迷いはもう、吹っ切れた
宿屋の朝は早い。朝食の準備は勿論のこと、前日に早めに起こしてくれと頼んできた客を起こしたり、受付の準備もある。それこそ、自分達の準備はそれまでに済ませなければならない。
そういうことがあり早起きが習慣化していたルーシアは、あのまま二時間ほどだけ眠って、今は準備をしていた。
何の準備か。座学の準備は勿論だが、装備は学園から与えられた革鎧。剣も身につけている。
「お早いんですね……今日は座学ですよ?」
ルーシアの次に起きたアルミリアが話しかけてくる。
「何が起きるか分からないので」
「そんな、急に魔物が攻めてくるわけでもありませんし……」
ふああ……と欠伸をするアルミリアを尻目に、ルーシアは少し語気を強めて呟く。
「そんなことないです……急に来るんですよ、魔物たちは。私達のことなんか、考えてくれません。だから、私達は考えて行動しなきゃならないんです。……すみません、なんか、上からな言い方で……」
相手が上級貴族であることを思い出したルーシアは、即座に頭を下げた。しかし、アルミリアは「頭を上げて」と優しく言い、
「そうですよね……あなたの言う通りです。実際、あなたは急に来た魔物達のせいで村を離れることになったんですものね……」
そう。急に来たから、ルーシアは母親を、グルさんを、村を失った。故郷を、家だった宿を失った。命と姉、この剣一振りだけを持って。
「もしものことは起こり得ます。しっかり準備しておけば、もしもにも対応できます」
「そうですね……私も、そうします」
アルミリアの返答に笑顔を見せたルーシアは、部屋を出て、寮を出て……そして、学園を出た。
ルーシアの言うことなど、信じるものはいない。変な涙が流れたら今まで毎回魔物が攻めてきた。昨日の夜流れたからまた来る。などと、誰が信じるだろうか。
塀をよじ登って学園を出たルーシアは、急いでミリアのいる宿に向かった。あそこの宿の人は優しいし、問題は起きないと信じている。
三年間世話になった宿に着いたルーシアは、ゆっくりと入口を開けた。時刻はまだ六時過ぎ。宿はまだ開業しておらず、でも開錠はされていた。
「リア、いる……?」
扉の隙間から顔だけを覗かせ、小声で呼びかける。
「シア? 学校は……」
「し、静かに……昨日の夜、涙が流れちゃったの」
ルーシアの言葉に、ミリアが少しの間逡巡する。
「もしかして……寂しくて?」
「ちっがう! 分かってて言ってるんでしょ!?」
「しっ、しー!」
大声を出したルーシアの口を、ミリアが慌てて塞ぐ。「むぅ〜」とくぐもった声で文句の意図を伝えようとするが、今はそんな場合じゃないことを分かっているルーシアはすぐに唸るのをやめた。
「……来るの?」
「多分だけど……リア、逃げられない?」
「クビにされたら困るから。シアは?」
「冒険者を目指すんだから、戦わなくてどうするの」
お互い、逃げることはしないつもりだった。
「大丈夫。シア、三年間も頑張ったんだもん。誰よりも。きっと、勝てるよ」
「うん」
今まで、一度も魔物が攻めてこなかったわけではない。三度来ていた。しかし、それは前々から来ることが分かっていたらしく、対処はできていた。
でも、今日は別だ。前回、前々回と違い、いつも通りの風景だ。前のような、戦闘準備感はない。
──私が守るんだ……リアを、みんなを
学校配布の戦闘訓練用装備の、膝丈のスカートを握る手に力が入る。
どれだけ戦えるだろうか。他の冒険者の準備が整うまで、自分は生きていられるだろうか。そんな思考がぐるぐると頭の中を回る。
「私が、守るんだ……」
ミリアですら聞こえたか分からない小さな声でルーシアは決意を固めた。
♢
ミリアと別れてから一時間が経過した。日は完全に姿を見せ、大半の人が活動を始めた。
──そろそろ学園でも出欠をとったりするのかな
ルーシアは今、街の外れにいた。門兵に見つかって捕まってはいけないので、勿論こっそりと、だ。
昨夜使った上着をしっかり着込んだルーシアは、街から隠れるようにして木陰にいた。
鞘ごと剣帯から取り外した剣を抱きしめる。
その時、ルーシアは風や自分の心音、呼吸とは違う音を聞いた。ザッザッという音が間断なく、まだかなり小さいが明瞭に、しかも一つや二つではない。ザッザッと言ったが、実際にはザザザザ、と言っても過言ではない。
「足音……?」
まるで……いや、事実幾つと数えることも出来なさそうな無数の足音が、それぞれがそれぞれのタイミングで歩いた結果こうなっているのだろう。
ルーシアは急いで索敵魔法を唱える。
「魔力よ、願わくば私と一体となりて周囲の情報を教えよ。索敵!」
この世界には複数種の索敵魔法が存在する。
主に使われるのは、使用者の視界をサーモグラフィーのようにし、周囲の生物の感情や敵対意識を色で表すものだ。これは主に「色彩索敵」と呼ばれる。
次に多く使われるのは、使用者の意識をあたかも上空へ飛ばすようにして、ゲームのマップ画面のように地上の様子を見る。これは広範囲が見れる上、敵の装備や数もそれなりに把握することができる。主に「飛翔索敵」と呼ばれる。
そして、ルーシアが使った索敵魔法。これは「魔力振動」という技術を使ったもので、体内に存在する魔力と周囲に存在する魔力を一体化させ、魔力に五感情報を乗せて振動を連動させることで、触れた生物の形状や装備の魔力加工の有無、強いては相手の魔力量まで分かるのだ。これは使えこなせたら、の話だが。
この世界では、魔法は主に魔力を使うことで発動する。簡単に説明すれば、魔力を使うことで世界の理を書き換える。以上だ。
更に言い換えれば、意思通りに現象を起こすことができる、ということである。しかし、存在する原子や元素の種類が変わるわけではなく、それらの法則に関しては無視できない。そう、質量保存の法則とかその辺だ。
しかし、その範囲ならば何でもできる、ということである。まるで何もない場所から剣を創り出すことも、周囲の水蒸気を水に変換するに留まらず、水素と酸素のことを知ってさえいれば、無数に水を作ることができる。
この世界の魔法はそういう原理なのだ。
話を戻すが、ルーシアの索敵魔法は頑張っても半径十メートル。この世界にちゃんとした距離の単位はないので、本人達にはなんとなくの距離感で考えるしかないが、結果から言うと、その半径十メートル範囲内の魔物の反応は皆無だった。
「……そんなに多いの?」
十メートルと言っても、距離にしてみればそれなりの間隔になる。二メートルあるバスケ選手が、五人まっすぐ寝転んでやっとの距離だ。
しかし、それだけの距離がありながらも音が聴こえてきている。つまり、それだけ多くの足音が近付いている、ということだ。
ルーシアの索敵魔法は維持できてもほんの数秒。空間魔力との五感結合は想像以上に体力も思考力も使う。こんなところでへなってしまっては、冒険者などできっこない。しかし、この後に起こるであろう戦闘のことも考え、一度解除する。
どんどん足音は大きくなる。ここから街に入るまでは、走っても五分以上かかる。その間に更に距離を縮められれば、焦った人間側に被害が出る可能性もある。
ルーシア一人で戦えば、その音に気付いた冒険者が助太刀に来るかもしれない。それまで生きていれば、であるが。
──もう、迷ってる暇はない。助けを呼ぶか、一人で戦うか、決めなきゃ……
自分一人の犠牲を持って、どれだけの数敵を屠れるだろうか。そもそも、自分は生き物を躊躇いもなく殺せるのだろうか。
今まで、無意識的なことを除けば一度も生き物を殺したことはない。つまり、実戦は手加減された手合わせ、しかも人間としかしたことがなかった。
「ふうぅ……ダメだ。弱気になったら、その分負けやすくなるだけ。強く、いなきゃ……じゃないと、誰も守れない」
一人の力は高が知れている。その高が知れた中でどれだけ強くあれるか。ソロの場合は、これが重要になってくる。そう特訓をつけてくれた冒険者から教わった。
もう一度詠唱をし、索敵魔法を使う。そして、
「っ!?」
あまりの近さの反応に腰が引け、尻餅をつきそうになった。尻が地面につく瞬間、目の前を何かが通り、前髪が少し散り、額に痛みが走った。
──斬られた……?
尻餅をついたことが、どうやら命拾いする要因になったらしい。不覚ではあるが、運が良かった。
どうやら傷は浅く、血が出ることもなかった。少しチリチリと痛むが、集中してしまえば問題ないだろう。
前方から複数。右側にさっき斬り掛かってきた敵が一匹。横目で見てみると、敵はどうやらゴブリンのようだった。手には、緑の液体が鈍く光る、刀身八十センチほどの両刃の剣が握られていた。
「人間の小娘一匹ッス!」
──しゃ、喋った……?
ドラゴンには会話が出来るものもいる、と聞いたことはあったが、ゴブリンが話すなどということは聞いたことがなかった。しかも、人間の言葉を流暢に、だ。ルーシアですら、しっかり話せるようになるには三歳まで掛かったというのに。
「そうか。肉付きの悪い小娘だな……食っても不味そうだ。子作り用に連れ帰るか」
グオオォンと音がしたと思うと、唐突に木が倒れ、木製の巨大な棍棒を持った、深緑の肌をした巨大なゴブリン──おそらく、勉強中に話で聞いた、ゴブリンの上位種、ホブゴブリンと思われる巨体が鎮座していた。
唇がわなわなと震える。地面についた手も震え、力が入らない。恐怖だった。これは、サーレフが村に残ると聞いた時と同等……いや、それ以上かも知れなかった。
「あ、ぁぁ……ぁ……」
急激に喉が渇き、呼吸が荒くなる。掠れた声をこぼす。
「おらああぁぁあっ!」
「シア!」
野太い雄叫び複数が横を通り抜け、背後から声が聞こえた。背後からの声は、生まれてからずっとそばに聞こえてきていた声。ミリアの声。
「……りあ」
ルーシアを挟んだ向かいでは、六人の冒険者がゴブリンと対峙していた。中には、学園に入るまでの特訓で世話になった顔見知りもいる。
──ダメだ。守られてる。これじゃ……ダメなのに。
「…………きゃ」
震えていた手を動かし、土を握る。爪の間に入った土すらも気にならなかった。
「おいガキ、そっち行ったぞ!」
「シア、前!」
冒険者の一人の声と、ミリアの声が同時に聞こえてきた。
──ガキじゃ……
「……ないもん!」
右手に握っていた土を投げつけ、すぐに右へと転がり、剣を抜く。その柄を両手で握る。
「やってやる……!」