二人の覚悟
宿に着いたのは、まだ昼と呼ぶには早い時間だった。空腹感もなく、かといって眠気も今のところはない。体を動かそうにも、筋肉痛がそれを阻害している。
どうしようか、と思いながら部屋に入る。簡素なベッドに簡素な棚しかない部屋を眺める。パッとはいい案が思い浮かばず、鼻から細く溜息を溢しながら、剣を鞘ごと外して棚に立て掛け、ベッドにドスンと倒れ込む。
すると、完全に一人になったせいだろうか、胸の中に重苦しいものが渦巻く。
「……ボクで、大丈夫なのかな」
命が懸かっている。ボクだけじゃない、レイルもユリリーナもセルガストも、ミリアやアルミリア、チルニア、パミー、アニルドも、この街の皆も。数えれば、数百は下らない命が、ボクに懸かっている。
重責、不安、恐怖……数多の負の感情が湧き上がり、心が暗くなってくる。しばらく切ってなくて長くなった前髪が目を覆い、視界を暗くしているのすら、何かの暗示に思えてきてしまう。
命の懸かった……それこそ、大事な人の命が危険に晒されるような戦いは、今までも何度かあった。ゴブリン戦も然り、盗賊団戦も然り。それでも、まだ余裕はあった。ボクの命が失われることはないという、確かな自信があった。勿論、油断はしていないつもりだったが。
しかし、今回ばかりはそうはいかない。ボクが本気で戦ってギリギリ、満身創痍で破ったレイルですら、ユリリーナとのコンビネーションを使っても勝てない相手と、今回は対峙する。ボクの命など、塵芥も同然だ。
「……なぁにナーバスになってんだ、ボクは。クヨクヨしてても、何も始まらないだろ……今は、どうやって相手を成仏させれるよう、交渉するかを考えないと」
腹筋を使って起き上がり、上着を脱いでベッドの上に投げ捨てる。立ち上がって木製の窓まで近寄り、開けて光を部屋に取り込む。僅かにだが、心が軽くなったように感じる。
その時、扉が三度叩かれた。返事をしようと口を開く直前に、叩いた主が言葉を紡ぐ。
「シア、入ってもいい?」
ミリアのようだ。何か用でもあるのか分からないが、とりあえずいいよと答えて扉を開ける。
チルニアの実家の店で買ったのだろうか、派手な装飾こそないが植物を想像させる簡単な装飾の入った、膝まであるワンピースに身を包んだミリアが立っていた。少し色褪せている感じがあるから、買ったのはだいぶ前のことだろう。
その手には、一枚の大きな、それこそボクが覆われそうなくらいの布と、ハサミ、櫛を持っている。どういう理由かは分からないが、髪でも切るのだろうか。
「どうかした?」
「シアの髪、切ってあげようかと思って。ほら、もうだいぶ伸びてるでしょ?」
いつもは目の少し上で切り揃えている前髪は鼻先まで、背中の半ばで揃えている後ろ髪は腰まで伸びている。確かに、邪魔ではないとは言い切れない。
しかし、これまで通り自分で切るつもりでいたのだが、どうしてミリアが切ろうと言い出したのか。別に、何か目的が無ければ切ってはいけない、なんてことはないのだが、少し気になってしまう。
「自分で切れるよ?」
意図の推測を行っているように思われないよう、とぼけた感じを装って聞いてみる。
「いいじゃん、私がしたいの。たまには、お姉ちゃんを役立たせてよ」
「そういうことなら、甘えさせてもらおうかな」
学園にいる間、ミリアとは離れていたこともあり、妹の役に立ちたい欲でも溜まっていたのかもしれない。そんなものはないとしても、ボクに断る理由はなかった。
棚の横にある簡素な椅子を引き出し、部屋の真ん中に置く。ミリアに背を向けて座ると、後ろから大きな布をマントのように着けて、体全体が覆われた。
「いつもくらいでいい? それとももっと短くする?」
ルーシアは顔立ちがすごく整っているし、どんな髪型でも似合いそうだ。だが、あくまでこの体はボクにとって借り物に過ぎない。時間の経過による成長は仕方ないとはいえ、変えずにいられる所は、なるべくそのままにしておいてあげたい。
「いつも通りでお願い」
「分かった」
髪を櫛で漉かれる。滑らかなルーシアの髪は、一度もつっかえることなく櫛を毛先まで通す。
「いつ見ても細くて、柔らかくて、綺麗な白色で……ホント、羨ましいなあ」
ボクの髪を漉きながら、呟くようにミリアが溜息混じりにそう零す。
ミリアの髪は、ルーシアの髪に比べると少し太く、硬くて焦げ茶色だ。言い表すなら、白毛と黒鹿毛といった具合だろうか。ボクは、髪色なんて気にしないのだが、生来の女子であるミリアにとっては、只事ではないらしい。
しばらく、ミリアのされるがまま髪を漉かれていたが、唐突にその手が止まる。一束手に持ったまま、ミリアの動きが止まってしまった。
「リア……?」
心配になり話し掛けてみるが、返答はない。気になって振り返ろうとすると、左肩に手が置かれた。
「一緒に逃げよう、この街から……シア、これから死ぬかもしれない戦いがあるんでしょう?」
思いもよらぬミリアからの提案に、少しの間戸惑ってしまう。
「……なんで、そう思ったの?」
「だって、シア、最近いつも難しそうな顔しながら手が震えてたもん。それに、大きなクエストがあるから早く卒業したって言ってたけど、シアよりも強いレイルさん達がいるのに、どうしてだろうって思ってたの……それって、レイルさん達でも敵わない相手だから、シアみたいに強い人も参加させよう、ってことでしょ?」
ミリアの言葉で、一度は心の奥底に仕舞えた負の感情が、再び湧き上がる。
それに、ミリアの推測はある程度的を射ている。ここでこの提案に乗れば、少なくともボクとミリアは無事だろう。
「他の街で、私は宿で住み込みで働いて、シアは冒険者として活動すればいいと思う。それなら、このまま街にいるより、安全でしょう?」
魅力的な提案だ。ダイエット中のケーキよりも誘惑してくる。
ここで揺らいでしまうあたり、ボクもまだ、しっかりとした決心はついていないらしい。いや、分かっていた。分かっていたが、気付かないフリをしていただけだ。
しかし、こうして露わになってしまった以上、ボクも逃げるか戦うか、決心をしなければならない。
確かに、ボクは強い。この街の中でなら、恐らく一二を争うくらい強い。でも、等しく死は訪れる。
死ぬのは怖い。一度死んでいても、怖いものは怖い。いや、それ以上に、ルーシアが死ぬことが──ボクが殺してしまうことが怖い。
ボクはあくまで、この世界ではルーシアの身体を借りて存在しているようなものだ。ルーシアの魂は、恐らく身体の中で眠っている。つまり、今ボクが死ねば、ルーシアも死んでしまうということだ。
借りたものは壊さない、なんてレベルの話ではない。壊れてしまえば、命も失う。だから、この戦いはルーシアを死なせないという観点では、避けるべきものだ。
その反面、ボクは皆が……アルミリアが、チルニアが、パミーが、アニルドが死んでしまうのが、失うのが怖い。前世も含めて、ボクにとっての初めての友達だ。もし逃げれば、ほぼ確実に彼女らは死ぬだろう。
それに、ミリアも失いたくない。ルーシアの姉だから死なせたくない、と思う以前に、既にボクはミリアのことが本当の家族のように思ってしまっている。だからこそ、ミリアには生きていてほしい。家族を失う辛さは、前世で事故で父さんが死んだ時に味わっている。もう、同じ思いはしたくない。
これら二つの願いを同時に叶えるには、戦った上でボクが生き残って勝たなければならない。どれだけの勝率があるだろうか。少なくとも、勝算はあまりない。
それでも、その僅かな可能性に賭けない限り、ボクの望みは実現出来ない。
それ即ち、ボクは──
「逃げない。逃げるわけには行かない」
言葉にした瞬間、胸がぐっと熱くなる。恐怖という名の、胸に渦巻く薄寒い気配がどこかに行ったのを、なんとなく感じた。
「どうして?」
語気の強まったミリアが、肩を掴む左手に力を込める。握力はボクより断然弱いはずなのに、何故か喰い込む指が妙に痛い。
「全てを守り抜くために。最高の、ハッピーエンドに向かうために」
やり直しは効かない。コンテニューなんて機能もない。能力はそれなりに高い自信はあるが、チートと言うには程足りない。それでも、例え十のマイナス何乗の確率だろうと、引き当てるのが主人公だ。
ご都合主義で進めばいいが、恐らくそんな生易しくはないだろう。説得は成功しないだろうし、もしそうなれば血みどろの戦いになる。その戦いを生き残るのは、今のボクでは難しいだろう。
それでも、最高のハッピーエンド──誰も死なない、不幸にならない終わりを迎えるには、戦わなければならない。それが、複数の生物が存在する弱肉強食の世界の掟だから。
「大丈夫、ボクは強い。それに、レイル達もいる。絶対に帰ってくるから。傷付くのも、死ぬのも怖いけど……それよりも、失うのが、魂に汚点を作るのが、怖いから。それに、リアが言ってたでしょ。ボクは強くて、かっこよくて、自慢の妹だって……その誇りを、失わせたくない」
「そんな誇りいらない!」
悲鳴にも似た声に、数度、間隔の短い瞬きを繰り返す。左肩には、さっきよりも強く痛みが訴えかけている。
肩を掴み、髪を一束握ったまま、ミリアがその場に蹲る。
「シアが辛い思いをするなら、死んじゃうかもしれないなら……そんな誇り、いらない。私は、シアに生きててほしいの。もう、家族を失いたくないの……死ぬくらいなら、逃げて恥を晒す方がいいの!」
「でも、それだとアレン村の時と一緒だよ。ボク達だけ逃げて、他の人達を……アルミリアやチルニア、パミーにアニルドを見捨てることになるんだよ。おか……ママや、グルさんみたいに」
「じゃあ、皆で逃げればいい。そうすれば、誰も死なないよ?」
「この街の住民はかなりの人数になる。全員を受け入れてくれる村や街なんて、この国にはないと思うよ。それこそ、一から新しい街を作らないといけなくなる」
「……どうして、戦うの? シアが戦う必要が、どこにあるの? この世界には、戦える人なんていくらでもいるんでしょ?」
どうやら、ミリアはどうしてもボクを戦いに向かわせたくないらしい。考えるまでもない、当然の反応だ。ボクだって、前世で妹を戦争に向かわせる、なんて言われたら、国家叛逆のために核兵器くらい作ったかもしれない。
しかし、これはボクが決めたことだ。それに、未来も描いた……逃げない覚悟も決めた。もう、引き下がるつもりはない。
「ボクが戦う理由は……なんだろう、しっかりとは分からないけど……そうだな、守りたいものを守るため、かな。それに、この戦いはボクが自分で行くって決めたんだ。作戦も、ボク中心のものになってる。行かないわけにはいかないんだ」
「……どうしても、行くんだね」
「どんなに止められても、行くよ。もう、決めたから」
死ぬのは怖い。傷付くのも怖い。でも、失ったまま、ずっと生きていく方が怖い。だから、戦う。
目を閉じると、皆の顔が思い浮かぶ。アルミリアが、口元を手で隠して微笑んでいる。チルニアが、抱き着こうと満面の笑みで飛びかかって来ている。パミーが、そのチルニアを見て呆れ笑いをしている。アニルドが、溜息を零しながらも苦笑を浮かべている。それだけじゃない。この街で出会い、世話になった人が、手伝った人が、世間話で笑い合った人が……そして、ミリアが、楽しそうに笑っている。
この人達を守るために、戦う。そして、ボクも、ルーシアも無事に、レイルやユリリーナ、セルガストも生きて勝つ。それが、最高の終わり方。
「……本当に、強いね。分かった、もう、止めない。その代わり、生きて帰ってきたら、いっぱい甘やかさせてね」
「それは……程々にお願いします」
涙を拭いたミリアが、立ち上がってボクの髪を切り始めた。ジャキジャキと、小気味のいい音が部屋の中に響く。
「シア」
「ん?」
「私も、強くなるね。シアが、心配しなくていいように」
「……うん。応援してる」
小さく笑みを溢しながら答える。ミリアの言う強くなる、とは、恐らく心の話だろう。この世界の言語には心を意味するものがないから、魂の話と言った方が正確だろうか。
ルーシア、見ててくれ。必ず、君の世界は失わせない。守り抜いてみせる……いつか、君が目覚める時まで。