第七話 じんせいラーメン
それから毎朝彼女の部屋をノックして出掛ける挨拶をするものの返答はない。有希は部屋に閉じこもってしまったままだ。顔を合わせることも拒否された。
陰鬱な気持ちを背負ったまま会社に行くととんでもないことになっていた。
日之出氏が手をつけた女たちは結託して、俺に遊ばれた事実を会社へ訴えたのだ。会社から促され俺は数日後に自主退社させられた。
その旨を有希の部屋の前で報告したが返答はなかった。
しかし、どうやら食事は取っているようで、俺がいない間にキッチンに降りているらしい。
彼女が会ってくれない数日が過ぎた。
会社に行かなくなった俺は、部屋に閉じこもって、たまに廊下に出て彼女の部屋をノックする。
「なあ、有希。話さないか?」
だがいつものように返答はない。そりゃそうだ。ここにいるのは赤の他人。彼女の伴侶ではないのだから。
俺は意を決してもう一度部屋をノックした。
「有希。君を愛している──。だから哀しんでいる君と一緒にいられない。俺、出て行くよ」
彼女に伝えて俺は部屋に帰り、荷物をまとめた。その時──。
「待って!」
彼女の言葉。そして部屋から出て来て、ドアを背にして黙ったまま。だが俺にはそれで充分だった。彼女を見つめて微笑んだ。
だがその時。玄関のドアが開き、四人の黒服を引き連れた俺と同年代くらいの男が一人。そいつは黒服に命じた。
「いたぞ。捕まえろ!」
俺は訳も分からず抵抗も出来ないまま、動きを封じられリビングに正座させられた。
「光朗くん。随分手間をかけてくれたね」
「お前は誰なんだ」
「は? 随分だな。義理の兄、真成寺佳孝だ」
有希は顔を赤くして叫ぶ。
「兄さん!」
「有希。コイツは八股の不倫をして会社をクビになり、愛人と結託して真成寺家に害を成そうとしていたんだ。愛人はすでに別の横領の罪で逮捕されたよ。コイツも本来なら警察に突き出してやるところだが、有希と離婚して惨めに家から出ていくことで勘弁してやる」
そういって俺の方に視線を落とす。その目は憎悪に燃えたぎっていた。そうか。羽良美和子は捕まったんだな。
「やめて! 勝手なことしないで!」
「有希。子供じみた憐憫の情はやめろ。お前は騙されていたんだ。こんな奴、野垂れ死ねばいいんだ!」
そういって佳孝は俺の目の前に、有希の名前が記入された離婚届を突き付けてきた。
「右手だけ解放してやる。ペンと判はここだ。さっさと書け」
「ダメ! 書いちゃダメ!」
有希も男達に押さえられながら叫ぶ。だが俺はそこに自分の名前を記入した。
「これでいいか?」
「結構だ。じゃ、10分だけ荷物をまとめることを許そう」
俺は解放され、二階へと上がる。
「光朗さん……」
有希の声だ。だが未練を断たなくてはいけない。俺はサイフとスマホを日之出氏のバックに入れて部屋を後にした。
そして有希にすれ違いざま言葉を漏らす。
「──これでよかったんだ。幸せになれよ。有希」
「光朗さ……」
俺は家を出ていった。
◇
日之出氏のバックの中には例の三億円の預金通帳が入っていたことに後から気付いた。考えた挙げ句それを使って、ラーメン屋の居抜き物件を買った。
もちろんラーメン屋を始めるつもりだ。有希が食べてくれた塩ラーメン。道具を買って、日々研究につとめた。
季節が巡り、夏が来る。その時には満足いくスープが出来た。感動して仕事場でそのまま眠ってしまった。
◇
「まったく。こんな結果になったか」
「──あの時の神様」
そこにいたのは転生させてくれた神様だった。呆れた顔をしている。
「悪いと思って、子どもが出来たら前のお前の遺伝子を引き継げる体にしてやっていたんだぞ?」
「そうなんですか? もうどうでもいいですけど」
夢の中? 周りは俺の仕事場だ。スープが煮立っている。
「神様。店をやろうと思うんです。ラーメンの味見てもらえませんか?」
「あのな。儂は暇じゃない。それに神には人間のような味覚はないのだぞ?」
「まあそう言わずに」
神様の前に塩ラーメン。有希に作ったあの頃の味にさらに改良を重ねたものだ。神様は苦笑した。
「やれやれ。お前とはもうこれきりだ。自分で選んだ人生しっかり生きよ」
神様が遠く離れてゆく。
「ちょっと神様! 味は? ドンブリは?」
「神をなんと心得る。さっさと目を覚ませ!」
俺は現実に引き戻される。光溢れる世界へ。だがその瞬間、確かに聞いた。
「旨い!」
俺が目を覚ますとそこは夏の日差しが降り注ぐ、ドンブリを一つ失った店の中だった。
◇
『八月一日開店。オープン記念100円ラーメン。二百食限定』
開店当日。チラシを撒いた。朝からドキドキ。値段のためか開店前から大行列。家族連れまで!
味には自信あるぞ。神様に旨いと言わせたんだ。店名は『神声ラーメン』。
しばらくは塩ラーメンしか提供しない。だんだんとリピーターとメニューを増やしていくぞ!
数をこなしていく。忙しくて大変だ。汗を拭き、水を飲み、多忙に有希を忘れるんだ。
「ごちそうさま。ありがとう!」
「まいど!」
「旨かった。また来るよ!」
「ありがとうございます!」
「会社が近いんだ。利用させてもらうから」
「よろしくお願いします!」
「画像撮ってSNSに上げてもいいですか?」
「いいですよ!」
「表のお姉さん可愛いね。奥さん?」
「ありがとうございます!」
食器を洗い、水を提供し、麺を茹でて気付く。
ん? 表のお姉さん?
忙しい中、客をかき分けて外に出た。
そこには店の軒下にパラソルを広げ、ウォーターサーバーから紙コップに水を注いで行列の客に水を配る有希の姿。
三角巾に割烹着。見事な料理屋のオバチャンスタイルだ。
「はい、いらっしゃいませー。いらっしゃいませー」
「──なにやってんだ有希」
「あ、光朗さん」
「お前はこんなところにくる女じゃないだろう」
「別に。勝手に出て行って何言ってるの? 私は押しかけ女房よ」
「はあ?」
「ちゃんと真成寺家を勘当されてきたの。ウチよりあんな男をとるのかって大変な騒ぎよ。ここに置いて下さい」
「え。だってお前……」
「急に気持ちが落ち着くわけないじゃない。確かに最初は驚いたわ。大好きだった光朗さんが違う光朗さんになったんだもの。でも気付いたの。私が好きなのは……大好きなのは、ここにいる光朗さんなんだもの!」
有希の言葉に涙が溢れ言葉が詰まる。客からひやかしの声。俺は有希の手を握った。
「もう一度結婚してくれるかい?」
「うふふ。私、バツ一なんですよ?」
「知ってた」
「うふふ」
彼女を強く抱くとドッと周りが湧く。炎天下の中俺たちは抱き締め合った。
もう一度、俺たちはスタートする。
初めから──。