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唇歯輔車  作者: akisira
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(九)ノ5

 鶴岡と真奈が観音山を下り始めたころ、雑木林に切り取られた向こうに見える空は、低い位置から光がこぼれていた。金色と暁色の波が、薄い色の空を少しずつ浸食していく。

 朝を迎えようとしていた。

 だが、空の明るさに反して、樹木に覆われた空間は依然と暗いままだった。木々の形で縁取られた黒い影が永遠と続く。


 鶴岡は満身創痍だった。頭部の裂傷、全身のいたるところが打撲し、そして右足首を捻挫していた。

 骨に異常はなさそうだが痛みが酷く、力がほとんど入らない。真奈の助けがなければ、落ちた崖を登るのも無理だった。

 歩くたびに激痛が走る。それが真奈をより落ち込ませた。軽はずみな事をしたからだと、何度も謝ってきた。


 真奈に体を支えてもらいながら、ゆっくりと下山する。ほとんど無口で、静かにただ、淡々と進んだ。

 山裾の大池の縁近くまで下りたとき、真奈が人影に気付いて、腕を引っ張って、鶴岡に知らせた。

 真奈は怯えた様子で、鶴岡の後ろに姿を隠した。

 西村だろうか。

 警戒しながら目を凝らす。木々の麓、人の姿はまだ黒塗りとなっていたが、ただ西村にしては小柄すぎた。

 髪が肩口あたりでゆれた。女性のようだ。


「ああ、やっときた。遅かったですね」

 その影の主が声を掛けてきた。それで鶴岡は気付いた。

 まさか、なぜ彼女がここに?

 大丈夫だ、真奈にそう伝えて、支えてもらいながら近づく。影が薄くなり、目鼻と口が描かれる。

 やはりそうだ。藤井秀美がそこにいた。何やらうつろな表情で、鶴岡の顔を見つめている。


「なんで……」

 鶴岡は言葉を失った。

「ツルちゃん!」

 真奈が金切り声を上げる。見ると、藤井秀美の足元を指さしている。その指の先に何か、いや、人が横たわっていた。

 トレーニングウエア姿の男。間違いない。西村だった。

 微動だにしない背中。状況的にもちろん眠っているわけではないのだろう。

 ごくり、と唾を飲み込む音が、横から聞こえた。


 鶴岡は秀美を見た。だらりと力なく下げられた手に、包丁が握られていた。その刃が黒く染まっている。

 鶴岡たちから西村が奪い、それをまた秀美が奪ったのか。

「私は、また、間違えたのですね」

 秀美は放心したような表情の中に、微かな悲哀の気配を浮かべた。

「あなたに、こんな事をさせたかったわけでないのに」

「なぜ……、キミが」

 鶴岡は辛うじて声を絞り出す。

「贖罪、でしょうか」彼女が応えた。

「私が間違ったから。だから、せめてその始末は、自分でやらなくてはいけません」

 この子を、と秀美は真奈に目を向けた。

「引き合わせたのは、由布子さんを失ってからのあなたを、彼女に変えてほしかったから。立ち直ってほしかった。ただそれだけ。なのに、まさか二人で結託して人を殺そうとするなんて……」

「だからといって」

「由布子さんを死なせてしまったのは、私が浅ましく余計な事をしたから。なんで私は、こうも間違えてばかりなのでしょうか」

「それは違う」鶴岡は、ようやくまともに声が出せるようになった。

「由布子の事で、キミが責任を感じる必要はないんだ」

 いいえ、と秀美は首を横にふる。

「ずっと悔いていました。あの時の私は最低です。表ではマスターにも由布子さんにもいい顔をしながら、裏では二人を別れさせようと……。由布子さんが死んで、マスターが壊れて、あなたの心を由布子さんが占領してしまって。私、どうしたら償えるのか分からなくなって」

 すみませんでした、と秀美は深々と頭を下げる。

「いいんだ」鶴岡は足を引きずりながら駆け寄って、秀美の肩に手を添えると腰をかがめて目の高さを合わせた。

「これは、由布子の事は、どうにもならなかったんだ。キミのせいではないんだ」


 秀美は頭を上げると、切なそうな表情のまま、首をまた横にふった。

 そして今度は、真奈に向けて頭を下げた。

「ごめんなさい。私がマスターの事を話さなければ、あなたも人を殺そうなんてところまでに行き着かなかったかもしれないのに」

 真奈は、そんな事ないと静かに言って、足元に横たわる西村に目をやった。

「ワタシは最初から、西村を殺すつもりだった。この男を殺してやりたいって。そればかりだった。でも孤独で、どうしたらなんて分からなかった。だからワタシ、感謝している」

 そして真奈は、視線を鶴岡へと移す。

「この人と、引き合わせてくれて」

 秀美は少しだけ意外そうな顔をした。そうだったの、とだけ応えて小さく頷いた。

「マスター」と、また鶴岡へと顔を向け直した。

「私がこの男を殺しました。この男がいなくなって――。これで、由布子さんから解放されますか?」


 鶴岡は秀美の顔を見つめ返した。藤井秀美は、本当に自分の事を想ってくれていたのだと身に染みた。

 彼女の真摯な心を、若い子の一時的な気の迷い、などと軽く考えていた自分が恥ずかしかった。

 鶴岡は、藤井秀美の思いを受け止めようと、しっかりと頷いた。

「少しは、私の事も、マスターの心に残りますか?」

「ああ」

 鶴岡は、もう一度はっきりと頷く。

「ずっと?」懇願するような目で、鶴岡の真意を探ってくる。

「ああ、ずっとだ」

 そう応えた。嘘はない。確信して返事をした。

「良かったあ」

 秀美は胸に溜った息を交えて呟き、笑みを浮かべた。

 それはアルバイト学生であったあの頃のように、少しだけ幼く、そしてとても満足そうなものだった。

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