(二)ノ3
「ツルちゃん」
背後で声がした。伺うような声。いつの間にか、真奈がシャワーを終えていた。 鶴岡は涙を止めようとして、すぐにその努力を放棄した。取り繕う気力がなかった。
「恋人が、いたんだ」声が震えた。
「愛していた。心から」
うん、と真奈が頷く気配が伝わった。
「彼女も、オレを愛してくれていると信じていた。でも、違った。由布子は他に好きな人が出来たからと去った。突然だった」
「だから」真奈が遠慮がちに聞いた。
「お店をやめたの?」
鶴岡は首を横に激しくふる。
「由布子もまた、その男に捨てられた。半年も経っていなかったはずだ。あの日、激しい雨の日の夜に、由布子は店の前に立っていた。ひどく、やつれた様子で、ダメになったと」
でも、と鶴岡は嗚咽した。「許せなかった」と言葉を吐き出し、もう一度、許せなかったんだ、と繰り返した。
「拒絶した。受け止められなかった。由布子はすぐに諦めて去った。そして、死んだ」
「え?」真奈は息をのんだ。
「死んだ?」
鶴岡は黙って、自分の左手首を、右の手刀で切るジェスチャーをして見せた。
するとその途端に、体が震え始めた。
雨やさめのごとく流れてい涙が、ピタリと止まった。代わって急に寒気が襲ってきた。小刻みに体が震える。
いい大人が、今日会ったばかりの名前しか知らない少女に醜態を晒している。
頭の片隅に、そんな思いがよぎった。だから鶴岡は震えを止めたかった。
しかしどうすれば止まるのか、その方法が分からない。
すると背後から、腕が首に巻き付いてきた。真奈だった。
寒さに震える体を温めようとしてくれているのか、水だけのシャワーにさらした真奈の体も最初は冷たかった。
それでも時間の経過とともに温かさを取り戻すと、その温もりがじわりと伝わってきた。肌が直接に触れる部分から、ゆっくりと全身に広がる。
どのくらいの時を、そうして過ごしただろう。真奈は辛抱強く、鶴岡の体を温め続けてくれた。
そして気付けば、震えが止まっていた。
人肌に触れるのが久しく、そして心地が良かった。離れ難さに、今しばらくこのままでと、少女の腕の中に身を委ねていた。
「許せないんだね」と、真奈は囁くように言った。
「その人を許せなかった事が。そんな自分が、許せないんだね。だから、すべてを捨てたんだ」
鶴岡は、分からない、と静かに応えた。
「ただ嫌になった。何もかもがどうでもよくなった」
「そう」と、真奈は言い「でもね」と続けた。
「悪くないよ。ツルちゃんは何も悪くない」
「いや」鶴岡はその言葉を拒絶した。
「いいんだ、やめてくれ」
せっかく落ち着きかけた感情が、またザワリと波立った。
「どうして?」と、真奈が聞き返す。
「いいから」
応えた鶴岡の声は、尖ったものになった。
体の内側から、激情が押し寄せてくる。それを鶴岡は、懸命に堪えようとした。
「なんでそんなに自分を責めるの? 何も悪い事してないじゃない」
なのに真奈はお構いなしだ。追い打ちをかけて、鶴岡の神経を逆なでた。
「やめろと言っている!」
堪らずに怒鳴った。同時に真奈の腕を振りほどき、勢いよく立ち上がった。
その拍子に体のどこかを座卓にぶつけ、大きな音がした。
畳の上でしりもちをついた真奈を見下し睨みつける。
天板に置いてあった懐中電灯が転げ落ち、あさっての方向を照らした。そのせいで真奈の姿は半分以上が闇に溶けていた。
「何に怒ったの? 悪くないって言っただけだよ」
「やめろ、二度と言うな」
鶴岡は声を低くして警告した。
――あなたは悪くない。
何度、その言葉を耳にしたか。恋人の由布子が自ら命を絶ち、鶴岡は静かに壊れていった。
取り乱さなかったし、泣き喚きもしなかった。
そんな壊れ方だったせいか、周囲は気付くのに遅れた。気付いたときには鶴岡は自閉していた。
淡々と店をたたみ、速やかにそれまで住んでいた部屋を引き払って、引っ越した。
そして何もないこの部屋で、独り膝を抱えて過ごした。
最初の数日は一歩も外に出なかった。何も食べず、水すらも飲まずに、ただ時間が過ぎ去るのを見送った。
その時にどういった感情だったのか、本人にも分かっていない。ただ時折、涙をこぼしていたので、その時に泣いているのだと、他人事のように知るぐらいだった。
死にたかったわけではない。生きようとする意思がなくなっただけだった。
鶴岡が壊れている事に気付いた周囲の人たちは、さまざまな言葉を投げかけてきた。
そのほとんどが水の底で聞いているかのように不明瞭で、沁みてこなかった。
ただ、
――あなたは悪くない。
この言葉にだけは、ざわつくものがあった。純粋な激励なのだとは分かっていた。
しかしそれが、ひどく耳障りに感じた。
庇ってなどほしくない。
なぜ誰も責めないのか。お前のせいだと、なぜ罵ってくれないのか。
慰めなんていらない。望んでいない。それなのに――
「何度だって、言うよ」と、真奈は一向に構う様子を見せない。
淀みなく言い返してくる少女を、鶴岡はより一層の剣呑さで睨み付けた。
「だって、そうでしょ? ユウコさんだっけ? その人、他の男に乗り換えたんでしょ? そんなの許せなくて当たり前だよ。ツルちゃんは悪くないよ。じゃあ、誰が悪い?」
目の前の少女が不敵に笑った。これはわざとだ。真奈は明らかに鶴岡を挑発していた。
「もちろん、ユウコさん」
鶴岡は大きく息を吸った。殴りつけそうになった。
それを辛うじて堪えたのは、相手が子供だから、だけではなかった。その物言いとは裏腹に、何やら強い意思のようなものを感じたからだ。
「でもね、ツルちゃん。もっと悪い人がいる。誰だか、分かるよね?」
鶴岡はゆっくりと息を吐き出した。
「真奈」と、その少女の名前を呼んだ。
「キミは何が言いたい? オレは誰が悪いとか、そういう事は――」
「ウソだね」真奈が鶴岡の言葉を遮る。
「そんなのウソだ」
「嘘?」
「うん、ウソ。誰だって考える。そして誰だって思うよ。あいつのせいだって」
『あいつ』とは誰の事を指しているのか、もちろんすぐに理解した。
目を背け、考えないようにしてきたその人物。
鶴岡から由布子を奪った男。そのくせ、すぐに捨てた男。
「ねえ、憎いでしょ? あいつさえいなければ幸せだったのに。あいつさえいなければ、ユウコさんはあんな事にはならなかったのに、って」
「だまれ」
鶴岡は手を伸ばし、真奈の襟元を掴んだ。力ずくで少女の細い体を引っ張り起こし、顔を近づけて凄む。
「オレは誰も憎んでなどいない」
「ウソつき」真奈は引かなかった。
「今の自分の顔、カガミで見てみたら? 醜いよ。ゆがんでる。素直じゃないよね。本当はすごく憎いくせにさ」
瞬間、鶴岡は激高した。目の前が白くなった。堪えようとする間もなく、体が動いていた。
何か大きな音がした。
はっと気付いた。鶴岡は真奈を突き飛ばしていた。真奈は壁に体を強かに打ち付けて倒れた。
掠れたうめき声。鶴岡は我に返った。
「大丈夫か!」
慌てて駆け寄り、傍らにしゃがみ込んだ。すぐに返事が返ってこない。
苦しそうな息遣いが聞こえる。
懐中電灯の光りがほとんど及ばないので、表情が伺えない。鶴岡はどうしたらいいのかとおたおたした。
「ん」
やがて真奈が、起き上がろうする気配があった。鶴岡は、少女の両肩にそっと手を添えて、上体を起こすのを手伝った。そしてそのまま、壁を背もたれに体を預けさせた。
「痛いよ、バカ」
真奈は大きく息を吐いて言った。
「すまない。怪我はしてないか?」
「う、ん。たぶん」
「本当にすまない。そんなつもりはなかった」
どうかしている。鶴岡は胸中で自分を罵った。
いくら挑発されたからと、子供相手に暴力を振るっていい理由には絶対にならない。
「大丈夫だよ」
ただ意外にも真奈は優しく、労わるかのようだった。
「いいよ。怒らすような事したのワタシだからね」
真奈の声は急に生気を取り戻していた。どうやら本当に怪我はしていないようだ。鶴岡はその事に安堵した。
そして真奈に問いかけた。
「なぜ、キミはあんな事を?」
「ツルちゃんが悪い」
「ん?」
「ワタシは腹が立った。ツルちゃんの話に、その男が憎たらしいと思った。あんなふうに泣く姿を見て、たまらなく悔しくなった。話をただ聞いただけのワタシですらそうなのに――。でもツルちゃんは憎くないと言う。そんなのウソだ。絶対にそんなはずないもん。だから本音を出させてやろうと」
「だからって――。それで、わざと怒らせたのか」
「ツルちゃんはいい人だと思う。やさしい人だよ。無茶な理屈で居座ろうとするワタシを、何だかんだと放り出せないお人好し。でも、そんなツルちゃんを今の状態にしたのは誰? 誰のせいでこうなった? 恋人を失い、お店を手放して、なにもかも無くした。なんでこんな目に? そんなやつ憎めばいいじゃん。腹立てて当たり前だよ。どうして取り繕うの? なんで見ないふりすんの? 大人だから? じゃあ、今のザマはなに? そんなのカッコ悪いよ」
「憎んでどうする? あいつが憎いと喚けばいいのか? そんな事でカタルシスを得てどうなるというんだ。何も変わりやしない。何の意味もないじゃないか」
「殺しちゃえばいいんだよ。そんな男」
思わぬ言葉に、鶴岡は目を見張った。聞き間違えかと思った。
暗がりに慣れたのか、真奈の表情が見て取れるようになった。
少女は、うっすらと笑っていた。
「ねえ」
ささやく声が耳をなでる。手が伸びて、そっと鶴岡の頬に触れた。
「殺しちゃおうよ、そいつ。手伝うよ、ワタシ」
今度は、はっきりと聞き取れた。その声に戯れの色はなかった。
また少女は笑う。
暗闇に浮かぶ白い顔。
その笑みは、死神でも見るような不気味さを感じさせた。




