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唇歯輔車  作者: akisira
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(九)ノ6

 この日は、朝から店内を掃除する事にした。カウンターやテーブルを水拭きして床を掃き、シンクを丁寧に磨いた。照明器具も全て外して埃を拭った。

 真奈は精力的に動いていた。店内が洗剤の爽やかな香りに包まれる。

 鶴岡もそれなりに頑張ったが、捻挫した足では満足に動けずに、大した戦力にはならない。


「役立たず」

 真奈がそう罵ってきた。だが表情は穏やかで、口調も柔らかい。

「コーヒーを淹れよう」

 一息つく事にして、鶴岡は厨房に入った。

「冷蔵庫にオレンジジュース入れてる。ワタシそれでいいや」

 真奈がカウンター席に腰かけながら応える。

「なんだ、それ。おい、コーヒーの味覚えるんじゃあなかったのか?」

「焦る事はない。今はコーヒーより、オレンジジュース」

 頬杖を付いて真奈は笑った。

「ったく」


 鶴岡は、冷蔵庫からオレンジジュースの紙パックを取り出すと、グラスにそれを注ぐ。

 注ぎながら少し考えて、グラスをもう一つ用意した。この際、鶴岡もオレンジジュースで良くなったのだ。

 真奈にグラスを差し出すと、彼女はジュースを一気に飲み干した。フーと息をついて、おかわりを要求して空になったグラスを返してきた。

 ねえ、と真奈は何を思い付いたのか、急に立ち上がると、畳敷きの小上り席へと向かった。


「やっぱりさ、ここはぶっ壊すよね。んで、パーテーションで区切ってカップル席にするのはどう?」

 いや、と鶴岡は、グラスにオレンジジュースを新たに注ぎながら首を横にふる。

「なんだか、勿体ないな。せっかくあるんだし。タタミは貼り替えるにしても、和室のあるカフェなんて斬新な気もする」

 鶴岡の意見に、えー、と不満の声が返ってくる。

「ダサいよ。そんなの。絶対に壊すべき。んで、区切って、カップル席を――」

「このフロアーの規模で仕切りを入れると狭ぜましくなるぞ。それに、死角を作れば給仕の目が行き届かくなる。反対だ」

「ああ、そう。じゃあ分かった。いいよ、カップル席は諦める」と、真奈はむくれ顔で言う。

「でも、壊すのは壊すからね」

「まあ、そこは議論の余地ありだな」


 じゃあ、じゃあ、と真奈は気を取り直してまた戻ってくると、今度はカウンターの上へと両手を乗せた。

「このカウンターは? ぶっ壊すよね。とーぜん。んで、新しく作り直す。色はさ、パステルな感じがいいと思うんだけど」

「キミはなんでも壊したがるな。ご両親のお店だろうに」

 オレンジジュースのおかわりを手渡しながら、鶴岡は抗議した。

「いいじゃん、新しく生まれ変わるんだし」

「いや、このカウンターは結構気に入ってるんだ。壊すのはあまりにも惜しい。木目を残したまま、もっと深みのある風合いに塗り直せば趣が出てだな――」

「ツルちゃんは何でも残そうとしすぎ。どこかで思い切りも必要だよ。それにそんなの可愛くない」

「可愛くしたくはないぞ。こう全体的に、シックで落ち着いた感じがいい」

「い・や・だ。そんなの。絶対に可愛いくすべき。お花やリボンで飾り付けして、熊のぬいぐるみも」

「オレにそのファンシーな中でコーヒーを淹れろと?」


 ふふん、と真奈は不敵に笑う。

 ここまでくるともはや彼女の趣味でもなさそうなので、おそらく鶴岡が嫌がる事をわざと言っているのだろう。

 鶴岡はやれやれと、自分の分のオレンジジュースのグラスに口をつけて傾けた。

 果汁の割り合いが低いようだ。シロップの甘ったるさが口の中に広がった。

 その甘さに顔をしかめながら、ふと、壁に掛けられた時計に目がいく。


「おっと、こんな時間だったか。そろそろ行くかな」

 真奈も振り返り、時間を確認する。

「もう? 少し早くない?」

 いや、と鶴岡は自分の足元に目を落とす。

「この足だからな。遅刻はしたくない」

「そっか、そうだね」

 鶴岡は、グラスの底に残ったオレンジジュースを飲み干して、流しの中に入れた。

「ああ、いいよ。洗い物はしておくから、ツルちゃんは行ってきなよ」

「そうか? なら、頼んだな」

 鶴岡は厨房から出ると、真奈と正面から向き合った。

「じゃあ、行ってくる」

「吉報を待ってる。しっかりね」

 真奈は真剣な面持ちで、そう力付けた。

「ああ」

 鶴岡は出入り口に向かい、引き戸の取っ手に手を掛けたところで振り返る。

「店の改装については、譲れないものもある。帰ってからこの続きだ」

「望むところよ」


 真奈は、力瘤を作るマネをして応じた。

 鶴岡は声に出して笑った。笑いを残したまま外に出た。

 晴れてはいたが、少し湿り気を帯びた空気。空を見上げ、眩しさに目を細める。

 澄み渡った青空。灰色交じりの白い雲。

 今日も暑くなりそうだ。日ごとに夏の気配が色濃くなってくる。

 鶴岡は右足を引きずりながら、ゆっくりと歩き出した。


 あれから五日が過ぎていた。藤井秀美のその後は知れない。彼女もあの時点では何も決めていなかった。

 これからどうするつもりだ、という鶴岡の問いに、秀美は、さあ? と曖昧に首を傾げた。

 秀美の手から包丁を取り戻そうとすると、大丈夫ですよ、と彼女は抵抗をしなかった。

「死ぬつもりはありませんから」

 鶴岡の心配を見透かし、薄く笑った。ただ、と言葉をつなげた。

「だれも知る人のいない、どこか、遠くへ――。行こうかな」

 そして、フラリ、フラリと夢遊病者のようにおぼつかない足取りで、藤井秀美は鶴岡たちの前から姿を消した。


 後には鶴岡と真奈の足もとに、今は死体となった西村が横たわる。着ている服の色が変わっていた。首に刃物を突き立てたのだろう。襟元から広がる血で染め直されていた。

 鶴岡は、どういう感情を持ち出せばいいのか分からないままに見下ろした。

 復讐は失敗したはずだった。それなのに西村は、こうして死体となった。

 望んだ結果が目の前にあった。


 真奈はしゃがみ込み、西村をまじまじと見つめている。

 中学生の子供に見せるべきものではないのかもしれないが、それもいまさら感は拭えない。そのあたりは鶴岡も感覚が麻痺していた。

「ねえ、ツルちゃん」と、真奈が平坦な声で言った。

「こいつ、まだ生きてる」

「なんだと?」

 鶴岡は驚きながら、すぐに腰を落とした。西村を仰向けに寝かせ直して顔を見つめる。

 とても生あるものとは思えない。念の為に左胸の上に頭を乗せて、耳を済ませた。

 鼓動は聞こえない。もう一度西村の顔を覗き込む。

 やはりどう見ても、もはや魂のない抜け殻だ。確実に死んでいた。

 言葉の真意を探るべく、真奈のほうへ顔を向けた。真奈は首を横にふる。

「生きてるよ、まだ」

 また言った。そして「ツルちゃん、包丁、貸して」と、手を伸ばしてきた。


 それで理解した。真奈は自分の手で終わらせたいのだ。そうしなければ、彼女の復讐は遂げられた事にならないのだ。

 鶴岡は持っていた包丁を差し出した。真奈はそれを受け取ると、両手で柄を握った。

 そして西村の心臓を目指して、胸の上に刃を突き立てる。

 震えていた。力が入っていなかった。


 鶴岡は、真奈の手に自分の手を重ねて包み込んだ。真奈が鶴岡に目をやる。鶴岡はその目を見返した。

「約束だ。一緒にやろう」

 うん、と真奈は頷いた。手の振えが止まるのが伝わった。

 鶴岡は力を込めた。硬い粘土のような抵抗が最初にあって、後は、ぬるりと入っていった。

 刃が、心臓に達した。


   *


 鶴岡は、自分の手のひらを見つめた。あの時の感触はまだ消えてない。

 人を刃物で刺した。死んだ人間をもう一度殺した。その罪は感触となって手に残り、真奈と分け合った。


 これで終わったわけではない。すべき事がまだ一つ残っている。

 死体の後始末。

 当初の予定通り、あの古墓地に埋めるつもりだが、この足で死んだ大人を担いで山の中を運ぶのは無理だった。

 今はとりあえず、あの場で落ち葉交じりの土をかぶせて隠している。


 大丈夫だ。鶴岡はそう自分に言い聞かせる。

 山裾とはいえ、あそこに踏み入れる者などいない。あと数日の我慢だ。まともに歩けるようにさえなれば、すぐにでも埋め直す。

 それで復讐は完遂となる。

 そして鶴岡は、真奈と一緒に未来へと歩き出すのだ。今日はその第一歩。面接日だった。


 ある洋食店の調理担当の求人に応募した。

 もし働けるようになれば、まずは今まで滞納していた家賃を払うつもりだ。それから、いつまでも真奈の家に居候するわけにもいかないので、新たな部屋を探す。

 そしてお金を貯めよう。店の改装と開店の為の資金だ。

 真奈が進学し高校を卒業するまで、まだ三年以上ある。それまでに出来る限りのお金を貯めておきたかった。


 面接に臨むにあたりスーツが必要になった。最初は真奈の父親のものを拝借するつもりだったが、サイズがまるで合わなかった。胴回りがゆるく、手足の丈が足りない。

 そこで弟の義行に連絡を取った。背格好は近いので問題ないはずだ。


「働きたいと思う」

 昨夜に電話で伝えると、義行はほっとしたような声をだした。そしてとても喜んだ。

 「そうか、兄貴。そうか……」

 そう呟いて、言葉を詰まらせた。

 今までさんざん心配をかけてきた。これを機に、以前のような仲のいい兄弟に戻れるかもしれない。

 そんな希望が見えた気がした。少なくとも、兄はそうなりたいと願っている。

 母だって、きっと分かってくれる。


 その義行の家に行くのには、実はまだ多少の余裕があった。鶴岡は寄り道をした。

 観音山公園を目指す。

 気になって仕方なった。胸の内が燻られている。

 だから確認しておきたかった。その為に早く出かけたのだ。見つかっていないか。何か変わった事が起きていないか――

 この胸騒ぎはただの勘違いだと、そう安心したかった。


 なのに、嫌な予感ばかりが当たる。

 公園の入り口が見えてきた。鶴岡は異変に気付いた。

 何やら騒がしい。いつもは閑静な気配の公園の入り口に、今日は多くの人が集まっていた。

 そうであってほしくない。認めたくない。

 だが近づけば、切実なまでの願いとは裏腹に、心の中ではすでに確信へと変わっていた。

 警察車両が止まっていた。


 目の前の景色が、ぐにゃりと歪んだ。背中に不快な汗が滲み出した。

 怖くなった。もうこれ以上は近付けない。歩けない。

 鶴岡は立ち止まった。

 見つかってしまった。西村が、見つかってしまったのだ。

 先ほどまで思い描いていた未来への道。それは、あまりにあっけなく終わりを告げた。

 やはり人を殺した者には、その道を歩む資格がなかった。

 そういうことだ。


 鶴岡は震える手で、胸ポケットから煙草のパッケージを取り出した、中を見るとあえて残しておいた最後の一本。

 それを取り出して、口にくわえた。火を点ける。

 真奈と初めて会った日、このタバコをもらったときの彼女の言葉を思い返していた。

 ――それ、全部吸い尽くすまで相手してね。


 これで最後。すべてを吸い終わる事になる。

 名残り惜しかった。ゆっくり、せめて、ゆっくりと吸おう。

 煙を吐き出す。薄く立ち上る煙の行き先を目で追う。

 見上げた視線の先、ふと気付けば、空がいつのまにか薄暗く雲に覆われていた。

 なでるように風が頬に触れる。

 雨の、匂いがした。


   *


 真奈はカウンターにうつぶせて眠っていた。

 夢を見ていた。

 父が料理を作り、母が盛り付ける。真奈は姉の理沙と一緒に、手伝いに借り出されていた。

 無口な父の背中を見つめる。母がカウンター越しに客の軽口に合わせて陽気に笑う。姉は酔っ払いを嫌って、しかめっ面だ。

 実際にはこんなふうに手伝ったりはしなかった。父がお酒の場に娘たちを出すのを嫌がったからだ。

 真奈はこれが夢だと自覚した。


 夢と現を行き来する。そうしているうちに、いつの間にか登場人物が変わった。

 香ばしい、コーヒーの匂い。

 改装された店内は結局、鶴岡の意見が概ね採用されたものになっていた。

 小上がりは取り払っていたが、そこには新たなテーブル席が設けられていた。カウンターはこのままだ。

 ただその端っこで、リボンの首輪をした熊のぬいぐるみが場違いに佇んでいる。なんだか肩身が狭そうだ。


 調理場を切り盛りする鶴岡は、とても忙しく動き回っている。

 でも、充実した顔だった。無精ひげを蓄え、長く伸びた髪を束ねていた。

 鶴岡は長い方が好きらしいが、真奈は短い方が似合っていると思う。だから、またどこかで切ってやろうと目論んでいる。


 真奈はエプロン姿。甲斐甲斐しく働く。フロアを行ったり来たりで、看板娘の面目躍如だ。

 パスタがあがった。二人で考えたオリジナルだ。リングイネを特製のクリームソースで和えて、上から千切ったルッコラを散らした。

 カウンター越しに鶴岡から手渡しで受け取る。目と目が合う。この瞬間がたまらない。

 ああ、と真奈は胸をときめかせた。

 とても満ち足りていた。幸福感にひたりながら客席へと運ぶ。


「おまたせしましたっ」


 とびっきりの営業用スマイル。

 カウンターの上で一人眠る、少女の口元に小さな笑みが浮かんだ。

 店の外では、ポツリと空が泣き始めた。



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