人魚
直接的ではありませんが、残虐な行為を匂わせる文章があります。苦手な方はご注意ください。
西の浜辺に、人魚がでるらしいと聞いた。当時 私の母は肺炎におかされていて、まともな金もなかった私の家の療養などでは、あと半年もつか、という状態だった。人魚の鱗は万物に効く薬である というのは各地につたわる有名な伝承で。肉は高く売れるし、髪も装飾品に加工されれば目をみはるような値段がつく。
では人魚をさがしに行こう という考えにいたるのは、私の幼い頭では半ば必然であるようにも思える。
「ママ、人魚を探しに行くね」
咳のとまらない母にそう言うと、苦しそうに目を開いて言った。
「やめなさい」
しゃがれた声だった。母は黒曜石のような瞳を涙で濡らして私を制止した。小枝のような指で私の足を掴んだりもした。私は小さなナイフを懐に突っ込んで家を飛び出した。母が好きだったから。どうして母が私をとめたのかもわからないまま。
西の浜辺には、島の漁師が勢揃いで船の鼻を並べていた。私があのような船の群れを見たのは、後にも先にもあのときだけである。私は近くにいた比較的優しそうな漁師に話を聞こうと思った。幼く頭の悪い私であったが、自分だけで人魚を探せる訳がないことは、承知していたようだ。
「おじさん、みんな何をしてるんだろう」
寂れた様子の漁師は初め、私を見てけげんな顔をした。しかし、考える動作をして髭をひとなでしたあと、何を思ったのか、しばらくして口を開いてくれた。
「うーむ、人魚がな、つかまってな」
あ、なんだ、捕まえられちゃったんだ。私の夢が壊れたのは早かった。子供の夢など、そういうものである。そのときは、母はこうやって、すぐに漁師にみつかるからやめなさい、と言ったんだなあ などと思った。
「しかし、つかまえたは良いものの、人魚は陸に上がると泡になって消えてしまうとも言う。それで、しょうがないから漁師の網を全部あつめて、人魚を捉えているんだ」
「聞いておいて変なこと言うけど、おじさんはなんでそんなこと教えてくれるの?」
「…おまえが、島いちばんの歌姫だったことを思いだしてな。人魚と会話できたら面白いかと思って」
人魚は歌を歌うと言うから、多分そういうところから連想したんだろう。それに、漁師の人達は総じて海の神様や妖精なんかとの繋がりを大事にする。面白いかも なんて言うが、本心では人魚のことを知りたかったのかもしれない。
「船、乗ってみるか?人魚に近い船のなかに、俺の船もあるんだ」
私は耳を疑った。船は島の宝である。海と私たちを繋ぎ、日々の恵みをあたえる神聖なもの。私は船に乗ったことがなかった。
ひとつ返事で答えて、おじさんに手を引かれるまま人魚のもとに導かれた 。おじさんは大股であるいたので、肩が抜けそうになりながら。
強い潮風が吹き荒れる西の浜辺。船の甲板から落ちそうになる。海鳥がビィビイ鳴いている。波の音にも負けず、何かを必死に訴えるように。
「見えるか!?」
おじさんは声を張り上げた。浅瀬とはいえ海の音はなにもかもうるさくて、声はわずかにしか聞こえなかった。
船は大きな網を渡して繋ぎあって、ひとつの生け簀をつくっていた。おじさんの船もその一端を握っている。
網の中心を見ると、いた。
明るい麦穂色の髪と、熱帯魚のような鮮やかな白鱗。イルカのようなしなやかな動きでぐるぐると回っている。
ひょう、とも ひゅう、とも言い表せない、笛のような長い長い音がした。それは波の音にも風にも負けず、私の耳を貫く。
人魚の歌声
電流が走ったように、そうだとわかった。
「おじさん、人魚が歌ってるね!」
私は無意識のうちに、空を仰いで喉を開いた。おじさんが、なんのことだ、と言うのにも気付かずに。
ひょう、とも ひゅう、とも言い表せない、笛のような長い長い音がした。
それが私の喉から出ていることを、私は知らなかった。ただ、気が付くと私は海のなかにいて、私の手をあの茶髪の人魚が握っていた。まばたき一瞬の隙間で、人魚は私を海にさらってしまった。
あなたも人魚だったのね。
人魚の口が動いて、そんなようなことを言ったように思えた。船の上で聞いたのとは違う、鈴をならしたような声で、私の額に響いた。
「ううん、違うよ。私はママの子供だもの」
人魚は困ったように笑った。深海のように深く暗い瞳が、三日月の形に細められる。
あなたのママ、綺麗な声?
私は母の声を回想した。先程聞いた母の声は、お世辞にも綺麗とは言い難い。それに、人魚の声は美しかったので、どんな人間の声と比較しても、大概は負けてしまうだろうなあと思った。
「いいや、あんまり綺麗じゃないかもね」
私は首をすくめた。人魚の声を歌声というなら、母の声はさしずめカラスの鳴き声。
じゃあ、そのひと、あなたのママじゃないわね。きっと。あなた、そのひとに攫われてたのよ。私といっしょに来ない?人魚の故郷に行けば、あなたのママも見つかるわ。
「ええ、無理だよ。私、息も続かないし、泳ぎもあんまり上手じゃないもの」
大丈夫よ。あなたも、人魚なんだから。
人魚はそう言って私の手を乱暴に寄せると、力強く泳ぎ始めた。なんでもないようにナイフを私の懐から抜き取ると、生け簀の網を簡単に切り裂いて、広い海へ逃げてしまった。もちろん私をつかまえたまま。
私は呼吸がどんどん楽になるのを感じた。地上で空気を吸っていたころよりもずっと楽だった。
ママは、ママじゃないのか。言われてみれば、そんな気もした。
最後まで読んでくださってありがとうございます
以下に人魚の声について補足説明をつけてみましたので、もしお時間がございましたらお付き合いいただければ嬉しいです
■人魚の歌声
(なぜ漁師に声が聞こえなかったのか)
笛のような声は鯨の鳴き声がモデルです。鯨は私たちよりも体が大きく、声域がひろいため、人間には聞こえない周波数の声を出せます。鯨は聞こえない声でも会話するのです。
■人魚の話し声
(なぜ声が額に響いたのか)
水に入ったあとの声、鈴の鳴るような声はイルカがモデルです。イルカは音波をだすことができて、頭にあるメロンという機関で音をとらえます。このあたりはググれば詳しく出てきます。画像見るとわかりやすいかも知れません。さらにメロンは人間でいうところの額にある部位にあたります。