妖精
朝食にはまだだいぶ早く目が覚めたため、ボクは今寮内の脱衣所にいた。
ゴブリンの襲来から一晩が明けたが、ボクの精神は完全に信条愛斗のものが主体となっている。記憶は愛斗とルーシア二人のものがどちらもあるのだが、ボクの主観からして判断基準は完全に愛斗のものだ。
そして、ボクは今、TS転生と思われる現在の状態において、一番の難局に差し掛かっていた。
その難局は、恐らく大抵の人が想像できるだろう。そう、女子の体に慣れるということだ。
ルーシアは現在十歳であるため、生理はまだきていないはずだ。それは、ありがたい。
しかし、この身体は愛斗のものが女子化したのではなく、ルーシアという少女のものだ。つまり、ボクは他人である女子の身体に慣れる必要があるというわけだ。
昨日は体が汚れていたが、イメージで魔法を使ったところ簡単に綺麗になったものだから、風呂には入っていない。そのため、まだこの体の裸は一度も見ていないということになる。
ボクは今、鏡の前に立っている。
この世界での鏡は高級品であるのだが、この学園には女子風呂の脱衣所に一枚だけ置かれていた。サイズは上半身が写せるかどうか、と大きくはないが。
この世界でも、流石にブラジャーとは行かなかったが、スポブラのようなものはあるようだ。今は下着姿で、そのスポブラ仮とパンツを履いているだけだ。
パンツはてっきりドロワーズのようなゴワゴワしたものを想像していたのだが、どうやらこの世界では既にショーツのようなパンツも、製造されているらしい。素材は絹だから、肌触りもいい。きっとお高い。
「……女子の裸なんて、前世で読んだ同人誌と家族くらいでしか見たことないんだよな。体格的には記憶に新しいユイと大差ないか……?」
ユイはボクの前世における妹で、実際の名前は信条由依。何故ユイと呼んでいるかは、記憶は定かではないが小さい頃にそう呼び始めて以来、ずっとそう呼んでいた気がする。
由依はボクが山に籠る前は、十一歳だった。今のルーシアと年齢的にも大差がなく、女性的な箇所の成長はまだほとんどしていなかったため、体格も同じくらいだ。
しかしやはり、妹と他人とでは話が違う。今こうして下着姿を鏡に晒しているわけだが、罪悪感と背徳感に目を開けられないでいる。
「でも……早いうちに慣れておかないと、これから困るよな。一日二日ならまだしも、一週間も風呂に入らないでいたら、あの三人に変に思われるだろうし……」
意を決して、目を開く。
鏡には、まるで現実味のない美しい少女が写っていた。
身長は百三十に満たない低身長。まあ、十歳なのだから、伸び代はまだある。かなりある。体重に関しては二十キロ程度で、腕やふくらはぎは、見た目や体重の割にしっかりと鍛えられている。引き締まった体、とでも言うのだろう。
女性的部分は、お可愛いものだった。ルームメイトが意外と成長してることもあり、少し成長が遅れている気がしなくもないが……気にしないでおこう。剣士たるもの、邪魔な部分は少ない方がいい。ボク自身も、大きさはC以下推しだ。ただし、ロリコンではない。ロリコンではない。
「にしても、顔はかなり可愛いよな……」
少し垂れた目尻に、長い睫毛。輪郭は少し丸く、顎は尖っていて鼻筋は綺麗なカーブを描いている。何というか、アニメのような顔立ちだ。目はかなり大きめだろう。二重のまぶたにくりっとした目は、子犬のような印象を与えた。
さらに、髪は白く輝いている。これは、白髪と言うよりは、白髪と言った方がいい気がする。ニュアンス的に。年齢やストレスによる白ではなく、生来の純白だろう。
少しだけウェーブがかかった髪は、腰近くまで伸びている。前髪は目の当たりまで伸びているが、あまり気にはならない。前世がもっと長かったから。
「まあやっぱり、TSで問題と言えば、トイレだよなぁ……」
今のところ、昨日寝る前の一度だけ行った。正直、スカートで見えないよう隠しながらだったので、気が気でなかった。
「何してるのよ」
「ヒョアエ⁉︎」
突如聞こえてきた、謎の声。気配すら感じなかったものだからついつい奇妙な声を上げてしまったではないか。
「こっちよ」
「うひょ⁉︎」
どっちだよ! などと心の中で悪態を吐きながら、声の主を探す。声の方向からして少し上の方な気がしたので、視線を上に上げてみる。
そこには、ピンクのヒラヒラした、花弁のようなワンピースを着た、銀色の髪をした小さな……そう、親指姫かと言うくらい小さな人型の何かがいた。透き通るような薄ピンクの翅が背中から生える様は、あたかも妖精のようで……
「妖精……?」
「そうよ。私は妖精、ピクシルよ」
──ピクシーのピクシル……覚えやすくて助かる
異世界なのだから妖精くらいいるだろう、と即座に判断し、現状を受け入れる。ただまあ、あの翅がどういう構造なのか、とか妖精とは何か、とかすげえ気になる。
「妖精って言うと、サラマンダーとかインプとかの?」
「それは精霊。妖精は種族ごとに司る属性がある精霊とは違って、全ての属性の魔法を司る、まあ、元締めみたいなものね」
「ほへぇ……あ! もしかしてボクにしか見えない存在とかそういうの⁉︎」
そう、異世界転生でたまに使われるのが、転生者のみにしか見えない特別な存在である。
「いや、単に今はあなたの五感しか操作してないから、あんたにしか見えていないだけよ。五感を操りさえすれば、あんたの周囲の人にも見えるわよ」
「なんだぁ……五感の操作……?」
ピクシルの言葉に気になるもの、「五感の操作」というものがあったので、概要を尋ねてみる。
「そ、五感の操作。あんたの視覚を操ってこの姿を見せ、聴覚を操ってこの声を聞こえさせている。やろうと思えば、匂いも作れるわよ」
「もしかして……それって、触覚を操って超絶な痛みを与えるとか……」
昔の記憶に、五感を操って凄い痛みを与えるとかそんな記憶があったものだから、ついそう呟いてしまう。
「……出来るわよ? やってあげましょうか?」
少しの間を置いて、ピクシルがニヤリと口元を歪めた。ゾクっとする何かを感じ、即座に首を左右に激しく振った。
いや、怖い。向こうからは感覚全部操れるのに、こっちからほとんど何も出来ないとか死活問題だぞ。ゲームバランスどうなってやがる。ゲームじゃなかった現実だ、これ。
「まあ、本当は無理だけど……」
「……ほう、ボクを騙したか。面白いことをするじゃあないか」
「え、なに? え?」
ボクはのそのそと立ち上がる。ボクから放たれる異様な気配を感じ取ったのか、ピクシルは、今度はその顔を引攣らせて、少しずつ後退った。勿論、フヨフヨと空中を漂いながら。
「さて……どうしてくれようかね……」
「ちょ、待って! 話、話をしましょう!」
「話をする前にボクを騙した君に話を持ちかける権利はないね……さて、ちょっと色々しちゃおうかな」
ボクはわざとらしくウェヘヘへと奇妙な笑いを浮かべながら、ゾンビのようにピクシルへと近寄る。
一歩足を前に出した瞬間、ピクシルが声を張り上げた。
「そ、それ以上近付いたら、あんたが男であることを学園内に広めるわよ!」
「……それは困る」
ピクシルの言葉に肩がピクッと跳ねる。流石に状況がまずいことを察した。
アルミリア達も、ボクの変化については流石に感じ取っていた。
いくら一日しか会話をしていないと言えども、彼女達もルーシアの話し方や仕草など、ある程度は覚えていたらしい。ボクが少し違う話し方をしただけで、疑うような目を向けてくるのだ。特に、一人称の「ボク」と言う部分に。
実際はこの世界の言語での一人称の一つだ。ボクが今使っている言語が何語なのかは知らないが、この言語にもかなり一人称のレパートリーがあるらしい。
そして、今使っているのが、男性が基本的に使う一人称のうち自己主張の弱いもの、だ。日本語で言う「ボク」である。
ただ、一つ疑問が思い浮かんだ。
いくらピクシルが妖精といえど、ボクの性別をどうやって判断したのか、分からない。見た目に関しては完全に美少女なのだから、男だとは思うまい。これぞ、ザ・リ美肉。リアル美少女受肉。
「それより、ボクが男だってなんで分かるんだよ。この世界にボクっ娘っていう概念がないとは言え、一人称くらいなにを使ってもおかしくないんじゃないか?」
「まあ、問題はないんだけど……会って一日のうちに一人称が変わるなんて、そうそうないでしょ」
「一理あるな……」
一理どころか、当たり前だ。午前中は私と自分を呼んでいたのに、午後になっていきなりボク、だなんて言い始めたら、ボクも違和感を感じる。まさか、正午を過ぎると人格が変わるとか、それこそ中二病の設定なわけないだろうし。
「それに、私があんたを男子だと分かったのは、あんたの波長が男寄りだったからよ。魔力の放出は、男と女によって多少の差があるの。あんたは、若干、ほんの少し、ありえないほどごく僅かな差で男寄りだったの」
──それって男って言っていいの……?
ピクシルのあまりに身も蓋もない言い方に、ついつい目を細めてしまう。
「あぁ、そういうことか……ボクはルーシアと一体化したみたいなものだから、男と女の波長の融合って言っても問題はなさそうだしな……」
意識が完全に愛斗のものだから、融合と言っていいのかは微妙だが。
ただ、一つの体に二つの魂というか何というか、まあ意識が入っているから、放出されるその魔力の波長というものが、男女のもので合わさっているんだろうな。
「で、そんな中身が男だとバレたくないルーシアさん。ここで一つ取引をしたいんですが」
「……それ、取引じゃなくて脅しだろ」
「いえいえ、ちゃんとした取引ですよー。取引が破綻したら、あなたが男であると盛大に発表するだけですからー」
「それを脅しって言うんだよ! ……で、どうせボクに拒否権はないんだ。内容を話しなよ」
露骨に話し方が媚びを売るような感じになったものだから、少し嫌な予感を感じつつ、ボクはそう催促した。聞きたくない。
「えっとですね……私、実は妖精の村から追い出されて、今は放浪妖精なんですよ」
「犯罪者は匿えないぞ」
「いえいえ、犯罪だなんてそんな! ただ私は、村長の大事にしていた壺を割ってしまったり、遊んでいたら魔物に追い回されちゃって、村までそいつらを誘き寄せたりしただけですよ……」
語尾が弱まり、視線を逸らした。どうやら、まだありそうだ。
「まだあるだろ」
「……村長の大事にしていたペットを、魔法の練習中に操作をミスって、その、えと、ぽっくりと……」
「犯罪者は匿えないな」
「わざとじゃないんですー! 反省してるんですー! お願いです、ここ最近魔力を使ったエネルギー補給ばっかりで、ろくに何も食べれてないんです! お願いです、助けてくださいよぉ! 味のあるもの食べさせてえぇ……!」
「うるさい耳がキンキンするんだよ!」
「しゅん……」
「ほら、帰った帰った。ボクは妖精に追い回されるのはゴメンだ」
やっと黙ったか。……いや待て、ボクはどうしてこいつのお願いを聞いた? そう、ボクが男であると──
「……しょうがない、あのことを言いふらすしか」
「よーし分かった、匿ってやるからちょっと黙ってね!」
かくして、ボクはピクシルの面倒を見ることになった。
「うぇくしっ!」
「そんな薄着な格好でずっといるからよ」
「お前のせいでもあるからな!」
下着姿でいたことを、完全に忘れていた。多分、見るのに関してはもう大丈夫だろう、下着までは。