(二)ノ4
目が覚めた。部屋は明るい。朝になっていた。鶴岡は室内を見渡し、真奈の姿を求めた。
「出て行ったか」
ぼそりとつぶやき、体を起こす。鶴岡が寝ている間に、どうやら部屋を出たようだ。
安堵と未練。少女がいなくなった事に対し、それらがごちゃ混ぜになって胸に去来した。
鶴岡は首をふりながら立ち上る。アルコールを入れたせいか、感覚的に普段より少し起床時間が遅いようだった。
流し台の水で顔を洗い、薄めた石鹸水で口をゆすぐ。
今までと変わらない朝の習慣。変化のない一日の始まり。
ただ昨夜は、腹一杯に食べたし、ビールも飲んだ。そしてたくさんの会話をした。それらすべてが、随分と久しぶりの事だった。
本当にあの子はいたのだろうか?
ただ夢を見ていただけのような、そんな気にもなりかけたが、ただ部屋を見れば、現実だったのは明白だ。
鶴岡は腰に手をあてて、ため息をついた。
真奈のいた痕跡。飲料の空き缶や、スナック菓子の残骸。たった一晩でひどく散らかっていた。
鶴岡はひっくり返った座卓を元に戻し、散乱したスナック菓子を一つ一つ拾って、それをコンビニの袋にまとめていく。
――殺しちゃおうよ。
昨夜の少女の声が脳裏に蘇り、手が止まる。
もちろん悪い冗談と、取り合わなかった。それで話を切り上げた。だがその言葉が、鶴岡の中で鈍くしていたなにかを刺激する。
鶴岡は両手で自分の頬を張った。パンッと乾いた音が鳴った。
気持ちを切り替えて、片づけを済ませる。ゴミを入れた袋の口を縛り、流し台の脇に置いた。
浴室のドアを開けて、中に入る。洋式便器と洗面台、膝を抱えなければ入れないほどの狭い浴槽にシャワーが一纏めに備わっている。俗にいう三点ユニットだ。
身に着けてものすべてを脱ぎ、頭から水だけのシャワーをかぶった。
全身を冷気が襲う。最初だけだ。毛孔がキュッと閉まる冷たさに耐えると、すぐに体が慣れ、後は楽になる。
頭の中をすっきりさせたかった。油断すると、すぐにあの言葉が入り込んで来ようとする。
両手で顔を何度も擦った。
浴槽の縁に、見慣れぬものが置いてあった。シャンプーとボディーソープの容器だった。ホテルに備え付けられているアメニティグッズのような数回分の小さなものだ。真奈が忘れていったのだろう。
拝借する事にした。
それらで髪と体を洗った。それから洗面器に水を溜める。
先ほど脱ぎ捨てた衣類をその中に入れ、ソープを垂らす。揉みこんでから、シャワーで濯いだ。
ついでだからと、昨日分の洗濯物にも手を伸ばし、同じ事を繰り返した。
シャワーと洗濯を終えると、部屋着にしているジャージとTシャツを身に付け、濡れ髪にタオルをかぶせて浴室を出る。
そして洗い終えた衣類を手に、部屋にある唯一の窓を開けた。
見晴らしはひどく悪い。鼠色のひび割れた外壁がすぐ目の前に迫っていた。
窓枠に手を掛けながら上体を乗り出し、隣の家の壁と屋根で切り取られた空を眺めた。
薄曇りの空だった。汚れた雲が不均等な厚さでまだらに天を覆い、未完成のジグソーパズルのように所々、青い色を覗かせている。
とりあえず、今すぐに雨が降り出す心配はなさそうだ。
鶴岡は軒下に張られたワイヤーに引っ掛けておいたハンガーを手に取り、洗った衣類をしわが出来ないよう、一つ一つ丁寧に干し始めた。
普段の水だけの洗濯とは違い、洗剤の香りが漂って心地良い。
ただそれは、昨夜の真奈からの香りと同じもので、彼女の事を思い返させる。
――殺しちゃおうよ。
また、昨夜の言葉が入り込んできた。
「うるさい」
思わず声に出た。だが、振り払えなかった。体の中にある沼。その奥底にヌルリと沈み込んでいくのを感じた。
深く息をついた。
洗濯ものを干し終え、タタミに腰を下ろす。心を落ち着けようと、座卓の上の煙草に手を伸ばした。が、思いとどまり、結局手にはせず、また腰を浮かせる。
四つん這いで、押入れの前に移動して襖を開けた。引っ越して以来、仕舞いこんだままの段ボール箱の中を漁ると、冊子を取り出した。
それは、かつてカフェをしていた頃に使用していたアドレス帳だった。
ページをめくり、ある人物のものを見つけると、そこに書かれてある携帯番号を暗記する。
ぶつぶつと復唱しながら記憶にしっかり刻み付け、アドレス帳を元の場所に戻した。
再び浴室に入った。洗面台の鏡の前で、乱暴に髪を拭き、丁寧に手で撫でつける。
そしてまた部屋に戻り、押入れから一番まともなチノパンと開襟シャツを取り出して、着替え直した。
外に出た。
道すがら公衆電話を探すが、なかなか見つからない。昨夜立ち寄ったコンビニの前にその姿を認めるまで、結局一台もなかった。
受話器を取り上げ、ポケットをまさぐりながらふと考える。
今の時代、十円でどのくらい話せるのだろうか。そもそも携帯電話につないでくれるかさえ怪しい。
とりあえず手持ちの小銭のうち十円玉は四枚。それをすべて投入した。記憶した番号をプッシュする。
二年前のものだったが、その番号の持ち主は、変わっていなかった。
藤井秀美。彼女は公衆電話からの相手が鶴岡だと分かると、大いに驚きの声を上げた。
四十円でどれだけつながっていられるのか不安が大きいので、相手の反応に付き合ってはおられず、早口に会って話がしたいと伝える。
今は勤務中だが、お昼ごろなら出先から戻る際に時間が取れると言うので、待ち合わせに観音山公園を指定した。
ついでにランチを一緒にと誘われたが、丁重に断った。むろんそんな贅沢が許させる身ではない。
コンビニの店内を覗き、時計を確認すると約束まではまだ、二時間近くの間があった。
鶴岡はその足で本屋へと向かった。
店内に入る。利用客は今のところ少ないようで、やや閑散とした印象を受けた。
昨日はここで真奈と出会い、そしていきなり臀部を蹴り上げられた。
鶴岡は思い返しながらフロアーの中央付近で立ち止まり、店内を見渡した。そして苦笑した。少女の姿を探し求めての行為だと気付いたからだ。
海外作家の小説が並ぶ書架へと向かう。そして昨日と同じ本を選び出し、すぐそばの椅子に腰かけて続きを読み始める。
前回は緊急隊員の若者が、爆撃で崩れた家の瓦礫の中から恋人を捜索する所までだった。
その恋人が見つかったのかも分からぬままに章が変わり、今度は青年兵士の物語だ。
久しぶりの休暇が与えられた青年兵士は、列車での長旅をようやく終えた。そしてついに家族との再会が叶った。
軍務の間、家族への思いに胸を焦がしていた彼は、駅舎で出迎えた妻と子の元に駆け寄ると、人目も憚らずに万感の涙を流して抱きしめた。
休暇は束の間だ。またすぐに戦線へと戻らなくてはならない。妻の夫として、息子の父親として、一緒にいられる僅かな時間を惜しみ、精一杯の愛情を注ぎ込みたかった。
だがそれは、上手くいかない。
妻と子は、彼がいない生活に慣れてしまっていた。押し隠した困惑が漏れて伝わり、それを認められない青年兵士は、気付かぬふりをして空回りを続けた。
さらに追い打ちをかけたのが義理の父親、つまりは妻の実父が居つくようになっていた事だった。
義父は本来なら青年兵士がいるべきポジションにすっかりと収まっていた。
息子は自分よりも義父に懐き、親愛の笑顔を向けあいながら抱擁を交わす。そしてそこに妻が加わり、血縁の輪が出来上がる。
そうなると青年兵士は、ただの余った部品だった。
ついに耐え切れなくなった。青年兵士は逃げるように夜のパブへと駆け込み、独りビールを飲んだ。
そこである若い女性と出会った。同じように独りだったその女性と、カウンターで肩を並べた。
聞くと、彼女は先日の空襲で家を失っていた。彼女自身は別地域の友人の家にいたので難を逃れたが、父親が重傷を負い、母親は死んだ。
緊急隊員が駆け付けた時、母親も息はあったそうだ。すぐに助け出し、適切に処置をしていれば助かる命だった。
なのにその緊急隊員はそうはしなかった。
なぜ? と問いかけた青年兵士に、若い女性が答えた。私を探していたからだ、と。
その緊急隊員は女性の恋人だった。
彼女はその恋人を「愛している」と言った。しかし、深いため息を交えた言葉だった。
今はもう純粋なものでないと、続けた言葉に本音をこぼした。
彼が自分の為に、助けられる命を見捨ててしまったという負い目。それは彼が母親を見殺にしたという、受け入れ難い事実につながる。
だからどうしても、愛情の中に余計なものが混じってしまうのだと。彼女は苦しい胸の内を吐露した。
青年兵士は、その余計なものが何であるかを察した。
なぜ察する事が出来たのか、その理由も分かった。分かってしまった事が、堪らなく嫌だった。
ずっと、家族を想っていた。なのに妻と息子は、自分の居場所を大事にはしてくれなかった。
あっさりと義父に与えてしまい、自分を必要としない幸せな家庭を育んでいた。
なぜ自分は今、妻と息子の元にいないのか。なぜ見知らぬ女性とパブでビールを飲んでいるのか。
悲しみに寂しさを加えると、そこにあるのは、むなしさだった。
そのむなしさはやがて、別の感情を呼び込んでくる。
それは、憎しみだ。
彼女は薄い笑みを浮かべて青年兵士を見つめていた。
彼女もまた、青年兵士に同じものを感じたのかも知れない。
その瞳を見つめ返す。惹かれるものがあった。




