人生の再スタートはいつだって命がけ
守護天使をたずさえて、意気揚々と進む。小人にでもなってしまったのだろうか。そう疑ってしまうほど、広がる景色は巨大だった。歩いても歩いても進んでいる感じがしない。果てしなく続く草木はときおり、風にまかせて身体を揺らす。まるで、歩みを歓迎する舞である。変わり映えしないといえば、しない。
それでも、大介にとってはどれも目新しく映るのだ。写真と実物とでは感動の大きさは、格段に違うと知った。当然、都会的な、機械的な物はどこにも見えない。まして、病院のものなど見る影もない。ついさっきまで、確かに病室のベッドの上で、力なく横たわっていたはずの少年。今やなんの比喩でもなく、文字通り道なき道を進んでいる。なんとも不思議な気持ちだ。
「バオオオオオオォォォ…」
動物の鳴き声らしきものが聞こえてきた。風の音かと疑う。周囲の草木が踊っていない。どうやら違うようだ。身体にあたるような涼しさも感じられなかった。何より、大介にはその声に聞き覚えがあったというのも大きい。
「あれー、ゾウさんかなー?」
「なななななななんだって!」
大介は、急に目を輝かせる。興奮気味に声をあげる。事実、大介は興奮していた。
象という存在はテレビや図鑑では見たことがあった。しかし、本物は見たことがなかった。第一、動物そのものを実際に見たことがない。それをナマで、かつ間近で見ることができるかもしれないのだ。気持ちも昂ぶるというものである。
しかし、そんなこととはいざ知らず。守護天使は大介の異常反応に引き気味である。
声がしてからいくばくもなく。ふたたび、地面の揺れを感じとる。さっきよりも格段に強い揺れ。草木も歓迎ムードから一変して、震えるように上下に揺れはじめる。
しかし、大介はそんなことはおかまいなし。感動を噛みしめ、両手を握った。
「そうだよな! 象の一匹くらいいてもいいよな! ここは大自然……天然のサファリパークだ!」
「はしゃぎ方がすごいですねー! でもー……」
「思ったよりも声が野太いな! これが野生というやつか! 俺、象を見るのは初めてだよ!」
「うんうんそうですねー。 ただ今はー、早く逃げ……」
「もうちょい近くで見よー」
「全然聞かないですーこの人ー。目がキマっちゃってますー」
守護天使の最後の嘆きさえ、今の彼には塵ほども入ってはこなかった。
地鳴りは一層強くなる。大介の身体も激しく揺らしている。それでもやはり、彼の歩みを止める効力はなかった。
もしかしたら、通常でも考えられない至近距離から象をとらえることができるかもしれない。彼の頭には、それ以外なかった。
「ホ、ホントにー! 逃げないんですかー!?」
「ん? 何だよさっきからボソボソと……」
聞こえていたのだが、今はそれどころではない。人生初の体験がすぐそこなのだ。
「ボソボソなんてそんなー! これが私の精一杯ですー!」
「なにをそんなに? 隠れて見れば大丈夫だろ」
「目、目が怖いですー! いったん、その見開きをやめてくださいー!」
地鳴りはさらに強さを増す。周囲の草木はもはや飛び跳ねそうな勢いだ。
不意打ちのように、木々が倒れる鈍い音が響いた。像が倒したようだ。
象は気性が荒い。テレビで流れていた情報を思い出す。野生とは恐ろしい。しかし待て、この森に倒れるていどの木なんて、生えていただろうか。
茂る木々はどれも偉大だ。その荘厳なたたずまいは、現実のものとは思えない。大介の知る“あの象“が倒せそうな木は。見渡すかぎりは見当たらない。
思念している内に、象はすぐ近くまで寄ってきていたようだ。木々の間からわずかに影が動いている。長い鼻が確認できた。大介の興奮は、最高潮に達していた。
ついに、その姿を肉眼に焼きつける時がきたか。さらに歩み寄ろうと足を踏む。
すると、隙間から象の影を見せていた木が大介のいる方向に傾きはじめたのだ。裂ける音とともに、幹が徐々に大地に影をつくっていく。
「おいおいおいおいおい……」
傾きと呼べる代物ではなくなっていく。倒れるという言葉が、正しい表現となった刹那。大木が身体をかすめる。地表を割る音。吹き抜ける突風と時を同じくして。幹はその巨体を休めるように地面に臥した。
余興にしてはずいぶん命懸けだ。しかし、いよいよ待ちに待った真打の登場だ。心臓の高鳴りが聴こえる。あまりの激しさに、大介の身体そのものをも小刻みに揺らしている。
「んー、ん?」
しかし、倒された木々は余興のため犠牲ではなかったのだ。ただ、邪魔であったからどかしただけ。隙間が狭すぎて、通過することが困難だったための措置であった。
現れたのは、たしかに象。のような見た目をしていた。しかし、明らかに既知のものとは異なっていた。一体、なにをすればこれほどまで成長するのだろうか。目を離すことができない。
巨大なそれは、永遠に伸びた鼻があり、その両端にはスキージャンプができてしまいそうな大きな牙を持っていた。ゴツゴツとヒビ割れた肌をしている。つぶらな瞳をした象である。いくら瞬きを繰りかえそうが、まごうことなき象である。
今一度、足もとから頭上までを確認してみた。やはり象である。も一度、念のため。すると、足もとが地面に沈んでいた。重さに耐えきれなかったのだろう。その事実を加味しても、やはり象ではある。
「え、デカくね?」
神々しく人間を優しく見下ろす大仏も、立てばこんなかんじなのだろう。威圧感で死にそうだ。
「目が可愛いですねー。大介さんも見習って下さいねー」
諦めた様子だ。そんな守護天使の気の抜けた声を聞き、大介は我にかえる。そして、守護天使の発したある言葉が脳裏に蘇る。
「この地球は、規模が違う」
次いで過ぎった言葉は“死“の文字であった。一体、誰が高くそびえる大仏様に喧嘩を売るだろうか。万が一、喧嘩を売った者がいたとして、一体誰が勝てると予想するだろうか。加えて、今目の前にいるのは、無機質なものなどではない。いうなれば、生きた建造物とでもいうべき象。しかも、とびきり気性の荒そうな。
つぶらな瞳は、大介をとらえていた。前足を持ちあげて、前方にある大地を踏みしめる。進行方向には大介がいた。
その瞬間、象が自身に向かってきていることを悟った。思考が終わるのが早いか。大介は身体を素早く旋回させる。いつの間にやら、腕を大きく後ろに振っていた。それと同時に、反対側の脚は地面を強く蹴りつけていた。
「ちょっと待てぇぇええー!」
「おー速い速いー、凄いですよー。ワールドレコード待ったなしー」
全速力で森の中を駆け抜ける。来た道を戻りはじめる。自力で歩くことさえままならなかった身体。今や、木々の間を吹き抜ける風である。これならば、森を抜けるのに5000年もかからないかもしれないなどと、よぎって捨てた。
象も負けず劣らず速かった。どれだけ大介の足が速かろうが、象の歩幅は恐ろしく大きかった。一歩で距離が詰められてしまう。今もなお、振り返れば鼻がいる。毛穴までくっきりと見える距離。ほんの数10センチだ。気を抜けば追いつかれることは間違いない。
「あー、怒ってますねー」
「何で!?」
もう一度振り返る。鼻は大介に巻きつかんと迫ってきている。あたる鼻息はまるで嵐。鼻の表面がよく見える。毛穴までもがくっきりと。その生々しい野生感にギョッとする。グロテスクというか、肉肉しいというか。とりあえず、絵のような可愛らしさはどこにもない。遠目で眺めているほうが良かった。かもしれない。
「さっき貴方が倒したのはー、この森の中央部に位置する神聖な大樹でしたからねー。そりゃ住民たちは怒りますよー」
「それを早く言えよ!」
話を聞こうとしなかったのは大介である。それを考慮に入れても、やはり流石に言うのが遅かったのではないか。補佐するために、馳せ参じた守護天使とは名ばかりか。倒してしまった直後に忠告すべきことではなかったか。
「あったあった! まだ下あった! 怖いもん、わりとすぐ見つかった!」
「口より足動かしたほうが良きですよー。」
「うるせえー! 語尾を伸ばすな!」
読んでいただきありがとうございました。
わかりやすく丁寧にをモットーに頑張ります。