千里の道も一歩から
日差しは夏の装いに身を包み、生命力を遺憾なく見せつけている。しかしながら、さっきとは違い今は草木が自然のカーテンとなってそこに優しさと柔らかさを加えてくれていた。地上に射し込む光は、まるで女神のように大介を包み込んでいる。それは誇張などではなく、まさしく女神というべき神々しさであった。
嗅いだ経験のない香りと、肌に触れたことのない心地良さを感じる。
ゆっくりと、実にゆっくりと瞼が動く。開け方を忘れてしまったのだろうかと危惧するほどにゆっくりと、大介は目を開けた。
「うっ……」
一定を超えたあたりで、突如入り込んできた光に目が眩む。ギュッと再び眼球にフタをして、顔を光から逸らす。しかし逃亡も虚しく、慈悲深い女神様は少年の身体を包み込んで離さない。どうやら、逃げ場はないようだ。また、恐る恐る目を開けてみる。すると、案外すぐに全開にすることができた。人は成長する生き物なのである。彼も今、自分の順応の早さに舌を巻き、成長に感動を覚えている。同時に、彼はあることに気付く。
「あれ、目が開く? あれえ? 俺、死んでない!?」
とっさに起きると、自分の身体をくまなく眺める。身体は確かに存在する。透けて見えることはない。着ている服もそのままで、死後の世界で着ると聞いていた白装束も三角の布も見当たらない。
「んー、幽霊ではないな。……ん? てか俺、身体起こしてんじゃん!?」
ついさっきまでは、起こすことはおろか、寝返りすらもままならない状態だったはず。
「どこも痛くない! 呼吸器も付けてない! 管も通ってない! 奇跡だ……やったよ天才だよ! 今まで難しい事しか言わないインテリクソ眼鏡とか呼んでてごめん……なあ先生! 」
自分の身に起きた奇跡に歓喜する。開いたまま塞がらない口と、幸福と驚きを携えた満面の笑顔で横を見る。
「え……」
しかしそこは。大介の隣は。天才的な先生どころか、白衣の天使も、無機質なカーテンも壁も、点滴も車椅子も何もかも。存在を認めることができなかった。果てしなく続く巨木の一端を見ることはできた。やはり、手入れの行き届いた天井も蛍光灯は見ることができなかった。
「ここ、病院じゃない」
見渡すかぎりの巨木。彼の人生の中だけでなく、おそらく全人類がこれまで見たことがないであろう巨大な木々が鬱蒼としている。まるで高層ビル群だ。右を向き左を向き、もう一度右を向いてみる。どうあがいても果てしなく続く木々と、時々ある謎のキノコ。それに雑草と、呼べるかも怪しいほど巨大な雑草。
「しっかし俺、目良いなぁ」
これまでの人生、ほぼ手元と天井しか見ていなかった。初めてナマで見る森のようすと、これでもか、と入ってくる視覚情報。頭はパンク寸前でも、大介は眺めることを止めなかった。ふと、さっきまで自分が寄りかかって眠っていたのはなんだったのだろうかと感じて、振り返る。
「うわあ……」
感嘆の声は直ぐに消え入り、目に飛び込んできたのはゴツゴツとした木の表面であった。1歩2歩と後退りするが、木の全貌はまだ見えない。もう1歩下がるが、やはりまだ見えない。まっすぐ見てとらえることができないならと、右に目を向ける。続けて左に目を向けた。開いた目が塞がらない。ドライアイでなかったことに感謝する。その木は、他の追随を許さない大きさだった。この木から大地が生えているのではないか、とさえ感じてしまうくらいに。樹齢は一体いくつだろうか。途方もない年月をへてきたに違いない。
「俺、退院してたのか? 記憶ないけども……でも、もしそうだとしてもなあ、親飛んでるし……俺に帰る場所なんてないしなあ。あ、だから捨てられたのか」
「て、いやいやいやいやいやいやいやいやいや……まさか、いやそんなそんな……まさかね。うん……本当に、え?」
再度辺りを見渡すも、やはり人間どころか動物1匹の気配もない。地面を見下ろしても、蟻1匹いやしない。文字通り、大介は膝から崩れ落ちる。絶望した時、本当に全身の力が抜けていくものなのだと、大介は初めて知った。
「嘘だろ……俺捨て……助かったと思ったのに……」
補助なし介助なし。当然、車椅子も杖も必要としない。自分の脚で、自分の意志で立つという。17年間抱き続けた夢がひとつ謎に叶ったこの記念すべき瞬間。これまでの人生で経験してきたMVDもといモースト・バリアブル・ドン底が塗り替えられてしまった。人生最高の瞬間から一変してこの絶望感だ。
「人生はジェットコースター、上がって下がって一回転して元に戻る、ああ、17歳にしてそれを知る俺……」
などと感傷にも浸りたくなる。彼はまだ17歳なのだ。厨二病が抜けかけている段階の、まだまだ未熟な少年なのである。
「ステータスは買えないですよー!」
「え……?」
何処からともなく突然聞こえる謎の声に、辺りを見渡す。しかし、周囲は変わらず草木と時々キノコばかりで。人なんて自分以外にはいない。大介は幻聴かとまた打ちひしがれる。
「だーかーらー、ステータスは買うものではなくってー、天からの“授かり物“なんですー」
ふたたび聞こえてきた声。また周囲を見渡す。当然、人はいなかった。しかし、聞こえるどこか気の抜けた声だ。発している本人はおそらくアホなのだろう。
「誰だ? どこから話しかけている? 『天からの授かり物』だと? 怪しい勧誘ならお断りだ! 俺はもう神だの仏だのは信じないと決めたんだ! もう神とか言っちゃうもんね! “様“なんて付けないもんね!」
「えー全然可愛くないですよー。止めてくださいホントにー。鳥肌すごいですー」
「はり倒すぞ! アホみたいに間の抜けた話し方しやがって! ソッチこそ語尾伸ばして可愛こぶってんのかあ!?」
大介は今とても機嫌が悪かった。ただでさえ、今は谷底にスカイダイビングしてきたのだ。そこに加えて、ついさっき裏切られた神様仏様をまた信仰させようとするかのような“天からの授かり物“というキラーワードを聞かされたのだ。当然といえば当然の帰結というものだ。
「俺はな、毎日毎日祈ったんだ……病気を治して欲しい、自由に生きたいって! もう出来る事なんてそれくらいしかなかったから」
拳を握りしめる。その表情はツラく苦しかった。
「でもやっぱり無理だった。当たり前だ。祈っただけでどうにかなるなら医者なんて必要ない。だからもう俺は祈らない。二度と祈らないと決めたんだ!」
誰とも分からない相手に思いの丈をぶつける。情けなくてこれまで言えなかったことが、こらえていた愚痴がポロポロと口から湧いてきて止まない。相手が見えないことも、誰かも分からないことも。その方が、今の大介にとっては都合が良かった。しかし、そんな大介とは裏腹に、謎の声は変わらず呑気な雰囲気であった。
「おーだからですねー! 貴方は天のおメガネに叶ったんですよー! 最っ高にハッピーじゃないですかー!?」
「意味が分からん。そしていちいち語尾を伸ばすな、腹立つ! てかもう出てこい! 俺にはもう怖いものなんてないんだよ!」
大介はやけを起こしていた。今の状況よりも下の状況などありえるだろうか、いやありえない。ありえてなるものか。さっきまでのナイーブはどこへやら。大介は妙なテンションへと変貌を遂げる。いわゆる、ランナーズハイ的な現象だ。謎の声の持ち主がどこに隠れているのか見当がつかないため、大介はとりあえず隠れていそうな木を指差しながら「出てこいや!」と叫ぶ。
「あ、そっちじゃないですねー」
「じゃあどっちだ!」
今まで、人に声を荒げたことは1度もなかった。ましてや、ケンカなどしたこともない。周りは自分を可愛がってくれていた。その上、声を張り上げるほどの気力も体力も持ち合わせてはいなかった。しかし、今はすこぶる元気だ。加えて、相手の声はかなり馬鹿そうな雰囲気を醸し出している。中々強気に出ることができたのも、これが要因である。というか、最早これが大部分を占める。大介は完全に相手をナメくさっていたのである
「あー! 貴方今私を馬鹿にしてますねー! いけないんだー! この人今私を馬鹿にしましたよー! 私こう見えて結構物知りなのにー! あ、貴方には見えてないんですよねすみませーん」
「本格的にケンカ売ってんなあ!?」
初めて感じる純粋な怒り。森にぽつんと置かれたこの理解しがたい状況と、おちょくってくる謎の声の態度に、フラストレーションは最高潮に達する。ついには、自分が横たわっていた超大木をガンと思い切り殴りつけた。
次の瞬間、ミシミシミシッと妙な音が響きわたった。それは、まるで木がなぎ倒されるような音であった。確かに、大介は木を殴った。それもかなり力を込めて殴りつけた。しかし、相対するは最早、大地を生やしているといわんばかりの母なる巨木である。一瞬だけよぎった考えを、大介は即座に排除した。
「ま、まさかな……」
なおも続く不穏な音。しかし、やはり木がなぎ倒される様な音であった。そして今度は続けて、バキバキバキバキッとなにかが折れる音が響きわたる。以前テレビで見た森林伐採の映像時に流れてきた音である。大介は見上げる。するとそこには、大分斜めに生えた巨木の姿があった。
「あ、斜めだあ」
鳴り止まない悲鳴に、耳を塞ぐこともなく聞き入る。大介は彼女の横たわる姿を確かに目に焼きつける。
「あーあーあーあー……」
耳を割く轟音とともに、巨木は大介とは反対側にに横たわる。文字通り、開いた口が塞がらない状態で、その様子を見つめるしかなかった。
「あーあー、なぎ倒したー。かわいそー、この人この善良な神木を薙ぎ倒しましたよー、あーかわいそー」
言い方はムカつくが、大介にとって今はそんなな些細なことにかまっている場合ではなかった。大介は病院生活が極めて長い。ケンカはおろか、なにかを殴ったこともなかった。自分に木を殴り倒す怪力など、到底あるはずがないことは知っている。
「どどどどどーなってんだ!? 俺にはこんな力が秘められていたのか……なんて事だ……まさか俺の封印されし右手が今、解き放たれたとでも言うのかー!」
「何ベラベラ喋ってやがる。俺は厨二病じゃない!」
「あれ? 違ったかー。良い線いってると思ったのになー」
一度、抱え込める許容量をオーバーしたためか。大介の心は少しずつ落ち着きを取り戻していた。心なしかさっきよりもイラついていない。
「お前、物知りなんだよな?」
「ん? はいー! なんでも知ってますよおー?」
「じゃあ、この状況を説明しろ。もう何が何だか……」
「おー、直球ですねー!」
とにかく、今はこの状況を打開しなければならない。この声の主からは、謎の煽りを感じるが、敵意は感じられない。自身のことを物知りと豪語するこの声の主はアホそうではある。それでも、この状況について、なにかを知っている雰囲気は感じ取れた。
極論、信じるかどうかはあとでも判断が可能だ。情報収集をしなければなにもはじまらない。そのようなことを考えているとは知らず、声の主は「全く仕方ないですねー」などと言いながら、ムダに咳払いをする。すると、今度は打って変わって落ち着いた口調で話しはじめた。
「ここはー、貴方が元々いた世界とは異なる世界線なんですー。つまり、パラレルワールドー的なー? 貴方のいた地球とは全く別の歴史を歩んだ地球なんですー」
「全っ然分わからん」
「でしょーねー。難しく説明してみたんですー。そっちの方が博識っぽいでしょー!?」
「こいつ……!」
大介はもう一度握り拳をつくり、グッと力を入れる。しかし、さきほど背後の大木をなぎ倒した実績があるので、殴りつけることは流石にこらえた。今は、説明から必死で理解しようと試みる。
「つまりあれか、ここはあの世か」
「違いますね」
「否定はや!」
「まーまーそー焦らずにー。時間は“無限に“ありますからねー」
その後、声の主は大介に様々なことを教えてくれた。
まず、ここ大介の居た世界とは別の“異世界“であること。
「別の星って考えた方が良さげか」
「元の概念も捨てた方が良さげー」
大介は元の世界で毎日欠かさず神様に祈り続けた結果、晴れて神様の目にとまり、異世界に転生することができたこと。
「神様ありがとう!」
「現金な方ですねー」
この声の主は大介を補佐するように神様から言われて参上した守護天使であり、ダイスケは以外にはその声は聞こえないこと。
「つまり、ヘルパーだな」
「ジョークが重いですー」
そして最後に、大介が最も願っていたことが、ついに叶ったということである。それは、
「不老不死!?」
「はいー! 大介さんは『長生きしたい』って願われてましたよねー!? なのでー、手っ取り早く不老不死になって貰おうかなとー! 最近の若者はみんな形式的な信仰にとどまる傾向がありましたからー。もー嬉しくなっちゃってー。神様もルンルンですよー!」
「神様でもルンルンする時あるんだな」
「でー、ついでに身体も頑丈で強めにしておきましたー。巨木もなぎ倒す破壊神のごとき怪力ぃー! ホント特別大サービスですよー!?」
「流石にやり過ぎだろ…」
突拍子のないことばかり言ってきてはいるが、この声は、これまでの大介の人生を知っていた。そして、末期だった病は見る影もなく、リハビリなしに動ける身体に、先程木を薙ぎ倒してみせた正しく破壊神の如き怪力。そして、よく考えなくても分かるそこら中に生息する成長過多な植物の数々。信じられないが、信じるしかない状況だ。
「ひとまず信じるか。情報ありがとな」
一応お礼はする。病院でのお爺ちゃんお婆ちゃんたちから散々言われてきた「感謝の気持ちを忘れるな」を今こそ実践する。
「いえいえー」
無事に成功したようだ。「守護天使なので当然ですー!」と声高らかに言っている。
「んー、とりあえずこの森を出たいな。どっちに行けば街に出られる?」
「あー。大介さんから見て左の方角がー、1番近いですかねー」
「どのくらいかかる?」
「5000年ですー」
「え、聞き間違いか? 5000年て……」
とてつもない数字が聞こえてきた気がして聞き返す。聞き間違いか。まさかあり得ないだろう、5000年は流石に。
「あ、正確には5100年くらいかかりますかねー?」
「いや増える増えてる。嘘つけよ! 地球にそんな広い森があるわけないだろ!」
「言ったじゃないですかー。ここは別の歴史を歩んだ地球だってー。この星は確かに地球ですー。でも、大介さんのいた地球とは規模が違うんですよー」
「そんなもん、もはや地球とは呼ばねぇ」
なに言ってんの、みたいなトーンで守護天使はしゃべるが、大介の気持ちは降下する一方だ。困惑しきった頭を抱えてへたりこむ。今にも心が折れてしまいそうだ。
「5100年て、中国だって4000年だぞ……どうすんだよそんなの」
「大丈夫ですよ大介さん! なんといっても貴方は今不老不死ー!」
「それが本当だとしても5100年だぞ!? 街の方が滅ぶわ!」
そう言ってうなだれる大介をよそに、守護天使はフッフッフーとどこか勝ち誇ったような声で笑うので、大介はまたイラつく。
「おっとまだまだ常識にとらわれちゃっていますねー? 言ったでしょー規模が違うんですー! ここじゃあ、中国4000年なんて当たり前なんですよー! きっと大丈夫ですー!」
「まぁ、へこんでも仕方ないか。せっかく動ける様にもなったんだから、楽しまなきゃ損だよな!」
立ち上がると、1度大きく背伸びをする。そして、3度屈伸を重ね、身体を左右にひねる。こんな状況でも、身体を動かせることには素直に感動する。体を動かすうちに、落ち込んでいた気分もも少し浮上した。こんな時には、守護天使の気楽さこそが心地良い。
「よし準備運動完了。とりあえず行くか!」
「おー! 記念すべき第一歩ですねー!」
「そうだな……!」
確かによく考えたら、この森に来てまだ1歩もこの足で歩いていない。守護天使の言っていた通り、自分の力のみで歩く記念すべき第1歩。今まさに踏み出そうとしたその時、突然地面が揺れ始める。中々の揺れで、大介も立っているのがやっとだ。踏ん張らなければ、揺れに負けて倒れ込んでしまいそうになる。ついでに、第1歩もその踏ん張るために踏んでしまった。
「なんだあ? 流石に、もうよっぽどのことがないかぎり、俺も驚かないぞお?」
「おー、強気ですねー! いいですねー!」
「もう驚き慣れたね。一生分驚いちゃったわ!」