飲むように勧めてきた。服はすでに昨夜と同じ薄着姿だった。
なぜか事あるごとにショルダータックルを仕掛けてきた。
酒をやたらと勧めてきた。
『暑くないか?』と言ってしきりに俺の服を剥ぎ取ろうとした。
俺は全てを理解した。
腹をくくり、覚悟を決めた──おそらく、タイミングとしては致命的に遅かったのだろうが──とにかく、これ以上、眼の前の女性に恥をかかせるわけにはいかないと固く心に誓い、行動に移したのだった。
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その日から、リンピアと明確に男女の仲になった。
俺の日課が増えた。
朝、リンピアの髪をとかすこと。
夜、リンピアの髪を洗うこと。
眠る前、リンピアの髪と頭を撫でること。
その他、恋人らしいことを諸々。
後日、リンピアから改めて聞いた話によると、ドワーフ族にとって、髪と髭は特別な意味を持つらしい。
女の髪に触れることを許される男は、夫だけ。
男の髭に触れることを許される女は、妻だけ。
それを知って、俺はようやく、自分がしでかしたこと――というより、リンピアがどれほどの想いを込めてあの夜、俺の部屋を訪れたのかを、本当の意味で理解した。
整髪剤の類を異性に贈ること……男が女性に髪を手入れさせるということの重大な意味を理解した。
リンゴと女船長が遠話をかけてきた理由もわかった。たしかに『女友達』ならあんな電話をかけてくるのも当然の反応だったのだろう。
だが、少しだけ言い訳もしたい。
最初の夜、リンピアは本当に、心から嬉しそうだったのだ。初めこそ全身を強張らせていたが、俺が髪を梳き始めると、次第に力が抜け、うっとりとした表情で、満ち足りた吐息を繰り返していた。
朝目覚めたときも、まぶしいほどの笑顔だった。だから俺も、そこで完全に誤解してしまったのだ。見慣れない薄着は単なる寝間着で、昨夜の彼女の行動は、もしかしたらホームシックか何かで、俺が優しく接したことが正解だったのだろう、と。そこで満足してしまい、それ以上の進展を考えることもなく、結果として理解が致命的に遅れた。
もちろん、ドワーフとて毛をいじるだけで男女の営みが完結するわけではない。文化的に髪と髭が重要視されるというだけで、肉体的な構造は基本的に人間と大差なく、やることはやる。
リンピアは、その『やること』をやるつもりで、俺の部屋へ来た。だが俺は、その『やること』をやらなかった。にもかかわらず、リンピアは満足した。
なぜそんな矛盾があったのか。
推測はできる。
ある仮説が、俺の頭の中にはあった。不完全だったはずの初夜を過ごしたリンピアが、それでも不機嫌になるどころか幸せそうで、しかし『女友達』は俺の鈍感さに業を煮やし、そしてリンピア自身が正しい再チャレンジを試みる――その一連の出来事すべてを、つじつまが合うように説明できる仮説が。
だが、それはリンピアの名誉にとっては何一つ益のないことであり、結局のところ、俺がどうしようもない朴念仁でニブチンの〇〇〇〇な〇〇〇〇である事実に変わりはない。ブレインエディタにでも食わせて、記憶の彼方へ永久に葬り去っておくべき話だ。




