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唇歯輔車  作者: akisira
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(二)ノ1

「真奈」と少女は名乗った。観音山公園からアパートへ戻る道中に自己紹介をした。

「中三」らしい。どこの中学かは言わなかった。

 鶴岡も名乗った。

「じゃあ、ツルちゃんだ」

 二秒で年上に対する敬意を微塵にも感じられないあだ名を付けられた。

 今年で四十になると言うと、真奈と名乗った少女は興味なさそうに、ふうん、と口を尖らせ、「若く見えるよ」と申し訳程度のお世辞を言った。


 二人は鶴岡以上に年を重ねているであろうアパートの前で立ち止まった。こちらはお世辞にも若くは見えないようで、配慮を持たない中学生は、うわぁ、と正直に顔をゆがませた。

 暮れなずむ空を背景にすると、より草臥れた感が強調されるそれは、二階建て全六戸の古いアパート。鶴岡は二階の端の部屋を借りていた。とはいっても、ここしばらく家賃は払っていない。


 錆びついた鉄骨階段を上がる。根元が朽ちかけており、少女の体重分、普段よりも揺れた気がした。

 ドアを開けると、部屋は外より暗いが、まだかろうじて物の識別は可能だった。

 実は外観ほどに部屋は見すぼらしくない。

 随分と以前に一度、リフォームの手が入ったらしく、畳敷きの一室と狭いながらも、公団流しとユニットのバス・トイレが備えつけられてあった。


「おっじゃましまーす」

 借主に先駆けて上がり込んだ真奈は、壁のスイッチを探り当てて押す。だが、変化は起こらない。

 パチ、パチ、とスイッチを何度か切り替えるが、やはり暗いままだ。

「点かないよ。もう電気は止められている」

 後から続いた鶴岡の言葉に真奈は、あらら、とおどけて見せた。

「ガスもだ。しかし水だけは今のところ使いたい放題」

「どうせ、払う気がないから?」

「水も止められるのが先か、滞納した家賃に痺れをきらした大家に追い出されるのが先か」

「どっちにしても、ここでの生活も残り少ないって事だ」

「そうだ」

「でもさ、全然キレイだよね。外見た時はもっとグッチャグッチャかと覚悟したのに」

「売れるものは全部売った。買うものがなければゴミは出ない。ものが無ければグチャグチャになりようもない」

「あ、なっとく」

 真奈はぐるりと周囲を見渡した。しかし薄暗く、殺風景な部屋では目に留まるものがなかったらしい。

 すぐに畳に腰を下ろし、傍らの座卓の上でほお杖をついた。

「ねえ、ツルツル」

「基本的に、どう呼んでくれても構わないが」鶴岡は中三の子供相手に覚えた若干の苛立ちを抑えながら言った。

「それだけは勘弁してくれ」

「なんで?」と、真奈はきょんとした声を上げる。

「可愛いのに」

「子供のころ、その呼び方で散々に揶揄われた」

「ツール、ツル?」

 真奈は、自分の頭を撫でる真似をしながら節をつけて言った。

「忘れもしない」


 鶴岡は頷く。

 小学二年生の時だった。授業中にも関わらず前の席の男子が振り返り、当時坊主頭だった鶴岡の頭を撫でたのだ。「ツール、ツル」と歌いながら。

 クラスは一瞬の静寂の後、教室を爆笑で包みこんだ。窘める立場のはずの若い女教師も一緒になって笑った。

 傷ついた鶴岡少年は、坊主頭をやめる事を決意するが、その髪が伸びるまで揶揄いは続いた。

 以来、今日に至るまで鶴岡は常に髪を長く伸ばしている。

 禿げたらどうしようかと心配していたが、幸いにも中年と呼ばれる年代に入っても、まだその気配は漂ってはいない。


 そっか、と真奈は頷いた。

「じゃあ、やめとく」

「そうしてくれ」

 座卓の傍らという普段の居場所を奪われた鶴岡は、仕方ないので部屋の隅の壁を背に片膝を立てて座り、それで、と言った。

「なんだ?」

「ん?」

「いや、さっき呼んだろ。何か聞きたかったんじゃあないのか」

「ああ、そっか」

 真奈は苦笑したが、その表情はひどく見辛くなった。僅かな間に日がかなり暮れていた。部屋は一層と暗くなっていた。

「それでね、えーと、ツルちゃんはさ」と、真奈は素直に呼び方を改めた。

「働く気はないの?」

「なぜ?」

「なぜ、って?」

「いや、なぜ、オレが働いてないと?」

「平日の昼間から公園で居眠りとしゃれ込むのは、まあ、いろんな時間に働く人がいるから、あれだけどさ。でも、電気もガスも止められて、いつ部屋から追い出されるか分からない生活をしている人を見たらさ、普通に思わない? ああ、こいつ働いてないな、って」

「なるほど」と、鶴岡は得心した。

「確かに思うな」

「でしょ」

 真奈は言って、腰を浮かせると、四つん這いになって鶴岡のすぐそばに寄って来た。そして迷いなく鶴岡の肩口あたりに顔を埋めた。

 シャンプーだろう。清潔感のある芳香が、鼻先をかすめる。

「そんな、臭くはないんだよね」

 真奈は顔を上げてその場に座り直すと、暗がりに鶴岡の顔を見つめた。

「無精ひげで髪も伸び放題だけど、みすぼらしいってほどでもない」

「せっかく水は使いたい放題なんだ。使わなきゃ損、だろ? お湯は出ないが、この時期なら問題にはならない」


 本屋通いの為に、最低限の身だしなみに気を使ってはいるが、理由はそれだけではない。生来の性分なのだろう。

 部屋は綺麗に片付け、シャワーで毎日体を流している。衣類は洗った物しか身に付けない。

 こんな生活をしていても、その几帳面さは失われないようだ。

 真奈はまた周囲を見渡した。


「テレビはない、よね」

「速攻で売った」

「何か、音楽とか……」

「スマホ、持っているんだろ。それで勝手に聞いててくれ。ああ、イヤホンはするように。この部屋は壁が薄い。ご近所迷惑になる」

 盛大なため息が聞こえてきた。

「退屈な部屋だね」

「確かに認めるよ」鶴岡は頷いた。

「宿選びに失敗したんじゃあないか? 日は暮れてしまったが、まだ大丈夫。他をあたりたかったら、出て行ってくれて構わないよ」

「そこまで露骨に邪魔扱いされると、意地でも居座りたくなるわね」

「そんなつもりはないぞ。決して」

 鶴岡が慌てて取り繕うと、「まあ、いいわ」と真奈はニヤリと笑った。そして、とりあえずさ、と言った。

「ご飯、食べに行こうよ」

「いや、オレはいい」

「なんで? おなか空いたでしょ。ワタシは空いた」

「行きたいなら、キミ一人で行ってきなさい。ここに帰ってきても構わないから」

「一人で食べてもつまらない」

 真奈は立ち上がると、鶴岡の手を取って引っ張り上げようとする。

「ほら、行こうよ。あ、お金なら心配しなくていいよ。おごっちゃる」

「パン一個でこれだ。今度は何を要求されるか分かったもんじゃあない」

「大丈夫だって。何も頼まないよ。約束する」


 しかし鶴岡は動かなかった。中学生の子供に、夕食を奢られるのはかなりの抵抗感だ。かといって、自分の分だけでも払うという贅沢も許されない。

 真奈は鶴岡の手を離して腕組みをすると、呆れた顔で見下ろしてきた。

「頑固じじい」

「なんとでも言え」

「仕方ない、か」

 むー、と唸っていた真奈はやがて、ため息と共にそうつぶやいた。そして鶴岡が今背もたれにしている壁を頭上で数回、軽くノックした。

「うん、確かに薄そうだね。この壁」

「なんだ、急に?」

「大声だすよ」

「は?」

「それで、人が集まってきたら泣きながらこう言うの」と、泣き真似をして鶴岡を指さす。

「この人に無理やり連れ込まれたって」

「なっ!?」


 思わぬ言葉に鶴岡は真奈の顔を見上げた。暗がりに少女の目が怪しげに光っていた。

 勝手にしろ、とは言えない。言えば本当にやる。そんな雰囲気が、この子にはあった。

 無理やり押しかけてきたのは真奈のほうだ。

 だが、どんなに鶴岡がそう訴えても、世間は見た目だけは可憐な少女の言葉を信じるだろう。

 そもそもが、未成年者を部屋に入れているこの時点で、鶴岡は咎められる立場にあるのだ。彼女がその気になれば、簡単に略取誘拐犯の誕生である。

 鶴岡は自分がそういう危うい立場になっている事に、今さらに気付いた。


 背筋に冷たいものが走る。母親や弟の顔が浮かんだ。

 無職、中年、少女誘拐、監禁、ロリコン――

 生きる事に希望もなく、無為に過ごしてはいるが、それでも言われないレッテルを張られるのは御免だ。


「ワタシ、ここ気に入っちゃった」

「そ、そうか」

「ねえ、この部屋に好きなだけ居てもいいかな?」

「もちろんだ。何もない退屈なところだが、気の済むように使ってくれ」

 鶴岡は応えながら、少女の狙いがここにあったのだとようやく理解した。

 家出少女にとって大事なのは、都合の良い定宿の確保。それが今決まったという事だ。

 食事での買収が難しいと判断すると、即座に強攻手段に打って出る。

 恐ろしい子だ。

 とても勝てる相手ではないのだと、鶴岡は身に染みて実感した。

「で、ツルちゃん。おなか空かないの?」

「空いている。じつはすごく空いている」

「素直でよろしい」真奈は笑う。

「じゃあ、行こうよ。ごはん」

 真奈は再び鶴岡の手を取った。鶴岡は最後の意地で若干の抵抗を示したが、結局、促されるままに立ち上がった。

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