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思い出の街並み

作者: 蛍火栞

登場人物

私(相模):SNSでちょっと有名な美人コスプレイヤー 私立大講師

小桜:相模憧れのコスプレイヤー

辻堂:コスプレカメラマン

萩園:私の大学時代の恩師で上司



空はねずみ色、自宅のある14階は遮るものが何もないせいか耳障りな風の音がする。

冬は熱くないから好きだ。


高校受験も無事終わったくらいの寒い週末、友達に誘われて初めて行った池袋。

最寄り駅から都心に伸びる鉄道の終着駅は終点は池袋だった。

知ってはいたけれど、一体どんなところだろう。

胸踊らせながらすこし暑い電車のシートに揺られていた。

鈍行に揺られながら50分。

着いたそこはそびえ立つサンシャインシティ、見渡す限りの都会のビル群、サラリーマン、学生、人、人、人…。

見渡すすべてが新鮮で輝いていたように見えた。


高校時代はあっという間に流れ去り、あれよあれよと大学受験。

都内の国立大学に無事合格、通学は池袋乗り換え。

私にとっての池袋は夢の大都会から生活の一分になった。


授業も空きコマが増え、池袋で遊んで帰るのが日常になったある日。

サンシャインシティでのコスプレイベントに遭遇した。

「すごい…。」

ぼそり、呟いた。


池袋という街でコスプレという単語を目にしない日はあまりない。

思い返せば、大学内でもオタク層は存在感を放っていた。

自分の研究室の隣のサークル棟には文化系サークルがひしめき合い、通路には漫画やイラストが貼り出されていた。

理系男はオタクが多い。

そんなテンプレートのような文化棟。

アニメやゲームが子供っぽくて恥ずかしいなんて思ったことはなかった。

美少女アニメのキャラクターやゲームキャラはかっこよかったり可愛かったり、すごく憧れてはいた。

こっそりフィギュアを部屋に飾っていたり、漫画も読むしアニメも見ていた。

いわゆる隠れ、だった。

そんな私にとってコスプレははるか彼方の存在だった。

ほんの数分前まではそんなことを思っていた。


現実に見た憧れの存在に思わず携帯のカメラで声をかけ、撮らせてもらったコスプレイヤーさん。

SNSのアカウントが書かれた名刺も勢いでもらってしまった。

自宅に帰って開いたアカウントのページには別世界が広がっていた。

気づいたときには、週末食事に行く約束までしていた。


そこからはあっという間だった。

メイクもままならず、衣装も既製品でサイズも合わなかったこともあった。

そんな時代を経て青春をすべて注いだコスプレ趣味はすでに生きがいとまでは言わないものの、生活に必要なことになっていた。


「相模、私さ…今度結婚するんだ。」

「え…ほんと!?おめでとう!」

私をコスプレの道へ踏み入れた小桜の突然の結婚報告に驚きつつも祝福した。

「ごめんね、なんか、突然こんなこと言って…。」

「ん?え?なんで?おめでとうじゃん!」


小桜と別れ、池袋駅のホームへと向かう。

百貨店はすでに冬商戦へ向けて準備万端となっていた。

陽が落ちれば少し肌寒い。

こんなときに地下駅はいいなと思ってしまう。

どうせ3駅、その後バスで10分、立ったままでも平気な時間だった


初めて会ったときは水泳部の高校生に恋する乙女だったのになぁ…。

あれ?バスケ部だっけ…。

でも、最初に会った姿は黒の剣士だったのは今でもはっきり覚えている。

今でもずっとスマホの中に入れている。


「ただいまー。」

帰っても誰もいない一人暮らしのマンション。

幼い頃からの習慣は未だに抜けず呟く。

駅からは遠いけど、職場には近い。

半分冗談で仕事先の住宅補助が使える最大額の賃貸物件を申請したら通ってしまい、以降住み続けている。

お気に入りは、窓から見える池袋のビル群だ。


家に帰ってシャワーを浴び、ノートパソコンを小脇に抱えて部屋の片隅へ。

リモートでダウンロードしておいた先週のスタジオ撮影の写真だ。

Photoshopを立ち上げ写真を読み込んでいく。


うんうん。

いつもいい腕だな〜カメラマンさん。

いつも撮ってもらっている気心しれたコスプレカメラマン、辻堂の写真だった。

んーでもここのフェイスラインは削って…あ、わかってるねぇすでに加工済み。

40過ぎて独身コスプレカメコ…。

この業界では珍しいことではない。

ただ、割と私がコスプレ始めた頃から長く撮ってもらっているだけあって私の気に入らない部分、いい角度を心得ていた。

ただねぇ…”いいカメラマン”で”それ以上でもそれ以下”でもないんだよね…。

見繕った4枚をTwitterのタイムラインに上げる。

またたく間に通知欄が表示を諦めるまでは伸びていく。

そうなったらもうTwitterは見ない。

あ、来月の合わせの衣装相談が…

あぁあああ…レイピアの装飾外れてたんだった…瞬間接着剤固まってる…明日買って帰らないと…

そういえば今日からフィギュアの通販が…

そんなことをしているといつも時計はてっぺんを超えて深夜アニメの放送時間。

だめだ、明日は学会発表の学部打ち合わせだから早めに行かないと。

そんなことを考えてふと最後に見たTwitterの投稿に目が止まる。


小桜のプライベートアカウントだった。

小さなダイヤモンドのついた結婚指輪。

左手薬指に光る宝石は黒の騎士とは正反対の光を帯びていた。

黒の騎士と閃光の騎士は男女ペアの最強の冒険者だ。

「キレイ…でも、閃光は私の十八番なんだけどなぁ…」


そんなことを想いながら紺色の箱とライターを手にベランダへと出る。

最近は税金も上がって吸う場所も減った。

ほぼ家のベランダ以外では持ち出すのも億劫になった。

私と付き合いの長い人でも家に来たことある人以外は私が吸うことすら知らない人のほうが大多数のはずだ。

何日も吸わない日だってある。

でも、手放せないでいた。


小桜が結婚した。

私もきっといずれは誰かとするのかな。

最近はなぜか彼氏がいてもネット上では言わない人が多い。

でも、だいたいみんな知っている。

この前の合わせに来た高校生も。

昔よく池袋で遊んだ友人ももれなく既婚者になった。


私、どうしたらいいんだろう。

そんな気持ちを煙のように霧散させてくれるほど煙草は便利な道具ではないらしい。

最後に話した職場以外の異性。

カメラマンも含んでいいのだろうか。

いつもは1本のところ、3本吸って部屋に戻った。

スリープ状態のパソコンを立ち上げ、一生打つことはないと思っていた文字を打ち、手早く会員登録を済ませた。


世の中に数ある婚活サイトには、私のような人向けもどうやらあるらしい。

コスプレを辞めるつもりは毛頭ない。

少なくとも、今のところは…。

最低でも理解のある人でないと続けられないのはわかっている。

そう思い夢の中へと沈んでいった。



早朝からの出勤、1本電車が違うだけで車内は地獄の様相を呈してる。

郊外から社畜を大量輸送する列車網が、車輪に、乗客に負荷を掛け続けている。

それは女性専用車両でも大差はない。

一般車両より若干マシとは言え大量の乗客をこれでもかと押し込み進んでいく。


そんな車両に乗るのはゴメンだ。


わざわざそんな地獄を味わうために辛い受験戦争と院卒の学位をとったのではない。

まだまだ顔をミイラのように覆わなくてはならないほど風は冷たくない。

自転車通勤20分

推しと同じTREKのロードバイク、スピードを出すわけじゃないけどオブジェには高すぎる。

私の中のブームは去ったので撮影に使う機会はもうないと思う。


駐輪場で鍵をかけヘルメットを抱え職員棟への道すがら、後ろから聞き覚えのある声に振り返る。

「相模先生、お早いですね。今日は~よろしくおねがいしますよ。」

初老で無精髭に小太り、理学部教授で学部長、私の直属の上司だ。

「萩園先生、おはようございます。髭、伸びてますよ。」

「ん?あ、あーあーあー、忘れてたわ!いやね、一昨日から妻が~名古屋にでかけててねぇ…私は妻がいないと何もできないもんでねぇ~」

「それで、朝からの学部打ち合わせなんですけど…」

「えぇー、もう仕事の話かい…1本吸ってからでもいいかねぇ?1本上げるからさぁ…」

「仕方がないですね…」


私の喫煙を知る数少ない人間はこの萩園先生だ。

そもそもただの上司ではなく大学時代からずっとお世話になっている。

吸い始めたのも、この研究以外はまるでダメな教授の影響が大きい。

私が困ったことになると必ず現れ助け舟を出して、そして喫煙所へ去っていく。

一体いつ研究しているのか何年も一緒にいる私ですら把握していない。

ただ、教授の居室の棚にある恐ろしい数の特許と有名企業の社長と映る教授の写真はそれだけで只者ではない雰囲気を醸し出していた。


「先生は、いったいいつ奥さんと知り合ったんですか?」


学生が殆ど使わない教授専用と化している敷地隅の喫煙所で私はふと口を開いた。

「ん~?ん~、私から言うのも恥ずかしいけどねぇ。」

腕を組んで目を細め、くわえタバコをフラフラさせながら笑顔になって話し始めた。

紫煙か息かわからない湯気が鼻先を掠め空へ昇っていく。

今日は少し、温かい日になりそうだ。



「はぁああああーーー。」


眠気に耐え、私はよく頑張った。

だれか感動したと褒めてはくれないだろうか。

伸びに伸びた打ち合わせは昼を過ぎ2時になろうと言うところだった。

コンビニで栄養ドリンクとサンドイッチを買い込み、やっと遅い昼食のためにデスクに帰還したのだった。

置きっぱなしのスマホのランプが点滅し、鬼のような通知に気が滅入りそうになる。

通販の宅配済み通知、コスプレ友達からの衣装の相談、新着メールが14件、その他色々色々…。

その中のメール着信にサンドイッチに伸ばしたてが止まった。

これは…。

「いやぁーまいったまいった。予算申請出したと思ったら自分のところをすっかり忘れるとはねぇー!」

絵に書いたように頭をかき、タバコのニオイをまとった萩園先生が戻ってきた。

戻ってくるなり温めすぎて香りも味も最低レベルの泥水のようなコーヒーを注ぎデスクへと着弾した。

「相模先生?どうしたの?スマホの見過ぎは目に悪いよ???コーヒー飲む??」

はっと、現実に戻る。

「あ、いえ。なんでもないです。」

その日ベッドに入るまで、メールの文面が頭から離れなかった。

これで良いのか、結局その答えは出せないまま週末を迎えることになる。



服よし、メイクよし、スマホ充電よし。

キャリー…は今日はいらないんだった。

開催通知が来てから未だに悩んでいた婚活パーティは結局行くことにした。

何事も経験、そんなことを考えながらいつもは使わない神田方面行きの駅へと向かう。

「私服でご来場ください。ねぇ…私服で良かった試しなんて一度もないじゃない。」

メールで開催時間と場所を再確認。

日にちも時間も間違えていない。

私服参加、男性5000円、女性3000円。

主催は某出版社、オタクだって結婚したい!そんな安直な婚活出会いパーティ。

通知によると参加者は30名ほど。

年齢がとか容姿がとかはどうでも良かったが、一番の心配は顔見知りがいないかという点だった。

「でも今日は池袋のコスイベあるし…。」

独り言、いや、祈るように改札へと歩く。

久しぶりに履いたヒールは普段よりかなり低く感じた。

お昼はどうしようかな、朝も食べる気しなかったしなぁ…。

マスクでくぐもった声でホームへの入線を伝えるアナウンスが響き渡る。

しばらく秋晴れが続いていたのに今日は夜から雨が降るらしい。

冬は、もうそこまで来ているのかもしれない。



待合室は男女別にパーテーションで区切られていた。

ざっと見る限り私より若い子たちばかりだった。

こんなところで自分の年齢について考えることになるなんて思わなかった。

きっと、ここにいる皆わかって来たんだろう。

そう思いたい。

イケメンの擬人化刀もラッパーの医者も居やしない。

居ないからいいのだ。


時間が進むにつれて、だんだんと冷静さを欠いている自分に気づいた。

別に今日必ず決めなければいけないわけではない。

以後会うかは皆様にご一任いたします。

そう、司会の方も言っていたじゃないか。

ふと、人混みの中に見慣れた顔が見えたような気がした。

きっとたまたまだ、他人の空似だ、そう思いたい。

目を逸らし反対方向へ目を向ける。

立食形式のパーティ。

いつでもどこからでも話しかけてくる人はいた。

3X歳商社勤務アニオタ、29歳同人作家、30歳車好き声優オタク…話す相手には事欠かなかった。

ここまでは良かった、だが最後に最悪な相手が来てしまう。

4X歳コスプレカメラマン…

他人の空似、そうであればどんなにいいだろう。

そう思って、願っていたのが間違いだったのかもしれない。


お前…なんでいるんだよ…


思っていたこと、口に出てしまったかもしれない。

喧騒の中で、聞こえてしまったかもしれない。


私はその場で会場を後にした。

受付の人には会いたくない人がいた、それだけ言って会場のホテルのロビーに出た。

入り口では傘の雨露を落とす人、合羽を着たホテルマンが濡れたチェックイン客のキャリーを拭いていた。

雨は、弱くはないらしい。

その横をすり抜け、急ぎ足でタクシーの横付けするエントランスへと階段を降りていった。

ちょうど最後のタクシーが走り去り数名のドアマンと私だけになった。

「申し訳ございません。ただいまタクシーが出払っておりまして…。10分ほどお待ちいただければ駅方向へのシャトルバスでお送りできると思いますが…。」

若いスタッフが申し訳なさそうに語った。


折りたたみ傘があるので、歩きます。


そう言って、雨の中、踏み出した。

歩きたい。

そう思った。


"すいません。今日グランヒル神田に居ました?人違いならすいません。"


既読のつかないよう見たメッセージにはそんな一文が辻堂から届いていた。

一番見られたくない人に見られてしまった。

一番居ないと思っていた人が居た。

私の中で、何かが、壊れたきがした。

通り過ぎる車の水しぶきも、すれ違う人の傘の雨露も、今日だけはどうでも良かった。


私には婚活イベントすら無理なのか…

フォロワー数は5桁超えてる。

ROMも出した、売上は良かった。

売り子もしたけどすごく好評だった。

コンテストで表彰台は無理だったけど特別賞はもらった。

痛車雑誌の表紙も飾った。

言い寄ってくるオタクと、カメラマンは無視し続けた。

同窓会のときそこそこ仲の良かった友達の一人が結婚してから立て続けだった。


同窓会で同じ部活だった人と1回だけ食事に行ったけどあれがもしかして最後のチャンスだったのでは?

ふと思い出しほとんど見てない顔本を見た。

2年前に後輩と結婚していた。


ドンッ

前から鞄を傘代わりに走っていたサラリーマンとぶつかった。

力なく、手からスマートフォンが落ちていった。

「すいません!すいません!」

言うだけ言って男は走り去ってしまった。

ガラスフィルムがひび割れたスマートフォンが雨水に濡れていた。

完全防水だ、別に壊れることはない。

拾い上げたスマートフォンは真っ暗だった。

落として電源が切れてしまったが、壊れてはいないはず。

…だけど、電源を入れる気にはならなかった。

真っ黒な液晶パネルには力ない自分の顔が映っていた。

「あれ??相模先生??」

顔を上げた先には、無精髭で小太りの頼りがいのある人が立っていた。



「いやぁ〜突然雨に降られて大変だったよ〜。いつもは雨が降る日は妻が傘を持たせてくれるから良いんだけど今日は同窓会があるって言って実家の茅ヶ崎に帰ってるんだよねぇ。」

偶然出くわした萩園先生に釣れられ秋葉原のファミレスで雨宿りをすることとなった。

「先生はなんで神田に?」

駅前からここまでずっと黙り込んでしまったが、何かを察した先生は何も語らない私をファミレスまで引き連れてきたのだった。

「ご注文お決まりですか?」

妙に声の高いおばさん店員に私はコーヒだけ注文した。

「私はね、キャラメルチョコパンケーキのイチゴトッピング、あとホットコーヒーを。」

ハンディをテキパキと入力し下がっていった。

「先生…この前健康診断がって…」

「ん〜?いいのいいの。」

「おまたせしましたーおかわりの際はお申し付けくださいーい。」

異常な速さでホットコーヒーが出てきた。

置き方が乱雑なのかソーサーとカップの境にコーヒがこぼれていた。

「ここのコーヒーあんまり美味しくないんだよねぇ〜。でも、毎回来ちゃううんだよねぇ。」

確かに保温され続けて香りは飛び、苦いだけの水、いや、泥水になりかけていた。

少し口をつけたけど、あまり良く味がわからないのはコーヒーが美味しくないだけじゃないのはなんとなくわかった。

週末の割にはあまりお客さんは多くなかった。

喫煙席はたまたまなのか、私たちの他には居なかった。

しばらくは、コーヒーカップのこすれる音だけがよく聞こえた気がした。

「まぁ、何があったかは聞かんよ。」

「え…?」

「何かあったような顔をしているが、私は何も聞かないさ。私の手に終える話じゃないのくらい私はわかる。」

…正直、言葉が出なかった。

すごいと思った。

今までずっと研究も仕事も一緒にしてきたけど、今日を超える日はおそらく今後ないんじゃないかと思うほどだった。

萩園先生の目は、真剣で、優しくて、そしてしっかりと私を見ていた。

「きっと、そうだな…。なんて言ったらいいか難しいが、相模君はいつも自分一人で答えを見つけてきた。学部生の頃も、院生の学会論文のときも、私が何もしなくても答えを見つけてきた。」

「違いますよ!萩園先生がいつも助け舟を良い時に持ってきてくれたから…」

「いや、違うさ。最後の答えにたどり着いたのは君の力だよ。」

「お待たせいたしましたー。伝票失礼しまーす。」

ホイップクリームと明らかに人工のキャラメル香料の香り漂うパンケーキが卓へと運ばれてきた。

何度聞いても違和感のすごい声の店員だった。

「まぁ、存分に悩まなくちゃいけない時もあるし。忘れてパンケーキを食べなくちゃいけない時もある。同時にしなくちゃいけないときは無い。」

そう言って先生はパンケーキの山を崩しながら泥水コーヒーを啜っていた。

手持ち無沙汰な私はメニューを手に取り眺めながらコーヒーを口に運ぶ。

さっきより少し、まずいのがわかるような気がした。

「コーヒー飲む?あんまり美味しくはないけど。飲み放題だしさぁ〜」

「少しいただきます。」

すでにポットを抱えた変な声の塊がお代わりを注ぎに来る。

やっぱり溢れている。

パンケーキを食べながら萩園先生は煙草に火をつける。

要るかい?

そう聞くように箱を私に差し出す。

無言で1本を箱から取り出し火をつけた。

さっきまでの気持ちが少しだけ紫煙に消えていく気がした。

新たに入店したつなぎ姿とカラフルな髪色の男性2人組が喫煙席の端で大笑いしている。

先生は食べ終わり食後にまだコーヒーを頼んでいた。

こぼれたコーヒーがソーサーを満たす前に、私達は店を後にした。


「月曜、休みたいなら別に連絡はいらないさ。私は学会報告で居ないからね。」

「ありがとうございます。では。」

車で家まで先生に送ってもらい家にたどり着いた頃には0時をすでに回っていた。



「ん~?ん~、私から言うのも恥ずかしいけどねぇ。」

そう言って萩園先生は咥え煙草をフラフラさせながら語り始めた。

「話せば長くなるんだけど、私の一目惚れなんだよねぇ…」

ふっふっふ、と目を細め思い出すように語りだした。

「夫婦っていうか、カップルっていうか…なんていうかそういうもんは互いに足りないものに自然と惹かれ合ったりする。私は見ての通り研究以外は何もできない男だからねぇ。」

灰を灰皿に落としながら、先生は淡々と続けた。

「晴海だったか…青海だったかでたまたま会ったんだ。それはもう最高に綺麗な人だったよ。私には手が届かないと思ったさ…。でも、私は直感を信じて何回も振られたさ。何回でも会ってくれたからねぇ〜。」

「意外と先生も強引だったんですね…。」

「昔の話だよ、昔の。…、でも結果的には大成功だったよ。私の足りないピースをきっちり補ってくれた。もちろん、嫁の足りない部分を私が全部埋められることに彼女も気づいてくれた。」

話し終えた頃にはタバコはすでに無くなっていた。

火を消し先生はポケットの中から缶コーヒーを取り出した。

一口すすり、最後にこう言った。

「私にとっては、今は嫁がすべてだよ。いくつになってもずっと愛してる。人にだって自慢し続けてるさ。なんてったって私が選んだ世界最高の女性だからねぇ」



私に何が残ったのかな…足りないものってなんだろう…

うーん、仕事かな…どうだろう…

そんなことを夜の都内を走る車内で考えていた。

歩き疲れて雨にも打たれて、まずいコーヒーも飲んだ。

今日も萩園先生に助けられてしまった。

シャワーを浴び、いつもの癖でパソコンに手が伸びる。

開いたディスプレイには辻堂の撮った私の閃光の騎士が映っていた。

そのままディスプレイをたたみ、ベッドへ倒れ込んだ。


「ゲームオーバー…かなぁ…」


翌日。

私は合わせの予定を全部キャンセルしてアカウントを消した。

衣装も全部売り払った。

本もCDも、なぜか虚しくなって勢いで捨ててしまった。

心配になった小桜から夕方になって電話がかかってきたほどだ。

「すこしやりすぎたかな…?」


数年前から暮らしてた賃貸マンションが思っていたよりずっとより広くなった。

「そうだ、ラーメンでも食べに行っちゃおうかな…」

コスプレしていて何が残った?

きっと人それぞれ答えがあると思う。


何も無かったなんて思いたくはない。

でも、私には何か残ったって実感はない。


サンシャインが見えるちょっといい部屋。

窓から見える景色、私の思い出、青春。

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