(二)ノ2
鶴岡は真奈と共に、アパートから一番近いファミリーレストランに入った。
なんでもよい、とメニューを見ようとしない鶴岡に真奈は、「肉食ったほうがいいよ。肉」と言って代わりに選んだ。
すぐに小鉢に盛り付けられたサラダが運ばれてきた。
それをフォークでつついていると、ものの数分で熱々の鉄板に乗ったサイコロステーキが運ばれ、さらにライスとスープがテーブルに並んだ。
真奈も同じものを頼んでいた。彼女の細い体から見れば、結構な健啖ぶりだが、育ちざかりだ。これが普通なのかもしれない。
一方の鶴岡のほうは、胃が小さくなってしまったのか、思ったほど食が進まなかった。意外とメロンパンが後から効いているのもあった。
味は良いのだが、やはり食べ応えのあるボリュームだった。結局、一人では食べきれなかった。
ステーキを三分の一ほど残して、すでに空となっていた真奈の鉄板と交換した。
とにかく満腹で、そして満足だった。
帰りにコンビニに寄り、炭酸飲料やスナック菓子、そして缶ビールといくつかの乾きものを買った。それらの勘定はすべて真奈が持った。
再びアパートに戻ると、電気のつかない部屋で懐中電灯の光りの中、コンビニで買ってきたそれらを広げる。
普段、懐中電灯は必要最低限にしか使わないが、今夜は仕方ないと鶴岡も割り切った。
鶴岡はビールを飲んだ。あまり強くないというのもあるが、久しぶりのアルコールは良く効いた。
一本飲んだだけで、酔いが回った。そして二本目に手を出すころには、随分と口が軽くなっていた。
ずっと誰かと会話をするという行為に、飢えていたのかもしれない。
「カフェのマスター? ツルちゃんが?」
真奈は意外そうな声上げた。そして「でも、まあ」と、鶴岡に値踏みする目を向ける。
「一応、背はそこそこ高いし、遠目に見ればスタイルもまあ、悪くはない。ぱっと見た感じなら顔立ちも整ってる、ような気もする。それなりの格好すれば雰囲気イケメンっぽいか。案外似合ってたのかも」
「なんだそれは。褒めてるのか?」
「素直な感想」
「ああ、なるほどね」
鶴岡は頷いて、噛み砕いたナッツをビールで流し込んだ。
「そういう人って、やたらカフェとか、気取ったのやりたがるし」
「偏見だ。それは」
「あ、分かった」と、真奈は声を大きくした。
「お店が全く流行らなかったんだ。そんで、つぶれて借金まみれ。今に至る」
どう? と答え合わせを求める真奈に、鶴岡は「はずれ」と首を横にふった。
「お客さんはそれなりに来てくれたよ。小さな店だったがね。雑誌の取材を受けた事だってある」
「雑誌の? へえー、すごいじゃん」
「まあ、地元のタウン誌だが」
「あ、それってまさか『ふくくる』? だったら全然すごいよ。え、じゃあ、ツルちゃんの写真も載ってたりするの?」
鶴岡が頷いて見せると、真奈は膝立ちになり、周囲をキョロキョロと見渡した。
「ねえ、見たい。どっか置いてないの?」
「何年前の話だと思っている。とっくに捨てたよ」
本当は押入れの隅にまだ取って置いてあるが、それを正直に言うほど愚かではない。
ちなみに、その雑誌に掲載された鶴岡の姿は、前日に美容室でかけ直したデザインパーマの髪をワックスで整え、ヒゲは無精風に三十分かけて丹念に手入れをした。
服装も、腰にカフェエプロンを巻き付けた白シャツである。
気取っている。それはもう、お手本のように分かりやすい気取り方だ。そんな写真を真奈に見せるわけにはいかない。
馬鹿にされるのが目に見えていた。雑誌の話をしたのは失敗だったと気付き、鶴岡は後悔した。
「えー、見たかったな。チャラいツルちゃん」真奈はストンと腰を落とした。
「ねえ、ああゆうのって、恥ずかしくなかった?」
「恥ずかしいな」
「だろうね。ツルちゃんみたいに、ちょっとシャイな感じだと余計に、だよね」
「まあ、写真もそうだが、それ以上にあの見出しが――」
鶴岡は失言に気付き、口を紡いだ。
酔いのせいで思考が弱くなっているのか、写真以上に避けるべき地雷に、自ら足を踏み入れてしまった。
「見出し?」
「いや、その時の身だしなみがね」
「ミ・ダ・シ?」
いつの間にか真奈の顔がすぐ目の前にあった。この目ざとい少女は、相手の僅かな色の変化も見逃してくれない。
真奈は鶴岡の手から缶ビールを取り上げると、顔の横で揺らして見せる。
「さあ、言いな。でないと、もう飲ませない」
「なんだったかな。古い話だ。忘れたよ」
嘯いてみせるが、脳裏には紙面に踊った文字列が映像として鮮やかに蘇っていた。
言えない。絶対に。言えば恰好の笑いの種だ。鶴岡は、墓場まで持っていくほどの強い決意をした。
「ツルツルって呼ぶぞ」
「言っても笑わないか?」
即座に方針転換。抵抗は諦め、傷口を最小限に抑える事にした。
「笑わないって」
いや笑うな。守銭奴がお札の枚数を数える時に見せるような、そういう下卑た顔がそこにあった。鶴岡は観念した。
「イケ……」
なおも言いよどむ鶴岡に、期待に満ちた真奈の視線が突き刺さる。
えいくそ、と鶴岡はやけになった。
「イケメンマスターの美味しいコーヒーと、会話が楽しめる隠れ家的なお店を発見!」
言葉を吐き出すと、体が熱くなった。それがアルコールが原因でないのは、本人が理解していた。
発売日にいそいそとコンビニに行き、初めて雑誌の頁を開いたあの時の気恥ずかしさといったらなかった。
何年も経っているのに、今こうして思い返しても、胸がざわついて落ち着かなくなる。
鶴岡は羞恥に耐えながら真奈に目を向けた。
ただ、その真奈はというと、すぐには反応を見せなかった。何やら言葉の続きを待っている様子だ。
だがそれで終わりと分かると、えー、と不満の声を上げた。
「なにそれ」
「なにそれって、え? なに、恥ずかしくない?」
「まあ、恥ずかしいっていえば、そうかもだけどさあ」
真奈は落胆のため息をついて、鶴岡の傍から離れた。座卓の上のスナック菓子を口に放り込み、手にしていた缶ビールで流し込もうとする。
ばか、と鶴岡は慌てて缶ビールを取り返した。
「全然だよ、そんなの。ツルちゃん、もったいぶりすぎ」
「恥ずかしかったんだけどなあ」
「そりゃ、自分でイケメンマスターって言っちゃうあたりはね。恥ずかしいというか、まあ、なに、イタイかな、と」
「オレが言ったんじゃあない。雑誌に勝手に書かれてたんだ」
鶴岡は語気を強く抗議してから、取り戻したビールをあおり、そして首を捻った。
「なに?」
「いや、絶対に笑うと思ったから」
「笑わないって言ったじゃん。約束は守るよ、ワタシ」
いや、違う。笑う気満々だったのだ。ただ期待外れで、笑い飛ばせなかっただけの事だ。
結果として笑われなかったので、良しとすべきところだが。なんだろうか、この釈然としない感じは。
鶴岡は訳の分からぬ敗北感に襲われた。
「でも、さ」
真奈は急に口調を改めた。
「ね、いつからこんな生活を?」
「店をたたんだのは二年ほど前だ。借金は残らなかったが、僅かな蓄えも消えた。家財を売り払って、しばらくは普通に暮らしていたがね」
「なんで、お店を? 順調だったんでしょう?」
「ああ、順調だった」
「だったらどうして?」
鶴岡はその問いには黙して応えず、ビールを一口飲んだ。急に苦く感じて、思わず顔をゆがめた。
その様子で、回答を得るのは無理と判断したのか、真奈は、ふうと息をついた。「さて、と」気持ちを切り替えたように言った。
「もう寝ようかな。ねえ、シャワーは使えるんだったよね?」
「ああ、水だけだが」
「この際、贅沢は言いません」
真奈はそう言って、よっ、と立ち上がる。鶴岡は懐中電灯を手にして、浴室のドアを照らした。
「あそこだ」
「どうも」
真奈はボストンバックを手にして浴室の前に立つと、鶴岡のほうへと向きなおった。
「言っとくけど変な気起こさないでよ。手出してきたら、インコーってやつだからね」
「子供に興味はない」
鶴岡は懐中電灯の灯りを真奈に向け、服の上からでも真っ平らだと分かる胸元に目をやりながら、この上なく冷めた口調で言った。
「言ってくれるじゃん」
真奈は腰に手を当てて、その胸を突き出すように反らしながら、フンと顔を背けると、体を反転させて浴室へと消えていった。
確かに真奈は美人だが、やはりまだ少女だ。鶴岡の食指が動くには幼すぎた。
程なくして、勢いのよい水の音が聞こえてきた。直後に「ひやっ!」と短い悲鳴が上がる。
鶴岡は小さく鼻を鳴らした。半袖でも過ごせる時期ではあるが、それでも水だけのシャワーは最初、驚くほどに冷たい。
絶え間なく続く水の音。それは雨を連想させる。
雨の音は嫌いだ。嫌いになった。
鶴岡は胡坐を組み直し、ビールを啜った。
苦い。先ほどよりさらに苦い。
応急的に塞いでいただけの傷口。それは、こんな些細なきっかけで、容易く開いてしまう。
真奈のせいだ。あの少女のせいで、疼く。余計な事を聞いてきたから。
雨に濡れそぼる由布子の姿――
頭の中でフラッシュバックした。
まただ。
二年が経ち、時間は感情のごまかし方を教えてくれた。
でも、それだけだった。決して癒してくれるわけではなかった。
だが、それでいい。この痛みすら愛おしい。
ポタリと、手の甲が滴で濡れた。
鶴岡は、それで自分が泣いているのだと気付いた。




